2019年12月26日木曜日

杉浦醫院四方山話―601『加茂悦爾先生』

 過日、広島大学の松嶋准教授と藤沢市にある三吉クリニックの広瀬先生が巨摩共立病院の加茂名誉医院長の話を聴きに再来館されました。

 お二人は「日本社会臨床学会」の学会員で、日本の臨床医療や医療人類史について研究しています。

先に紹介した松嶋氏の著書「プチコ・ナウティカ」は、イタリアの精神医学の先駆性を日本に紹介した本ですが、現在、日本の医学部学生の必読書に指定されているそうで、既に3刷を重ねています。その松嶋先生が、現在アプローチしているのが「日本住血吸虫症」で、実際に患者を診たり研究をしてきた臨床医の話を聴きたいと云う事で、加茂先生をご紹介した次第です。


 加茂悦爾先生は、88歳になりますが頭脳明晰、足腰壮健で姿勢よく車の運転もしているので話も速く、お二人の来館目的や指名の経緯等を話すと「それなら、横山先生も」とか「梶原さん、薬袋さんも適任では?」から「海岸寺もヒントになるのでは?」と云ったアドバイスもいただきましたが「今回は加茂先生の話に絞って・・・」と云うお二人の意向を伝えご協力いただきました。


 地方病を文化人類学的視点で研究しているのがお二人であることも事前に知らせましたから、加茂先生はそのための資料も持参くださいました。


 その一つは、産婦人科医でもあった功刀博氏が1975年(昭和50年)に「山梨生物」誌に発表した「山梨県の第三紀以降における地史的要素と植物群の変遷」と云う論文です。

 その論文の中に2200万年前、甲府盆地が海であったことを示す「グリンタフ変動の頃の海岸線」の図があり、中国と甲府盆地は海で繋がっていたことが示されています。

 お二人がフィールドワークに山梨や当館に足を運んでいる主目的は「なぜミヤイリガイが甲府盆地に集中したのか?」ですから、加茂先生は「それは分からん」としつつも「日本住血吸虫症が中国には古代からあったことから海を渡った船によって持ち込まれたのでは?」の論拠として、功刀氏の論文も持参されました。

 

  同時に後に広島大学医学部の教授になった加茂先生の同級生・辻守康氏が、甲府中学在学中「細菌二就イテ」と題した論文を昭和22年4月発行の自治会誌「希望」に寄せていて「あの頃から感染症の研究をしていたんだから広島大学でも有名な教授だったと思う」と、お二人の来館に合わせ必要となる資料を用意してくださいました。

 

 上記2誌は各40年と70年以上前に発刊された冊子ですから、私たちは先生の記憶力と整理・保管力に驚き感心してしまいましたが、何より本年の締めくくりに加茂先生の決して平穏とは言えない医師人生と苦難に遭遇した時々の誠実な対応とブレない姿勢についての話を聴けたことは、大変示唆に富み有意義な内容で驚異の若さの秘訣ともなっていることを実感できました。


 本年は、今回のお二人と並行して青山学院、独協医大の共同研究のメンバーが、それぞれのテーマで複数回来館いただき、私たちも知りたい「謎の解明」に当館資料を活用したり、当館を基点にフィールドワークを重ねたりと当館がアカデミックなジャンルからも光が当てられたように思います。

 

 引き続き、来春も麻布大学のさくらサイエンス一行様、北里大学寄生虫学教室の皆様等々、年度末まで当館への来館予定が続きますが、加茂先生始め山梨県内で地方病終息に関わった多くの方々が、それぞれの要望に合わせてご協力いただいてきたことが大きな要因となっています。

今年一年お世話になった皆々様にこの場をお借りし御礼申し上げ、合わせて、今後ともよろしくご指導ご鞭撻のほど申し上げます。

2019年12月8日日曜日

杉浦醫院四方山話―600『薬袋勝氏の証言収録』

 先日、青山学院大学飯島研究室と獨協医科大学千種研究室の先生方が来館され、二階座学スペースに薬袋勝氏を招き、インタビュー形式で薬袋先生の証言を聞く機会を設定してくださいました。

 

 青山学院の飯島渉教授は、「衛生と近代ーペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会ー」と云う著書を法政大学出版局から出しているように「医療社会史」が専門の歴史家です。「日本の医療史では、日本住血吸虫症終息史が住民も参加してですから最大規模で一番ですが、特に戦後の山梨県での取り組みとそれに大きく関与したGHQとの関係など未だ解明されていないことがたくさんあります」と云うことで、昨年から当館所有の資料の分析と保存を進めていただいてきました。

 

 獨協医大の千種教授は、現在の日本住血吸虫症の研究では第一人者で、桐木助教授と共にフィリピンはじめ今なおこの病に苦しむ患者の救済にも当たっていますが、山梨には毎年ミヤイリガイの採集に来て、当館にも学生を案内くださっています。医療史の飯島先生も地方病については大変ご造詣が深い訳ですが医師ではありませんから、千種教授とのコラボも必要なのでしょうし飯島教授の研究内容は千種教授にも有意義なことから共同で研究に当たられているようです。


 前回は、梶原徳昭氏の話を収録しましたが、今回は梶原氏の先輩でもあり一貫して県の地方病行政に携わってきた薬袋勝氏の証言を収録しました。薬袋氏は「山梨県立衛生研究所」の歴史的変遷をたどる中で、薬袋氏個人の感想も含め大変興味深い話を自嘲気味に話されたのが印象的でした。

 薬袋氏は、学生時代を送った昭和40年代前半の大学の研究室に馴染めず春休みや夏休みになると甲府に帰っては甲府の中心街にあった山梨県立衛生研究所の前身の研究室に通って職員と一緒に研究していたそうで、特に公務員を希望していた訳ではなかったけどそのままそこに就職したのがこの生活のスタートだったと語り出しました。


 確かに昭和40年代の大学も県庁も現在からするとまだまだのどかで同じような経緯から都教委に採用された私には時代の空気と云ったものが感じられ親近感が湧きました。同時に公務員と云った職業は基本的には余り人気のない職種として軽んじられている方が変なエリート意識で小役人根性だけと云った人間にならずいいのかなぁ~とも・・・・


 薬袋氏の話で特に興味深かったのは、戦後いち早くGHQの医薬補給部隊が杉浦醫院を訪ね、三郎先生との親密な交流を続けた経緯についての証言でした。

 GHQは、なぜ県の研究機関であり地方病対策にも当たっていた県立衛生研究所ではなく杉浦醫院と云う個人病院を通して甲府盆地でこの病気の研究を推進したかと云う謎が解けたからです。

 それは、アメリカで主流となった思潮・プラグマティズム(実用主義とか道具主義とも訳される) からすると面倒な手続きやハンコ行政の県の組織を通すより、地方病の権威でもあった杉浦三郎と云う個人医師を介しての方が手っ取り早くスムーズに事が運べたからだと思いますと云うのが薬袋氏の見解でした。


 純子さんも杉浦家とGHQ研究者との親密だった交流をよく話してくれましたし、杉浦家で和服を着せてもらったアメリカ人女性と杉浦ファミリーの記念写真や三郎先生宛ての英字書簡が数多く残っているのも薬袋氏の証言を裏付けています。

 また、昭和21年、GHQが寝台車・食堂車・研究車からなる3両編成の列車を甲府駅に常駐させて、ここを拠点に甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤の研究・実験を重ねPCPを開発したと云う、市民から「寄生虫列車」とも呼ばれていた研究車内の写真に唯一の日本人として三郎先生が写っているのもそんな関係からでしょう。


 後のベトナム戦争等で使われた枯葉剤と云う名の科学兵器の原料ともなったPCPを甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤として当時住民を動員して撒いた映像も残っていますから、飯島・千種両教授等の地道な研究の中で、GHQの果たした地方病終息の役割やより正確な評価も明らかになっていくことは、歴史学の醍醐味でもあると思えた薬袋氏へのインタビュー収録でした。 

2019年11月26日火曜日

杉浦醫院四方山話―599『第6回杉浦もみじ伝承の会』

 すっかり恒例となった「杉浦もみじ伝承の会」が昨日、これまでになく温暖の中開催されました。

この会は女性グループによる実行委員会が主宰して、杉浦醫院庭園のもみじがきれいに色づく時期に合わせ和をコンセプトにした約30店舗のフリーマーケットが出店し、紅葉を愛でながら来場者との交流を深めてきました。今年は6回目になりますから毎年訪れるリピーターが多いのも特徴です。


 今年新たな試みとして、庭園だけでなく病院棟2階の座学スペースで「茶席」を設けたいと地元の昭和町民から提案を受けました。庭園は公園扱いですから自由散策など無料開放していますので年一回のフリマにも協力してきましたが、館内での開催となると入館料も派生するなどクリアすべき課題も付随しました。


 買い物が主目的の来場者も午前・午後に開催していた「院内見学会」には毎年多くの参加者もありましたから、館内での「茶席」となると見学会もスムーズな開催は難しくなります。

そこで、お互いに知恵を出し合って試験的に今回、茶席と院内見学会をセットにして開催してみました。10時から1時間ごとに茶席を開催し、2,30分抹茶を愉しみ終了後は院内見学を約3、40分、案内に従って行うという形でやってみようと計画しました。


 そんな協議を経て具体化が決まると主宰者の皆さんは事前に数回、当館に来て準備作業を綿密に行い、座学スペースに水屋とお席が用意されそれなりの雰囲気も醸し、後はどの位の方々が二階まで足を運んでくれるか当日を待つのみとなりました。


 途中で「お茶はいいから見学だけしたい」と云う方や逆の方もいましたが「今日は茶席と見学はセットでお願いしています」で通しましたが、結果的には茶席も見学会も収穫が多かったと云う声が多くお互いが満足出来る内容になったように思います。


 昨日は大相撲九州場所も千秋楽で、郷土力士・竜電は敗け6勝9敗と3場所連続負け越しとなりました。また、バンフォーレ甲府もJ2最終節を地元甲府で琉球と対戦し2‐0で勝利しプレーオフ進出を決めるという明暗を分けた結果となりました。

かつての横綱が用いた「百折不撓(ひゃくせつふとう)」なる四字熟語は読みも意味もポピュラーではありませんが、同じように「失敗にもくじけず何度も挑戦することが大切で、その過程で成長したり進歩する」と云った意味では「失敗は成功の母」とか「試行錯誤」と云った言葉の方が身近なように思います。


 今回の「茶席+見学会」も試行錯誤でやってみましたが、思った以上の参加人数で充実した内容で終われましたから、所詮人間が作った「決まり」に逃げ込むのではなく、お互いの条件や希望を出し合って臨機応変に対応していくことが必要であることを実感しました。

それにつけても日本人はその辺の微妙なニュアンスをズバリ四文字で「臨機応変」「試行錯誤」「百折不撓」等々・・・本当に知恵深いなぁ~ 

2019年11月20日水曜日

杉浦醫院四方山話―598『山梨県立大学看護学部』

 先日、昭和町いきいき健康課で実習中の山梨県立大学看護学部の学生4名が午前中当館の見学に見えました。「杉浦醫院に行けば昭和町の歴史は全部分かるからと言われてきました」と来館理由も素直に告げるので「昭和町の歴史全部と云ったら時間無制限でいいのかな」ですが「午前中いっぱい大丈夫です」と云うので「じゃあ看護学を学んでいるなら地方病に絞って2時間やりましょう」と見学会をスタートしました。

 

 山梨県立大学は、どんな変遷をたどって現在どんな学部があるのか知りませんでしたので、この機会に整理してみました。

大学のH・Pによると池田キャンパスと飯田キャンパスがあるようで、池田キャンパスは、昭和28年に開校された山梨県立高等看護学院を母体として平成7年に山梨県立看護短期大学となり平成16年に山梨県立大学として文科省から認可され現在に至っているようです。

飯田キャンパスは、昭和41年に国文科・家政科・幼児教育科の3科編成で山梨県立女子短期大学として開校し、後に国際教養科を設置したり家政科を生活科学科と名称変更するなどして池田キャンパスの看護短期大学と合併し、平成16年に山梨県立大学になったようで、現在は、男女共学で国際政策学部・人間福祉学部・看護学部の3部構成のようです。 

 まあ、このように元々は別の学校を一つにまとめるとなるとそれぞれの教職員から同窓会までが「ウチが母体」の本家争いの綱引きが一般的で、かつセクト主義的にそれが永く尾を引くのも特徴でしょう。山梨県立大学のその辺に詳しい方がいましたら、是非話を聞かせてください。

 

 それは、山梨県立高等看護学院以来の卒業生が県庁から市町村の保健師として「鉄の結束」で見事なピラミット体制を構築し、その体制になじめない心優しき?方々は辞めって行った事例を観たり聞いたりしてきたからでもあります。今回の4人の学生も至って真面目で、皆さんクリップボードを用意し、私の話を一生懸命メモしているので思わず「午前中の研修報告として提出するよう言われてるの?」と聞いてしまいました。


 これも一般的な話ですが、見学会や講演会などでメモを取ると云う行為は熱心で良いことのようになっていますが、果たして本当でしょうか?話をしっかり聞いて「?」とか「なぜ?」と云った疑問点をメモすることは必要ですが一言一句メモしようなんて無意味ですし間違いでしょう。メモするための見学ではなく新たな発見や知らなかったことを知ることに心が動くこと(感動)に見学の意味や必要性があると私は思っているのですが・・・・


 現場実習は3年生の必須のようですが、3年間山梨県立大学の看護学部で学んできたはずですが、正直な4人は「地方病については何も知りません」「学校でもやってません」とのことで、全くの白紙状態でした。「そうか。横山先生が辞めてから地方病を教える先生が居なくなったのか」と話しましたが、2年制の高等看護学院・看護短期大学時代には山梨の風土病でもあった地方病を横山先生が教えていたのに4年制の大学になったら教えていないと云うのもおかしな話です。県庁OBの薬袋勝氏や梶原徳昭氏など有識者も揃っているのに・・・です。


 そんな訳ですが、彼女たちはみっちり2時間、しっかり学習して帰りましたが、純真無垢で向学心に溢れた(ように私には見えた)学生に大学はどんなカリキュラムを用意しているのか?今日の4人は昭和町に実習に来たので地方病も知りましたが、山梨県立大学として看護学部に限らず、地方病=日本住血吸虫症の病理や終息に至った歴史を学ぶ機会を是非お願いしたいと思った次第です。

2019年11月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―597『君が 笑えば 世界は 輝く』考

 前話で「童謡生誕100周年」について記しましたが、その余韻でしょうか?昨日聴いた嵐と云うグループが歌った「君が笑えば世界は輝く」をタイムリーに取り上げてみたいと思います。


 「君が笑えば世界は輝く」は、夜のニュースで聴いたというか観たのですが、昨日行われた「即位パレード」に合わせて皇居前広場でおこなわれた「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」と云うイベントの中で披露された歌です。Jーポップ調で今風の歌でしたが「?」と思ったので歌詞を調べてみました。

