2011年8月31日水曜日

杉浦醫院四方山話―73 『病と差別-2』

 かつての日本では、「家の畳の上で死」は、日常生活の一部でしたし、日本住血吸虫から回虫・蟯虫まで、ほとんどの日本人は体内で寄生虫を、毛髪でもシラミを養い、ノミが飛び交う風景も日常的でした。無菌志向社会は、これらを一掃し、疾病も世俗から排除し、死もまた日常生活から隠蔽されてきました。しかし、そうした一見クリーンで快適な生活は、年間3万人を超すとい自殺者数が減らないように、見方を変えれば、〈癒し〉が忘れられ、〈癒し〉への回路が絶たれた世界とも言えます。戦争は、戦力外の人間を排除しましたから、「病人や病気の差別の温床は、戦争だ」は世界史の定説ですが、徴兵を忌避したい者にとって〈病い〉こそが〈癒し〉だったという証言は、〈病い〉も有効な〈癒し〉であることを物語っています。極端な清潔社会と無菌志向が、「バイ菌」「クサい」などと云った新たな「いじめ」や「差別」を生んでいる日本社会ですが、世界の三大病「マラリア」「フィラリア」「日本住血吸虫症」は、かつての日本よりもっと深刻な日常生活の地域で占められています。
 健造・三郎父子が治療・研究に生涯をかけた「地方病=日本住血吸虫症」をとりまく、県内での「病気差別」は、どうだったのでしょうか?1978年に山梨地方病撲滅協力会が企画し、東京文映が製作した16ミリ映画「地方病との闘い」は、県内で歌われてきたこんな悲しい歌詞の民謡で始まります。 ≪嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲む辛さよ≫  ≪竜地、団子へ嫁行くなら棺桶背負って行け≫  ≪中の割に嫁行くなら、買ってやるぞえ経かたびらに棺桶≫
「地方病との闘い」1部・2部合わせて46分の映像は、当H・Pのリンクにバナーのある「科学映像館」の「医学・医療 カテゴリー」で、無料配信されていますので、この民謡と映像も確認できます。
結核と斗う(1956年)
人類の名のもとに(1959年)
地方病との斗い 第一部(1978年)
地方病との斗い 第二部(1978年)
日本住血吸虫(1978年)
昭和町風土伝承館 杉浦医院(2010年)
 
要は、「地方病が流行っている地域に嫁に行くな。行くなら、棺桶背負っていけ」という民謡が、実地名を挙げて歌われていたということは、患者が特定の地域に集中していたことから、罹患者のない地域の人からの「娘を嫁に出して、地方病にさせたくない」といった親心の本音が歌になったもので、やはり一つの地域蔑視、地域差別と云えましょう。同時に有病地域でも歌われていたという背景には、地方病は日常化し、〈癒し〉としての側面を感じるのですが・・・純子さんも「地方病の患者さんが病名を隠したり、家族から隔離されたりと云った話は聞きませんでしたね。患者さんも俺は地方病だと威張っている方もいた位ですから」と云うように「昭和へ嫁に行くなら水杯で・・・」と云われていたという話も聞きますが、子どもから高齢者まで、家族に一人は、地方病と云う罹患率でしたから、町内では、特に「地方病の差別」は感じなかったというのが、一般的です。患者数が多ければ差別しきれないといった一面もあったのでしょうが、「篤農家がかかる病気」として「働き者の証し」でもあったことなど、罹患者のない地域の人は有病地を恐れても当事者には、日常の一つとして受け止められていたようです。同時に、人は困難な<状況>や<病い>に立ち向かうことが、目標や生きがいになることもあり、そういう意味でも「病い」と「癒し」は、表裏一体の一面もあると言えましょう。

杉浦醫院四方山話―72 『病と差別-1』

 先日、埼玉県熊谷市から熊谷市人権教育推進協議会の委員と教育委員会事務局職員計40名が、春日居郷土資料館と当館に来館されました。この研修会担当の福島静枝委員は、事前に資料づくりの為、ご主人共々来館され、「人権教育(主に同和教育)」の課題や熊谷市での現状など貴重なお話を聞かせていただきました。「人権教育」に資する研修と云うことで、研修先も選定されたということから、「地方病と差別」について、私もあらためて資料を作っておく必要に思い至りました。
 
