2015年7月26日日曜日

杉浦醫院四方山話―432『さるすべり・百日紅』

 杉浦醫院の夏の実感は、梅雨明けと共に一斉に鳴き出す蝉の声ですが、今年は気のせいでしょうか?蝉は静かで、夏の終わりに樹皮を落とすと云うサルスベリが、ご覧のように庭園にはたくさん落ち出しました。 

 この手の話は、大地震や富士山噴火など「天変地異」の前触れだと危機を煽る常套手段で聞きますが、まあ「自然災害より人災の方がコワイ」が実感ですから、セミもそのうち喧しく鳴くでしょうし、夏の終わりにもサルスベリは樹皮を落とすのでしょう。

 「サルスベリ」の語源は、幹を覆っている樹皮がはげ落ちると、木登りが得意なサルでも滑ってしまう程ツルツルした木肌になることに由来するそうですから、樹皮がはげ落ちることで本領発揮ですが、サルスベリを「返還」すると漢字で「百日紅」となる無理が、以前から気がかりでした。由来どおり「猿滑」にして欲しいものです。

「百日紅」の由来は、夏の木花として、百日もの長い間、紅色の花が咲き続けることから付いたと言われていますから、サルスベリと百日紅の名は、全く由来が違うのにワープロ変換ではイコールになることが、どうも納得できません。

 

  

 昆虫のセミと植物のサルスベリに共通するのは、「脱皮」でしょうか。

セミは至る所に抜殻がそのまま残っているので「脱皮」を実見できますが、サルスベリも成長するにつれ外側を保護している皮を脱ぎ捨てていますから「脱皮」しているのでしょう。



 樹皮を脱皮する木は、サルスベリだけではなく「沙羅の木」や「花梨」「ユーカリ」などはっきり脱皮することが分かる木と松や杉のように徐々に脱皮していて気付かない脱皮も多いようです。


 樹木は、表皮の内側で新しい樹皮が形成されると、古い樹皮が本体から剥がれ落ちていく訳ですから、樹木の脱皮現象も昆虫同様、新しい生命の誕生と並行して起こっていることを思い知らせれます。
 

 夏が到来した杉浦醫院庭園で、昆虫オタクでもない凡人がツラツラ想うのは、

「コガネムシや玉虫、蝶などの美しい造形と色や輝きは、確かに宮澤りえより美しいな~」

「自然界で成長する動植物の生命現象には、脱皮など組織の一部が死滅するプロセスも含め、必ず造形美があるなあ~」

「それは人の手では造り出せない自然造形で、人間のように意識してほどこす訳でないことに美が付随するのかな~」

「おっと、ハチだ。そう云えばクインビーなんて云う大衆〇〇もあったけど女王蜂に限らずハチもスリムな体型で足も長くてキレイだな~」 

杉浦醫院四方山話―431『信州大学医学部・松医会報』

  「松医会」とは、信州大学医学部の同窓会の名前ですが、信州大学医学部は、松本医学専門学校から松本医科大学を経て現在に至っていますから、「松本の医学の会」の略でもあるのでしょう。


 その「松医会」の平成19年秋号の会報は、特集「日本住血吸虫症」で、当館に資料をお寄せいただいている林正高先生や加茂悦爾先生など日本の地方病研究と治療に係った先生方の原稿で構成されています。山梨県に医学部の無い時代が長かったことから、甲府市立病院はじめお隣の信州大学医学部の卒業生が山梨の病院に赴任し、風土病であった地方病に真摯に向き合った結果でもあるのでしょう。

 

  会報という性格もあり、専門用語の論文ではなく医師の随筆と云った感じですから大変読みやすいのが特徴ですが、地方病と格闘してきた信州大学卒の医師の姿が浮き彫りにされていて、当館にとっては貴重な文献資料でもあります。

