2019年5月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―581『資料・情報御礼ー2 笛吹市K様』

 当館の来館者に共通する特徴は、俗に云う「物見遊山」タイプの方は皆無に等しいことでしょうか。

 まあ、漫画家で江戸文化の達人・杉浦日向子氏に言わせれば、江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っていて、生まれてきたのはこの世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えていたそうです。その象徴が一生上がれない場合もある「江戸すごろく」で、ステージを上げて行って「あがる」ことより、右往左往することに意味もあり、右往左往しながらいろいろな見聞を広めれば、もうそれで人生のもとは取れるんだという共通認識が現代社会との違いだと「物見遊山」を奨励しています。そんな意味からすると「物見遊山」タイプは皆無とはいい難い気もしますが・・・要は、連れだって右往左往しながら杉浦醫院に来るのではなく、目的をもった方々が一人で来館するケースが多いと云うことです。


 連休中、笛吹市から来館のK氏は、ガイド案内に従い館内をじっくり見学し「あらためて地方病の歴史を知り、後世に繋いでいくことの大切さを感じました」と感想を寄せてくださいました。

 

その折、応接室に掲示してある「昭和天皇と三郎先生」のスナップ写真の撮影場所が特定できていないことを知ったK氏は「背景に写っている山なみと鉄塔」をカギに特定可能ではと考えたようで、翌日には思い当たる3地点に出向いて実際に写真撮影した資料を郵送くださいました。

このコピー写真ではハッキリしませんが、三郎先生の右肩上に鉄塔があり、その背後に茅ガ岳連山が写っています。
以前、来館された方が「これは旧若草町南湖の辺だね」と自信を持って断定してくれましたから、
ミヤイリガイの生息地に案内後、本部の有った旧竜王町万才に戻ったのかと思っていましたが・・・

「背景の山は、左に裾野を引く茅ガ岳とその右に観音峠、そして曲岳へと続く山並みです。山並みは見る角度によって少しずつ変わりますので、本日(4月29日)朝にイオンタウン、開国橋、そして白根インターの3地点から撮影して見比べてみました」と3地点からの解説入りの山並み写真を提示して、もう一つのポイント鉄塔は「送電線であり、これは地上権の関係もあり戦前から今日まで同じ場所である可能性が大きい」ことも教えてくださいました。


 その上で、K氏は「この写真が撮影されたのは、おそらく杉浦醫院の近くの送電線の南側、地名で云えば旧竜王町玉川から昭和町押越にかけての範囲が有力ではないかと考えます」と結論付けていただきました。


 このように来館者が写真の撮影場所を特定する為にご尽力頂いた以上、遅まきながら他のスナップ写真も参考に何とか特定しなければ申し訳がたちません。

 テントを張って顕微鏡なども用意して昭和天皇を迎えた本拠地は、旧竜王町万才であることは間違いありませんが、掲示してある写真の撮影場所は、そこから移動しての可能性もあったことから特定できていませんでした。

数あるスナップ写真を一枚一枚確認したところ二人が立っていた左端にテントを固定するロープが写り込んでいる写真がありましたから、昭和天皇と三郎先生が採集したミヤイリガイをテント内の顕微鏡で直ぐ観られるようミヤイリガイ生息地の土水路近くにテントを張り、そこを本部とした巡行だったことが分かりました。

 

 K氏に特定していただいた「送電線の南側で北の背景の山は茅ガ岳・・・山並みです」の旧竜王町玉川は、旧竜王町万才の隣ですからぴったり一致します。K様のご尽力で、また一つ展示物の解明も進みましたこと、この場で恐縮ですが厚く御礼申し上げます。

2019年5月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―580『資料・情報御礼ー1 東広島市K様』

 前話の依田賢太郎氏からの寄贈本に続き、この連休中も貴重な資料や正確な情報を幾つかお寄せいただきましたので、お礼方々、ご紹介させていただきます。


 4月28日に広島県からお一人で来館くださったK氏は、東広島市の公務員の方ですが、当館ホームページ上の「地方病について」の文章の中に誤記があることを来館時にもご教示いただき「正確な資料を後日送ります」と帰られました。


ホームページ上では、「地方病」について次のように記載しておりました。

≪地方病とは日本住血吸虫の寄生によってヒトを含む哺乳類に発症する寄生虫病であり、山梨県甲府盆地底部、利根川下流域の茨城県、沼田川流域の広島県深安郡片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部など、ごく限られた地域にのみ存在した風土病である≫


 K氏は、上記赤文字の部分が誤記であると国土地理院地図と共に次のように指摘してくださいました。

「芦田川と沼田川の位置関係について別紙のとおり地図をお送りします。カラー画像をFAXしているので写りが悪く見にくいと思いますが、片山病旧有病地を通って福山市に流れる川は「芦田川」です。沼田川(ぬたがわ)は三原市に流れていきます」

「片山病(地方病)に関連する河川は芦田川とその支流の加茂川と高屋川ですが、片山地区でちょうど合流し、芦田川にはさらに下流で合流します」と。

 

 ホームページ立ち上げ時にトップページに幾つかの項目を載せる為文章を書きましたが、正直なところ「地方病について」の記載は、何らかの資料を転載したようです。それは、私自身が「芦田川」「沼田川」という固有名詞に全く記憶がないことでもバレバレです。

あらためてグーグルマップで「旧・片山地区=現・福山市神辺町」を確認しましたが、K氏のご教示どおり芦田川と沼田川は同じ県内を流れる川とはいえ旧・片山地区をかすりもしていない沼田川は明らかな間違いで、未確認のまま転載していたことを反省しましたし、何より早速正確な記載に訂正できることを感謝申し上げます。


 K氏から旧・片山地区は福塩線の神辺駅から西方1Kmほどの地区であることも教えていただきましたから、ストリートビューでその一帯を観ると最初に出てきた画像で思わず「えー」と驚きました。それは、山を背景に広がる平地にはコンクリート水路が整備された田圃が広がり、民家の造りや大きさも何だか見慣れた昭和町や韮崎市など山梨の田園風景そのままだったからです。


 若いK氏が、片山病(日本住血吸虫病)を知ったきっかけを「片山病対策に当たった一部事務組合⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆の名称に驚いたところからですが、これには昭和天皇の戦前戦後2回の行幸がきっかけであると日本獣医師会雑誌の記事が伝えています」と記し、昭和55年に解散した⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆についての詳細も広島県ホームページで確認できることまで教えてくださいました。


 初耳の「御下問奉答片山病撲滅組合」は、山梨県にあった「山梨地方病僕滅協力会」と同じ目的の組織であることは予測がつきますが、「御下問奉答」の接頭語はK氏も驚いたように「なぜ?」と調べたくなります。