どういう方は存じ上げませんが、作詞者は、岡田恵和と云う方です。長い歌詞ですが「君が 笑えば 世界は 輝く」のテーマ部分をそのまま転載してみます。


「君が 笑えば 世界は 輝く」

君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
 
はじめはどこかの 岩かげにしたたり 落ちたひとしずくの 水が平野を流れ
やがて研ぎ澄まされ 君をうるおし 鳥たちをはぐくみ 花たちとたわむれ
あの大河だって はじめはひとしずく 僕らの幸せも 大河にすればいい

大丈夫 水は 流れている 大丈夫 海は 光っている
大丈夫 君と 笑ってゆく 大丈夫 君と 歩いてゆこう

 なんと云う事でしょう!これでは全く「君が代」の現代版ではないでしょうか?Jーポップなるジャンルは、1990年代にこれまでの「歌謡曲」や「ニュー-ミュージック」とは趣が違う日本の若者が生み出した若者向けのポピュラー音楽だとばかり思っていましたが・・・・

君主の永続性を願い賛歌する「君が代」の「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の「さざれ石」を「ひとしずくの水」に「巌」を「大河」に「苔」を「海」にすり替えただけで、「君が 笑えば 世界は 輝く」「大丈夫 君と歩いてゆこう」の「君」は「天皇」ではなく「身の回りの愛する人だ」と、姑息な逃げ道まで透けて見えます。

 

 いや待てよ、ひょっとして「君が代」の無理な解釈が姑息であって、この詩の「君」は「天皇陛下です」としっかり指し示しているのではないでしょうか。だって「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」での「奉祝曲」ですから・・・・


 まあ、若者に人気の芸能人まで動員して、飽きさせない工夫やソフト化されたショーアップで、世界に唯一無二の皇室・天皇をいただく伝統国・日本と云った物語をいかにして国民に浸透させていくかが民主主義国・日本でも権力維持には必要だと云うことでしょう。

 

 主催者もあいまいな「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」をNHKが中継したようですが「国民祭典」と銘打たれるとこれを観ない者或は「ちょっとなア~」と違和感を抱く者は「非国民」であるかのようです。人気アイドルグループの「歌って踊って」で、その辺の狙いもぼかし、その新曲も「天皇あっての国民であり国家です」を織り交ぜた復古調の歌詞で・・・そんな嵐の熱演に「雅子妃も感激で涙した」との報道まで・・・「感激の涙」って誰が決めたの?だって「君が 笑えば 世界は 輝く」と常に「笑み」を強いられるお二人は私にはお気の毒で、無理言うな!です。その上「大丈夫」「大丈夫」のリフレイン・・・う~ん、これって失敬じゃないの?って。



 

 天皇即位にかんするお祝いイベントをテレビを始めとするマスコミがこぞって報道するのは、為政者にとって計り知れない政治的効果があるからでしょう。それが証拠に街の声として「パレードを観て日本人に生まれて本当によかった」とか「おめでたいことに立ち会えて幸せ」と善男・善女が口を揃えています。

 

 今は昔の昭和12年、盧溝橋事件から泥沼の日中戦争への時代、詩人・金子光晴は植民地支配や戦争に狂喜する日本人に愛想を尽かし、詩人として最後の鬱憤と社会批評を詩に叩き込みました。詩集「鮫」におさめられた「おっとせい」です。日本ファシズムの感性と国家による個人への干渉を、豊潤かつ痛烈に解剖し、憂いたオットセイ国・日本の閉塞感は、元号が2度変わった現代ても・・むしろなりふり構わずかつ巧妙に・・・の感もしてきましたが「アンタは詩人でもないのだから身の丈に合ったことを感じなさい」と文科大臣センセイに叱られそうです。 

2019年10月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―596『童謡・わらべ歌・唱歌』



 杉浦醫院院内コンサートは昨年、ピアニストの佐藤恵美さんから「今年は童謡誕生100周年の記念の年だから、友人の童謡歌手・塩野さんとの童謡コンサートは如何でしょう」と提案をいただき、それならば地域の西条小学校の児童にも聴かせたいと小学校での「出張コンサート」を開催しました。

 西条小学校コミュニティースクールの一環として保護者や地域の方々も参加し、皆さんからご好評をいただく中で「町内全ての学校で子どもたちに聴かせたい」となり、今年は11月1日(金)11時から押原小学校での開催となりました。


 杉浦家から寄贈された昭和八年の皇太子生誕を記念して日本楽器が日本で百台受注製造した文化財的ピアノを活用して始めたコンサートでしたが、薬香も残る院内で、庭園の木立を抜けた風に吹かれながらのコンサートはファンも多く「今年の院内コンサートは?」との問い合わせもありますが、どう工夫しても定員40名が限界でしたので、童謡と云うこともあり試験的に学校を会場に開催したところ費用対効果と云った行政面からの評価もあり、出張コンサートが継続開催となりました。

そんな訳ですから院内コンサートを心待ちにしていた皆様も保護者や地域にも開かれたコンサートですから押原小学校の多目的ホールにお越しいただきお楽しみくださいますようご案内いたします。 

「押原小学校」の画像検索結果
押小多目的ホールは、ご覧のようにステージのある正面は「押原の杜」の自然を借景に取り込んだ会場ですから、杉浦醫院院内コンサートにも通じる雰囲気も味わえます。

 さて、「童謡」は子ども向けの歌を指すのでしょうから「わらべ歌」や「文部省唱歌」も童謡に入るのでしょうか?なぜ「童謡」「わらべ歌」「唱歌」と云ったジャンル分けがあるのか?前からちょっと気になっていましたので、フリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみました。

 

 前述のように昨年が「童謡生誕100周年」だったそうですから、日本で大正時代以降、子どもに歌われることを目的に作られた創作歌曲を正確には童謡と云っているそうで、もっと厳密には創作童謡と呼ぶのが正しいそうです。

 ですから、学校教育用に創作された「唱歌」は、文部省が歌詞に徳育を盛り込んだり情操教育にと日本の風景を賛美するなど教育的配慮が施された子どもの歌とも云え、童謡には含まれないそうです。そう言えば、文部省唱歌 「日の丸の旗」 など「白地に赤く日の丸染めて、 ああ美しや、日本 の旗 は」とすっかり擦り込まれていますからねえ・・

 また、「わらべ歌」は作詞・作曲者も不明な自然発生的に生まれた歌を総称するようで、自然童謡とか伝承童謡と呼ばれることはあっも童謡には含まれないそうです。確かに「本当は怖いわらべ歌」と云った考証もありますから、ある意味手あかのついた子どもの歌を外す意味もあったのでしょうか?



 要するに大正時代に子どもに芸術的香気の高い歌謡を創作して与えていこうという新しい運動が起こったということで、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に児童雑誌「赤い鳥」を創刊したことと軌を一にしています。鈴木は「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と命名し、これまであった「わらべ歌」や「唱歌」と一線を画したということのようです。



 まあ、こう言ったジャンル分けには大した意味もないように思いますし、これらの概念も時代と共に変わっていくのが世の常でしょうから、「童謡=子どもの歌」として唱歌、わらべ歌に限らずアニメの主題歌なども含め、子どもが喜んで歌う歌は全て「童謡」で言いように思いますが、鈴木三重吉センセイが崇高な精神で追求した世界にそれでは失礼、いい加減過ぎると云うものでしょうか? 

2019年10月22日火曜日

杉浦醫院四方山話―595『山梨県古民家再生協会』

 昨日、山梨県古民家再生協会の方々11名に来館いただきました。

当館は、地方病=日本住血吸虫症の解明から終息までの歴史と杉浦健造・三郎父子の功績を伝え、併せて水の街・昭和を発信していく郷土資料館ですが、敷地内には明治25年築の母屋をはじめ昭和4年築の醫院棟まで5棟の建造物が国の登録有形文化財にも指定されています。

 そんな関係から、今回の古民家再生協会のメンバーに代表される建造物の見学が目的の来館もあります。


 9時30分に集合されたメンバーは、「建物と地方病、両方の案内をお願いします。時間も午前中いっぱい大丈夫です」と皆さん大変意欲的で、母屋の屋根を指さし「あんな大きな棟(むね)はちょっとないよ」「今の瓦はひっかけて留めるんだけどあの瓦は粘土の上に敷き詰めていく構造だから吹き替えも大変だよ」と参加者同士でも感想や専門的な話が飛び交っていました。


 

全国には、未だ杉浦醫院同様の日本の住文化である「古民家」が多数残っていますが、高度経済成長時代を機に住居もスクラップアンドビルドで建てては壊すとことが当たり前になり、古民家は、寒い・暗い・不便に加え「金食い虫」とも呼ばれ敬遠されてきました。

 

 しかし、日本人は 柱や梁などの構造材は再利用するのが当たり前な持続可能な社会を形成してきたのも事実で、古民家には先人の知恵が詰まっているともいえます。

かといって、近代住宅の快適さを経験済みの日本人が全て古民家を志向するとは思えませんが、先人たちの知恵を学び活かし、日本の文化や技術を後世へ残していくことは必要かつ意義のあることで、遅ればせながら日本でも景観維持も含め、古民家志向の方が増えているのも頼もしく、成熟社会の一現象と言えるのではないでしょうか。


 古民家再生協会は、古民家が再利用可能かどうかを古民家鑑定士が鑑定し、古民家を残していけるよう提案を行うなどの取り組みをしているそうですから、杉浦醫院の活用例が活かされれば光栄なことです。 

2019年10月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―594『再びの陸の孤島化・雑感』

 「災害は忘れたころやって来る」もしくは「忘れたころやって来る」と云いますが、5年前の2014年2月14日からの豪雪は、山梨県を『陸の孤島』と化しました。

私達は普段「山梨は富士山と八ヶ岳が守ってくれるから台風などの災害も少ないし風光明媚でいい」とか「冬も雪はそんなに降らないし日照時間は日本一だ」と云った自画自賛を挨拶のようにしていましたから、物流が完全にストップした状態が何日も続くと改めて山梨の地形とほぼ並行して走る中央線、中央道、国道20号に頼り切った「幹線」のありようを思わずにいられませんでした。

 

 今回の台風19号でも今日(2019.10.16)現在「陸の孤島」状態であることを山日新聞が詳報しています。一面の大見出しは「中央線18日運転再開」、小見出し「特急は今月末見込み」「中央道復旧に一週間」と報じ、下記の「通行止め、運転見合わせ」地図を掲載しています。



 AI時代の到来が叫ばれる現在では、今回の台風も「安倍政権による消費税増税隠しの人工台風だ」とか「アメリカの気象兵器だ」と言った指摘もネット上には飛び交っていますが、雨・風は自然災害の代表で、太古の昔から自然の脅威や怒りにひれ伏し、山の神や海の神にも祈ってきたのが日本人で、この国の風土でもありましたから安直に政治に結び付けての非難は、八つ当たりと云った誹りを免れないでしょう。

 

 自然災害減少の為にあらゆる科学を動員して予知する防災活動や起こった災害や被災者への救援には政治も寄与すべきでしょうが、自然の本質や摂理からすると限定的で限界があるのは、むしろ人間がこれ以上傲慢にならない為にも必要なことのようにも思います。

 

 同時に物事の効率や便宜を優先する都市化社会では、新幹線のリニア化やタワーマンション化などに注目が行き勝ちですが、獣道も含めあらゆる道が近隣と結ばれ、山に囲まれ閉鎖された山国・山梨では無かったとする網野善彦氏の指摘も「陸の孤島」化を防ぐ貴重な教訓のように思います。


 幹線の通行止めで確かにコンビニやスーパ―の商品が品薄になったりはしますが、「地産地消」の道の駅等では、地域で収穫できる野菜や果物は揃っているようですから、人為的な制度や階層に関係なくある意味公平に襲い掛かる自然災害による不便位は、ツベコベ言わず耐える精神が必要でしょうが、認識不足の軽口をたたいては「真意ではなかった」と強弁するバカな政治が続いている現実が「自然災害も衆愚政治の人災」 云々の引き鉄になるのでしょう。

2019年10月1日火曜日

杉浦醫院四方山話―593『ハチの季節・雑感』

 杉浦醫院各所には、新旧併せて幾つものスズメバチの巣があります。

永い間、純子さんが静かに生活していたのでハチも安心して巣造りが出来、安らかに短い一生を送れたことから、ハチにとっては地上の楽園としてこの屋敷は引き継がれているのでしょう。

 

 スズメバチは、春から巣を作り始め秋までかけて巣を大きくしていきますから、その一生は巣造りに終始しているようにも思います。ひとつの巣が1年を超えて使われることはありませんから、古い巣があってもハチはいません。

女王蜂の元で巣造りに励んだ働き蜂や雄蜂は、寒さや寿命で冬を越えることが出来ず、越冬することが出来るのはその年に生まれた新女王蜂のみです。

 

 冬眠から覚めた新女王蜂も親が造った巣を基本に新たな巣造りを始める訳ですから代々作られる場所は数十メートルの範囲で、軒下など人の出入りの少ないハチにとっても安全な場所が選ばれます。巣造りの最盛期(7月から9月)には働きバチが1,000匹を超えることもあると云いますし、この時期は巣を守ろうと攻撃的にもなりますから、巣に近付かないよう注意が必要になりますが、人間とハチの共存が可能なのは養蜂家という職業があることでも分かります。


 「安全・安心」が最優先される現代社会では、ハチによる事故も大きく報じられ「ハチは怖いモノ」「駆除すべきモノ」として忌み嫌われていますが、「蜂蜜」に代表されるように人間の食料としてもハチは貴重な昆虫でもあります。

特に山梨県内では、昔から蜂の子やクロスズメバチの幼虫を「へぼ」と呼んで、甘露煮や炒め物にして酒の肴にしたり、炊き込み御飯にして食べてきましたが、今ではチョー珍味でお目にかかれることも少なくなりました。


 そんなハチですが、杉浦醫院のように不特定多数の来館者を迎える施設では矢張り安全・安心は最優先しなければなりませんから、これまでも新しい巣を見つけると駆除してきましたが、それを学習してか?今年は、竹林にある古い木の切り株の下の土中に巣を造りました。

「竹林にハチがブンブン舞ってるよ」と庭園の剪定に来た庭師が教えてくれましたが、巣は見当たらず、観察すると土の中に出入りしていることから巣は土中にあることが分かり、素人では無理なので駆除会社に巣の撤去を依頼しました。


 プロは、一日目は巣の出入り口から強力な殺虫剤をたっぷり噴霧して「後日、巣の撤去をします」と帰りました。数日後、撤去に来て、土を掘っていくと殺虫剤で死んだハチが次々と出てきました。


 その後は、文化財の発掘作業と同じように慎重に少しづつ掘り進め「これですね」と上から見たら配管のパイプのようなモノが巣だと云いますが素人にはハチの巣とは思えません。徐々にその周りを掘り、抱え出したのが下の写真の巣です。上から見たのは巣の裏に当たる部分だったことが分かりましたが、これだけ堀った土の中にこのように精巧な巣を造りあげる能力に感心すると共に美術作品のようにも思えてきて「そっとして置いてあげればよかったかなー」と複雑な気持ちになりました。


 池を観ながらの一服が昼休みの楽しみですが、今日、一匹のスズメバチが舞い降りてきて、上手に水を飲みだすのを目撃できました。チョコチョコと水をつつくように飲む姿は何とも愛らしく「生き残ったのもいたんだ」と嬉しくもなりました。


ひょっとしてあの水飲みクインビーは、新女王蜂かも!とすると来年もこの屋敷内に巣は造られるかな?とまたまた複雑な気持ちになりました。

2019年9月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―592『GHQ統治下の日本の医療史』

  毎年8月15日になると「今年は、戦後○○年になります」と云ったアナウンスや記事が定番になっているように日本で「戦後」と云えば、太平洋戦争後のことで1945年のポツダム宣言受諾以後、実質はアメリカ軍でしたが連合国の占領、統治が始まった時からを指しています。

この連合国の占領は1952年のサンフランシスコ講和条約までの7年間続きました。

 

 日本は1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌日の15日正午に天皇が玉音放送で降伏したことを国民に知らせ日本の敗戦による終戦となり、8月30日に厚木飛行場に降り立った連合国最高司令官ダクラス・マッカ―サーの指揮のもと日本の戦後はスタートしたと云うのが現代史の時系列です。

  

 以前から気になっていたのは、マッカーサー着任前の8月27日には米軍406医学総合研究所のマクマレーン氏が杉浦醫院に来て、三郎先生にアメリカ人軍医への日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼していることでした。

 この米軍406医学総合研究所と連合国最高司令部=GHQの正式な関係についてもよく分かりません。占領下の日本の保健医療政策はGHQに置かれた公衆衛生福祉局(PHW)が管轄していたそうですから、このPHWと406は連合国組織と米軍組織の違いなのでしょうか?