 春日居町郷土資料館には、特別展示室として「小川正子記念館」があります。肺結核を罹って43歳で亡くなった正子の遺品は、多くが焼却処分されたため、展示品は、年譜や胸像、短歌などに限られています。死因が「結核」であると、衣服や日用品まで遺品は死後、焼却するよう命じられていたことも「病」に対する偏見や差別を増幅させた結果にもなったことでしょう。「人権教育」同様、「病気差別」も困難な問題を抱えて現在に至っていることを小川正子記念館は、ある意味象徴しています。
 春日居町で生まれた小川正子は、甲府高女を卒業後、東京女子医大に進み医者となり、昭和7年に希望してハンセン病(らい病)施設「長島愛生園」に勤務しました。そこでのハンセン病患者の治療と在宅患者の施設収容に傾注した実体験を『小島の春』と題して出版しました。この作品は、文学的にも高く評価され、ベストセラーとなり「小島の春現象」という社会現象にまでなり、小川正子は、ハンセン病のナイチンゲールとして脚光を浴びました。しかし、同時に映画化もされた『小島の春』は、ハンセン病は怖い病気だという意識を国民に印象付け、患者は隔離すべきという国策に協力する作品との批判も起こり、小川正子は、「無らい県運動 -Wikipedia」に加担した医師という評価も挙がりました。
 1996年(平成8年)4月1日施行の「らい予防法の廃止に関する法律」で、「らい予防法」は廃止され、ハンセン病患者は、一般の病院や診療所で健康保険で診療できるようになり、長く続いた患者の隔離政策の誤りを国が認め、謝罪に転じた訳ですが、小川正子記念館には、その辺の公開質問状や評価を巡る抗議などもある旨、前館長末利光氏が語っていました。            
 死亡原因や患者数で、日本の三大病とか世界の三大病という区分けがあります。 現在の日本では、「ガン」、「心臓病」、「脳卒中」と云ういわゆる成人病で占められていますが、病名を隠すこともなく、特段の差別云々は聞きません。あえて言えば、これらの元凶は「全てタバコ」とされ、喫煙者が差別されていると私は思うのですが・・・死亡原因や患者数の多い病気は、身近に必ず一人や二人患者もいて免疫や慣れがあることが大きいのでしょうが、多すぎて「差別しきれない」から「差別がない」のでは?とも思えてきます。

2011年8月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―71 『うちわ-2』

 杉浦家には、歴史的なうちわも数多く保存されています。全く未使用の「東京日本橋團扇榛原直次郎」と記された袋入りのうちわは、同じ作家の異なる絵柄で3本あります。この会社は江戸時代に創業し、ウィーン万国博覧会(1873年)、パリ万国博覧会(1878年)に日本で初めて和紙を出品し、現在も株式会社榛原として続いている和紙を扱う老舗です。ヨーロッパに渡った榛原製の和紙は、イギリスのビクトリア・アルバート美術館、グラスゴー美術館、フランスのパリ装飾美術館などに、現在も保存されているそうです。こういった美術工芸作品のうちわから岡島呉服店や柳町梅林堂等々のうちわまで、実物をご覧いただくのが一番ですから、「杉浦家うちわ展」の検討が必要ですが、今日は、杉浦家に全て揃っている「日本3大うちわ」について講釈してみます。「日本3大うちは」とは、うちわの3大生産地でもあります。


 左の写真は、「房州うちわ」と呼ばれる千葉県南房総市、館山市にかけての特産うちわです。この地方に古くから自生する女竹という細い篠竹を原料に作ることから、細く割いた骨と一体となった丸い柄が特徴です。実際手に持つと細い骨のせいもあり軽く感じ、丸い柄は優雅でもあり、女性向きと云った印象です。 
                           
 骨と柄が一体で、柄の部分が平らなうちわは「丸亀うちわ」で、香川県丸亀市とその周辺地域で作られています。丸亀うちわは平たく削った男竹と呼ばれる真竹が材料ですから、柄も太く男性向きの感もします。街頭などで無料配布される骨も柄もプラスチック製の現代うちわは、この丸亀うちわの形状が主流でしょう。

 京都市一帯でつくられる「京うちわ」は、別名「みやこうちわ」とも呼ばれ、細い竹ひごに紙を張った骨部分と柄は別々で、柄をさし込んでいるのが特徴です。浴衣の帯に差し込みやすいように長い柄のものなど骨と柄が一体でない利点を生かした種類の多さと涼をとる実用品としてのうちわから鑑賞用のものまで、バリエーションに富んでいるのも特徴です。