 これについて「日本獣医師会」サイトの論文に以下の説明がありました。

 ≪ー前略ー 戦後,全国を巡幸された天皇は1947年12月(昭和22年),備後路の旅で神辺小学校を訪れた.このとき,案内役の楠瀬県知事に「その後,片山病はどうなっていますか」と尋ねられて関係者を感激させた.このことから福山市と神辺町では,市議会と町議会の中に御下問奉答特別対策委員会を設置し,県でも翌年「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,一層の防除対策に取り組むこととなった.-後略-≫と。

 

 天皇の発した一言「その後,片山病はどうなっていますか」が「広島県地方病撲滅組合」の名称を「御下問奉答片山病撲滅組合」に改めさせたと云うことです。戦前のことなのかと思えば昭和23年の戦後ですから、約70年を経た令和の代替わりでも異様とも思える皇室報道が続いたこの連休中を思い返すと「さもありなん」とか・・・複雑な気持ちになります。 

2019年5月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―579『依田賢太郎氏からの寄贈本』

 4月に当ブログで2話に渡って依田賢太郎氏の著作「いきものをとむらう歴史」とその中で取り上げられている杉浦健造と「犬塚」について紹介してきましたが、そんな縁で、この度依田氏から当館に2007年刊の「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」と2018年刊の「いきものをとむらう歴史」の2冊の著書をご寄贈いただきました。


 2冊とも社会評論社から刊行された本ですが、依田氏は2005年には子どもを対象にした「東海道どうぶつ物語」を東海教育研究所から刊行していますので一貫してどうぶつと日本人の関係をテーマに調査研究をしてきたことになります。

 

 精読させていただくと単に「どうぶつのとむらい」の足跡をたどった本ではなく、依田氏の人生観、哲学が依田氏をして足跡をたどらせたことが分かります。

それは、執筆にあたって参考にした文献一覧にも表出されています。

柳田国男や谷川健一、川田順造、鯖田豊之と云った多くの民俗学者の著書、山折哲雄や梅原猛から末木文美士までの宗教学者の著書をはじめ歴史学者や哲学者の著作や県史や各教育委員会発行のガイドブックまであらゆるジャンルの資料を紐解いて、依田氏が集大成した哲学がどうぶつを通して語られていることを参考文献一覧が物語っています。

 

 また、「私はこれまで、病気や事故で失われた人間の体の働きを助けるための人工臓器や、痛みを取り除くための装置などの研究をしてきました」と云う工学博士の依田氏ですから「ネズミなどの小動物の血液や細胞を使った最小限の実験が欠かせなかった」と云う現実に直面して「どうぶつのとむらい」と日本人の歴史に向き合うようになったようです。

これは、自分の仕事に誠実に関わると観えてくる世界も広がり、解明すべき課題も次々に押し寄せ、結果として上記のような広いジャンルの資料も読み込む必要に迫られると云う研究者の宿命に忠実だった依田氏の姿勢と視点の確かさに拠るものでしょう。


 依田氏は「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」のエピローグで、動物塚は「いのちの物語」であるとして、最後に「贅沢で、無駄の多い、豪奢な生活を追い求めるのではなく、簡素で、無駄のない、足ることを知る生活が求められています。動物や自然はそのことを教えてくれます。そして、簡素をとるのは勝れて積極的な選択です」と結んでいます。


 多くの「いのち」に向き合ってきた杉浦醫院に依田氏寄贈の「いのちの物語」の著作本が新たな資料として展示出来ることは、健造先生が「犬塚」建立に流した汗が約百年後に同じ高校の同窓生によって結実した不思議な縁も感じます。小学生向けの「東海道どうぶつ物語」も購入して揃えておきますので、杉浦醫院で親子ご一緒に「いのち」についても学んでみてはいかがでしょう。 

2019年4月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―578『依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-2』

 依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」の中に地方病に関連する「犬塚」についての記載があり、576話で内容を紹介すると共に写真の祠について感想を書きました。その後、雨宮さんの計らいで、依田先生とも直接電話でお話しできましたので、補足しておきたいと思います。

 

 依田先生は犬塚取材の為、お住いの滋賀県から2017年(平成29年)10月25日に身延線で国母駅まで来て、タクシーで犬塚の有る正覚寺にみえたそうです。雨の降る日で、タクシーを待たせたまま当時の住職に犬塚について尋ねたそうで、訪問日や当日の天気まで正確に記録してあるようですから、一冊の本にまとめる為の取材帳には多くのメモが残されていることと思います。

 功刀玄雄住職から「私が入った時は犬塚は既に無かったけど、先代の話だとこれが犬塚にあった祠だということです」と説明を受けたので、写真を撮って本にも掲載したと教えてくださいました。

「祠の後や横も観たのですが、年月日や建立者名は一切なかったけど苔むしていて古いのでそうかなと思った位で、あの小祠が本当に犬塚のモノかどうかは分かりません」と云うことですので、この機会にもう一度「犬塚」について、関係資料を確かめてみました。


 犬塚についての一番古い資料は、昭和3年発行の「中巨摩郡誌」にあります。

「第9章 医事・衛生誌」に地方病の項目があり「大正14年4月2日山梨地方病予防撲滅期成組合創設せられ、10か年計画を以て本病中間宿主たる宮入貝石灰殺貝法を実施し本病の撲滅を期せり。因に本組合は創設の日に於いて本郡杉浦健造・桜林保格・三神三朗の諸氏を功労者として表彰せり。」に続き「附犬塚 本郡西条村正覚寺境内にあり、本病研究開始以来杉浦醫師其の他学者の研究資料となりし犬・猫・家兎・モルモット等数百頭の為、大正12年5月17日川村・風間・杉浦三氏の治療研究報告を機とし供養の為建立せらる。」とあります。

 このように郡誌には「大正12年5月17日」とありますから、祠や石塔にはこの建立年月日は刻字されていたように思います。


 昭和9年発刊の「杉浦健造先生頌徳誌」の中にも次のような記述があります。

≪解剖等の為犠牲に供したる禽獣は実に無数の多きにして又病虫駆除の一方策として多数のアヒルを飼養し毎日河川に放ち之を食せしめ蛍の幼虫を繁殖して病虫との関係を調査する等研究努力の程想像に余りあり。先生、生前中ある時曰く「我れ地方病研究の為犠牲に供したる禽獣は其の数を知らず 思えば不憫の至りなり 之れが埋歿地に供養塔を建設して以て慰さむとす≫-後略ー

 上記の記述もあってか、純子さんも「犬塚は新館(病院棟)の看護婦さんの部屋の丁度向かいで、小高くなった上に石の碑がありました」と話してくれましたから、祠ではなく石塔だった可能性もあります。