 

 例えば山梨地方病撲滅協力会編纂の「地方病とのたたかい」誌には「米駐留軍は、終戦直後の昭和20年10月本県の地方病流行状況を視察している。22年には米軍406医学総合研究所が県庁内に臨時研究所を設け、本病把握と撲滅法の検討を開始した」とあり、マクマーレン氏が活躍している写真が4枚掲載されています。

 

 このように占領下の詳細な史実は素人が調べてもなかなか難しく、杉浦三郎氏と406やGHQとの関係も友好的だった話は純子さんからも聞いていますが、本当のところは曖昧なままです。

 

 この度、GHQ統治下の日本の医療史や感染症の歴史を専門に研究している青山学院大学文学部の飯島渉教授と研究室の皆さんが、杉浦醫院に残っているアメリカの研究者から三郎先生宛てに送られた多数の手紙やWHO関係の英字資料を紐解く作業に再度来館くださいました。

 手紙一枚一枚の内容を検証し、写真に納めパソコンに集積していくと云う気の遠くなるような作業を黙々と続けましたが、計3日間の作業では終わらず「もう一回来ます」と云いますから、正確な歴史を探求するには膨大な時間と人手が必要なことを改めて実感しました。


 また、この作業には、獨協医科大学熱帯病寄生虫病室の千種雄一教授と桐木雅史准教授も連続して参加していますから、歴史的にも医学的にもGHQ統治下の日本の医療史や感染症史には未だ謎も多いのでしょう。

 

 並行して、山梨県の地方病対策に一貫して携わってきた元山梨県公害衛生研究所の梶原徳昭氏への聞き取りインタビュー会も開き、貴重な証言を多数収録できました。

 飯島教授は「次回は、山梨大学の関係者にも参加いただいた方がよいので、宮本先生と調整して日時を決め、梶原さんの先輩の薬袋勝さんの話も実現させるつもりです」と確かな見通しと計画の元に調査活動を進めていることを教えてくれました。次回に備え、私たちも未整理の資料の用意や質問事項の精査など準備をしていきたいと思いました。

2019年9月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―591『杉浦醫院・伝統文化教室〈もみじ寄席〉』

 杉浦醫院2階の座学スペースを会場に伝統文化教室を開催していますが、月ごと深まる庭園の紅葉を楽しみながらの『もみじ寄席』が、今年も9月から12月まで毎月一回開催されます。

この教室は山梨落語研究会と協働での開催ですが、終了時のアンケートでも「来年も是非」との声に応え、内容を工夫しながら継続し今年で4回目となります。


 今年は、研究会の代表でもあり人気の紫紺亭圓夢さんが落語を始めて丁度50年の節目の年に当たるそうで、記念の写真集編纂も進行していることから、圓夢さんにフル出演いただき、十八番の古典落語と中入り後は「圓夢の落語人生」を幼少篇・青春篇・壮年篇・終活篇と4回に分けて話していただくこととなりました。


  圓夢さんが落語を始めて50年、言ってみれば「落語一筋この道50年」ですから、これはなかなか真似できない偉業でもあると思います。

確か、今年は東名高速道路が全線開通50年との新聞報道がありましたから、50年前の日本の状況を思い返すと50年と云う歴史の重みをあらためて感じます。

 

 下の写真は、鹿島建設のHPに掲載されている50年前の日本の一般的な道路の状態です。

 

雨が降れば、ズブズブにぬかるみ、これが乾けばデコボコ道になり、車のエンジンも止まり、居合わせた人が協力して「押しがけ」して、エンジンがかかればラッキーと云った写真です。

 

 思えば当たり前だった「押しがけ」も現在では見ることもありませんから「押しがけ」も死語となっています。いつからか免許もAT車限定も出来ましたが、4速、5速のMT車主流の時代、タイヤが回転する力を使ってエンジンを掛ける方法が「押しがけ」でしたから、坂道では簡単にかかったエンジンも上のような道では・・・・でした。

まあ、AT車やCVT車は、タイヤからの回転力をエンジンに伝える事が出来ない構造ですから、「押しがけ」は出来ませんしミッションの故障原因にもなり姿が消えたのですが、立ち往生して困っている運転手に自然に人が集まっての「押しがけ」は、人の情にもあふれていました。

「この道50年」の圓夢さんには、写真集共々この50年を題材にした新作落語の創作も期待してやみません。

2019年8月26日月曜日

杉浦醫院四方山話―590『科学映像館・久米川正好先生』

8月25日(日)の朝日新聞の「REライフ・人生充実」シリーズに科学映像館を主宰している久米川先生が「輝く人」として大きく報じられました。 


 

写真・図版
(輝く人)科学映像、守り生かす デジタル映像アーカイブ主宰・久米川正好さん映画の修復とデジタル化を委託する東京光音の作業場で、映画フィルムのチェックに同席する久米川正好さん=東京都渋谷区、飯塚悟撮影

 

≪解剖学や骨代謝学が専門の久米川正好さん(84)。科学映画の先駆者に誘われ、映画製作の道へ。それらのアーカイブをつくり、無料配信を始めた。配信は週1回。公開作品は千を超す。「古い科学映像にもまだ活用の道がある」との思いで活動を続ける。≫と云う出だしで、先生の略歴からこれまでの活動が詳細に報じられています。

 

 写真のように84歳と云うお歳が嘘のような若さは、矢張り使命感を持って新たな分野に積極的にチャレンジし、現在もますます意欲的に科学映像館の構築を図っている「充実人生」故でしょう。

記事の中にもありましたが、大学教授定年までパソコンに触ったこともなかったと言う先生が、インターネットでの科学映像無料配信の必要に迫られると人に任せるのでなく自ら学習して現在では、パソコンやスマホ数台を自由に操り、ブログやツイッターで映像館情報を日々配信もしています。

 

 当館にも来館いただき貴重なアドバイスをいただいたり、定期的に先生から電話連絡もありますが、私達より必ず数歩先の早い情報を教えてくれることがありがたく、アンテナの高さも若さの秘訣かと感心します。

 

 例えば、7月中旬の電話で「日本住血吸虫関係の映像へのアクセスが急増していますが、何かありましたか?」と聞かれ「こちらの見学者には、パンフを渡してここにある映像は全て科学映像館のサイトでも見られることを今まで通りPRしているだけですが・・・」と答えたのですが、その数日後から当館への来館者も急増し出しました。

 夏休み期間と云う事もありますが首都圏のみならず三重県とか石川県、石垣島からもお越しいただくなどこれまで以上に広域なので「どうして当館を?」と案内中に尋ねると「YouTubeでこんな病気があることを知って調べたら、インターネットでもいろいろな映像があり、その中でここが出てきたので」と云う返事が共通していました。

科学映像館の日本住血吸虫関係の映像へのアクセス急増の引き金もYouTubeで、科学映像館の映像を見た方が当館にも興味を持って足を運んでくださったことが分かりました。

 

 

 科学映像のみならず貴重な映像の無料配信を続けていくのは、経済的にも大変なご苦労があろうかと思いますが、先生は豊富なアイディアを次々具体化してデジタル化費用を捻出しています。

 これまでは個人からの寄付や企業の協賛、各種の助成金で事業を継続してきたようですが、最近は役目を終えた撤去冠を歯科医院に呼びかけ、金属リサイクルによる活動資金の確保を図っています。

 撤去冠とは、具体的には抜歯に伴う金歯や銀歯を科学映像館に寄付することで換金による資金調達ですが、これも歯学部教授だった久米川先生ならではの発想です。私も数人の歯科医にお願いしてみましたが、それぞれルートが確立していて右から左にはいかないことを知りました。そんな訳で、科学映像館の運営も資金的には厳しいのが実態かと思います。撤去冠に限らずアクセサリー等の金属も対象ですから、この場をお借りして手持ちの貴金属でのご協力をお願いいたします。詳細は、「科学映像館」サイトでご確認ください。

2019年8月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―589『登録有形文化財と景観』

 山梨県の地方病が115年の歳月をかけて流行終息宣言が出たのは1996年(平成8年)ですが、同じ年に「文化財保護法」が改正され、消えゆく歴史的建造物の保護を目的とした「登録有形文化財」制度が出来ました。この「登録有形文化財」の対象となる建造物は、建設後50年を経過したものの中で、地域の歴史的景観に寄与しているものか?造形の規範となっているものか?再現することが容易でないものか?と云った基準を満たしているかで選定されます。

 

 ご存知のように当館内には、5件の建造物が「登録有形文化財」に指定されていますが、旧醫院棟と母屋が旧西条新田村全40戸の家が立ち並んでいたメイン道路に面し、土蔵や納屋は道路からは見えません。

純子さんは「ウチのように南道路の家は、庭も南にありましたが、北道路の家はどこも道路沿いに北風を防ぐ防風林がありましたから、道路は並木のようでした」とよく話してくれました。


 このような地域の景観が、高度経済成長と共に国内でどんどん消え去っていく状況下で生まれたのが「登録有形文化財」制度で、ヨーロッパの街並みのように日本でも歴史的景観を保存していく必要からでした。


 ですから、単に旧病院棟や母屋の建物だけが指定を受けているというより、庭園を含めた道路からの景観を保存すべきだというのがこの制度の根本趣旨です。

幸い、この西条新田旧道沿いには当館に限らず、正覚寺の桜の大木や宮崎家、塚原家の欅など年輪を重ねた木々と庭園も多く残っていますから、杉浦醫院を核にこの街並みと景観をどう守り、活用していくのか、区や町も住民と共に検討していくことも必要でしょう。


 それは、「景観」は「景色」とか「風景」と区別され、特に素晴らしい景色や風景を「景観」と呼ぶ時もありますが、「景色」「風景」は山や川など自然が織りなす美しさや素晴らしさを云うのに対し「景観」は、人間が関与したり作り上げてきた風景、景色を景観と定義していますから、それぞれの家が永年かけて作り上げてきた庭園や樹木は、景観には欠かせません。


 現在の杉浦醫院も昭和45年撮影の航空写真と見比べると明らかに違って、東西南北に大きな欅の木が茂り、「森の病院」とも呼ばれていた所以が分かります。純子さんは「宅地化が進み近所に家が多くなると、秋から冬にかけて舞う落ち葉の苦情で泣く泣く切りました」と話していましたが、この大木群からの「落ち葉の舞い散る西条新田」も冬の景観だったのでしょう。

 

落ち葉=ゴミ=迷惑が近現代の一般的な価値観だと云うことなのでしょうが、少なくとも「迷惑はお互い様」と云った価値観も併せ持っていないと片手落ちの感は否めません。

2019年7月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―588『夏休みの杉浦醫院で雑感』

 県内の小学校から大学まで、生徒や学生には待ちに待った夏休みになりましたが、昔も今も休み中の課題は出されているようで、厄介な「自由研究」も健在なようです。

 

 この「自由研究」は、いつの間にか全国どこでも夏休みの定番になっていますが、大正自由教育の中で元々は成城学園や玉川学園などの私学が、公立学校と一線を画す学習内容として子どもたちの関心や体験に根差した学習活動を教科時間と同様に時間を組んで始めたのが起源です。その後、公立学校にも広がりましたがカリキュラムとしては定着せず、最終的に夏休みなどの長期休暇中の宿題として現在に至っている訳で、何事にも通じますが、一度始まってしまうと止めるのは難しい典型なのかも知れません。


 

 児童・生徒の個性や自発性による探求活動を奨励し、子どもの問題意識を出発点に主体的な学習活動をする「自由研究」が、夏休みの宿題として一律に課されていること自体、その精神や意義は形骸化している証で、子ども達には自由研究と読書感想文は「ショウガない片付けなくて…」の両横綱になっているのが実態でしょう。


 そんな需要もあってでしょうか、当館のような資料館や博物館の中には、夏休みになると「自由研究のお助け」とか「自由研究ガイド」と銘打って、子どもたちの自由研究を手助けしている所もありますが、当館では「常時門戸を開いているから」と特に周知はしていませんが、夏休みになると小学生から大学生まで、その目的で訪れる方が多くなります。

 

 先日は、午前は二人で、午後には一人で山梨大学医学部の学生が来館しましたが「教授から夏休みの課題で必ず見学に行くよう言われたので帰省する前に来ました」と来館理由を率直に話すので、案内しながらこちらも遠慮なく質問したり、進路を聞いたり出来ました。

 これも共通していましたが、帰る際「とても勉強になりました。ありがとうございました」と声を掛けてくれました。

その時、思い出したのが「結果としての生涯学習」論でした。

 

 今回の医大生は、至って正直でしたから、教授からの課題で「ショウガない」帰省前に「片づけて」と杉浦醫院に来た訳ですが、映像鑑賞も含め約2時間弱見学したことで、これまた素直に「勉強になりました」と思いがけず学習できたことで礼の言葉まで出たのでしょう。課題をクリア―する為に来たのだけれど「結果として学習出来た」と。

 

 「結果としての生涯学習」論の代表例が、学習しようとか勉強の為などと云う目的は一切ない物見遊山も含めての旅行ですが、幹事に連れられて行った先で、思いもよらず「学習」出来てしまった…と云う事って確かにありますから、こういう体験を理論化すると「結果としての生涯学習」論と云う事になるのでしょう。