 京うちわに限らず、うちわの価値や値段は、骨部分の細い竹ひごの本数で決まるようです。手元にあるプラスチック製の現代うちわのプラスチック骨は27本ですが、岡島呉服店のうちわは67本、日本橋團扇榛原のうちわは88本の骨があります。百万円という京うちわは、100立てと云われる100本以上の細い竹ひごに両面から高級和紙を貼り、有名画家の手描き絵にサインと落款も配され、額のような「うちわたて」とセットですから、観て涼しむ「うちわ」という名の立派な美術工芸品です。

杉浦醫院四方山話―70 『うちわ-1』

 「うちわの風もやさしくていいですね」と純子さんが「こんな古いものですが、手放せません」と杉浦家で愛用してきた「うちわ」と「うちわ置き」を持参してくれました。
「これは、望仙閣のうちわで、こちらが開峡楼のうちわだと思います」と<望仙閣(ぼうせんかく)><開峡楼(かいこうろう)>と云った今はなき甲府の老舗料亭の思い出も話してくれました。
 昭和20年7月の甲府空襲で、甲府市中心部は全焼し、城下町甲府の面影を残す歴史的建造物も大部分焼失し、その建物で営業していた数多くの料亭や旅館、温泉などは、廃業もしくは転業を余儀なくされ、戦後も既に60年以上を経過した現在、<望仙閣(ぼうせんかく)><開峡楼(かいこうろう)>の名前も知る人の方が少なくなってしまいました。同じように、再開された<甲府桜座>がある桜町から相生町、錦町一帯にかけては、料亭<三省楼>や<海洲温泉>があり、敷地300坪、本館総建坪80坪の集会場<舞鶴館>や戦後も甲府松菱として営業していた<松林軒百貨店>、温泉旅館<東洋館>など消えてしまったかつての甲府の象徴的な建物と老舗は、枚挙にいとまありません。
 その辺の古い資料を丹念に収集し、現在地とも対照しながら 山梨県に関わる興味深い近代史のあれこれを残す作業を継続している「峡陽文庫」のホームページは貴重です。当H・Pのリンクにもバナーがありますので、是非一度ご覧ください。
峡陽文庫にあるかつての甲府中心街の写真や資料を観るにつけ、戦争とはいえ甲府市内の建造物が焼きつくされた損失の大きさは、はかり知れません。それは、現在の松本市が松本城と歴史的建造物を活かしながら城下町として、品格ある街並みを形成し、魅力と活力のある地方都市として定着している現実が、甲府市の現状と対照的であることにも因ります。
 純子さんが、現在も愛用している「うちわ」と「うちわ置き」は、ご覧のとおりです。両老舗料亭のうちわが納まっているうちわ置きは、民芸品の域を超えた美術工芸品の趣があります。「祖母の代から使っていたそうですから、明治のものだと思います」という竹を編んだ見事な意匠のうちわ置きは、これだけでも一つの作品ですが、そこに白を基調にしたさりげない形とデザインのうちわが納まると風を通す網目も涼しげで何とも言えない風情が漂い、「日本の夏」と「日本人の感性」にあらためて思い至ります。

2011年8月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―69 『杉浦家8月のお軸』

 8月は、盆に合わせての掛け軸掛け替えが杉浦家の習慣で、8月初旬から、座敷の床の間には岸浪柳渓作の観音像のお軸が盆の近いことを告げます。岸浪柳渓は、日本画特に南宗画の大家として知られ、明治から大正期に活躍した画家です。南宗画は、南画とも呼ばれ中国絵画を起源として江戸時代以降、日本で独自の様式を追求した新興の画派として現在に至っています。与謝蕪村の山水画が有名ですが、水墨による柔らかい描線と自然な感興が特色で、岸浪柳渓の観音像もふくよかで静かな佇まいが醸しだされています。
 盆の入りを前に座敷には盆飾りが用意されます。ご近所の純子さんの同級生SさんやNさんなど恒例のメンバーが3段飾りを組み立て、床の間の観音像は、曼荼羅に換わります。この杉浦家の曼荼羅は、昭和5年に健造先生が新たに設えたもので、純子さんの話では「当時の遠光寺の住職さんが書いたものだと聞いています」という大きな書曼荼羅です。「物心ついた時からお盆の曼荼羅は、これでしたが、その前の曼荼羅は怖い絵の入ったもので、2階にあると思いますから今度探しておきます」と。
盆送りと共に床の間は、茶軸に掛け替わります。純子さんが「これは、山梨の塩山あたりで詠んだ歌だと聞いています」と云うとおり「しほの山さしでの磯に住む千鳥君が御代をば八千代にとぞ鳴く」と詠まれた古今集の賀歌の書です。この「しほの山」は甲州市の「塩山」で、「さしでの磯」は山梨市にある「差出の磯」という説もありますが、真偽は不明というのが定説のようです。「さしでの磯に住む千鳥」に合わせ近隣の池も「ちどり湖」と命名したようですが、「山梨の塩山あたりを詠んだ歌」と見事に一致するのは、ロマンとしては上等だと思います。このように、8月は盆の曼荼羅を含めて杉浦家のお軸は3幅が入れ替わり、手を抜くことなく行われているご先祖様の供養を実感しました。