 また「之れが埋歿地に供養塔を建設して」の健造先生の言は、亡くなったアヒルや犬などは正覚寺の庭に埋葬していたことから、その地に犬塚を建立して供養したということになり、多くの禽獣の埋歿地は「小高く」なるのが自然でしょう。

 

 昭和52年山梨地方病撲滅協力会発行の「地方病とのたたかい」誌には、第二章「地方病撲滅事業の沿革」の中で、大正12年の項目に「犬塚の建立」があります。

≪中巨摩郡誌には、本病研究開始以来、杉浦健造医師その他の学者の研究材料となった犬、猫・・・(中巨摩郡誌と同文)≫があり、最後に≪正覚寺境内に「犬塚」を建立したと記されているが、今はその影はない≫と記載されています。

 

 このように観てくると、犬塚は、昭和40年代に境内の木を切って新たに墓地を造成した正覚寺の歴史変遷の中で、整理され「今はその影はない」ようになっているのでしょう。

庭を墓地にした際まとめられた石塔や祠が墓地入り口付近に数塔ありますから、一本一本確認すれば「大正12年5月17日」とある石塔に行きつくかも・・・と、調べてみましたが、確定できる石塔・祠はありませんでした。

2019年4月11日木曜日

 杉浦醫院四方山話―577『上杉久義村長と村営プール』

 過日、甲府市から故・上杉久義村長の次女の方がご子息と一緒に来館くださいました。

「純子さんの妹の三和子さんと甲府高女に通ったので、ここにもよく遊びに来ました」

「一緒に帰るとお手伝いさんが何人もいて、しまいのお嬢様お帰りなさいと出迎えてくれて、百姓家と違うなあと思いましたよ」

「父が政治好きで県会議員にも何度も立候補したので、杉浦先生も懇意にしてくれて、いろいろ教えてくれたようです」

「そんなこともあって、父は村の子どもが地方病にならないようにプールを造ることが夢で、その為に村長になったようです。プールが完成した時は、俺は夢をかなえたと本当にうれしそうでした」等々、1時間以上元気にお話しくださいました。

 

 歴代昭和村長の中でも上杉久義氏は、何かと話題になることも多く、インパクトの強い村長だったことは長いあごひげと共に語り継がれています。

上杉氏が村長になろうとした動機が「地方病から子どもを守るために村営プールを造ること」にあったという娘さんの言葉を聞いて「政治家の信念とか公約が生きていた時代の話だなー」と思うと同時にこの村営プールのプール開きで上杉村長自らが泳ぎ初めをした古い映像が蘇りました。

 

 山梨県では発育途上の児童生徒が地方病に感染しないよう、県や医師会が学校を通して河川で泳いだり遊ぶことを大正9年以降ずっと禁止していました。

水道や風呂が当たり前になり、エアコンも普及した現代ですが、明治、大正、昭和と甲府盆の夏の酷暑を凌ぐには近くの河川で行水が当たり前でした。教師や親の目を盗んでは川に入って遊びたいのが子どもですから完全に制限することは難しく、結果として肌の柔らかい子どもが地方病に感染する確率は高かったのも特徴です。


 この河川での行水禁止について、昭和村史には≪従って水泳ぎの技にも疎く、海国日本生まれながら水に入れば実に脆いものであり、かつて中支策戦に応召され、出征した皇国勇士が敢え無くもクリークの突破が出来ず無念の涙を呑んで護国の鬼と化した例も数えきれない。≫と、泳げないことが軍事力にも波及するとして、河川で泳げない以上≪一刻も早くプールを建設し、伸びゆく青少年達の自然の要求を充たす必要がある≫と記されています。

 

 このような時代背景もあって、上杉氏は村営プール建設を政治信条として村長になったのでしょう。現代の「待機児童解消の保育園建設」と重なりますから、それぞれの時代的課題に対処するのが政治であり行政だと云うことになります。

 有病地の小中学校へのプール設置が県の補助事業として優先的に進められたこともあり、地方病感染防止の徹底が山梨県下の学校プール設置率をいち早く日本一にしたことにも繋がりました。

昭和32年8月6日 押原プール竣工式
上杉村長自ら泳ぎ初め
-「昭和村の記録」より-
 

2019年4月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―576『ー依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-』

 資料館や博物館には、心ある方々から「こんなものが見つかったけど」とか「この本ご存知ですか」と云った情報が時折寄せられます。
今回、昭和町河東中島にお住いの雨宮昌男さんから「一高の同級生だった依田賢太郎さんがこの本を贈ってくれたので読んだら杉浦健造と犬塚のことも書いてあったんでお持ちしました」と社会評論社刊「いきものをとむらう歴史」(2018年7月20日発行)を持参くださいました。



 京都大学の工学博士号を持ちスタンフォード大学や東海大学で教授をつとめた著者・依田賢太郎氏が「動物のお墓」に興味をもって調査研究を始めたのは「動物実験を行っている日本の大学や研究機関は、なぜ欧米にはない実験動物慰霊碑を建立するのだろうか?」という素朴な疑問からだったそうです。
2007年には同じ社会評論社から「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」を出していますから、2007年以降の調査結果がこの本にまとめられ、前著と合わせると総数は五百数十基に及びます。
しかし、依田氏によれば「総数は何千、あるいは一万基になるかもしれない」といいますから、日本人が動物を供養してきた歴史・文化は世界に類例がないものであることが分かります。


 さて、P59~P60には、「犬塚(昭和町西条新田、正覚寺)」名で以下の紹介があります。

「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠は日本住血吸虫症の患者の治療とこの病気の撲滅に私財を投じて心血を注ぎ、医師としての生涯を捧げた杉浦健造が発起人となり中巨摩郡により大正12年(1923年)に建立された。
           ーー日本住血吸虫症の説明文は略ーー
杉浦健造の他その娘婿三郎、大鎌田村の三神三朗、石和村の吉岡順作など山梨県の郷土医が地方病の撲滅に多大な貢献をした。正覚寺に隣接する杉浦醫院は、現在、風土伝承館杉浦醫院として一般公開されている。」


と、当館についても紹介いただいていますので、依田氏が犬塚の取材にみえたのはこの10年以内の事と思います。この文と一緒に犬塚の「苔むした小祠」の写真が載っていますが、この小祠が犬塚の祠だったのかどうかは定まっていません。
 依田氏の記述通り「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠」は現存していますが、8年前正覚寺住職に犬塚について直接聞きましたが「私が入った時から犬塚はありませんでした」と云うことで、「この祠が塚にあったもののようです」と云う紹介もありませんでした。
 私もそうですが、多分住職も「犬塚」と聞けば、土盛りされた小高い墳墓的なものを連想されていたのではないかと思いますが、その塚の上に祠があっても不思議ではありませんから引き続きこの祠について確かめていく必要があります。




