2014年3月29日土曜日

杉浦醫院四方山話―323『4月1日から杉浦醫院本オープン』





 予定通り2月上旬に裏の納屋の整備工事が終了しましたので、来る4月1日から昭和町風土伝承館・杉浦醫院は、本オープンとなります。     そのオープニング・セレモニーが、3月24日(月)に多数の来賓の方々のご臨席のもと行われました。

角野町長の挨拶のあと、杉浦純子さんから杉浦家代々が所蔵してきた書画骨董から医療機器や民具など数百点の第二次寄贈品目録が、町長に手渡され、純子さんから「お役にたてれば、祖父も父も喜んでいると思います」と控えめかつ端的なお言葉もいただきました。

 土蔵に続き納屋も立派なギャラリーとして活用可能になりましたので、本オープンに合わせ杉浦家からの寄贈品の一部を展示して、ご寄贈いただいた品々を具体的に観ていただくよう図りました。

今後、ジャンルを絞っての企画展などを順次開催していくことで、杉浦純子さんはじめ杉浦家の全面協力に応えていく所存です。

 なお、このオープニング・セレモニーや館内の様子などを昭和町ホームページのブログ「山なし しょうわ」の中で、いち早く紹介してくれていますので、赤字をクリックしてご覧ください。

2014年3月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―322『西条小ホタルの放流』

 今年度、西条小学校の4年生が総合学習の中で、当館にも見学に来て源氏ホタルの学習や地域の歴史を学びながら、学校でホタルの幼虫飼育を続けてきました。その幼虫を学区域でもある当館の池に放流したいということで、18日(火)に学校に出向き、4年生の飼育した幼虫を預かってきました。

 その際、幼虫が成虫になる過程を話して欲しいと先生から要請がありましたから、子どもたちには、幼虫を100匹放しても成虫になるのはせいぜい20匹で、多くは池や川にいるコイやフナ、ザリガニに食べられてしまう食物連鎖や自然生態系について説明し、「杉浦醫院の池は、ホタルの生息環境としてはとても良いので、勝手に魚を放したりしないで欲しいし、ザリガニは自然発生するので、ザリガニを釣ってもらうとホタルのためには助かる」と具体的に話しました。



 その日の放課後から、4年生の男の子が池に来て、ザリガニを釣り始めました。

「網で池の底からすくうと幼虫も一緒に入ってしまうから、網は使わずに一対一の釣りだけだよ」と声をかけると「はーい」と元気な返事。

エサに魚肉ソーセージやイカなどそれぞれが持参して釣り始めると近所の低学年の子も加わりました。

「釣ったザリガニはどうする?」と聞くと「家で飼います」の模範回答や「僕は西条食堂の裏の川に流します」とか「ホタルの幼虫を食べてるザリガニが釣れました」等々時間を忘れて釣りに興じています。

 

 そんなわけで、西条小の4年生には、「君たちの育てた幼虫が何匹いたか、しっかり数えて報告するから」と約束しましたので、預かった水槽から幼虫を仕分けました。


  ご覧のように幼虫の習性で、固まってしまって数えにくいのですが、しっかり成長した幼虫123匹を池に放流することができました。ザリガニ釣りでアフターケアーまで頑張っている西条小児童のためにも初夏には成虫になって乱舞してほしいと願わずにはいられません。

2014年3月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―321『民具-4 もじり・もんどり』

 団塊の世代である私の時代には、「ビンぶせ」と呼ばれたガラス製の川魚を獲る道具があり、仕掛けに行った川で、石や岩にあたると簡単に割れてしまう安ガラスで、何度か悔しい思いをしたことも思い出します。

そのビンぶせと構造や原理は全く同じですが、町民の方が寄贈してくれた竹で編んだ漁具があります。「ビンぶせ」を持って川に行くと、あの時代はいい大人もこの竹で編んだ割れない仕掛けを持って来ていましたから、見たことがあるのに名前が思い出せません。瓶で出来ていたから「ビンぶせ」で、これは竹だから「竹ぶせ?違うなぁ~」で、調べてみました。