2011年8月9日火曜日

杉浦醫院四方山話―68 『幻の競馬場』

 杉浦三郎先生には、純子さん達3姉妹と末っ子の長男健一さんの4人のお子さんがいました。健一さんは、定年まで自衛隊中央病院の勤務医として、三島由紀夫の割腹自殺や御巣鷹山での日航機墜落事故の際、自衛隊のヘリで次々運び込まれた乗客を医長として迎え、厳しくつらい思いをしたそうです。退職後、千葉の病院長に招聘され、現役院長で亡くなり、杉浦医院は9代目三郎先生で閉院となりました。        
純子さんから近くにあった競馬場と健一さんの話を聞きました。「健一が、3,4歳の頃、住み込みの運転手さんが、健一を自転車に乗せて、よく競馬場に行っていました。」「運転手さんは、健一に競馬場に行ったことは内緒にするよう言いきかせたようですが、夕飯の時など健一が、お馬パッカパカ、お馬パッカパカと競馬場での馬と騎手のマネをするので、今日行ったのは競馬場だと直ぐ分かりました。三つや四つの子に口止めしてもお馬パッカパカで直ぐバレますよね」と。 
この運転手さんが、健一さんを連れて通った?競馬場は、玉幡飛行場の前身で、昭和3年に中巨摩郡畜産組合の管轄のもと開設された「甲府競馬場」です。昭和8年に運営が山梨県競馬会に移管され、昭和12年まで年2回開催の地方競馬場でしたが、昭和13年に山梨愛国飛行場(玉幡飛行場)の拡張で、競馬場用地は買収され、一度消滅しました。
昭和6年生まれの健一さんが3,4歳の頃は昭和10年前後ですから、甲府競馬場の全盛期でしょうし、開催も年2回では、これを楽しみにしていた運転手さんの気持ちも分かります。終戦で飛行場が閉鎖された昭和21年に地方競馬法が公布されたことから、再度「玉幡競馬場」として施行許可を受けましたが、甲府空襲で伊勢校舎が全焼した山梨県立農林学校(後の県立農林高等学校)の移転先になり、競馬は開催されることなくそのまま廃止となった「幻の競馬場」です。また、現在「廃棄道」呼ばれている道路は、当時、通称「ボロ電」と呼ばれた路面電車が走っていました。
甲府駅前から市内中心部を抜け、荒川橋で荒川を越え、増穂町の甲斐青柳駅までの約20kmを約55分で走り、30分間隔で運行していたことから、最盛期には年間に2、300万の利用客があったそうです。ボロ電は、甲府競馬開催期間中は「玉幡仮停留場」という臨時駅を開設し、後に「競馬場前」名で正式駅となりました。この駅名も競馬場が飛行場に替わると「飛行場前」となり、軍施設が明らかになる駅名は回避せよの令で「釜無川」駅となり、昭和26年に「農林高校前」と改称され、路線が廃止になる昭和37年まで高校生の足となっていました。

