2019年4月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―578『依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-2』

 依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」の中に地方病に関連する「犬塚」についての記載があり、576話で内容を紹介すると共に写真の祠について感想を書きました。その後、雨宮さんの計らいで、依田先生とも直接電話でお話しできましたので、補足しておきたいと思います。

 

 依田先生は犬塚取材の為、お住いの滋賀県から2017年(平成29年)10月25日に身延線で国母駅まで来て、タクシーで犬塚の有る正覚寺にみえたそうです。雨の降る日で、タクシーを待たせたまま当時の住職に犬塚について尋ねたそうで、訪問日や当日の天気まで正確に記録してあるようですから、一冊の本にまとめる為の取材帳には多くのメモが残されていることと思います。

 功刀玄雄住職から「私が入った時は犬塚は既に無かったけど、先代の話だとこれが犬塚にあった祠だということです」と説明を受けたので、写真を撮って本にも掲載したと教えてくださいました。

「祠の後や横も観たのですが、年月日や建立者名は一切なかったけど苔むしていて古いのでそうかなと思った位で、あの小祠が本当に犬塚のモノかどうかは分かりません」と云うことですので、この機会にもう一度「犬塚」について、関係資料を確かめてみました。


 犬塚についての一番古い資料は、昭和3年発行の「中巨摩郡誌」にあります。

「第9章 医事・衛生誌」に地方病の項目があり「大正14年4月2日山梨地方病予防撲滅期成組合創設せられ、10か年計画を以て本病中間宿主たる宮入貝石灰殺貝法を実施し本病の撲滅を期せり。因に本組合は創設の日に於いて本郡杉浦健造・桜林保格・三神三朗の諸氏を功労者として表彰せり。」に続き「附犬塚 本郡西条村正覚寺境内にあり、本病研究開始以来杉浦醫師其の他学者の研究資料となりし犬・猫・家兎・モルモット等数百頭の為、大正12年5月17日川村・風間・杉浦三氏の治療研究報告を機とし供養の為建立せらる。」とあります。

 このように郡誌には「大正12年5月17日」とありますから、祠や石塔にはこの建立年月日は刻字されていたように思います。


 昭和9年発刊の「杉浦健造先生頌徳誌」の中にも次のような記述があります。

≪解剖等の為犠牲に供したる禽獣は実に無数の多きにして又病虫駆除の一方策として多数のアヒルを飼養し毎日河川に放ち之を食せしめ蛍の幼虫を繁殖して病虫との関係を調査する等研究努力の程想像に余りあり。先生、生前中ある時曰く「我れ地方病研究の為犠牲に供したる禽獣は其の数を知らず 思えば不憫の至りなり 之れが埋歿地に供養塔を建設して以て慰さむとす≫-後略ー

 上記の記述もあってか、純子さんも「犬塚は新館(病院棟)の看護婦さんの部屋の丁度向かいで、小高くなった上に石の碑がありました」と話してくれましたから、祠ではなく石塔だった可能性もあります。

 また「之れが埋歿地に供養塔を建設して」の健造先生の言は、亡くなったアヒルや犬などは正覚寺の庭に埋葬していたことから、その地に犬塚を建立して供養したということになり、多くの禽獣の埋歿地は「小高く」なるのが自然でしょう。

 

 昭和52年山梨地方病撲滅協力会発行の「地方病とのたたかい」誌には、第二章「地方病撲滅事業の沿革」の中で、大正12年の項目に「犬塚の建立」があります。

≪中巨摩郡誌には、本病研究開始以来、杉浦健造医師その他の学者の研究材料となった犬、猫・・・(中巨摩郡誌と同文)≫があり、最後に≪正覚寺境内に「犬塚」を建立したと記されているが、今はその影はない≫と記載されています。

 

 このように観てくると、犬塚は、昭和40年代に境内の木を切って新たに墓地を造成した正覚寺の歴史変遷の中で、整理され「今はその影はない」ようになっているのでしょう。

庭を墓地にした際まとめられた石塔や祠が墓地入り口付近に数塔ありますから、一本一本確認すれば「大正12年5月17日」とある石塔に行きつくかも・・・と、調べてみましたが、確定できる石塔・祠はありませんでした。