2012年5月29日火曜日

杉浦醫院四方山話―143 『雪村作木鼠(リス)』

 「祖父健造の妻は、横浜から来たタカですが、タカの母も晩年は、娘のいるこちらへ移りましたから、これは、その時持ってきたものだと思います」「夫は横浜野毛の開業医でしたが、伊藤博文の侍従医や横浜港の検疫医もしていたそうですから、いいモノは、タカの母が持ってきたものが多いと思います」と純子さんが、二重箱入りの軸を持参下さいました。「雪村 木鼠」と木箱に記されているように雪村作の木鼠(リス)の絵の軸です。
 雪村は、室町末期に常陸(ひたち)国(茨城県)太田に生まれた禅僧であり、画僧だったようです。名前からも分かるように、雪村は、雪舟を強く意識し尊敬していたと云われ、画風も似ていたようです。「西の雪舟・東の雪村と云われた」との評伝もあり、雪舟と云えば涙で描いた鼠の話が有名ですから、雪村の木鼠も雪舟を意識して描いたモチーフなのでしょうか?
 後の日本画の大家・尾形光琳は、雪村の絵の模写を重ねたと言いますから、優れた画家であったことは確かでしょう。一般的には、明治時代以降、雪村の評価は低い時期があり、作品の多くは海外へ流出したそうです。1974年の東京国立博物館での展覧会を契機に近年は再評価の機運が高まり様々な画集でも紹介され、現在は、美術史上での価値も確立しているそうです。ウイッキペディアには、「雪村作品は、200点近くが現存している」と記載されていますが、杉浦家の木鼠(リス)は、その中にはカウントされていない作品でしょうから、これも「お宝鑑定団」に評価をお願いしたくなる一幅です。
 「父は、新しい物好きでしたから、この家にあるものは、どうせ偽モンだよ、と口癖のように云っていました」と、三郎先生は、真贋を調べる興味もなかったそうです。研究と治療に専念し、地方病の予防と終息の為に先頭にたって活動された三郎先生には、書画骨董にまで手を伸ばす時間的余裕もなかったことでしょう。
 「学生時代、新潟の豪農の館で有名な伊藤先生のお宅に出入りして、次元の違う凄いモノを観たせいもあるんでしょうね。北方文化博物館になっている位ですから、当時からヨーロッパのお宝もたくさんあったそうです。一つ二つ貰っておけばよかったなあとよく笑いながら話していましたから・・父の云うとおりウチのは、贋作ばっかりかも知れません」と純子さんも執着なく笑います。

2012年5月19日土曜日

杉浦醫院四方山話―142 『渡辺隆次生命曼荼羅展』

 小渕沢ICから鉢巻道路を車で15分も走ると富士見高原を抜けて長野県原村に入ります。この道路沿いに30年以上前に原村が開設した「八ヶ岳美術館」があります。信州原村は、八ヶ岳山麓の別荘地としても人気なように豊かな自然に抱かれた高原で、文化功労者で日本芸術院会員であった彫刻家・清水多嘉示氏の出身地です。清水氏の作品寄贈を受けた村は、1980年(昭和55年)、当時では珍しい村立美術館としてこの美術館を開館しました。建築家・村野藤吾の設計で、連続ドーム型のユニークな建物も話題になりましたが、常設展は、原村出身の書家・津金寉仙の書作品と清水多嘉示の彫刻と絵画ですが、その作品数と内容は圧巻です。
同時に、八ヶ岳山麓に工房を構えている様々な芸術家を紹介する「企画展」も開催してきましたが、現在は、北杜市長坂町在住の渡辺隆次氏の「生命曼荼羅展」を6月3日まで開催中です。
 渡辺画伯には、昭和町タイムリー講座の講師やカルチャーデザイン倶楽部のイベントなどでも来町いただいてきましたが、ラジオ深夜便やエッセイで、その繊細な感覚と機知に富んだ話に魅せられたファンは全国区です。絵画も細密なタッチと圧倒的な迫力の幻想的な作品が特徴ですが、長坂にアトリエを構えてからは、武田神社菱和殿の天井画120枚を全て山梨の動植物で描いたように甲州の自然や風土に根ざした作品も多数出品されています。絵画のみならず、エッセイストとしても『きのこの絵本』『山のごちそう』『八ヶ岳 風のスケッチ』を著し、画文集『花づくし実づくし―武田神社菱和殿天井画―』を上梓するなど精力的な創作活動を続けています。個人的には、渡辺画伯の手による友人でもある詩人吉増剛造の絶版詩集も展示されていて、若かりし頃、アバンギャルド(前衛芸術)の尖兵だったという画伯の辺凛と現在が対照され、感慨深く鑑賞することができました。
 このように今回の八ヶ岳美術館の企画展は、渡辺画伯の現在までの軌跡が網羅され、その全貌が観られる大変な力のこもった企画で、それに応えた作品数と展示方法に渡辺画伯の姿勢も感じ取れ、常設展と合わせて500円という入館料にも本当に頭が下がりました。
企画展の一環として、今度の日曜日5月27日(日)13時から「武田神社菱和殿天井画見学会」が、渡辺隆次氏の解説付きで催されます。武田神社菱和殿は、七五三等でも入られた方も多いかと思いますが、武田神社能楽殿の鏡板と合わせて、ご鑑賞をお勧めします。