昭和町内には、この犬塚以外にも鳥獣供養碑もありますから、この本をきっかけに町内の「いきものをとむらう」歴史についても観ていきたいと思います。

2019年3月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―575『角野幹男前町長追悼-2』

 角野前町長と当館誕生の経緯を前話で振り返りましたが、その中の「杉浦家と町の関係」について、役場でも継承されていませんからきちんとお伝えしておく必要があると考えました。

正確には「杉浦家と町行政(町役場)の関係」と云うのが実態であったように思いますが、純子さんの証言も含め記しておきます。

 

 それは、村長在任中亡くなった杉浦健造先生の功績を讃えるべく当時の押原学校に昭和9年10月1日に建立さた「頌徳碑」の戦後の扱いの問題でした。

 太平洋戦争末期、資源に乏しい日本ではさまざまな物資が不足し、戦争の長期化と共に国外からの輸入に頼れなくなると国内から集めるしかなくなりました。そこで目をつけたのが、個人や地域にある資源でした。特に金属は兵器に必要ですから重要視され、1938(昭和13)年の「国家総動員法」で家庭や公共施設の金属を対象に政府は金属供出を呼びかけました。それを受けて、隣組や国防婦人会が組織的に地域のマンホールの蓋や鉄柵などの供出を始め、押原学校の「頌徳碑」も健造先生の胸像部分がブロンズ像だったことから昭和18年2月28日に供出されました。昭和町誌には「軍艦か戦車の原料鉄に改鋳されるため、戦場に召された」とあり、出兵兵士と同様に頭には日の丸の鉢巻きで「杉浦健造」と記名されたタスキをかけて、胸像は送り出されたそうです。

 

 敗戦後、進駐したGHQは日本の民主化を図るため数々の改革を命じましたが、昭和20年12月の御真影奉還令を筆頭に公教育での個人崇拝につながるものも禁じました。胸像が供出され石の台座だけが残った頌徳碑もその流れの中で、学校から撤去されることになったのでしょう「戦後、町が台座をポンと返しに来ました」と純子さんも話してくれましたが、町誌にも何年何月に台座を返却したかの記述はありません。

「父と母は何の連絡もなく台座を置いて行ったのに怒りましてね。こういう非常識なことをする町とは今後一切付き合わない。校医も辞めると言っていたのを覚えています」とも話してくれました。


 以上が「杉浦家と町の関係」の概要ですが、この後、町も杉浦家との修復を図るべく昭和40年9月1日に「形象移転について誌す」を当時の野呂瀬秀夫村長名で出しています。

そこには台座を杉浦家に移転する経緯について「このたび押原小学校校舎の全面改築にあたり、他に移転の止むなきにいたり、ことの次第を当主杉浦三郎先生ご夫妻にご相談申し上げ、幸いご承諾を得たので村議会の議を経て、杉浦家にご移転申し上げることとなる。ここに新校舎第一期工事着工の日にあたり、形象移転の事情を記し後世に伝えんとするものである」とあり、台座の移転は、新校舎建設の物理的原因によるものとされています。


 しかし、台座が「何の相談もなくポンと返された」のは、昭和40年ではなく戦後間もなくであったと云う純子さんの記憶とは、時期も内容も大きな隔たりがありますから、三郎先生の校医辞退等の申し出を受けて、行政は新校舎建設を機にこのような形で関係修復を図ったとみるのが自然でしょう。

このようないきさつを覚えていた町幹部は、前話のように「杉浦さんは町へは絶対売らんよ」と云う忠告につながった訳で、台座返還の経緯を巡って、杉浦家のシコリはかなり根深いものがあったことは確かです。


 そういう過去も含めて、角野前町長の施策が杉浦家と町の関係の全面修復に寄与したことは「町がこんなに良くしてくれて、父や祖父もさぞ喜んでいることと思います」と純子さんが折に触れて発していた言葉が物語っています。

2019年3月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―574『角野幹男前町長追悼-1』

 3月2日(土)未明に角野幹男前町長が肝臓がんで76歳の生涯を閉じたとの連絡がありました。当館は角野町政で誕生したと云っても過言ではありませんから、追悼の意を込めて、角野氏と当館誕生の経緯を記しておきたいと思います。

 

 角野氏は、若かりし頃青年団でも活躍し、昭和町の消防団長も務め、その頃はウイスキーをメインに豪快に飲んだそうですが、町長在任中はアルコールは一切飲みませんでしたから、それだけでも私には出来ないことで、覚悟無くして就けない職であることを身をもって示していたように思います。

 後に町議にもなった山本哲さんが立ち上げた昭和町カルチャーデザイン倶楽部と云う自主サークルではよく飲み会もしましたが、角野氏の下で消防団活動をしてきた望月さんは「角野団長が選挙に立つと俺は山本さんの応援はできない。団長にはホント世話になったから」とよく言っていたのを思い出します。「そういう消防つながりが田吾作文化の元で俺は大嫌いだ」とすかさず反論した塩島さんも元気でした。

 

 

 望月さんの予想通り角野氏は1999年(平成11年)から町議となり2期務めましたが、町議時代は反町長派の先鋒と云ったスタンスで議会でも質問していたのを覚えています。

 2007年(平成19年)には、その現職町長の後継候補に挑む形で一騎撃ちの町長選に立候補し「モノづくりから人づくりへ」をキャッチフレーズに当時流行ったマニフェストを提示しての選挙戦を展開し当選しました。そのマニフェストの中に「杉浦医院を町の郷土資料館に」もあったことから、角野町長になって初めて杉浦醫院の資料館化についての話が進み出しました。


 それまでの歴代町長からは「昭和町に無いのは後は郷土資料館だけだから・・・」と資料館建設の用意はあるので、展示物や内容を詰めるよう再三云われてきました。それもあって、町民の皆様に民具や農具の寄贈を呼びかけ、一定量の寄贈品も集まりましたが、立派な資料館を建てても展示品があまりに貧弱な感は否めませんでした。


 そこで、町の文化財審議委員と社会教育委員の各委員に収集した農具や民具を観ていただき、昭和町の郷土資料館についての協議を重ねました。その結果「昭和町の歴史は水の歴史だから展示内容は水の歴史が伝わる資料館」にという結論でまとまりました。


 国の天然記念物だった「源氏ホタル」も信玄堤の一環としての「かすみ堤」も甲府市南部の水道水「昭和水源」も「水田風景」も「ぶっこみ井戸」もそして「地方病」も全て「水」無くして生まれなかった風土であることを新しい住民も多い昭和町では、伝えていくべき価値と内容があることをまとめ、新たに資料館を建設するのではなく「地方病の神様」と仰がれた杉浦父子の「地方病の病院」と呼ばれた杉浦醫院が現存しているので、これを活用することが出来れば一番いいのではないかと具体化しました。