 信州大学を卒業され、山梨の病院に赴任した井内正彦氏は、松本医学専門学校3期卒、加茂悦爾氏は信州大学医学部2期、林正高氏は信州大学医学部8期の卒業で、当時の山梨医大の寄生虫教室の教授・中島康彦氏も松本医学専門学校の卒業ですから、昭和40年代から山梨県内で地方病の治療と研究を担ってきたのは、信州大学医学部の方々だったと云っても過言ではありません。だからこそ、「松医会報」でも「日本住血吸虫症」の特集を編んだのでしょう。

 この特集の中で、林先生は甲府市立病院の先輩医師でもあった井内正彦氏の業績について書かれ、「井内先生は現役退任を機にご自分の著した論文すべてを一冊に綴じられ、その分厚さ7~8CM位の手製の業績集を山梨医大寄生虫学の中島康彦教授に寄贈された。この一冊しかない貴重品は現在行方不明である。」と、井内先生の地方病研究の論文業績集の行方を案じ、当館や県立博物館にも井内データ保存の為の行方探しを呼びかけていただきました。

 
 

 その結果、井内氏から寄贈された業績集を中島教授が山梨医大退任の折、東京医科歯科大学の太田伸生教授に預けたとの話から、太田先生に確認すると「中島先生から引き継いで、私の研究室にありますから、必要でしたら移管します」まで行き着きましたが、太田先生が引き継いだ井内データが、林先生が探しているものなのかどうかは、現在の所不明です。

 
 

 この太田先生も信州大学医学部卒業ですから、日本住血吸虫症の研究は、脈々と信州大学医学部出身者に引き継がれて、継続されているのが「松医会会報」で分かりました。

2015年7月15日水曜日

杉浦醫院四方山話―430『キハダ?』

 11日(土)には、甲斐市清川地域ふれあい館の皆さんが、甲斐市の文化財主事O氏の案内で来館されました。



 見学時間も余裕を持っての計画でしたから、庭園から細かく案内できましたが、団体でお見えの方々の中には、必ず抜きんでた「専門家」が居て、鋭い質問から補足までいただいたりで、和やかな見学会になることが多いのも特徴です。



 今回のメンバーは、それぞれに得意ジャンルがある方々が揃っていましたから、「地方病流行終息の碑」の移設に伴い、母屋の苔庭入り口にあった薬木を鈴木造園の親方が「これは苔庭には向かいないから」と碑の横に移植した木について、こちらから聞いてみました。

「この木は、杉浦醫院が漢方医だった頃、薬木として使っていたそうですが、植木屋さんも名前が分からいと云う木で困っていたんですが、どなたかご存知ありませんか?」と。



 男女各一名の「専門家」が木に近づき、葉を取って臭いを嗅いだり、幹を確かめ、「こりゃ、キハダだね」と裁断してくれました。

「キハダ?薬木ですか?」

「この木の皮を煎じて飲むと肝臓に効くけど、ほれこそ苦くて子どもにゃ飲めんらね」と男性。

「この木の皮は黄色の染料にもなったからキハダって名前がついただよ」と女性。

「肝臓の薬だから地方病にも使ったずら。ほっとくとデカイ木になって困るだよ」と。


 疑う訳ではありませんが、いとも簡単に「キハダ」名と効能や特徴までスラスラ説明されると、「そんなに有名な木なら、なぜ純子さんや植木屋さんが知らなかったのだろう」と、調べたくもなり、困った時の「ウィキペディア」で検索すると、概要が下記のようにあり、キハダの効能は、両専門家のご指摘通りでした。



樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている。


 植物図鑑でも確かめてみると、葉が図鑑と実物で違う様にも見え、ウィキペディアにも10~20mの大木とあるのに江戸時代からあった木にしては、低木過ぎるしな・・・・と疑い深いのでしょうか?自信をもって「キハダ」と言いきれません。

 