2012年5月18日金曜日

杉浦醫院四方山話―141 『小笠原流―3』

    「母の時代の方々は、皆さんよく勉強していましたね。私なんか女学校でも教練や軍需工場での日々でしたから勉強は全然していません。恵泉でも造幣局へ動員で、印刷されたお札の検査でしたから学校では勉強してない世代ですが、それなりに楽しい学生生活でもありました」と純子さん。「歌手のディック・ミネさんが三根耕一と日本名に改名した時代でしたから、恵泉の河井道先生は、当局からは目をつけられたと思いますが、抵抗して自由な雰囲気を大切にしていました」と恵泉女学園のリベラルな校風を懐かしそうに語ってくれました。「そう云えば、戦時中はフェリス女学院も横浜山手女学院とか東洋英和は東洋栄和と改称したようですね」「そうです。敵国語とか米英を連想させるモノは排除した時代でしたが、恵泉では、英語の授業も礼拝もありましたから・・」「純子さんのグローバルな考え方やリベラルな生き方は、恵泉で筋金入りになった訳ですね」「私は、ただいい加減なだけですが、河井先生はじめ留学経験のある方が多かったのが校風になっていたんでしょうね」と自分の事はいつも「いい加減ですから・・」と一笑に付す純子さんですが、実は綾子さんに劣らぬ「勉強家」であることは、話の節々からうかがえます。


 小笠原流の「香」を通して、小笠原流「躾禮」全般を習得した綾子さんは、純子さんが述懐するように「書」も「裁縫」も「百人一首」も「料理」も・・・と、多岐に渡って長けた方であったと語り継がれています。その背中を見て育った純子さんは有楽流の「茶道」を継続しています。音楽から映画、古典や文学といった芸術全般から社会や生活の知識まで、いくら「いい加減ですから・・」と謙遜しても目を見張る知識教養や決断力、会話力等は隠しきれません。

 日本文化に精通し、感性の人として著名な白州正子は、幼少から父愛輔が出会わせた「能」の思考と切っても切り離せないと云われています。「能」を核に四方八方にその感性がリンクして「白州正子は白州正子になった」と評伝されています。現代では、内田樹が合気道など「武道」を核に文学から社会学まで幅広い発信力を備えた学者として活躍していますから、日本古来の「文化」を習得することで、広がる興味や教養は再考に価するように思います。内田が、これからの教育は「からだを賢く、あたまを丈夫にする」ことを目指すべきだと云っていますが、小笠原流を含め日本古来の文化をきちんと習得することが、「丈夫な頭づくり」には欠かせないのかな・・・と。