 がしかし「あんな古い家を買ってどうするでぇ」のトップの一言を補完する様に町幹部から「杉浦さんは絶対町には売らんよ、杉浦家と町の関係をあんたは知らんから・・」と忠告されました。「確かに古い建物ですが文化財としての価値があり、新しい町だからこそ残すべきでは」とか「杉浦家と町の関係についても何にも知らないけど人は変わるし、話してみなければ分からないのでは」と反論しましたが、先に進むことはありませんでした。

 

 そんな経緯で立ち消えになりかけていた構想が、角野氏のマニフェストで息を吹き返したのでした。

当時の杉浦醫院には、三郎氏の長女純子さんがお一人で家屋敷を守っていましたが、既に80歳を過ぎ、庭木の手入れなども行き届かず荒れも目立ち始めていました。

 

 角野町長就任後、その純子さんを相手に町への移管、買い取り交渉を進めるよう言われた時は、構想が一気に具現化できる可能性に胸も踊り訪問を重ねました。

「杉浦健造・三郎父子を顕彰し、地方病終息の歴史を昭和から発信していくのには、ここが必要で最適です。この病院棟と母屋は、町に移管されたら必ず国に申請して、国の登録有形文化財に指定されるよう図りますから、永久に残ります」の直球一本勝負でしたが、徐々に純子さんの硬さも和らいでいくのが励みにもなりました。


 約1年弱の時を経て「町にお譲りした後も生まれ育ったこの家で元気なうちは生活させてくれるなら・・・」と純子さんから具体的な希望である唯一の条件が提示されました。「それは私の一存では・・」と持ち帰り、角野町長の決裁を仰ぎ、町長同伴で返答に伺いました。角野町長は「町が購入してからの整備工事は順番にやっていくので母屋はまだ何年も先になりますし、町に移管された後も純子さんが居てくれた方が杉浦先生や病院の事も教えてもらえるので、ご希望通りこちらで生活を続けてください」と純子さんの条件を受け入れての購入意志を伝えてくれました。

 

 これが決め手となり一気に杉浦醫院購入へと進みましたから、純子さんの希望尊重と云う英断は、角野町長がマニフェストに込めた思いとそれを誠実に実行していこうという政治家の姿勢を表象していました。その後も三郎先生がよく家に往診して父を診てくれた思い出などざっくばらんな世間話が純子さんと続き、角野氏の庶民的で話好きな一面も同席して知ることが出来ました。 ー次話に続くー

2019年2月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―573『もうすぐ春ですねぇ』

 中原よ。地球は冬で寒くて暗い。 ぢゃ。さやうなら。  ー 草野心平ー

詩人の中原中也は、昭和12年10月23日に30歳で死去しましたが、友人の草野心平が詠んだ亡友中原中也への追悼詩です。

中原と云えば、


 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 

など、豊かな抒情詩が多い訳ですが、季節的には矢張り「冬の詩人」と云ったイメージでしょうか。

そんな中原の死を草野心平は「地球は冬で寒くて暗い」と草野の寂しさを暗喩して「 ぢゃ さやうなら」と結びましたが、饒舌を排した稀に見る弔辞で忘れられません。

杉浦醫院母屋の座敷は茶室としても使われていました。茶室を囲むように
侘助(椿)が何本も植えられています。
 



 杉浦醫院がプレ・オープンした九年前は、純子さんもお元気で見学会の折には母屋の玄関先で見学者の方々に杉浦家にまつわる話などを歯切れよく話してくださいました。

そういう時は必ず「これを着ると少しはシャッキとしますから」と着物に着替えての対応でした。

 

 参加者の中には俳句の達人もいて「侘助や八十路の帯のやはらかく」と、やわらかなピンクの花をつけた椿と着物姿の純子さんを重ねた句を残してくれました。純子さんにこの句を見せると「盲千人目明き千人と言いますけどあの侘助を詠ってくれる方がいたなんて嬉しいわ」ととても喜んだのを思い出します。


 そんな純子さんもこの3月で93歳になります。「寒くて暗い」日本の冬を今年初めて温かな病院で過ごしました。インフルエンザの流行で病院は見舞いも制限されていますが、純子さんは至って元気に過ごしています。

 杉浦醫院庭園の草木が一斉に花をつけ、池の水がぬるむ春はもうすぐそこです。

歌の好きな純子さんにキャンディーズの「もうすぐ春ですねぇの春一番」をお届けしたい気分ですが、リンク可能な祖父健造先生の功績を称える「頌徳歌」を贈ります。 


2019年2月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―572『武田騎馬隊と地方病』-2

  山梨県に限らず、早くから馬の産地とされてきた長野県や南部駒の岩手県南部地方、熊本県など伝統的な馬産地域には共通して、馬刺しに代表される馬肉を食する文化があります。

馬肉は桜肉とも呼ばれ山梨県内の食堂には「桜丼」や「桜鍋」が馬刺しと共に用意され、それをウリにもしていますから、山梨は矢張り甲斐の黒駒に代表される馬の産地であったことは確かなのでしょう。

先日入った食堂には「馬鹿丼(うまかどん)」と云う丼もありましたから、山里では鹿も貴重なタンパク源にしていたのでしょう。


 しかし、同じ馬の産地だったとされる隣の長野県には、日本住血吸虫症の罹患者は全くいませんし、武田家臣の南部氏が甲斐の黒駒と共に移住した(と云う説もある)岩手県にも患者はいません。熊本県も同様ですから、「日本住血吸虫症の馬移動による伝播説」には無理があるようにも思います。


 ここで、浅学の推測も勝負あったかに思いますが、馬の移動により中国などから持ち込まれた日本住血吸虫症も感染が広がるためには、中間宿主ミヤイリガイの存在が不可欠になりますから、古くから馬肉文化の有った上記の地域には、ミヤイリガイが棲息していなかった?…と云う仮説も可能なように思います。


  有病4県の山梨・佐賀・福岡・広島についてみると、佐賀県には、日本に初めて馬が渡って来たという伝承の島「 馬渡島(まだらしま)」がありますし、対馬海峡も馬と無縁では無かった名前でしょう。

  福岡県福岡市には、馬出(まいだし)1丁目から6丁目の地番が現在も残り、宮入先生が奉職した九州帝国大学(現・九州大学)もこの馬出町にあります。また「福岡の馬刺し」は、熊本に勝るとも劣らない九州の名物ですから、馬とは古くから縁の有ったことを物語っています。

  広島県にも馬洗川(ばせんがわ)と云う川や馬木町(うまきちょう)と云う地名があるように「馬」の歴史が残り、県指定の文化財に鎌倉時代の作とされる「木造飾馬」もあります。