 コトバンク - Kotobankなどには、≪ 「もんどり」、「筌(うけ)」、「どう」などは、おもに河川、湖沼で用いられ、水底において魚道に敷設し、魚類の性質を利用してその中に引き入れ捕獲する漁具である。捕獲対象の魚種によって大きさや形は多様であり、名称も地域によって違っていた。もっとも普遍的であった「横筌(よこうけ)」の構造は、竹や樹枝などの細棒を縄などで編んで筒状にし、その一方を縛って塞ぎ、他の一方に口を開け、そこに脱出できないよう「かえし」を付けて、入った魚が出られないようになっている。≫とありました。

  この「解説」は、当館に展示予定の 2枚の写真のモノと符合していますので 、地域によって呼び方は違っていたようですが、「もんどり」、「筌(うけ)」、「どう」が一般的な名称のようです。

「うーん、もんどりもうけも聞いた記憶が無いなー、どうもどうもなぁ~」と、しっくりきません。

 

 そこに運よく、旧田富町東花輪在住の橋戸工務所元棟梁夫妻が、純子さんのサポートにみえましたから、物知りの伯夫棟梁に現物持参で聞いてみました。先ず奥さんが「昔のビンぶせね」と、「そうか、昔のビンぶせは分かりやすい」と感心しましたが、棟梁はすぐ「俺たちは、もじりって呼んでたよ」で、「あっ、もじり。聞いたことがある」と納得出来ました。

甲府盆地一帯では、「もじり」で通っていた昔のビンぶせですが、異論や別の名称をご存知の方は、ご教示ください。

 

 この「もじり」も現代では、ペットボトルを切って、フタの部分を開いて逆さに入れ、ホッチキスなどで留めて、「かえし」にし、後は、ぷつぷつ穴をあけて水が溜まらないようにすれば出来上がりの「簡単科学工作」の定番の一つになっています。

 しかし、これを許可なく勝手に仕掛けると「おとがめ」を受ける河川もありますから、作っても自由に使えない利権管理社会になっているようで、ジジイの証明「昔はよかった」デス。

2014年3月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―320『民具-3大鋸(おが)・木挽(こびき)』

 右の写真は、30年近く前、昭和町教育委員会が町民の皆様から寄贈いただいて収集した民具や農具の中にあった大きなノコギリで、正式名称も文字通り大きな鋸と書いて「大鋸(おが)」です。

 この大鋸をつかって木材を挽き切ることを「木挽(こびき)」と云い、それを職業とする現在の製材業の人も「木挽」と呼んでいました。      

 

 江戸に幕府を移すに際しての江戸城造営に全国から木挽が集められ、現在の東京都中央区銀座1、2丁目辺りに居住させたことから、この一帯の旧町名は、1951年(昭和26年)に「銀座東」と改称するまで木挽町だったそうです。

 写真のような一人で挽く「大鋸(おが)」は、江戸時代になって開発され、「前挽き大鋸」と呼ばれ、画期的なノコギリだったそうです。それ以前は、二人で挽くように対象の位置に取っ手が二本あり、木挽き歌を唄いながら力を合わせて挽いていたようです。

 

 葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』の「遠江山中」には、遠江国(現在の静岡県)の山中で働く「木挽(こびき)」たちの仕事姿が描かれています。これは、1831年(天保2年)頃の作品ですから、「木挽」たちが使っているノコギリは、既に1人で挽くことができる「前挽き大鋸」ですが、上からも下からも無理な姿勢で挽いている脇では、切れなくなったノコギリの目立てをしている職人もいて、現在の機械製材を思うと木挽(こびき)職は、大変な労働だったことが分かります。

日本の仕事歌は、「木挽き歌」同様「田植え歌」や「酒づくり歌」など重労働、反復労働の中で産まれた労働歌ですから、過酷な仕事を癒す必要から自然発生したものなのでしょう。

2014年3月12日水曜日

杉浦醫院四方山話―319『源氏ホタルの幼虫放流』

3月9日(日)に当館と協働で源氏ホタルの幼虫を飼育してきたNPO楽空のメンバー12名が参加して、幼虫の放流会をしましたので、その模様をご紹介します。
 
 楽空のメンバーは、甲府青年会議所での活動経験者が中心になっていますから、スタートもメンバーが輪になって、古屋さんの司会進行で、代表挨拶などきっちりカタチから入りました。メンバーはそれぞれ、会社を経営したりしていますから、活動日は、休日の日曜日です。杉浦醫院の旧車庫は、車の出入りの建物ですから戸やドアが無いため、日曜日に集まって活動するには都合がよく、ウイークデイは当館で管理し、日曜日は楽空が担当することとして、25年度から試験的に5水槽で、種ボタルからの採卵、孵化、幼虫飼育を継続してきました。心配された夏の猛暑も水の補充やコンクリートのたたきへの打ち水などでしのぎ、今日の日を迎えました。
 
