2014年12月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―388『2014雑感』

 好きな車のナンバーを有料で選べる制度があり「希望ナンバー制」と言うそうですが、その希望ナンバーで人気のある番号は、ラッキーセブンと末広がりの八を組み合わせた「78-78」とか「いいパパ、いい母」の語呂合わせで「11-88」など「8」は人気のようですから、今年の四方山話も8が重なるこの388話で締めたいと思います。


  今年一年を振り返って様々な「〇〇大賞」と云った報道が年末の恒例になっている感もしますが、そちらにはあまり興味もありませんが、今年亡くなった方などの報道には、歳のせいでしょうか、感慨深く見入る時もあります。今年で云えば、俳優の高倉健と菅原文太両氏の相次ぐ死は驚きと共に「昭和の終焉」を実感させられました。

 

 1970年前後からの高倉健と菅原文太主演のいわゆるヤクザ映画は、娯楽映画の枠を突け抜けた大きな社会現象となりました。

 画家の横尾忠則が健さんをモチーフに描いたポスターは飛ぶように売れ、「桃尻娘」で有名な作家・橋本治が学生時代書いた「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーを配した東大駒場祭のポスターも「背中で泣いてる唐獅子牡丹」を東大のシンボル「銀杏」に変えてのパロディー作品として一世を風靡しました。

 

 この第19回駒場祭のあった1968年は、学生運動が東大から全国に広がった年でもあり、翌年1969年の東大入試は中止になった程でした。

 「東大以外は受けない」と宣言して一浪中だった同級生の故K君は、高校時代「悲しみの多き母の赤い顔 母よわかれぞ 母よ泣くなよ」と詠いましたから、この時代に共通するシンボリックは「おっかさん・母」であり、突き詰めれば団塊世代など単に「マザコン」集団だったようにも思えてきます。


 池袋文芸坐でオールナイトで観た健さんや文太さんは、今思い出しても間違いなく紫煙漂う先のスクリーンでの勇姿でした。「タバコを吸いながら映画を楽しめたのも昭和だったのだ」と、つらつらつら思い出します。


 マザコンと云えば、今年の流行語大賞は「ダメよダメダメ」だそうですが、「ダメよダメダメ」なら森進一かと思いきや名前も知らないコンビでした。

健さんや文太さんで溜飲を下げて巷に戻れば、森進一が歌う「年上の女」で「だめよだめだめ つらいのと」と連発していましたから、矢張りあの時代は、マザコン集団が虚構の強さを求めて健さん、文太によりかかったと云うのが客観的なように思います。塊によりかかられたご両人には、素直に「ありがとうございました」と頭が下がります。

 

 ヤクザ映画や学生運動が潮時を迎えた頃のヒット曲は、中島みゆき作詞・作曲の「時代」でした。「まわるまわるよ時代はまわる」のリフレインが思い起こされますが、最終フレーズの「今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ」は、マザコン男への中島みゆきの応援歌でもあり、「歌は世につれ世は歌につれ」で、あらためて「ことわざ」の奥深さにも思い至った一年でした。

2014年12月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―387『長八の宿・つげ義春と山梨』



 

   静岡県の西伊豆にある松崎町の町長と観光協会会長ご一行様が昭和町に視察にみえ、当館にも来館いただきました。松崎町と聞けば「長八の宿」ですから、勝手に親しみを覚えてしまいましたが、漫画家でエッセイストのつげ義春の名作「長八の宿」は松崎町に現存する旅館を題材にした忘れられない作品で、30年以上前に泊りに行ったのを思い出してしまいました。  

 

 松崎町には観光協会があるように夏の海水浴だけではなく、山も温泉もあり、魚も旨いと云う恵まれた風土ですが、鏝絵(こてえ)発祥の地にふさわしく、左官職人による「なまこ壁」の街並みも保存され、その一角には、豪商の館・中瀬家や長八美術館など見どころも多く、伊豆と云えば松崎町が先ず思い浮かびますが、平成の大合併で西伊豆町になったものと思っていましたが、昭和町同様単独行政を貫いているそうで、一層親近感が増しました。