木造飾馬
広島県指定文化財「木造飾馬」
 

 このように観てくると、日本住血吸虫症の感染原は、和種馬の元になったと云うモンゴル馬が中国を経由して入ってきて、ミヤイリガイが棲息していた地域には感染が広がり、ミヤイリガイが居なかった地域では有病馬の死で終わったと推論できます。

ですから、ミヤイリガイがなぜ日本の限られた地域だけにしか棲息できなかったのか?が解明されなければなりませんが、これまでの地形、湿地、土壌の共通性からの説明では十分とはいえませんので、浅学なりにその辺も整理していきたいと思います。 

2019年2月8日金曜日

杉浦醫院四方山話―571『武田騎馬隊と地方病』-1

 日本住血吸虫症(地方病)の謎の一つに「なぜ山梨県の甲府盆地に蔓延したのか?」があり、中間宿主ミヤイリガイの棲息に適した地形風土からと言う説明が、推論の主流であったように思いますが「なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのか」という疑問は解明されていません。

もちろんこれまでも地理学や生物学、地質学、遺伝学等々あらゆる観点から研究は行われてきましたが、依然として大きな謎だというのが実際の所です。

 

 同じように「日本住血吸虫の卵から孵化したミラシジウムは、なぜミヤイリガイだけに寄生して同じ巻貝で同じような所に生息していたカワニナには寄生しないのか?」も解明されていません。要は、まだまだ解らないことは沢山あるということですから、何でも解った風な顔をしないで整理しながら謙虚に学び、考える姿勢こそが大切なのでしょう。

 

 前話のように辻教授が「フィラリアなど他の感染症の伝播も人間の移動が主原因だから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云う指摘を受け、あらためて「日本住血吸虫症の伝播」について考えてみました。

 

 辻教授の示唆を聴いて私には「人間の移動」と「中国から」がキーワードのように残りました。

それは、甲府盆地の地方病は、甲陽軍鑑によれば武田家臣の小幡豊後守昌盛が地方病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来て、やせ細った昌盛の形相を見て勝頼も涙したと云う記述があることから既に戦国時代には患者が居たとされてきたこと。

もう一つは、日本住血吸虫の虫卵は、中国湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)古墳で発掘された紀元前の女性の遺体からも発見され、中国では古代から存在している病気で、決してせまい地域の風土病ではないと云う定説が結びついたからでした。

 

 武田家臣の地方病説から、天下最強と云われた(?)武田騎馬隊が連想され、地方病は人間同様哺乳類も感染しましたから、モンゴルから中国経由で甲府盆地に入った「馬の移動」により地方病は中国から甲府盆地に持ち込まれたのではないか?と云う仮説を思いつきました。

 

がしかし、悲しいかな浅学の思いつきは???だらけのことは自明です。だいたい「天下最強の武田騎馬隊」が本当に存在したのかどうかも怪しいのは、当時日本には入っていなかった洋馬のサラブレットのような馬上にまたがる信玄像が一人歩きしていることにも象徴されています。

≪山梨県(甲斐国)では、4世紀後半代の馬歯が出土していますから、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている≫との学説もありますが、武田氏館跡から出土した馬の全身骨格からは、体高は115.8cmから125.8cmと推定されていますので、武田騎馬隊が存在したと云う仮定に立っても、その馬は「甲斐駒」とも「甲斐の黒駒」とも呼ばれた和馬で、いわゆるポニー種だろうと云うのが一般的です。

甲斐駒・甲斐の黒駒と呼ばれた和馬に近い「北海道和種」

 この辺については、歴史学や考古学の成果に負うしかないのですが、和馬と分類される日本古来の馬も中国や朝鮮半島から「移動」されてきた訳ですから、もう少し勝手な推論を整理していきたいと思いますので良かったらお付き合い下さい。

2019年2月5日火曜日

杉浦醫院四方山話―570『加茂先生のEMBAY 8440』

  過日、昨年に引き続き北里大学医学部寄生虫研究室のメンバーが来館くださいました。

これは、辻教授が研究者と学生に授業の一環として設定した校外学習でもあることから、実際に臨床医として地方病の患者を診察・治療した巨摩共立病院名誉医院長の加茂悦爾先生にもご足労頂き講義をいただきました。

 地方病の患者を実際に診察・治療したドクターも山梨県では、横山先生と加茂先生のお二人になってしまったことも地方病風化と無縁では無いように思いますが、今回のように寄生虫を研究していこうと云う若い研究者・学生に当館がお役に立てることは光栄でもあります。

加茂先生の講義を熱心に聴く辻研究室の方々

  辻教授から加茂先生には昨年も持参いただいた「プラジカンテル」の試作段階で商品名も無い[EMBAY 8440]を今年も持参願いたいとの連絡がありましたから、加茂先生にお伝えし持参いただきました。

加茂先生所有の「EMABY 8440」 

 辻教授によれば、「これは何処にも無い貴重な物で、写真ですら見たことがありません」と云うお宝ですが、几帳面な加茂先生は自筆で「1975~1976」更に「昭50~51」と包装箱に忘備メモがありますから、加茂先生がこの試作段階の薬を入手した時期でしょう。

 

 加茂先生は、信州大学医学部を卒業して、昭和32年に当時の山梨県立病院の内科医として医者生活をスタートしたと云う自分史と地方病との係わりを重ねて語りました。先生は「杉浦三郎先生に背中を押してもらって」といつも謙遜して云いますが、昭和48年に「日本住血吸虫性肝硬変症の免疫病理学的研究」の英字論文で学位を取得しました。

先生は、学位取得後も研究を重ね、昭和50年から51年には国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の寄生虫部長 石崎 達先生の下で研究を重ねていますから、この「EMABY 8440」は、国立予防衛生研究所時代のものだそうです。

その翌年にはWHOのデュッセルドルフ会議にも参加していますから、三郎先生同様、勤務医をしながらも研究を欠かさなかった稀な医師でもあったことが分かります。

 

 加茂先生が持参下さった日本住血吸虫症の特効薬「プラジカンテル(Praziquantel)」の試作品「EMBAY 8440」名の実物は、ドイツの製薬会社バイエル社が開発したものですから、包装箱や薬瓶の表示文字は全てドイツ語です。

分子式は、C19H24N2O2だそうですが、寄生虫の細胞膜のカルシウムイオン透過性を上昇させることで寄生虫が収縮し、麻痺に至る薬のようです。

 

 浅学には詳細は分かりませんが「EMBAY 8440」について検索すると英語、ドイツ語表記サイトが主で、数少ない日本語サイトの中に1979年発刊の医学専門誌に「日本住血吸虫症に対するEMBAY8440 (Praziquantel) の臨床的使用経験」と題した加茂悦爾・石崎達両氏連名の論文がありました。