 

 要は、当館は「自由研究の為に」としっかり目的意識を持って来る方にも応えていく用意はありますが「200円で思いがけず学習してしまった」と云う体験が出来るような「結果としての生涯学習」施設でありたいと図って来たのかな?と云う事を医大生の来館で、こちらも気づき、学習出来ましたから「結果としての生涯学習」は「お互い様」が核になるのかな?…とも。

 

 夏休みの自由研究と云う課題の為の来館でも「来て良かった」と予期せぬ成果が得られることもありますし、まあ、甲府盆地で「酷暑の内陸性気候を嫌と云う程体感できもう十分」でも良しと、多くを期待せず、お互い肩の力を抜いて学習し合えるのが一番かなと思っていますので、暑さに負けず足をお運びください。

2019年7月22日月曜日

杉浦醫院四方山話―587『篆刻教室』余話

 猛暑になる前のこの季節、2階座学スペースでは杉浦醫院伝統文化教室を毎年開催しています。今年の教室も昨年好評だった「篆刻(てんこく)」ですが、講師が現代の名工に選定されているお二人なので、両日とも会場は所狭しと云った感じでした。


 六郷の工房から自ら運転して来てくださる上田隆資(号:楠瑞)氏は、御年85歳ですが、日展入選作家であり、永く山梨県の現代の名工として著名でしたが、昨年11月に国の名工に選定され、マスコミでも話題になりましたから、御存知の方も多いことと思います。

 

 その上田氏の「2番弟子」を自称する小宮山一昭氏も県の名工として全国的に活動されていますが、至って控えめな方で師匠の上田氏によれば「1番弟子だ」そうです。

 お二人は、篆刻はもとより渓流釣りと酒席でも師弟関係にあるそうで「ハンコ職人にもいろいろな人がいますが、師匠は釣りやお酒などアソビも大切にしていますから、作品にもソレが出てハバがあるのが魅力で慕ってきましたから、今日も皆さんの前で師匠、師匠と呼びますが・・」と古希を過ぎた弟子の小宮山さんは言います。そんな二人の指導ですから、和やかで初対面の受講者も伸び伸び彫ることが出来、楽しそうでした。


rokugo1  さて、上田先生の「公望山荘」と云うアトリエは、現在の市川三郷町にありますが、合併前は六郷町です。六郷町は「日本一のハンコの里」として、日本人のハンコの60パーセント近くを生産しているそうですが、前から「何故、六郷がハンコの里になったのか?」疑問でしたので聞いてみました。

 

 「元々六郷では足袋(たび)を作って、着物なんかと一緒に全国を甲州商人なんて呼ばれながら行商して生計を立てていた地域だった。時代の流れで足袋や着物は需要がなくなり売れなくなって、足袋に代わるものとして山梨は水晶が採れたので、足袋づくりの技術も活かして、水晶でハンコを作ったのがハンコの町の始まり。ハンコは一人に一本は必要だからと思っていたけどハンコレス社会と云う時代の流れだから、何時までもハンコの町という訳にはいかない感じだね」と小宮山さん。


 「まあ流れはそうだけど、六郷には明治から大正にかけて河西笛州と云う篆刻の大家が居て弟子を育てていたのも大きかったね。最盛期は字を書く人、荒彫りする人、仕上げ彫りする人と分かれ、全部で300人以上がハンコづくりに携わっていたね。戦争中は兵隊も給料もらうのにハンコが無いともらえないから国内だけでなく満州など戦地にもハンコを持って売りに行ったんだから。日満なんてハンコ屋は満州専門のハンコ屋だったね。コンピューターや機械彫りが入ってからは字が書けなくてもハンコが出来るようになって、篆書が書けない職人がいっぱいで、これも時代の流れだね。」と上田師匠。


 上田先生は「自分の技術や秘の技法をあの世に持って行ってもしょうがないから、問われれば全て教える」と云い「いつもこれが最高の作品ではない。次はこれ以上の作品を」と戒めて篆刻に励んでいるそうで、国の名工と県の名工と云う師弟が快く当館まで出向いて、一本一本批評して手直しから制作日のサイン刻みまで惜しまず応じている姿に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」も実感できた「篆刻教室」でした。 


2019年7月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―586『文化人類学者の視点または武田信玄の治水と稲作-2』

  松嶋・広瀬両先生との話の中で「武田信玄」がらみでは「私もこんな仮説を考えてみた」と、当ブログの571話572話に書いた「武田騎馬隊と地方病ー1・2」の話をしました。


 これを書いたのも〈なぜ地方病やミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ発生、生息していたのか?〉という疑問に何とか説得力のある「答」を出したいと云う私的な欲求からでしたが、期せずして「武田氏と地方病」と云う視点が重なったことが嬉しくて、つい浅学を披露した次第でした。


 私の仮説は、中国では古代からあったと云う日本住血吸虫が中国から渡来した武田騎馬隊の馬の中に感染した馬もいて、甲府盆地に持ち込まれたのではないか?というものでした。

 松嶋先生の信玄の治水、水田拡大による地方病蔓延説を聞きながら「そうか、武田騎馬隊編成前に甲府盆地の水田拡大には人力だけでなく馬や牛の利用は考えられるな」と気づきました。

戦後、甲府盆地の土水路は全てコンクリート化されましたが、その総距離は2500キロに及び、北海道から沖縄までの距離に相当します。水田拡大には水路の構築が伴いますから馬や牛の力は当時としては大変な労力になったことでしょう。


 私の渡来馬による感染源持ち込み説など何の根拠もありませんから全く拘りませんし、松嶋先生の視点は、私の理解よりもっと深いところにあり、私の聞き方に間違いがある可能性もありますが、何はともあれ引き続き先生には、文化人類学的視点で、暗礁に乗り上げている地方病に関するいくつかの疑問に風穴を開けていただきたいと云う期待でいっぱいです。


 今回の両氏の来県、来館は、私にとっては大きな刺激となりました。それは、持参いただいた著書「プシコ ナウティカ」を読む中で、視点を定めて対象に迫る為のシャドーワークとも云うべき研究に、いかに多くの時間・体力・知力・お金が費やされているかを目の当たりにできたからです。その姿勢は、2日間の山梨滞在中にも垣間見え、あらためてブログと云うジャンルの曖昧さと甘さも実感できました。


  文化人類学者の視点をテーマに書いてみましたが、最後に「次のように特徴をまとめることのできる機関、施設として、あなただったら何処をイメージしますか?」と、なぞなぞ形式で締めてみます。

 

1)全生活が同一場所で、同一権威にしたがって送られている

2)日常活動は同じ扱いを受け、同じことを要求されている

3)毎日の活動は整然と計画され、決められた時間に決められた活動をするよう組まれている

4)様々な活動は、きめられた目標を達成するよう設計され、単一のプランにまとめられている

 

 「刑務所」と云う施設での生活経験はありませんが、知る限りでは上記の4点は当てはまりそうですし、「学校」かなと思った方もいるでしょうが、実は、松嶋健先生の「プシコ ナウティカ」を読まれた方が整理した精神医療の「施設」とりわけ「精神科病院」に共通する特徴です。

 

 「学校」「精神病院」「刑務所」の「壁の中」は、全く同じような価値観とシステムで運営され、壁の中の子ども・患者・受刑者は、同じように教育され、管理されているのが分かります。

  一見無関係のようですが「学校」「精神病院」「刑務所」も❔の視点=文化人類学的に見ていくと全く同じ構造で、元々は同じルーツだったのでは?…と云った面白い発見も楽しめることも知りました。

両氏の話題の豊富さ、視点の面白さは、積み重ねてきた教養や研究の表出でしょうから 「ローマは一日して成らず」をあらためて肝に銘じる置き土産もいただき、誠にありがとうございました。

2019年6月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―585『武田信玄の治水と稲作または文化人類学者の視点-1』

 過日、広島大学の准教授で文化人類学者の松嶋健先生と同志と云う死語がピッタリの広瀬隆士先生が土日の2日間を利用して、山梨にフィールド・ワークにみえ精力的に県内を廻りました。当ブログを愛読していると云う広瀬氏から「石和温泉に投宿するが素泊まりで食事は地元の人が使う居酒屋あたりで・・」と事前に連絡をいただきましたので、居酒屋と聞けば「ご一緒しましょう」と石和温泉通りのAに予約を入れ一献傾けました。


 両氏は「日本社会臨床学会」と云う学会に所属し、中心メンバーとしてご活躍もされていますが、話が多岐に渡るだけでなく深く、速いのが共通していました。そんな訳で、約3時間飲みかつ話した内容は豊富で、とても全ては紹介出来ませんので、地方病とミヤイリガイは、なぜ日本国内で限定的な地域に発生したのか?の謎についての話を報告しておきたいと思います。


 松嶋先生は文化人類学がご専門ですが、2014年に刊行された著書「プシコ ナウチィカ」は「イタリア精神医療の人類学」と副題があるようにイタリアの精神医療の到達点を紹介することで日本の精神医療の課題や問題を照射する鋭い考察で、現在、日本の大学医学部では学生の必読書にも選定されているそうで、既に4刷を重ねています。


 その松嶋先生から「山梨には三枝氏と云う豪族もいたのに武田氏に一本化されたのは信玄の治水でしょうか」の問いかけから始まり「世の中で常識とか定説になっている事に❔と疑問を抱くのが文化人類学だから・・・」と「信玄の治水事業が甲府盆地に地方病を蔓延させた可能性が考えられる」ので、その辺の検証も今回訪問のテーマであることを知りました。


 当館の住所は昭和町西条新田850ですから、江戸時代の新田開発で新たに西条地区に生まれた新田に由来していることを物語っています。山が多く、平地の少ない日本列島で、弥生時代に稲作が伝播し、人は定住し水田は各地に広がっていきました。以来、稲作を中心とする国土づくりと米が社会の基本=税の時代が続き、人々は森林から湿地、沼地まで水田化し農業を営み、むらをつくり、都市へと「発展」させてきました。稲作文化とその風土は、日本人に勤勉の気風をはぐくみ、農地を拡張して人口を増加させることを「発展」「繁栄」の基礎としてきましたが、それが本当に「発展」「繁栄」だったのか?

文化人類学者の視点です。


 杉浦醫院に来た患者さんは「俺も地方病になったぞと、ちょっと自慢気で威張ってましたよ」と、純子さんが話してくれましたが、「地方病は勤勉な篤農家の証」ともなっていたようですから、稲作が日本人の価値観を形成してきたのも間違いないでしょう。


 「群雄割拠」の戦国時代、多くの権力者が日本の各地に大小さまざまな国を乱立させ、甲斐の国山梨では、武田信玄が争い生き残って勢力を広げ、天下統一も現実のモノとする権力を持ちましたが、子・勝頼の代で終焉したのはご存知の通りです。信玄は、治水事業を命じて水を管理し、水田を増やすことでアワ・キビ・ヒエなどに代表される雑穀から米への転換に成功したことも権力奪取や維持に大きかったことは、歴史学者も指摘しています。

 

 「石高(こくだか)」と云う単位の一石は、大人一人が一年に食べる米の量でしたから、これが兵士への報酬となり、領地の石高と同じだけの兵士を養えることになります。石高は戦国武将の財力と兵力を象徴しますから、武田信玄も暴れ川を「甲州川除術」を考案して治水に努め、石高増強を図る必然性があったのでしょう。

 新たに水田を拡げるには水路を張り巡らす必要もありますから、当時としてはとてつもなく多難なことだった思いますが、山の急斜面にも「棚田」とか「千枚田」と云われる水田を造りましたから、共同作業による水田拡大は全国津々浦々まで浸透して、楢やブナの木に覆われた山の景観は大きく変えられたことでしょう。

 

 現在では守るべき自然景観として「日本の原風景・棚田」と云った表現も極自然に使われていますが、元々は山であった急斜面まで水田に変えた稲作は、日本の原風景を破壊した結果でもあり、歴史的には農業も自然破壊の誹りは免れないこと、この甲府盆地のような低湿地帯にも水田を拡張して石高を上げようとした信玄の治水事業が地方病蔓延と無縁と言えるのか?

文化人類学者の視点です。 ・・・つづく・・・

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このような棚田も現在では「保存する会」「守る会」等の存在なくしては山野化しているのが実態です。「現在起こっている様々な問題も100年、200年と云った短いスパンではなく、人類史的に長いスパンで見ていくことが大切ではないか?」と広瀬氏も指摘していました。

 

2019年6月24日月曜日

杉浦醫院四方山話―584『資料・情報御礼ー5 橘田活子様』

 山梨県在住の女性詩人として既に幾冊かの詩集も上梓している橘田活子さんが、数年にわたり取材と推敲を重ねてきた詩集「茶碗の欠片(ちゃわんのかけら)」が、この度百年書房から刊行されました。

 地方病=日本住血吸虫症は原因不明の奇病とされていた時代「腹張り」とか「水種腸満」と呼ばれ、山梨県では「水種腸満茶碗の欠片」と詠われて、この病にかかると「茶碗欠片」と同じで「使いものにならない」とか「元には戻れない(治らない)」と嘆かれてきました。


 橘田さんの詩集「茶碗の欠片」は、この地方病終息に至る過程を一つ一つ丁寧に追い、壮大な叙事詩としてまとめた労作です。橘田さんは当館にも何度も足を運び、その都度「記述内容に間違いないか?」「構成上のアドバイスを・・・」と進行中の原稿を持参下さいました。

 

 更に、この詩集の帯文を小生に書いて欲しいとの要請まで受け「役不足だから」と固辞しましたが、当館が地方病終息の歴史を後世に伝承していく唯一の資料館であることに思いを致せば、当館にとっても貴重な文献資料ともなる詩集ですから、推敲段階の原稿に合わせて、推薦文としての帯文を書かせていただきました。


 その後、約一年以上かけて橘田さんは、出版社と書き直しや加除等の作業を重ね「これを最終稿にしました」と、未だ推敲していきたい思いを断ち切るように見本誌を届けてくれました。「山之口獏さんも推敲魔とも云われる程推敲に推敲を重ねたそうですが、これで良しと行かないのが作品を仕上げると云う事でしょうね」と話すと「獏さんが昔山梨に来たんです。その時私もお会いしましたが、大変面白い人で魅力的でした」と矢張り獏さんに繋がる詩人であることも分かりました。

 

 帯文を書いた当時の原稿は更に膨らみ、内容も山梨県の終息史と云うより、広島県や佐賀県の終息への取り組みや関係者を網羅して、文字通り日本住血吸虫症を克服した日本全体の終息史となっていました。一読後、百年書房の担当者に「内容が一層充実しているので、それに見合った帯文に書き換える必要」を申し出ましたが「橘田さんも私もあの帯文で十分ですから是非そのまま使わせて欲しい」とのことで、帯文はさておき立派な装丁本に仕上がりました。

「橘田活子 茶碗...」の画像検索結果

 橘田さんからは「筆稿料替わりで恐縮ですが・・」と詩集「茶碗の欠片」を過分にいただきましたので、見学時間の関係で全てを案内しきれない方に「この詩集で地方病終息史を一気に学習できますから」とプレゼントして活用させていただいています。