さっそく、水槽内の幼虫数を確認するため、石や砂に紛れ込んでいる幼虫をコップに移す作業に全員で取り掛かりました。みんな割り箸を右手に深めのカップに水槽の石や砂を入れて、丁寧に幼虫を探し出してコップに移します。幼虫も身の危険を感じてか丸くなって、石のように擬態しますが、時間いっぱいみんな真剣に仕分けしましたから、一水槽平均60匹と幼虫数も確実なものとなり、今年の放流幼虫の総数は、300匹となりました。
 
それぞれが採集した幼虫入りコップを手に池に移動し、順次放流しました。ホタルの幼虫は釣りの生餌として最高だそうですから、放流した河川や池に鯉や鮒など魚がいると食べられてしまいます。杉浦醫院庭園の池には魚は入れていませんが、ザリガニは自然発生して採りきれませんので、どうしてもザリガニの餌食になる幼虫もいます。放流した幼虫が成虫になる確率は2割程度と云われる所以ですが、今年度の幼虫放流数が300匹ですから、2割ですと60匹の成虫と云うことになります。そうは言っても比較的生息環境の良い池ですし、昨年発生した雌ボタルの自然産卵による自生ホタル発生の期待も込めて、今年は、100匹以上の源氏ボタルの乱舞を期待しつつ、記念撮影をして放流会を終了しました。 

2014年3月8日土曜日

杉浦醫院四方山話―318 『民具ー2 麺箱』


  上の写真は、昭和4年に醫院棟を新築した際の上棟式終了後、「清韻亭」と命名されていた母屋座敷での祝宴の一コマです。中央の白い装束が、施主の健造先生で、何人かの酌婦らしき芸者も入れて30名以上が写真に納まっています。純子さんの話では、この座敷で、健造先生や三郎先生が仲人を務めたカップルの結婚式や杉浦醫院ホタル見会など宴席が多かったそうですから、この祝宴を支える裏方の人数とご苦労も半端ではなかったことでしょう。

 

 納屋の改修工事中は収蔵庫に移しておいた杉浦家の宴席用の品々も順次納屋に戻して展示していますが、その中に、かすかに「杉浦医院」「昭和27年2月吉日」と判読できる木箱が10箱以上ありました。「杉浦医院」とあるので、医療用に使ったモノなのかとも思い、純子さんに聞いてみました。

 

「あの箱は、麺箱ですね。宴会にはよく蕎麦やうどんを出しましたから、麺箱に茹でたうどんを玉にしてそのまま出して、空になると次の麺箱で追加して、ついでに空いた食器などを入れて下げましたから、便利な箱でした」と・・・

 

 確かに酒席での麺類は美味しいものですし、地粉を使った手打ちの麺を外の大釜で茹で、茹でたてでいただければ、こんなご馳走はありませんから、次から次に出し入れが必要だったのでしょう。そうなると矢張り10箱以上の麺箱を用意しておかなければならなかったわけで、あらためて自宅で宴席を催すことの大変さをこの麺箱が象徴しているように思いますが、純子さんは「昔の炊事には男手も必要でしたから、お手伝いの方も男女で和気あいあい、大きな声で話したり、笑ったり、お祭り気分で楽しそうでしたよ」と、往時を懐かしんでいました。

 

 「祖父は、お酒は飲めないのに宴会好きでしたから何かにつけて人呼びをして、飲んだように楽しんでいましたが、父は不調法なんでしょうね、もっぱら煙草を吹かすだけでしたから、父の代になって宴席は少なくなりましたが、それでも何だかしょっちゅう他人がいる家で、家族だけの食事なんてあまり記憶にありませんね」と、三郎先生も客人を歓迎していたようです。

 

 現在でも純子さんのもとには、茶道・有楽流の方々がよく訪れては、抹茶で茶菓子を愉しんだり、「ここではよく肉が出たから楽しみで、昼も夜もごちそうになったさ」と三郎先生の時代から出入りしていたと云う方など来訪者が絶えません。これも代々「金持ちより人持ち」を流儀に培ってきた杉浦家の家風なのでしょう。