加茂先生名が筆頭ですし、「EMBAY8440の臨床的経験」の題名からも石崎氏の要請で加茂先生が日本住血吸虫症の患者に使ったうえでの論文と推測できます。

 

 このような臨床過程を経て「EMBAY8440」が、商品名「プラジカンテル」として発売されたのは、山梨県でも新たな患者が出なくなった昭和50年代ですから、日本の患者には「スチブナール」が身近な特効薬ということになりますが、林正高先生がフィリッピンの患者20万人を救済した募金活動は、この「プラジカンテル」の購入費用でもありました。

 

 質疑応答の中では、辻先生から「プラジカンテル」は水に溶けないから子どもには服用が難しいことやフィラリアなど他の感染症の伝播も「人間の移動」が主原因だったから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云った示唆もあり、私たちにとっても貴重な学習機会となりました。

 

2019年1月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―569『1945年1月のレイテ島-2』

 日本兵は飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていったそうですが、レイテ戦で米軍が使った武器が「火炎放射器」だったことは、私にとってはミヤイリガイ殺貝活動の中で活躍したのが火炎放射器でしたから意外でもありました。しかし、あまり知られていませんが、いわゆるゲリラ戦では鉄砲より火炎放射器の方が有効だったことからベトナム戦争から現代にまで引き継がれているそうです。

ベトナム戦争でもアメリカ軍は火炎放射器を最大限使用したそうです

  レイテ島では指揮系列もなくなった日本兵は、数人もしくは個人で塹壕や洞穴に身を隠してのゲリラ戦を余儀なくされましたから、アメリカ軍は暗い穴の中に火炎放射器で燃える液体を吹き込み閉所にいる日本兵を窒息死や焼死に追い込む作戦を採ったのでしょう。

 同時に火炎放射器では、着火しない状態で燃料を敵兵舎や装甲車両に噴射し、燃料まみれになったところで着火してより被害を拡大することも出来たそうですし、着火されなくても人体に燃料が付着すると強烈な痛みと炎症を引き起こしたそうですから、戦争や兵器が科学技術を前に進めた好例でもありましょう。

 

 このように一方的なレイテ戦でしたが、アメリカ兵の間にも皮膚のかゆみや発熱、下痢といった症状の奇病が広がり、次第に肝臓や脾臓がはれ、けいれんや脳梗塞を起こす者まで出ましたが、アメリカには存在しない病気だったことからアメリカ軍も苦慮して、この奇病の原因に乗り出しました。アメリカ兵1700人以上が感染したアメリカにとっての奇病は、日本では解明済みだった日本住血吸虫症(「地方病」)でした。

日本住血吸虫
杉浦三郎博士が診察する末期の日本住血吸虫の症状

 

 1953年(昭和28年)、三郎先生はフィリピンのマニラで開かれた環太平洋感染症学会に招聘され講演しましたが、当時のフィリピンでは、反日感情が強く、敗戦国の日本人はどんな目に合うかわからないと云われていたことから、三郎先生は中国人と偽り、チャイナ服でフィリピン入りするよう指示されたと云う純子さんが話してくれたエピソードを思い出します。

 

 フィリピンの反日感情は、日本軍のフィリピン侵略によるものでしょうが、もう一つ「日本住血吸虫症」もこの侵略過程で、日本がフィリピンに持ち込み流行らせた病気だというフェイクが信じられていたことにもよるそうです。

 その後遺症は、故・林正高先生が1987年(昭和62年)にフィリピンの患者救済に立ち上がった時点でも現地には反日感情が根強く残っていて最初は警戒された旨を話してくれましたので、戦後間もなくの三郎先生が中国人を装ったとう云うのも頷けます。

 

 このように、日本で全てを解明したことから付いた学名「日本住血吸虫症」も名前が一人歩きして日本軍がアジアに広めた病気という誤解を生んだ史実は、戦争が生んだ憎悪や疑惑の国民感情からですから、扇動され増幅されていく一面の強い国民感情と云う名の世論には要注意!ですね。

 

2019年1月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―568『1945年1月のレイテ島-1』

 今年平成31年・2019年で「平成」も終わりますから、昭和20年・1945年8月15日は一層「昔」の事になりそうですが、1945年8月15日の敗戦の日は突然訪れた訳ではありませんから、地方病にも関係する1945年1月のフィリッピン・レイテ島の惨事と史実を大岡昇平の代表作「レイテ戦記」等を元に振り返ってみるのも必要ではないでしょうか。

 

  後に日本に進駐したGHQの最高総司令官マッカーサーがレイテ島に再上陸したのは、前年の1944年10月20日でした。さすがにパイプこそくわえていませんが、再上陸の先頭に立つ姿からは、「ウイ・シャル・リターン(絶対に帰って来る)」の決意が滲み圧倒されます。

この有名な写真もアメリカ軍が撮影記録して公開しているものですから、今となっては「余裕の上陸」を物語っているようです。

レイテ島に上陸するマッカーサー

 

 迎え撃つ日本軍は、1944年12月28日に島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移し、1945年の1月1日には、司令部周辺にいた日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝ったそうでが、実態は大きく違っていたことを大岡氏は戦記文学三部作で詳細に書き残しています。

  『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人でしたが、生還できたのは、わずか2500名で8万人以上が戦死しています。

一橋大学の藤原彰教授の著書≪餓死した英霊たち≫(ちくま学芸文庫)では「アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、 餓死や栄養失調に起因する病死であった―。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だ」と、戦死者の多くが餓死、病死が実態であったことを指摘しています。

 

 ですから、1945年1月1日の時点で、司令部から遠い場所にいた日本の兵士は飢えに苦しみ、『蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、ミミズなど兵士はあらゆるものを食べた』(レイテ戦記)そうです。

 

   このように同じ島内の兵士でも食べ物にも事欠くようになると信じられない規律違反も次々起ったそうで、1月5日には第102師団長の福栄真平中将ら幹部が、命令を無視してカンギボット山からセブ島に脱出したそうですし、2月になると、残された兵士の間で「人肉を食べた」という噂話まで広がったそうです。

 その辺については、大岡氏のみならず武田泰淳氏も人間が極限状態に置かれた時、「人肉を食べて」でも 助かる方法があれば何をしてもいいのか、という重いテーマで昭和29年に「ひかりごけ」を書いています。

 3月23日には、レイテ島の軍司令部のトップ、鈴木宗作中将らが島から離脱して、レイテ島では指揮官が不在のまま、兵士が飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていきました。

 

 74年前の1月前後、フィリピンのレイテ島に派兵された日本軍兵士はアメリカ兵と戦う以前に空腹、餓死との闘いを強いられ、その中では法も規律もズタズタになり空中分解して、悲劇の沖縄決戦、本土空襲、広島・長崎への原爆投下へと敗戦の旅路が始まった事実は、遠い昔の話ではなく、もう一度私たちが肝に銘じて記憶しておくべき現代史だと思わずにいられません。