 同時に、百年書房から一冊2200円+税金のところを2000円で頒布可能と云う事で、20冊お預かりしていますので、ご希望の方には当館でも頒布いたしますので、お申し出ください。

2019年6月5日水曜日

 杉浦醫院四方山話―583『資料・情報御礼ー4 吉岡正和様』

 ≪橋本伯壽と「断毒論」ー早く登場しすぎた疫学者≫と云う400ページに及ぶ新刊本をご存知でしょうか?著者は山梨県で医院を開設している医師の吉岡正和氏です。

 

 吉岡君と私は高校の同級生でしたが、理系の彼と文系の私が同じクラスになることはありませんでしたから、高校時代面識はありませんでした。大学卒業後数年して帰郷したことが唯一の共通点ですが、同級生諸氏から吉岡君の屹立した生き方、開業医としてのありようは聞き及んでいましたので、私から電話したのが始まりでした。


 開館に向けて、地方病関係の資料収集や確認作業をしていく中で、明治30年に初めて解剖に応じた「杉山なか」女は、信頼していたかかり付け医・吉岡順作氏に死後の献体を申し出たのが病理解明のスタートでしたから「ひょっとして吉岡君は吉岡順作氏につながるのかな?」と、吉岡医院に電話しました。結果「吉岡順作氏と私は同じ吉岡姓ですが関係はありませんが、都内で行われた結婚式の席で吉岡順作氏の直系の方と同じテーブルになり話したことはあります」「卒業後、山梨医大に勤務した時、私も日本住血吸虫症について研究したこともあり、機会をみて杉浦醫院に行こうと思っていた」といったような会話の記憶があります。


「吉岡正和 誘拐...」の画像検索結果   その後、吉岡君の姉でベネズエラ在住の雨宮洋子さんが、身代金目的でベネズエラで誘拐されると云う事件に遭い「極限状態を彼女はいかに生き抜いたのか?またその時息子達はどう行動したのか?在ベネズエラ日本人の苦闘の記録」を吉岡君が編者となり≪カミーラと呼ばれた230日≫と題した本(2015年・東京図書出版刊)にまとめ出版したことを知り、拝読しました。人質となった期間、お姉様は「書く」ことを支えに最後まで気を確かに持ってきた様子が読み取れましたが、同時にだからこそ貴重な記録として残すことが出来たことも実感しました。

医師の吉岡君も「ものを書き散らすこと、これが私の心の平静を保つ対処法のようなものになっています」と云いますから、吉岡兄弟は「書くこと」が血肉化しているのでしょう。

 

 さて、今回ご寄贈いただいた≪橋本伯壽と「断毒論」ー早く登場しすぎた疫学者≫は、令和元年5月1日第一刷発行ですから、出来立てを送付くださったことになります。

吉岡君は「恥ずかしながら、私も橋本伯壽や断毒論の事を全く知らなかった。知るに至ったのは、日本住血吸虫症の古文献が有るか探している時であった」と江戸時代後期の医家・橋本伯壽が甲斐の国市川大門村の生まれで、当時の学説を覆す「断毒論」を1810年(文化7年)に発表したことを知って「甲斐国にこんな人物がいたということに無知であったことを恥ずかしく思い、また山梨県の人々にもこういう活躍をした人がいたことをあまねく知ってもらいたいという思いで、本書を記した。郷土の歴史にとって参考になれば幸いである。」と結んでいます。

 

 山梨の郷土研究者が集う「山梨郷土史研究会」の郷土研究に関する文献目録が会のホームページで閲覧できますが、長い歴史を誇る研究会の全論考をいくら探しても「橋本伯壽」の名前も「断毒論」も出てきません。吉岡君が副題にした「早く登場しすぎた疫学者」は、郷土では「早く忘れ去られた疫学者」であったことを物語っています。

そういう意味でも新たな郷土史発掘者としての吉岡正和君の新刊を是非当館2階座学スペースで手に取ってご覧ください。

2019年5月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―582『資料・情報御礼ー3 谷口哲雄記者様』

 新聞の毎日・読売・朝日は、中央三大紙とも呼ばれていますが、毎日新聞が1872年創刊で日本で最も古い歴史を誇る新聞のようで、戸別配達を世界に先駆けて実施したことにより、日本では地方紙も含め「新聞は配達されるもの」が定着したそうです。若者の活字離れやスマホの普及で紙媒体の衰退は顕著のようで、新聞の購読者数も減少の一途をたどり、値上げせずには戸別配達制度の維持も厳しいのが現実のようです。

 

 毎日・読売・朝日のような中央紙でも「山梨版」があり、県内の話題やニュースを報じていますが、取材したり記事を書く新聞記者は、転勤で甲府局に数年滞在し、異動辞令が出ると転勤を余儀なくされるようです。

 

 当館開館以来、上記3紙の中では朝日新聞の取材が突出していました。特に谷口哲雄記者は、甲府赴任約6年の間に数えきれない回数で取材にみえました。5月10日の茨城への転勤を前にわざわざ挨拶にも来ていただき、思い出話もできました。その折「山梨に来て最初の記事も地方病でしたから最後も地方病で締めようと思いました」と4月27日(土)の山梨版に「肝がん死亡率 全国並みに改善」の見出しで、貴重な記事を残してくれました。

 

 山梨県はC型肝炎の感染率や肝がんの死亡率が東日本で最も高い県として有名ですが、この一因として、地方病の治療に使われたスチブナールの静脈注射の回し打ちが挙げられていました。当18話「現代」でも触れましたが、杉浦三郎氏宛て私信の中にも杉浦醫院での注射針によるC型肝炎感染に抗議する内容のモノもありましたから、地方病との相関関係は間違いないでしょう。


 谷口記者の署名記事に共通するのは、派手なイベント的行事や事業よりコツコツと積み上げてきた成果や継続中の取り組みなどに足を運び、過去の問題を掘り起こすより、現在と未来に向けての視点での取材を基本にしていることでした。

 

 最終署名記事も山梨大学医学部肝疾患センターが、山梨県の肝がん患者の相談支援活動を継続的に行っていることを紹介し、その具体的取り組みとして「肝疾患コーディネーター養成制度」を他県に先駆けて10年前から実施してきた結果、現在384人の肝疾患コーディネーターが、市町村住民や職場で肝機能検査の受診の必要性の周知に取り組み、その成果は肝がん死亡率が全国平均化してきた数字に表れていることを伝えています。


 これは、地方病が1996年(平成8年)の流行終息宣言で終わったのではなく、地方病治療の後遺症としてのC型肝炎との闘いが現在も続いている事実に目を向ける必要があることを教えてくれます。

地方病終息の最終仕上げとも云える取り組みが、現在も山梨大学肝疾患センターを中心に行われていることを伝え、このような地味な取り組みを「百年戦争の最終段階」と結んでいるところに谷口記者の鋭い考察が表出しています。



 


2019年5月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―581『資料・情報御礼ー2 笛吹市K様』

 当館の来館者に共通する特徴は、俗に云う「物見遊山」タイプの方は皆無に等しいことでしょうか。

 まあ、漫画家で江戸文化の達人・杉浦日向子氏に言わせれば、江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っていて、生まれてきたのはこの世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えていたそうです。その象徴が一生上がれない場合もある「江戸すごろく」で、ステージを上げて行って「あがる」ことより、右往左往することに意味もあり、右往左往しながらいろいろな見聞を広めれば、もうそれで人生のもとは取れるんだという共通認識が現代社会との違いだと「物見遊山」を奨励しています。そんな意味からすると「物見遊山」タイプは皆無とはいい難い気もしますが・・・要は、連れだって右往左往しながら杉浦醫院に来るのではなく、目的をもった方々が一人で来館するケースが多いと云うことです。


 連休中、笛吹市から来館のK氏は、ガイド案内に従い館内をじっくり見学し「あらためて地方病の歴史を知り、後世に繋いでいくことの大切さを感じました」と感想を寄せてくださいました。

 

その折、応接室に掲示してある「昭和天皇と三郎先生」のスナップ写真の撮影場所が特定できていないことを知ったK氏は「背景に写っている山なみと鉄塔」をカギに特定可能ではと考えたようで、翌日には思い当たる3地点に出向いて実際に写真撮影した資料を郵送くださいました。

このコピー写真ではハッキリしませんが、三郎先生の右肩上に鉄塔があり、その背後に茅ガ岳連山が写っています。
以前、来館された方が「これは旧若草町南湖の辺だね」と自信を持って断定してくれましたから、
ミヤイリガイの生息地に案内後、本部の有った旧竜王町万才に戻ったのかと思っていましたが・・・

「背景の山は、左に裾野を引く茅ガ岳とその右に観音峠、そして曲岳へと続く山並みです。山並みは見る角度によって少しずつ変わりますので、本日(4月29日)朝にイオンタウン、開国橋、そして白根インターの3地点から撮影して見比べてみました」と3地点からの解説入りの山並み写真を提示して、もう一つのポイント鉄塔は「送電線であり、これは地上権の関係もあり戦前から今日まで同じ場所である可能性が大きい」ことも教えてくださいました。


 その上で、K氏は「この写真が撮影されたのは、おそらく杉浦醫院の近くの送電線の南側、地名で云えば旧竜王町玉川から昭和町押越にかけての範囲が有力ではないかと考えます」と結論付けていただきました。


 このように来館者が写真の撮影場所を特定する為にご尽力頂いた以上、遅まきながら他のスナップ写真も参考に何とか特定しなければ申し訳がたちません。

 テントを張って顕微鏡なども用意して昭和天皇を迎えた本拠地は、旧竜王町万才であることは間違いありませんが、掲示してある写真の撮影場所は、そこから移動しての可能性もあったことから特定できていませんでした。

数あるスナップ写真を一枚一枚確認したところ二人が立っていた左端にテントを固定するロープが写り込んでいる写真がありましたから、昭和天皇と三郎先生が採集したミヤイリガイをテント内の顕微鏡で直ぐ観られるようミヤイリガイ生息地の土水路近くにテントを張り、そこを本部とした巡行だったことが分かりました。

 

 K氏に特定していただいた「送電線の南側で北の背景の山は茅ガ岳・・・山並みです」の旧竜王町玉川は、旧竜王町万才の隣ですからぴったり一致します。K様のご尽力で、また一つ展示物の解明も進みましたこと、この場で恐縮ですが厚く御礼申し上げます。

2019年5月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―580『資料・情報御礼ー1 東広島市K様』

 前話の依田賢太郎氏からの寄贈本に続き、この連休中も貴重な資料や正確な情報を幾つかお寄せいただきましたので、お礼方々、ご紹介させていただきます。


 4月28日に広島県からお一人で来館くださったK氏は、東広島市の公務員の方ですが、当館ホームページ上の「地方病について」の文章の中に誤記があることを来館時にもご教示いただき「正確な資料を後日送ります」と帰られました。


ホームページ上では、「地方病」について次のように記載しておりました。

≪地方病とは日本住血吸虫の寄生によってヒトを含む哺乳類に発症する寄生虫病であり、山梨県甲府盆地底部、利根川下流域の茨城県、沼田川流域の広島県深安郡片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部など、ごく限られた地域にのみ存在した風土病である≫


 K氏は、上記赤文字の部分が誤記であると国土地理院地図と共に次のように指摘してくださいました。

「芦田川と沼田川の位置関係について別紙のとおり地図をお送りします。カラー画像をFAXしているので写りが悪く見にくいと思いますが、片山病旧有病地を通って福山市に流れる川は「芦田川」です。沼田川(ぬたがわ)は三原市に流れていきます」

「片山病(地方病)に関連する河川は芦田川とその支流の加茂川と高屋川ですが、片山地区でちょうど合流し、芦田川にはさらに下流で合流します」と。

 

 ホームページ立ち上げ時にトップページに幾つかの項目を載せる為文章を書きましたが、正直なところ「地方病について」の記載は、何らかの資料を転載したようです。それは、私自身が「芦田川」「沼田川」という固有名詞に全く記憶がないことでもバレバレです。

あらためてグーグルマップで「旧・片山地区=現・福山市神辺町」を確認しましたが、K氏のご教示どおり芦田川と沼田川は同じ県内を流れる川とはいえ旧・片山地区をかすりもしていない沼田川は明らかな間違いで、未確認のまま転載していたことを反省しましたし、何より早速正確な記載に訂正できることを感謝申し上げます。


 K氏から旧・片山地区は福塩線の神辺駅から西方1Kmほどの地区であることも教えていただきましたから、ストリートビューでその一帯を観ると最初に出てきた画像で思わず「えー」と驚きました。それは、山を背景に広がる平地にはコンクリート水路が整備された田圃が広がり、民家の造りや大きさも何だか見慣れた昭和町や韮崎市など山梨の田園風景そのままだったからです。


 若いK氏が、片山病(日本住血吸虫病)を知ったきっかけを「片山病対策に当たった一部事務組合⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆の名称に驚いたところからですが、これには昭和天皇の戦前戦後2回の行幸がきっかけであると日本獣医師会雑誌の記事が伝えています」と記し、昭和55年に解散した⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆についての詳細も広島県ホームページで確認できることまで教えてくださいました。


 初耳の「御下問奉答片山病撲滅組合」は、山梨県にあった「山梨地方病僕滅協力会」と同じ目的の組織であることは予測がつきますが、「御下問奉答」の接頭語はK氏も驚いたように「なぜ?」と調べたくなります。


 これについて「日本獣医師会」サイトの論文に以下の説明がありました。

 ≪ー前略ー 戦後,全国を巡幸された天皇は1947年12月(昭和22年),備後路の旅で神辺小学校を訪れた.このとき,案内役の楠瀬県知事に「その後,片山病はどうなっていますか」と尋ねられて関係者を感激させた.このことから福山市と神辺町では,市議会と町議会の中に御下問奉答特別対策委員会を設置し,県でも翌年「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,一層の防除対策に取り組むこととなった.-後略-≫と。

 

 天皇の発した一言「その後,片山病はどうなっていますか」が「広島県地方病撲滅組合」の名称を「御下問奉答片山病撲滅組合」に改めさせたと云うことです。戦前のことなのかと思えば昭和23年の戦後ですから、約70年を経た令和の代替わりでも異様とも思える皇室報道が続いたこの連休中を思い返すと「さもありなん」とか・・・複雑な気持ちになります。 

2019年5月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―579『依田賢太郎氏からの寄贈本』

 4月に当ブログで2話に渡って依田賢太郎氏の著作「いきものをとむらう歴史」とその中で取り上げられている杉浦健造と「犬塚」について紹介してきましたが、そんな縁で、この度依田氏から当館に2007年刊の「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」と2018年刊の「いきものをとむらう歴史」の2冊の著書をご寄贈いただきました。


 2冊とも社会評論社から刊行された本ですが、依田氏は2005年には子どもを対象にした「東海道どうぶつ物語」を東海教育研究所から刊行していますので一貫してどうぶつと日本人の関係をテーマに調査研究をしてきたことになります。