2012年5月14日月曜日

杉浦醫院四方山話―140 『小笠原流―2』

 明治から大正にかけて、純子さんの母・綾子さんが師事した「小笠原流十八世家元・日野節斎」の「小笠原流躾方相傳ケ条」には、「弓禮」「軍禮」「馬法禮」「躾禮」を小笠原流四禮と定め、「此の総ケ条は五百四十ケ条とす」とあります。これは、現在の作法や茶道に特化した「小笠原流」とは一線を画す内容で、四禮全ての具体的項目は540箇条とありますから、綾子どのに宛てた相傳書の内容は、四禮のうちの「躾禮」のものと思われます。
 右上の写真は、「小笠原本流書院押板真飾」と表された相伝書の一部です。
書院造は、武家住宅の建物全体の様式の総称ですが、具体的には建物の内部を引き戸の建具で幾つかに仕切り、床には畳を敷いて、天井を張り、客を迎え入れるところには押板と呼ばれた床の間や違い棚などを備えた建築様式のことです。その押板(床の間)への小笠原流の真の飾り方を図解したものですが、硯を中心に置いた場合から始まって香呂や盆石から掛け軸に至るまで細い指示が、約10mの巻物に書かれています。

 右下の写真は、杉浦家母家入口の座敷です。上の図にも硯の前には硯屏(けんびょう)という小さな衝立を置くよう記されていますが、大きな鶴の絵の衝立を硯屏(けんびょう)に硯や香呂などを飾れる机が置かれ、右に花台と花瓶の配置は、「小笠原流書院押板真飾」にある図解のとおりです。この10畳間には床の間はありませんが、このような配置を「押板」とし、この部屋の床の間であることを示しています。   現在でも宴席などで「上座(かみざ)」「下座(しもざ)」と云った言葉を耳にしますが、この押板や床の間の位置を基準に上下が決まってくることから、武士の礼法である小笠原流の書院には必要不可欠な「押板」であることから、その飾り方も10mに及ぶ図解で詳しく伝えているのでしょう。今回、書院の巻をご紹介しましたが、家元から綾子さんに伝えられた小笠原流の相伝書は、他にも庭園や料理、着物、百人一首等々、全て図や絵も含め墨での直筆で、数メートルにも及びますから、大正時代初期、一巻如何程だったのか…

2012年5月9日水曜日

杉浦醫院四方山話―139 『小笠原流―1』

 合併した南アルプス市は、旧櫛形町に小笠原の地名もあり、「小笠原流」発祥の地として、「小笠原流作法」や「小笠原流流鏑馬」などを開催して、町おこしを図っています。この小笠原流は、武田の家臣・加賀美遠光からの武士の流儀を子の小笠原長清やその子孫が受け継いで確立したというのが一般的なようですが、その辺の正確な定義は、諸説あり調べてもよく分かりません。現在「小笠原流作法」や「小笠原流茶道」など分野ごとで小笠原流を名乗り、それぞれが家系図で正統性を強調し、別系統についてはお互いに触れず「宗家」「本家」「本流」等々を自称していて、「よく分からない」状況に一層拍車がかかっています。
これは、江戸時代、経済の担い手が、武士から商人へと移行していったことに起因しているようです。江戸も中期になると武家社会も豪商の財力なしでは成り立たなくなり、武士と対等で付き合ううえで商人も格式ある礼法が必要になり、武士の礼法小笠原流礼法が注目されたといいます。しかし当時の小笠原家では小笠原家伝来の弓馬礼法の奥儀は一子相伝で、余人には伝えられることはなかったため、町人がその全容を知ることは不可能でした。そんな中で、自称小笠原流師範が現れるようになり、中には、小笠原家を出て浪人しながら礼法を教え、蓄財を図るものもいたそうです。こうした小笠原家とは関係もない礼法専門家たちが、町人たちの好みに合わせて、華美で贅沢な事大主義的「小笠原流」を作り上げたとの解説もあります。まあ、家系図で家柄や血統を崇めての宗家や本家争いは小笠原流に限りませんから、これも「万世一系」の国の成せる技でしょうか。
 純子さが「母は小笠原流の香をやっていたようですが、何も話さない人でしたので、これは母のものですが・・・」と大小の巻物を多数持参下さいました。上記写真のように全て、小笠原流家元・日野節斎氏から「杉浦綾子どの」への直筆の相伝書です。「杉浦門人殿」の表記もありますから、健造先生の娘で三郎先生の妻であった純子さんの母・綾子さんは、小笠原流家元から門人と称される直弟子であったことが分かります。「不肖の娘には何を云ってもしょうがないと、何も言わなかったんでしょうね」と朗らかな純子さんです。