2019年1月11日金曜日

杉浦醫院四方山話―567『身延線唱歌』

 山梨県知事選挙が告示され4人の立候補者が選挙戦に入り、暫くは知事選がらみのニュースや話題が続くことと思います。

確か数か月前は「富士登山鉄道構想」が争点のように話題になっていましたが、本日の山日新聞「4候補の第一声」報道では、具体的にこの構想実現を訴えた候補者はいなかったようです。

  まあ、この構想は、世界文化遺産に登録された富士山をもっと集客につなげようという観光政策でしょうが、現在の有料道路・スバルライン上に鉄道を敷いて、車より環境への負荷を小さくして世界遺産にふさわしい富士山、山梨県にすると云う大義名分もありますから、今後の展開を見守りたいと思います。



 そう云えば、現在の身延線も前身は「身延登山鉄道」だったと聞いていますから、「富士登山鉄道構想」も単に河口湖から五合目までの往復鉄道構想に限らず、河口湖から五合目を経由して沼津あたりに繋がる構想もあっていいように思います。

 

 それは、身延線が山梨県と静岡県を結んでいることから、富士宮市の文化団体が「身延線唱歌」を作製して、地域の活性化を図っていると云う話を数年前聞いたことにもよります。

 この唱歌は、「汽笛一声新橋を♪」で有名な「鉄道唱歌」を模して、富士駅から甲府駅までの身延線各駅の歴史風土を紹介をしていますが17番まである歌詞も7番以降は山梨県内の駅で、最後の歌詞は「山梨静岡両県の明るく平和な郷づくり 身延線とともに栄えあれ」と結ばれ、身延線が両県民を結んでいることを謳いあげています。



                7                         

 稲子で駿河を後にして

 甲州十島よいところ

 昔は身延路御番書で

 今は電車で自動車で

 

8

 井出ては寄畑内船へ

 南部の火祭り空焦がす

 奥州南部の祖の地なり

 威風は今に伝えらる

 

9

 身延の駅に降り立ちて

 日蓮宗の総本山

 五十の塔の再建に

 枝垂桜木花添える

 

10

 信玄公の隠し湯の

 下部で疲れ癒されん

 湯の奥甲州金山は

 武田氏支えた軍資金

 

11

 市ノ瀬 久那土 甲斐岩間

 印章で名高き里にして

 向かいの西島和紙づくり

 書家の望み叶う町

 

12 

 視界が開けて鰍沢

 舟運の名残り今は無く

 敷かれし鉄路に拠るところ

 甲駿交流夜明けなり

 

13

 市川大門花火まち

 知恵の文殊は甲斐上野

 團十郎の出たところ

 ゆめゆめ共々忘れなん 



14

 笛吹川を打ち渡り

 見よや果樹やら野菜やら

 果樹王国と謳わるる

 甲府盆地の花輪なる

 

15 

 四方の山に目をやれば

 雲突く山脈(やまなみ)いや高く

 老樹の深き善光寺

 石和の湯けむり指呼の間

 

16 

 終点甲府は中央線

 乗り継ぐ人も数多く

 躑躅ヶ崎の夢のあと

 武田の遺跡守れかし

 

17

 時は人を替えれども

 山梨 静岡両県の

 明るく平和な郷づくり

 身延線と共に栄えあれ

 身延線と共に栄えあれ

 

事務室の扉に掲示してある「身延線沿線が楽しいポスター」には「じょうえい」駅に、杉浦醫院が入っています。

 

とかく縄張り意識が強いのが甲州人の特性と指摘され「山国根性」とも揶揄されますが、子どもの頃私も身延線が県都・甲府行きが「下り」で、富士行きが「上り」が解せませんでした。反面、中央線の新宿行きが「上り」は素直に納得していた訳ですから、矢張り立派な「山国根性」少年だったのでしょう。

 

 この折角の「身延線唱歌」も山梨県内ではあまり知られていないように思います。

先ずは身延線の電車内で控えめに流すことで利用者から自然に広まるように思いますが、御多分に漏れず身延線乗客もイヤホーンを耳に自分の世界に浸っている方が多いので無理かなあ~

2019年1月7日月曜日

杉浦醫院四方山話―566『謹賀新年』

 あけましておめでとうございます。

今年も玄関受付で来館者のお迎えは、橋戸夫人制作の干支人形です。


 昭和町風土伝承館杉浦醫院は2014年4月1日に本オープンしましたから、今年は5年目の節目の年を迎えます。おかげ様で県内外から多くの方々にご来館いただき、国内唯一の日本住血吸虫(地方病)終息の歴史を伝える資料館として認知され、様々なメディアを通して周知もされてきましたことにこの場を借りて御礼申し上げます。

開館5周年を機に一層充実した資料館となるよう心新たに取り組んで参りますので、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 さて、本年初の見学者は期せずして前話重なるお二人で、一段と冷え込みも増した昨日、開館早々「見学もですが話を聞きたくて来ました」と来館目的が話のようでしたから、応接室のストーブをつけお二人のお話を伺いました。

話を要約すると・・・山梨県内で生まれ育った来館者も子どもの時、地方病に罹り「注射を40本して治った」そうですが、その弟さんは鎌倉市で生活して40年近く経つが、ここにきて体調を崩し、入院したところ大腸から寄生虫が検出されたそうで、山梨県出身ということで、その寄生虫が日本住血吸虫ではないか?と云われたようだけど、鎌倉の病院ではハッキリしないので聞きに来た・・・と云う事でした。


 山梨県内でも「地方病」について、どこの病院に行って相談すればよいのか分からない状況は確かにありますから、来館者の母娘が当館の開館を待って相談に観えた心中は察しが付きましたが、名称こそ「杉浦醫院」ですが資料館ですから臨床医のようなアドバイスを期待されても無理であることを伝え、その上で「先ず100パーセント日本住血吸虫では無いと思います」と終息の歴史の中で明らかになっている諸例を根拠に話しました。


 折しも今月末の31日(木)に北里大学寄生虫研究室の皆さんが見学にみえるのに合わせゲスト講師に加茂悦爾先生をお願いしてあるので、その辺の具体的な対処など加茂先生に相談するのがベストであることを伝え納得していただきました。


 あらためて前話での倉井先生の同僚でもある現在の医師へのご指摘

『感染症が制圧されることはすばらしいことであるが、診断を想起できる医師が減ることは事実である。目の前に住血吸虫症の患者が来たら、あなたは診断することはできるだろうか?日本住血吸虫症という疾患に苦しんだ患者が数多くいたという事実、戦いの歴史を私たちは忘れてはならない』

の重みは、現実として進行形であることを本年初来館者が教示してくれた年の初めでした。