 

 精読させていただくと単に「どうぶつのとむらい」の足跡をたどった本ではなく、依田氏の人生観、哲学が依田氏をして足跡をたどらせたことが分かります。

それは、執筆にあたって参考にした文献一覧にも表出されています。

柳田国男や谷川健一、川田順造、鯖田豊之と云った多くの民俗学者の著書、山折哲雄や梅原猛から末木文美士までの宗教学者の著書をはじめ歴史学者や哲学者の著作や県史や各教育委員会発行のガイドブックまであらゆるジャンルの資料を紐解いて、依田氏が集大成した哲学がどうぶつを通して語られていることを参考文献一覧が物語っています。

 

 また、「私はこれまで、病気や事故で失われた人間の体の働きを助けるための人工臓器や、痛みを取り除くための装置などの研究をしてきました」と云う工学博士の依田氏ですから「ネズミなどの小動物の血液や細胞を使った最小限の実験が欠かせなかった」と云う現実に直面して「どうぶつのとむらい」と日本人の歴史に向き合うようになったようです。

これは、自分の仕事に誠実に関わると観えてくる世界も広がり、解明すべき課題も次々に押し寄せ、結果として上記のような広いジャンルの資料も読み込む必要に迫られると云う研究者の宿命に忠実だった依田氏の姿勢と視点の確かさに拠るものでしょう。


 依田氏は「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」のエピローグで、動物塚は「いのちの物語」であるとして、最後に「贅沢で、無駄の多い、豪奢な生活を追い求めるのではなく、簡素で、無駄のない、足ることを知る生活が求められています。動物や自然はそのことを教えてくれます。そして、簡素をとるのは勝れて積極的な選択です」と結んでいます。


 多くの「いのち」に向き合ってきた杉浦醫院に依田氏寄贈の「いのちの物語」の著作本が新たな資料として展示出来ることは、健造先生が「犬塚」建立に流した汗が約百年後に同じ高校の同窓生によって結実した不思議な縁も感じます。小学生向けの「東海道どうぶつ物語」も購入して揃えておきますので、杉浦醫院で親子ご一緒に「いのち」についても学んでみてはいかがでしょう。 

2019年4月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―578『依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-2』

 依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」の中に地方病に関連する「犬塚」についての記載があり、576話で内容を紹介すると共に写真の祠について感想を書きました。その後、雨宮さんの計らいで、依田先生とも直接電話でお話しできましたので、補足しておきたいと思います。

 

 依田先生は犬塚取材の為、お住いの滋賀県から2017年(平成29年)10月25日に身延線で国母駅まで来て、タクシーで犬塚の有る正覚寺にみえたそうです。雨の降る日で、タクシーを待たせたまま当時の住職に犬塚について尋ねたそうで、訪問日や当日の天気まで正確に記録してあるようですから、一冊の本にまとめる為の取材帳には多くのメモが残されていることと思います。

 功刀玄雄住職から「私が入った時は犬塚は既に無かったけど、先代の話だとこれが犬塚にあった祠だということです」と説明を受けたので、写真を撮って本にも掲載したと教えてくださいました。

「祠の後や横も観たのですが、年月日や建立者名は一切なかったけど苔むしていて古いのでそうかなと思った位で、あの小祠が本当に犬塚のモノかどうかは分かりません」と云うことですので、この機会にもう一度「犬塚」について、関係資料を確かめてみました。


 犬塚についての一番古い資料は、昭和3年発行の「中巨摩郡誌」にあります。

「第9章 医事・衛生誌」に地方病の項目があり「大正14年4月2日山梨地方病予防撲滅期成組合創設せられ、10か年計画を以て本病中間宿主たる宮入貝石灰殺貝法を実施し本病の撲滅を期せり。因に本組合は創設の日に於いて本郡杉浦健造・桜林保格・三神三朗の諸氏を功労者として表彰せり。」に続き「附犬塚 本郡西条村正覚寺境内にあり、本病研究開始以来杉浦醫師其の他学者の研究資料となりし犬・猫・家兎・モルモット等数百頭の為、大正12年5月17日川村・風間・杉浦三氏の治療研究報告を機とし供養の為建立せらる。」とあります。

 このように郡誌には「大正12年5月17日」とありますから、祠や石塔にはこの建立年月日は刻字されていたように思います。


 昭和9年発刊の「杉浦健造先生頌徳誌」の中にも次のような記述があります。

≪解剖等の為犠牲に供したる禽獣は実に無数の多きにして又病虫駆除の一方策として多数のアヒルを飼養し毎日河川に放ち之を食せしめ蛍の幼虫を繁殖して病虫との関係を調査する等研究努力の程想像に余りあり。先生、生前中ある時曰く「我れ地方病研究の為犠牲に供したる禽獣は其の数を知らず 思えば不憫の至りなり 之れが埋歿地に供養塔を建設して以て慰さむとす≫-後略ー

 上記の記述もあってか、純子さんも「犬塚は新館(病院棟)の看護婦さんの部屋の丁度向かいで、小高くなった上に石の碑がありました」と話してくれましたから、祠ではなく石塔だった可能性もあります。

 また「之れが埋歿地に供養塔を建設して」の健造先生の言は、亡くなったアヒルや犬などは正覚寺の庭に埋葬していたことから、その地に犬塚を建立して供養したということになり、多くの禽獣の埋歿地は「小高く」なるのが自然でしょう。

 

 昭和52年山梨地方病撲滅協力会発行の「地方病とのたたかい」誌には、第二章「地方病撲滅事業の沿革」の中で、大正12年の項目に「犬塚の建立」があります。

≪中巨摩郡誌には、本病研究開始以来、杉浦健造医師その他の学者の研究材料となった犬、猫・・・(中巨摩郡誌と同文)≫があり、最後に≪正覚寺境内に「犬塚」を建立したと記されているが、今はその影はない≫と記載されています。

 

 このように観てくると、犬塚は、昭和40年代に境内の木を切って新たに墓地を造成した正覚寺の歴史変遷の中で、整理され「今はその影はない」ようになっているのでしょう。

庭を墓地にした際まとめられた石塔や祠が墓地入り口付近に数塔ありますから、一本一本確認すれば「大正12年5月17日」とある石塔に行きつくかも・・・と、調べてみましたが、確定できる石塔・祠はありませんでした。

2019年4月11日木曜日

 杉浦醫院四方山話―577『上杉久義村長と村営プール』

 過日、甲府市から故・上杉久義村長の次女の方がご子息と一緒に来館くださいました。

「純子さんの妹の三和子さんと甲府高女に通ったので、ここにもよく遊びに来ました」

「一緒に帰るとお手伝いさんが何人もいて、しまいのお嬢様お帰りなさいと出迎えてくれて、百姓家と違うなあと思いましたよ」

「父が政治好きで県会議員にも何度も立候補したので、杉浦先生も懇意にしてくれて、いろいろ教えてくれたようです」

「そんなこともあって、父は村の子どもが地方病にならないようにプールを造ることが夢で、その為に村長になったようです。プールが完成した時は、俺は夢をかなえたと本当にうれしそうでした」等々、1時間以上元気にお話しくださいました。

 

 歴代昭和村長の中でも上杉久義氏は、何かと話題になることも多く、インパクトの強い村長だったことは長いあごひげと共に語り継がれています。

上杉氏が村長になろうとした動機が「地方病から子どもを守るために村営プールを造ること」にあったという娘さんの言葉を聞いて「政治家の信念とか公約が生きていた時代の話だなー」と思うと同時にこの村営プールのプール開きで上杉村長自らが泳ぎ初めをした古い映像が蘇りました。

 

 山梨県では発育途上の児童生徒が地方病に感染しないよう、県や医師会が学校を通して河川で泳いだり遊ぶことを大正9年以降ずっと禁止していました。

水道や風呂が当たり前になり、エアコンも普及した現代ですが、明治、大正、昭和と甲府盆の夏の酷暑を凌ぐには近くの河川で行水が当たり前でした。教師や親の目を盗んでは川に入って遊びたいのが子どもですから完全に制限することは難しく、結果として肌の柔らかい子どもが地方病に感染する確率は高かったのも特徴です。


 この河川での行水禁止について、昭和村史には≪従って水泳ぎの技にも疎く、海国日本生まれながら水に入れば実に脆いものであり、かつて中支策戦に応召され、出征した皇国勇士が敢え無くもクリークの突破が出来ず無念の涙を呑んで護国の鬼と化した例も数えきれない。≫と、泳げないことが軍事力にも波及するとして、河川で泳げない以上≪一刻も早くプールを建設し、伸びゆく青少年達の自然の要求を充たす必要がある≫と記されています。

 

 このような時代背景もあって、上杉氏は村営プール建設を政治信条として村長になったのでしょう。現代の「待機児童解消の保育園建設」と重なりますから、それぞれの時代的課題に対処するのが政治であり行政だと云うことになります。

 有病地の小中学校へのプール設置が県の補助事業として優先的に進められたこともあり、地方病感染防止の徹底が山梨県下の学校プール設置率をいち早く日本一にしたことにも繋がりました。

昭和32年8月6日 押原プール竣工式
上杉村長自ら泳ぎ初め
-「昭和村の記録」より-
 

2019年4月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―576『ー依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-』

 資料館や博物館には、心ある方々から「こんなものが見つかったけど」とか「この本ご存知ですか」と云った情報が時折寄せられます。
今回、昭和町河東中島にお住いの雨宮昌男さんから「一高の同級生だった依田賢太郎さんがこの本を贈ってくれたので読んだら杉浦健造と犬塚のことも書いてあったんでお持ちしました」と社会評論社刊「いきものをとむらう歴史」(2018年7月20日発行)を持参くださいました。



 京都大学の工学博士号を持ちスタンフォード大学や東海大学で教授をつとめた著者・依田賢太郎氏が「動物のお墓」に興味をもって調査研究を始めたのは「動物実験を行っている日本の大学や研究機関は、なぜ欧米にはない実験動物慰霊碑を建立するのだろうか?」という素朴な疑問からだったそうです。
2007年には同じ社会評論社から「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」を出していますから、2007年以降の調査結果がこの本にまとめられ、前著と合わせると総数は五百数十基に及びます。
しかし、依田氏によれば「総数は何千、あるいは一万基になるかもしれない」といいますから、日本人が動物を供養してきた歴史・文化は世界に類例がないものであることが分かります。


 さて、P59~P60には、「犬塚(昭和町西条新田、正覚寺)」名で以下の紹介があります。

「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠は日本住血吸虫症の患者の治療とこの病気の撲滅に私財を投じて心血を注ぎ、医師としての生涯を捧げた杉浦健造が発起人となり中巨摩郡により大正12年(1923年)に建立された。
           ーー日本住血吸虫症の説明文は略ーー
杉浦健造の他その娘婿三郎、大鎌田村の三神三朗、石和村の吉岡順作など山梨県の郷土医が地方病の撲滅に多大な貢献をした。正覚寺に隣接する杉浦醫院は、現在、風土伝承館杉浦醫院として一般公開されている。」


と、当館についても紹介いただいていますので、依田氏が犬塚の取材にみえたのはこの10年以内の事と思います。この文と一緒に犬塚の「苔むした小祠」の写真が載っていますが、この小祠が犬塚の祠だったのかどうかは定まっていません。
 依田氏の記述通り「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠」は現存していますが、8年前正覚寺住職に犬塚について直接聞きましたが「私が入った時から犬塚はありませんでした」と云うことで、「この祠が塚にあったもののようです」と云う紹介もありませんでした。
 私もそうですが、多分住職も「犬塚」と聞けば、土盛りされた小高い墳墓的なものを連想されていたのではないかと思いますが、その塚の上に祠があっても不思議ではありませんから引き続きこの祠について確かめていく必要があります。




昭和町内には、この犬塚以外にも鳥獣供養碑もありますから、この本をきっかけに町内の「いきものをとむらう」歴史についても観ていきたいと思います。

2019年3月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―575『角野幹男前町長追悼-2』

 角野前町長と当館誕生の経緯を前話で振り返りましたが、その中の「杉浦家と町の関係」について、役場でも継承されていませんからきちんとお伝えしておく必要があると考えました。

正確には「杉浦家と町行政(町役場)の関係」と云うのが実態であったように思いますが、純子さんの証言も含め記しておきます。

 

 それは、村長在任中亡くなった杉浦健造先生の功績を讃えるべく当時の押原学校に昭和9年10月1日に建立さた「頌徳碑」の戦後の扱いの問題でした。

 太平洋戦争末期、資源に乏しい日本ではさまざまな物資が不足し、戦争の長期化と共に国外からの輸入に頼れなくなると国内から集めるしかなくなりました。そこで目をつけたのが、個人や地域にある資源でした。特に金属は兵器に必要ですから重要視され、1938(昭和13)年の「国家総動員法」で家庭や公共施設の金属を対象に政府は金属供出を呼びかけました。それを受けて、隣組や国防婦人会が組織的に地域のマンホールの蓋や鉄柵などの供出を始め、押原学校の「頌徳碑」も健造先生の胸像部分がブロンズ像だったことから昭和18年2月28日に供出されました。昭和町誌には「軍艦か戦車の原料鉄に改鋳されるため、戦場に召された」とあり、出兵兵士と同様に頭には日の丸の鉢巻きで「杉浦健造」と記名されたタスキをかけて、胸像は送り出されたそうです。

 

 敗戦後、進駐したGHQは日本の民主化を図るため数々の改革を命じましたが、昭和20年12月の御真影奉還令を筆頭に公教育での個人崇拝につながるものも禁じました。胸像が供出され石の台座だけが残った頌徳碑もその流れの中で、学校から撤去されることになったのでしょう「戦後、町が台座をポンと返しに来ました」と純子さんも話してくれましたが、町誌にも何年何月に台座を返却したかの記述はありません。

「父と母は何の連絡もなく台座を置いて行ったのに怒りましてね。こういう非常識なことをする町とは今後一切付き合わない。校医も辞めると言っていたのを覚えています」とも話してくれました。


 以上が「杉浦家と町の関係」の概要ですが、この後、町も杉浦家との修復を図るべく昭和40年9月1日に「形象移転について誌す」を当時の野呂瀬秀夫村長名で出しています。

そこには台座を杉浦家に移転する経緯について「このたび押原小学校校舎の全面改築にあたり、他に移転の止むなきにいたり、ことの次第を当主杉浦三郎先生ご夫妻にご相談申し上げ、幸いご承諾を得たので村議会の議を経て、杉浦家にご移転申し上げることとなる。ここに新校舎第一期工事着工の日にあたり、形象移転の事情を記し後世に伝えんとするものである」とあり、台座の移転は、新校舎建設の物理的原因によるものとされています。


 しかし、台座が「何の相談もなくポンと返された」のは、昭和40年ではなく戦後間もなくであったと云う純子さんの記憶とは、時期も内容も大きな隔たりがありますから、三郎先生の校医辞退等の申し出を受けて、行政は新校舎建設を機にこのような形で関係修復を図ったとみるのが自然でしょう。