 清川の植物専門家によって、「キハダ」名を知りましたので、次なる専門家の来館の折には「これは薬木のキハダでしょうか?」と教えを乞い、納得したいと思います。

2015年7月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―429『林正高著・寄生虫との百年戦争』3

 林先生と云えば、フィリピンの日本住血吸虫症患者を救う為の「地方病に挑む会」ですから、本書も「私たちは、なぜシスト(日本住血吸虫症)を絶滅しようと、めざすのか?」の理解と協力の為に書かれたもので、この会の設立から活動内容、エピソード、治療研究報告までが集大成されています。



 林先生が、この活動を始めたのは甲府市立病院の勤務医時代からで、日本社会の「同調圧力」は「なぜ甲府の医師が外国に繁に出かけて行かなければいけないのか」と云った批判的な声もある中「中国に6回、フィリピンに45回も通って、シストの研究を両国の医師たちと一緒に行い、この病気の絶滅のために頑張って」きたのは「日本人が成功を収めた医療の技術や経済的な余力を、シスト患者の多い国々に提供することは、今日の国際化社会にあって、当然の義務であり、責任である」と林先生は考えて、信じる道を貫き通した様子が分かります。



 矢張り、志高く「これをやる」と率先垂範する人は、周りの人にも元気や勇気を呼び起こすのでしょう、職場の仲間や心ある医師と共に喜びや感動を共有しながら活動してきた様子が活き活き記されています。

また、志の高さは、林先生のみならず、この本に登場するこの活動を支えた方々のエピソードは、池田清彦氏の新刊「同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える」の指摘が、的を得ていることに思い至ります。



 林先生の「地方病に挑む会」の柱は、シストの特効薬プラチカンテルのフィリピンの患者一人分の治療代金が日本円にして700円だったことから、「700円募金」による患者救済活動で、集まった募金の全てを特効薬購入費用に充てると云う公明正大な使途が会の原則でした。

要は、人件費や事務費と云った支出は一切自腹、ボランティアに徹した組織・活動原則に先生の目的と意志があるのでしょう。



 林先生と会の活動原則等が、読売新聞全国版やNHK教育テレビ等で紹介されると全国から多くの方々の善意が寄せられたそうですが、特筆すべき、静岡県にお住いの90歳・松平初太郎氏のエピソードには唸りました。

 

 松平氏は、「旅支度は軽いに越したことはない、それは冥土への旅も同じ」と、3千万円の寄贈を市立病院に林先生を訪ね、申し出たそうです。

 松平氏は、これまでも募金活動に応じてきましたが、会計報告を見ると、事務費、会議費、人件費などが60%も占めていて落胆していたが、この会はそれらは自腹で、患者救済に全てが使われることを知ったので、そういう活動にこそ寄付したいと、主宰者を確かめる意味もあって、自ら自動車を運転して来甲されたそうです。



 林先生は、3千万円の寄付金額に驚き、「当会の活動のキャッチフレーズが700円募金であることから辞退申し上げた。当会の活動内容を示し、フィリッピンの日虫症の状況を説明した結果、特効薬1万人分、切りのよいところで1千万円をだしてくださることになった。」そうです。

 

 そして、松平氏から挑む会への寄付金は、これを一回目とし、今後は必要な医療機器などを現物提供することで話し合いがまとまったそうです。

現地の日虫症研究所付属病院に松平氏から寄贈された二台の車両と職員の記念写真も載っていますから、松平氏の現金以外の寄付が、林先生達に必要な医療の「後方支援」になったのでしょう。


 林先生のフィリピンの患者救済と絶滅への志は、松平氏に限らず、作家の大岡昇平氏が発起人に名を連ね、募金者の第一号にもなったことなどそれぞれのポジションで具体的な協力、支援の輪が大きく広がって、確かな歩みになったことが分かります。



 本書は、「寄生虫との百年戦争」と銘打たれていますが、林先生の人生哲学書でもあることを読後の爽快感が教えてくれました。