2011年8月7日日曜日

杉浦醫院四方山話―67 『飛行機格納庫』

 このブログで以前にもご紹介した木喰上人研究家の丸山太一氏から、先日、電話をいただきました。「杉浦さんの関係で、大事な話をし忘れていました。甲府空襲はご存知ですね?」「はい、20年7月7日の七夕空襲ですね」「そうです。その空襲で甲府の中心地は全焼し、私の家も丸焼けになりました。終戦になって直ぐ、三郎先生から杉浦さんの敷地にあった陸軍の飛行機格納庫をいただいたんです」「檜の材質でしっかりしたものでしたから、中を改造して10年住みました」「戦後の物資のない時代、どこもトタンやあり合わせの木材で雨露をしのぐバラック建てでしたから、格納庫とはいえ陸軍の物でしたから、太い柱や梁で、本当に助かりました」「玉幡飛行場が近い杉浦さんの敷地は、広くて大きな木に覆われていましたから陸軍が目を付けたのでしょう」「父の文造は健造先生に、私は三郎先生に・・杉浦さんには代々お世話になました」と。「純子さんは、うちは丸山さんにお世話になって・・とよく話してくれますが」「私の妹も私と東芝に同期に入社した東大の浜野君と縁あって結婚しましたが、三郎先生に仲人をしていただきました」「純子さんの弟さんの健一さんの結婚式にも呼んでいただきましたが、亡くなられて本当に残念です」「涼しくなって、出歩けるようになったら一度伺いますので、くれぐれもよろしくお伝えください」と要件を的確に綺麗な言葉で伝える94歳の丸山氏の電話に、ただただ「はい、はい」が精一杯といった「格の違い」が際立ちました。
株)北川組が陸軍各務原航空隊に
大正9年に施工した格納庫(現存)
玉幡飛行場は、現在の農林高校や警察学校、釜無工業団地の一帯にあった「幻の飛行場」ですが、旧玉幡村にあったことから「玉幡飛行場」の名称が一般的ですが、正式には「愛国山梨飛行場」として、1936年に完成した飛行士を養成する民間飛行場でした。健造先生、三郎先生は、西条村のみならず玉幡村や竜王村の村医や学校医に選任されていましたし、杉浦家の田畑は、両村にも広がっていましたから、泣く子も黙る陸軍が、後に、玉幡飛行場を軍民共用飛行場にして、周辺民間人の敷地に格納庫を建設しても不思議ではありません。純子さんも「現在のアルプス通りの辺に大きな建物がありました。裏のマンションより大きかったように思います」「丸山さんにお譲りしたという話は初めて知りました」と。名古屋にある(株)北川組のH・Pに大正から昭和初期にかけて、北川組が施工し現存している格納庫の写真があります。飛行機を入れる建物ですからご覧のように全て大きなものです。写真転載を快諾いただいた上に格納庫や戦争遺産について、会長さんから丁寧に教えていただきました。

2011年8月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―66 『虫捕りと秘密』

 迷走台風が抜けた後、8月になってもカッとした夏空と日差しが戻らない甲府盆地ですが、そんな気候に痴ほう症状も重なり、学校は「夏休み」に入っていることなどすっかり忘れて、今朝、高校生の奈美さん姉妹がひょっこりボランティアに訪れた際、開口一番「今日は火曜日だけど二人とも学校は休み?」の大ボケで、恥ずかしい限りです。
 夏休みと云えば「虫とり」に明け暮れた少年時代ですが、面白いゲームに囲まれた現代っ子に杉浦医院庭園の<秘密>の一つを夏休みプレゼントに公開しましょう。
下の写真は、昨年の夏、杉浦医院庭園の樹木で撮影したクワガタやカブトムシです。
 「昔は、もっと大きな樫やクヌギの木がありましたから、夜はたくさんの昆虫が飛び込んできました」「自分だけの秘密の木にしていたようで、採りに来る子は限られていました」「男の子は、この先の葦間にもよく秘密基地を作って、隠れていましたね」と純子さん。
純子さんの言うとおり「虫とり」と「秘密」はセットでした。自分だけの秘密の木や場所を密かに「秘密基地」のように思い込んで自己満足していました。高校生になって「湯村山の石切り場の手前の・・」と自慢すると「あそこは、俺の秘密基地だった」というのが数人現れ、みんな勝手に「俺だけ」と思い込んでいたことが分かりました。
このしょうもない男の<秘密>願望は、大人になっても「虫屋」と称して、世界中に昆虫採集に出掛けては「女より玉虫の方がよっぽど綺麗だ」と密かにコレクションを楽しんでいる学者や「虫」から「山菜」や「キノコ」に乗り換えて、季節には秘密のルートを辿って、採集に励んでいる身近な方々まで、後遺症として残っています。まあ、自然相手の後遺症なら市民権も得易く「いい趣味ですね」ですが、夜の街に必ずある怪しげなネオン「○○秘密クラブ」「秘密交際××」に惹かれ、足が向くアンダーグラウンドな後遺症は、後ろ指をさされたり、怖い思いをしたりと自己責任とは云え、困った後遺症でしょうか。そんな後遺症も含めて「虫捕る子だけが生き残る」という子育て本が編まれる現代、樹液と虫の関係や力を入れすぎると足がとれたり、弱いと逃げられたりといった虫を捕ることで覚える知識や鍛えられる感覚は、電脳社会を生きる子どもにこそ必要なことは確かです