このようないきさつを覚えていた町幹部は、前話のように「杉浦さんは町へは絶対売らんよ」と云う忠告につながった訳で、台座返還の経緯を巡って、杉浦家のシコリはかなり根深いものがあったことは確かです。


 そういう過去も含めて、角野前町長の施策が杉浦家と町の関係の全面修復に寄与したことは「町がこんなに良くしてくれて、父や祖父もさぞ喜んでいることと思います」と純子さんが折に触れて発していた言葉が物語っています。

2019年3月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―574『角野幹男前町長追悼-1』

 3月2日(土)未明に角野幹男前町長が肝臓がんで76歳の生涯を閉じたとの連絡がありました。当館は角野町政で誕生したと云っても過言ではありませんから、追悼の意を込めて、角野氏と当館誕生の経緯を記しておきたいと思います。

 

 角野氏は、若かりし頃青年団でも活躍し、昭和町の消防団長も務め、その頃はウイスキーをメインに豪快に飲んだそうですが、町長在任中はアルコールは一切飲みませんでしたから、それだけでも私には出来ないことで、覚悟無くして就けない職であることを身をもって示していたように思います。

 後に町議にもなった山本哲さんが立ち上げた昭和町カルチャーデザイン倶楽部と云う自主サークルではよく飲み会もしましたが、角野氏の下で消防団活動をしてきた望月さんは「角野団長が選挙に立つと俺は山本さんの応援はできない。団長にはホント世話になったから」とよく言っていたのを思い出します。「そういう消防つながりが田吾作文化の元で俺は大嫌いだ」とすかさず反論した塩島さんも元気でした。

 

 

 望月さんの予想通り角野氏は1999年(平成11年)から町議となり2期務めましたが、町議時代は反町長派の先鋒と云ったスタンスで議会でも質問していたのを覚えています。

 2007年(平成19年)には、その現職町長の後継候補に挑む形で一騎撃ちの町長選に立候補し「モノづくりから人づくりへ」をキャッチフレーズに当時流行ったマニフェストを提示しての選挙戦を展開し当選しました。そのマニフェストの中に「杉浦医院を町の郷土資料館に」もあったことから、角野町長になって初めて杉浦醫院の資料館化についての話が進み出しました。


 それまでの歴代町長からは「昭和町に無いのは後は郷土資料館だけだから・・・」と資料館建設の用意はあるので、展示物や内容を詰めるよう再三云われてきました。それもあって、町民の皆様に民具や農具の寄贈を呼びかけ、一定量の寄贈品も集まりましたが、立派な資料館を建てても展示品があまりに貧弱な感は否めませんでした。


 そこで、町の文化財審議委員と社会教育委員の各委員に収集した農具や民具を観ていただき、昭和町の郷土資料館についての協議を重ねました。その結果「昭和町の歴史は水の歴史だから展示内容は水の歴史が伝わる資料館」にという結論でまとまりました。


 国の天然記念物だった「源氏ホタル」も信玄堤の一環としての「かすみ堤」も甲府市南部の水道水「昭和水源」も「水田風景」も「ぶっこみ井戸」もそして「地方病」も全て「水」無くして生まれなかった風土であることを新しい住民も多い昭和町では、伝えていくべき価値と内容があることをまとめ、新たに資料館を建設するのではなく「地方病の神様」と仰がれた杉浦父子の「地方病の病院」と呼ばれた杉浦醫院が現存しているので、これを活用することが出来れば一番いいのではないかと具体化しました。


 がしかし「あんな古い家を買ってどうするでぇ」のトップの一言を補完する様に町幹部から「杉浦さんは絶対町には売らんよ、杉浦家と町の関係をあんたは知らんから・・」と忠告されました。「確かに古い建物ですが文化財としての価値があり、新しい町だからこそ残すべきでは」とか「杉浦家と町の関係についても何にも知らないけど人は変わるし、話してみなければ分からないのでは」と反論しましたが、先に進むことはありませんでした。

 

 そんな経緯で立ち消えになりかけていた構想が、角野氏のマニフェストで息を吹き返したのでした。

当時の杉浦醫院には、三郎氏の長女純子さんがお一人で家屋敷を守っていましたが、既に80歳を過ぎ、庭木の手入れなども行き届かず荒れも目立ち始めていました。

 

 角野町長就任後、その純子さんを相手に町への移管、買い取り交渉を進めるよう言われた時は、構想が一気に具現化できる可能性に胸も踊り訪問を重ねました。

「杉浦健造・三郎父子を顕彰し、地方病終息の歴史を昭和から発信していくのには、ここが必要で最適です。この病院棟と母屋は、町に移管されたら必ず国に申請して、国の登録有形文化財に指定されるよう図りますから、永久に残ります」の直球一本勝負でしたが、徐々に純子さんの硬さも和らいでいくのが励みにもなりました。


 約1年弱の時を経て「町にお譲りした後も生まれ育ったこの家で元気なうちは生活させてくれるなら・・・」と純子さんから具体的な希望である唯一の条件が提示されました。「それは私の一存では・・」と持ち帰り、角野町長の決裁を仰ぎ、町長同伴で返答に伺いました。角野町長は「町が購入してからの整備工事は順番にやっていくので母屋はまだ何年も先になりますし、町に移管された後も純子さんが居てくれた方が杉浦先生や病院の事も教えてもらえるので、ご希望通りこちらで生活を続けてください」と純子さんの条件を受け入れての購入意志を伝えてくれました。

 

 これが決め手となり一気に杉浦醫院購入へと進みましたから、純子さんの希望尊重と云う英断は、角野町長がマニフェストに込めた思いとそれを誠実に実行していこうという政治家の姿勢を表象していました。その後も三郎先生がよく家に往診して父を診てくれた思い出などざっくばらんな世間話が純子さんと続き、角野氏の庶民的で話好きな一面も同席して知ることが出来ました。 ー次話に続くー

2019年2月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―573『もうすぐ春ですねぇ』

 中原よ。地球は冬で寒くて暗い。 ぢゃ。さやうなら。  ー 草野心平ー

詩人の中原中也は、昭和12年10月23日に30歳で死去しましたが、友人の草野心平が詠んだ亡友中原中也への追悼詩です。

中原と云えば、


 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 

など、豊かな抒情詩が多い訳ですが、季節的には矢張り「冬の詩人」と云ったイメージでしょうか。

そんな中原の死を草野心平は「地球は冬で寒くて暗い」と草野の寂しさを暗喩して「 ぢゃ さやうなら」と結びましたが、饒舌を排した稀に見る弔辞で忘れられません。

杉浦醫院母屋の座敷は茶室としても使われていました。茶室を囲むように
侘助(椿)が何本も植えられています。
 



 杉浦醫院がプレ・オープンした九年前は、純子さんもお元気で見学会の折には母屋の玄関先で見学者の方々に杉浦家にまつわる話などを歯切れよく話してくださいました。

そういう時は必ず「これを着ると少しはシャッキとしますから」と着物に着替えての対応でした。

 

 参加者の中には俳句の達人もいて「侘助や八十路の帯のやはらかく」と、やわらかなピンクの花をつけた椿と着物姿の純子さんを重ねた句を残してくれました。純子さんにこの句を見せると「盲千人目明き千人と言いますけどあの侘助を詠ってくれる方がいたなんて嬉しいわ」ととても喜んだのを思い出します。


 そんな純子さんもこの3月で93歳になります。「寒くて暗い」日本の冬を今年初めて温かな病院で過ごしました。インフルエンザの流行で病院は見舞いも制限されていますが、純子さんは至って元気に過ごしています。

 杉浦醫院庭園の草木が一斉に花をつけ、池の水がぬるむ春はもうすぐそこです。

歌の好きな純子さんにキャンディーズの「もうすぐ春ですねぇの春一番」をお届けしたい気分ですが、リンク可能な祖父健造先生の功績を称える「頌徳歌」を贈ります。 


2019年2月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―572『武田騎馬隊と地方病』-2

  山梨県に限らず、早くから馬の産地とされてきた長野県や南部駒の岩手県南部地方、熊本県など伝統的な馬産地域には共通して、馬刺しに代表される馬肉を食する文化があります。

馬肉は桜肉とも呼ばれ山梨県内の食堂には「桜丼」や「桜鍋」が馬刺しと共に用意され、それをウリにもしていますから、山梨は矢張り甲斐の黒駒に代表される馬の産地であったことは確かなのでしょう。

先日入った食堂には「馬鹿丼(うまかどん)」と云う丼もありましたから、山里では鹿も貴重なタンパク源にしていたのでしょう。


 しかし、同じ馬の産地だったとされる隣の長野県には、日本住血吸虫症の罹患者は全くいませんし、武田家臣の南部氏が甲斐の黒駒と共に移住した(と云う説もある)岩手県にも患者はいません。熊本県も同様ですから、「日本住血吸虫症の馬移動による伝播説」には無理があるようにも思います。


 ここで、浅学の推測も勝負あったかに思いますが、馬の移動により中国などから持ち込まれた日本住血吸虫症も感染が広がるためには、中間宿主ミヤイリガイの存在が不可欠になりますから、古くから馬肉文化の有った上記の地域には、ミヤイリガイが棲息していなかった?…と云う仮説も可能なように思います。


  有病4県の山梨・佐賀・福岡・広島についてみると、佐賀県には、日本に初めて馬が渡って来たという伝承の島「 馬渡島(まだらしま)」がありますし、対馬海峡も馬と無縁では無かった名前でしょう。

  福岡県福岡市には、馬出(まいだし)1丁目から6丁目の地番が現在も残り、宮入先生が奉職した九州帝国大学(現・九州大学)もこの馬出町にあります。また「福岡の馬刺し」は、熊本に勝るとも劣らない九州の名物ですから、馬とは古くから縁の有ったことを物語っています。

  広島県にも馬洗川(ばせんがわ)と云う川や馬木町(うまきちょう)と云う地名があるように「馬」の歴史が残り、県指定の文化財に鎌倉時代の作とされる「木造飾馬」もあります。


木造飾馬
広島県指定文化財「木造飾馬」
 

 このように観てくると、日本住血吸虫症の感染原は、和種馬の元になったと云うモンゴル馬が中国を経由して入ってきて、ミヤイリガイが棲息していた地域には感染が広がり、ミヤイリガイが居なかった地域では有病馬の死で終わったと推論できます。

ですから、ミヤイリガイがなぜ日本の限られた地域だけにしか棲息できなかったのか?が解明されなければなりませんが、これまでの地形、湿地、土壌の共通性からの説明では十分とはいえませんので、浅学なりにその辺も整理していきたいと思います。 

2019年2月8日金曜日

杉浦醫院四方山話―571『武田騎馬隊と地方病』-1

 日本住血吸虫症(地方病)の謎の一つに「なぜ山梨県の甲府盆地に蔓延したのか?」があり、中間宿主ミヤイリガイの棲息に適した地形風土からと言う説明が、推論の主流であったように思いますが「なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのか」という疑問は解明されていません。

もちろんこれまでも地理学や生物学、地質学、遺伝学等々あらゆる観点から研究は行われてきましたが、依然として大きな謎だというのが実際の所です。

 

 同じように「日本住血吸虫の卵から孵化したミラシジウムは、なぜミヤイリガイだけに寄生して同じ巻貝で同じような所に生息していたカワニナには寄生しないのか?」も解明されていません。要は、まだまだ解らないことは沢山あるということですから、何でも解った風な顔をしないで整理しながら謙虚に学び、考える姿勢こそが大切なのでしょう。

 

 前話のように辻教授が「フィラリアなど他の感染症の伝播も人間の移動が主原因だから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云う指摘を受け、あらためて「日本住血吸虫症の伝播」について考えてみました。

 

 辻教授の示唆を聴いて私には「人間の移動」と「中国から」がキーワードのように残りました。

それは、甲府盆地の地方病は、甲陽軍鑑によれば武田家臣の小幡豊後守昌盛が地方病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来て、やせ細った昌盛の形相を見て勝頼も涙したと云う記述があることから既に戦国時代には患者が居たとされてきたこと。

もう一つは、日本住血吸虫の虫卵は、中国湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)古墳で発掘された紀元前の女性の遺体からも発見され、中国では古代から存在している病気で、決してせまい地域の風土病ではないと云う定説が結びついたからでした。

 

 武田家臣の地方病説から、天下最強と云われた(?)武田騎馬隊が連想され、地方病は人間同様哺乳類も感染しましたから、モンゴルから中国経由で甲府盆地に入った「馬の移動」により地方病は中国から甲府盆地に持ち込まれたのではないか?と云う仮説を思いつきました。

 

がしかし、悲しいかな浅学の思いつきは???だらけのことは自明です。だいたい「天下最強の武田騎馬隊」が本当に存在したのかどうかも怪しいのは、当時日本には入っていなかった洋馬のサラブレットのような馬上にまたがる信玄像が一人歩きしていることにも象徴されています。

≪山梨県(甲斐国)では、4世紀後半代の馬歯が出土していますから、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている≫との学説もありますが、武田氏館跡から出土した馬の全身骨格からは、体高は115.8cmから125.8cmと推定されていますので、武田騎馬隊が存在したと云う仮定に立っても、その馬は「甲斐駒」とも「甲斐の黒駒」とも呼ばれた和馬で、いわゆるポニー種だろうと云うのが一般的です。

甲斐駒・甲斐の黒駒と呼ばれた和馬に近い「北海道和種」

 この辺については、歴史学や考古学の成果に負うしかないのですが、和馬と分類される日本古来の馬も中国や朝鮮半島から「移動」されてきた訳ですから、もう少し勝手な推論を整理していきたいと思いますので良かったらお付き合い下さい。

2019年2月5日火曜日

杉浦醫院四方山話―570『加茂先生のEMBAY 8440』

  過日、昨年に引き続き北里大学医学部寄生虫研究室のメンバーが来館くださいました。

これは、辻教授が研究者と学生に授業の一環として設定した校外学習でもあることから、実際に臨床医として地方病の患者を診察・治療した巨摩共立病院名誉医院長の加茂悦爾先生にもご足労頂き講義をいただきました。

 地方病の患者を実際に診察・治療したドクターも山梨県では、横山先生と加茂先生のお二人になってしまったことも地方病風化と無縁では無いように思いますが、今回のように寄生虫を研究していこうと云う若い研究者・学生に当館がお役に立てることは光栄でもあります。

加茂先生の講義を熱心に聴く辻研究室の方々

  辻教授から加茂先生には昨年も持参いただいた「プラジカンテル」の試作段階で商品名も無い[EMBAY 8440]を今年も持参願いたいとの連絡がありましたから、加茂先生にお伝えし持参いただきました。

加茂先生所有の「EMABY 8440」 

 辻教授によれば、「これは何処にも無い貴重な物で、写真ですら見たことがありません」と云うお宝ですが、几帳面な加茂先生は自筆で「1975~1976」更に「昭50~51」と包装箱に忘備メモがありますから、加茂先生がこの試作段階の薬を入手した時期でしょう。

 

 加茂先生は、信州大学医学部を卒業して、昭和32年に当時の山梨県立病院の内科医として医者生活をスタートしたと云う自分史と地方病との係わりを重ねて語りました。先生は「杉浦三郎先生に背中を押してもらって」といつも謙遜して云いますが、昭和48年に「日本住血吸虫性肝硬変症の免疫病理学的研究」の英字論文で学位を取得しました。

先生は、学位取得後も研究を重ね、昭和50年から51年には国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の寄生虫部長 石崎 達先生の下で研究を重ねていますから、この「EMABY 8440」は、国立予防衛生研究所時代のものだそうです。

その翌年にはWHOのデュッセルドルフ会議にも参加していますから、三郎先生同様、勤務医をしながらも研究を欠かさなかった稀な医師でもあったことが分かります。

 

 加茂先生が持参下さった日本住血吸虫症の特効薬「プラジカンテル(Praziquantel)」の試作品「EMBAY 8440」名の実物は、ドイツの製薬会社バイエル社が開発したものですから、包装箱や薬瓶の表示文字は全てドイツ語です。

分子式は、C19H24N2O2だそうですが、寄生虫の細胞膜のカルシウムイオン透過性を上昇させることで寄生虫が収縮し、麻痺に至る薬のようです。

 

 浅学には詳細は分かりませんが「EMBAY 8440」について検索すると英語、ドイツ語表記サイトが主で、数少ない日本語サイトの中に1979年発刊の医学専門誌に「日本住血吸虫症に対するEMBAY8440 (Praziquantel) の臨床的使用経験」と題した加茂悦爾・石崎達両氏連名の論文がありました。

加茂先生名が筆頭ですし、「EMBAY8440の臨床的経験」の題名からも石崎氏の要請で加茂先生が日本住血吸虫症の患者に使ったうえでの論文と推測できます。

 

 このような臨床過程を経て「EMBAY8440」が、商品名「プラジカンテル」として発売されたのは、山梨県でも新たな患者が出なくなった昭和50年代ですから、日本の患者には「スチブナール」が身近な特効薬ということになりますが、林正高先生がフィリッピンの患者20万人を救済した募金活動は、この「プラジカンテル」の購入費用でもありました。

 

 質疑応答の中では、辻先生から「プラジカンテル」は水に溶けないから子どもには服用が難しいことやフィラリアなど他の感染症の伝播も「人間の移動」が主原因だったから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云った示唆もあり、私たちにとっても貴重な学習機会となりました。

 

2019年1月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―569『1945年1月のレイテ島-2』

 日本兵は飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていったそうですが、レイテ戦で米軍が使った武器が「火炎放射器」だったことは、私にとってはミヤイリガイ殺貝活動の中で活躍したのが火炎放射器でしたから意外でもありました。しかし、あまり知られていませんが、いわゆるゲリラ戦では鉄砲より火炎放射器の方が有効だったことからベトナム戦争から現代にまで引き継がれているそうです。

ベトナム戦争でもアメリカ軍は火炎放射器を最大限使用したそうです

  レイテ島では指揮系列もなくなった日本兵は、数人もしくは個人で塹壕や洞穴に身を隠してのゲリラ戦を余儀なくされましたから、アメリカ軍は暗い穴の中に火炎放射器で燃える液体を吹き込み閉所にいる日本兵を窒息死や焼死に追い込む作戦を採ったのでしょう。

 同時に火炎放射器では、着火しない状態で燃料を敵兵舎や装甲車両に噴射し、燃料まみれになったところで着火してより被害を拡大することも出来たそうですし、着火されなくても人体に燃料が付着すると強烈な痛みと炎症を引き起こしたそうですから、戦争や兵器が科学技術を前に進めた好例でもありましょう。

 

 このように一方的なレイテ戦でしたが、アメリカ兵の間にも皮膚のかゆみや発熱、下痢といった症状の奇病が広がり、次第に肝臓や脾臓がはれ、けいれんや脳梗塞を起こす者まで出ましたが、アメリカには存在しない病気だったことからアメリカ軍も苦慮して、この奇病の原因に乗り出しました。アメリカ兵1700人以上が感染したアメリカにとっての奇病は、日本では解明済みだった日本住血吸虫症(「地方病」)でした。

日本住血吸虫
杉浦三郎博士が診察する末期の日本住血吸虫の症状

 

 1953年(昭和28年)、三郎先生はフィリピンのマニラで開かれた環太平洋感染症学会に招聘され講演しましたが、当時のフィリピンでは、反日感情が強く、敗戦国の日本人はどんな目に合うかわからないと云われていたことから、三郎先生は中国人と偽り、チャイナ服でフィリピン入りするよう指示されたと云う純子さんが話してくれたエピソードを思い出します。

 

 フィリピンの反日感情は、日本軍のフィリピン侵略によるものでしょうが、もう一つ「日本住血吸虫症」もこの侵略過程で、日本がフィリピンに持ち込み流行らせた病気だというフェイクが信じられていたことにもよるそうです。

 その後遺症は、故・林正高先生が1987年(昭和62年)にフィリピンの患者救済に立ち上がった時点でも現地には反日感情が根強く残っていて最初は警戒された旨を話してくれましたので、戦後間もなくの三郎先生が中国人を装ったとう云うのも頷けます。

 

 このように、日本で全てを解明したことから付いた学名「日本住血吸虫症」も名前が一人歩きして日本軍がアジアに広めた病気という誤解を生んだ史実は、戦争が生んだ憎悪や疑惑の国民感情からですから、扇動され増幅されていく一面の強い国民感情と云う名の世論には要注意!ですね。

 

2019年1月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―568『1945年1月のレイテ島-1』

 今年平成31年・2019年で「平成」も終わりますから、昭和20年・1945年8月15日は一層「昔」の事になりそうですが、1945年8月15日の敗戦の日は突然訪れた訳ではありませんから、地方病にも関係する1945年1月のフィリッピン・レイテ島の惨事と史実を大岡昇平の代表作「レイテ戦記」等を元に振り返ってみるのも必要ではないでしょうか。

 

  後に日本に進駐したGHQの最高総司令官マッカーサーがレイテ島に再上陸したのは、前年の1944年10月20日でした。さすがにパイプこそくわえていませんが、再上陸の先頭に立つ姿からは、「ウイ・シャル・リターン(絶対に帰って来る)」の決意が滲み圧倒されます。

この有名な写真もアメリカ軍が撮影記録して公開しているものですから、今となっては「余裕の上陸」を物語っているようです。

レイテ島に上陸するマッカーサー

 

 迎え撃つ日本軍は、1944年12月28日に島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移し、1945年の1月1日には、司令部周辺にいた日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝ったそうでが、実態は大きく違っていたことを大岡氏は戦記文学三部作で詳細に書き残しています。

  『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人でしたが、生還できたのは、わずか2500名で8万人以上が戦死しています。

一橋大学の藤原彰教授の著書≪餓死した英霊たち≫(ちくま学芸文庫)では「アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、 餓死や栄養失調に起因する病死であった―。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だ」と、戦死者の多くが餓死、病死が実態であったことを指摘しています。

 

 ですから、1945年1月1日の時点で、司令部から遠い場所にいた日本の兵士は飢えに苦しみ、『蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、ミミズなど兵士はあらゆるものを食べた』(レイテ戦記)そうです。

 

   このように同じ島内の兵士でも食べ物にも事欠くようになると信じられない規律違反も次々起ったそうで、1月5日には第102師団長の福栄真平中将ら幹部が、命令を無視してカンギボット山からセブ島に脱出したそうですし、2月になると、残された兵士の間で「人肉を食べた」という噂話まで広がったそうです。

 その辺については、大岡氏のみならず武田泰淳氏も人間が極限状態に置かれた時、「人肉を食べて」でも 助かる方法があれば何をしてもいいのか、という重いテーマで昭和29年に「ひかりごけ」を書いています。

 3月23日には、レイテ島の軍司令部のトップ、鈴木宗作中将らが島から離脱して、レイテ島では指揮官が不在のまま、兵士が飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていきました。

 

 74年前の1月前後、フィリピンのレイテ島に派兵された日本軍兵士はアメリカ兵と戦う以前に空腹、餓死との闘いを強いられ、その中では法も規律もズタズタになり空中分解して、悲劇の沖縄決戦、本土空襲、広島・長崎への原爆投下へと敗戦の旅路が始まった事実は、遠い昔の話ではなく、もう一度私たちが肝に銘じて記憶しておくべき現代史だと思わずにいられません。

2019年1月11日金曜日

杉浦醫院四方山話―567『身延線唱歌』

 山梨県知事選挙が告示され4人の立候補者が選挙戦に入り、暫くは知事選がらみのニュースや話題が続くことと思います。

確か数か月前は「富士登山鉄道構想」が争点のように話題になっていましたが、本日の山日新聞「4候補の第一声」報道では、具体的にこの構想実現を訴えた候補者はいなかったようです。

  まあ、この構想は、世界文化遺産に登録された富士山をもっと集客につなげようという観光政策でしょうが、現在の有料道路・スバルライン上に鉄道を敷いて、車より環境への負荷を小さくして世界遺産にふさわしい富士山、山梨県にすると云う大義名分もありますから、今後の展開を見守りたいと思います。



 そう云えば、現在の身延線も前身は「身延登山鉄道」だったと聞いていますから、「富士登山鉄道構想」も単に河口湖から五合目までの往復鉄道構想に限らず、河口湖から五合目を経由して沼津あたりに繋がる構想もあっていいように思います。

 

 それは、身延線が山梨県と静岡県を結んでいることから、富士宮市の文化団体が「身延線唱歌」を作製して、地域の活性化を図っていると云う話を数年前聞いたことにもよります。

 この唱歌は、「汽笛一声新橋を♪」で有名な「鉄道唱歌」を模して、富士駅から甲府駅までの身延線各駅の歴史風土を紹介をしていますが17番まである歌詞も7番以降は山梨県内の駅で、最後の歌詞は「山梨静岡両県の明るく平和な郷づくり 身延線とともに栄えあれ」と結ばれ、身延線が両県民を結んでいることを謳いあげています。



                7                         

 稲子で駿河を後にして

 甲州十島よいところ

 昔は身延路御番書で

 今は電車で自動車で

 

8

 井出ては寄畑内船へ

 南部の火祭り空焦がす

 奥州南部の祖の地なり

 威風は今に伝えらる

 

9

 身延の駅に降り立ちて

 日蓮宗の総本山

 五十の塔の再建に

 枝垂桜木花添える

 

10

 信玄公の隠し湯の

 下部で疲れ癒されん

 湯の奥甲州金山は

 武田氏支えた軍資金

 

11

 市ノ瀬 久那土 甲斐岩間

 印章で名高き里にして

 向かいの西島和紙づくり

 書家の望み叶う町

 

12 

 視界が開けて鰍沢

 舟運の名残り今は無く

 敷かれし鉄路に拠るところ

 甲駿交流夜明けなり

 

13

 市川大門花火まち

 知恵の文殊は甲斐上野

 團十郎の出たところ

 ゆめゆめ共々忘れなん 



14

 笛吹川を打ち渡り

 見よや果樹やら野菜やら

 果樹王国と謳わるる

 甲府盆地の花輪なる

 

15 

 四方の山に目をやれば

 雲突く山脈(やまなみ)いや高く

 老樹の深き善光寺

 石和の湯けむり指呼の間

 

16 

 終点甲府は中央線

 乗り継ぐ人も数多く

 躑躅ヶ崎の夢のあと

 武田の遺跡守れかし

 

17

 時は人を替えれども

 山梨 静岡両県の

 明るく平和な郷づくり

 身延線と共に栄えあれ

 身延線と共に栄えあれ

 

事務室の扉に掲示してある「身延線沿線が楽しいポスター」には「じょうえい」駅に、杉浦醫院が入っています。

 

とかく縄張り意識が強いのが甲州人の特性と指摘され「山国根性」とも揶揄されますが、子どもの頃私も身延線が県都・甲府行きが「下り」で、富士行きが「上り」が解せませんでした。反面、中央線の新宿行きが「上り」は素直に納得していた訳ですから、矢張り立派な「山国根性」少年だったのでしょう。

 

 この折角の「身延線唱歌」も山梨県内ではあまり知られていないように思います。

先ずは身延線の電車内で控えめに流すことで利用者から自然に広まるように思いますが、御多分に漏れず身延線乗客もイヤホーンを耳に自分の世界に浸っている方が多いので無理かなあ~

2019年1月7日月曜日

杉浦醫院四方山話―566『謹賀新年』

 あけましておめでとうございます。

今年も玄関受付で来館者のお迎えは、橋戸夫人制作の干支人形です。


 昭和町風土伝承館杉浦醫院は2014年4月1日に本オープンしましたから、今年は5年目の節目の年を迎えます。おかげ様で県内外から多くの方々にご来館いただき、国内唯一の日本住血吸虫(地方病)終息の歴史を伝える資料館として認知され、様々なメディアを通して周知もされてきましたことにこの場を借りて御礼申し上げます。

開館5周年を機に一層充実した資料館となるよう心新たに取り組んで参りますので、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 さて、本年初の見学者は期せずして前話重なるお二人で、一段と冷え込みも増した昨日、開館早々「見学もですが話を聞きたくて来ました」と来館目的が話のようでしたから、応接室のストーブをつけお二人のお話を伺いました。

話を要約すると・・・山梨県内で生まれ育った来館者も子どもの時、地方病に罹り「注射を40本して治った」そうですが、その弟さんは鎌倉市で生活して40年近く経つが、ここにきて体調を崩し、入院したところ大腸から寄生虫が検出されたそうで、山梨県出身ということで、その寄生虫が日本住血吸虫ではないか?と云われたようだけど、鎌倉の病院ではハッキリしないので聞きに来た・・・と云う事でした。


 山梨県内でも「地方病」について、どこの病院に行って相談すればよいのか分からない状況は確かにありますから、来館者の母娘が当館の開館を待って相談に観えた心中は察しが付きましたが、名称こそ「杉浦醫院」ですが資料館ですから臨床医のようなアドバイスを期待されても無理であることを伝え、その上で「先ず100パーセント日本住血吸虫では無いと思います」と終息の歴史の中で明らかになっている諸例を根拠に話しました。


 折しも今月末の31日(木)に北里大学寄生虫研究室の皆さんが見学にみえるのに合わせゲスト講師に加茂悦爾先生をお願いしてあるので、その辺の具体的な対処など加茂先生に相談するのがベストであることを伝え納得していただきました。


 あらためて前話での倉井先生の同僚でもある現在の医師へのご指摘

『感染症が制圧されることはすばらしいことであるが、診断を想起できる医師が減ることは事実である。目の前に住血吸虫症の患者が来たら、あなたは診断することはできるだろうか?日本住血吸虫症という疾患に苦しんだ患者が数多くいたという事実、戦いの歴史を私たちは忘れてはならない』

の重みは、現実として進行形であることを本年初来館者が教示してくれた年の初めでした。