 

 

 寡作で、ある意味マイナーな漫画家・つげ義春ですが、私たちの世代ではカリスマ的な存在でもありました。私事で恐縮ですが、狛江市と調布市にまたがる多摩川住宅と云う団地内の小学校に勤め先が決まった時は、多摩川住宅につげ義春が住んでいて散歩が日課のつげ義春に会えるのが楽しみでした。シュールな作品も身近な多摩川住宅の給水塔や狛江駅前のお寺や古本屋など舞台が特定できることも魅力でしたが、つげ作品のテーマは、一家の「日常」とつつましい具体的な「夢」とささやかな「旅」の3本柱で、自己を「無能な人」と否定する暗さで一貫していました。

 

 このようにつげ義春は、甲州弁で云う「ひっけ」な性格(内気・人見知り)を作品に表象した作家ですから、取材旅行に出ることも少なく、家族で行く近場の温泉や振り向きもされない鄙びた片田舎が「旅」のテーマでもありました。散歩コースの多摩川はじめ調布から安近短の千葉や静岡、山梨などが主な旅先で、北海道など遠い旅は一切してないのも特徴です。そんな訳で、東京近郊のうらぶれた街や山峡の侘びしげな宿、名も知れぬ温泉を好んで訪ね歩いていたつげ義春は、山梨もお気に入りの旅先でした。 

 

 まあ、山梨と云えば富士五湖だったり八ヶ岳南麓が観光スポットなのでしょうが、そう云った所には見向きもせず、有名なエッセイ「秋山村逃亡行」は、山梨のチベットと云われた秋山村ですし、「猫町紀行」は、甲州街道の野田尻宿の犬目宿を目指すもののたどりつけぬまま 「猫町」 を見たと云う幻夢的な作品ですが、これも上野原市の外れが舞台です。

 

 つげ義春の代表作「ゲンセンカン主人」は、群馬県の温泉宿がモデルのようですが、現身延町の下部温泉にも来ていますから、下部の元湯「源泉館」からの命名でしょう。

 

その他にも「塩山鉱泉」「田野鉱泉」「嵯峨塩鉱泉」「鶴鉱泉」など山梨県民でも知らないような温泉宿を訪ねては作品に残して、山梨への移住も考えた程でしたが、「歳とったら寒さは こたえるし、耕作も考えると、気候温暖、地味肥沃(ひよく)の千葉県などが ・・・」とエッセイに記しています。

 

 そう云えば、もう20年近く前でしょうか、つげ義春全集が刊行された折、昭和バイパスにあったブックス三国に申し込むと、店主のMさんが毎月職場に届けてくれましたが、そう云った街の本屋さんも消え、つげ義春本もアマゾンで購入する時代ですから、つげ氏が描かなくなったのも無理からぬことのように思えます。

2014年12月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―386『アジア各国の獣医師研修会』

 アジア各国の獣医師が、科学技術振興機構(JST)の研究交流事業「さくらサイエンスプラン」で現在、麻布大学で研修活動を行っていますが、その一環として昨日35名の皆さんが来館し、日本住血吸虫症について研修をされました。

 

 事前に大学で、この病気について学んでからの現地研修会で皆さん獣医であることから、この病気と動物とのかかわりについての資料を用意して案内しました。

 

 桂田富士郎博士と三神三朗氏が、三神氏の愛猫「ひめ」を解剖して、初めて日本住血吸虫の虫体を発見したことや感染経路を確定する為に馬を甲乙二組に分け、甲の馬には、水を飲めないように口元を袋で覆って経口感染出来ないようにし、乙の馬は皮膚感染しないように四脚に防水装置を付けて、水田に放った百年前の実験から、当時主流だった経口感染説が覆り、寄生虫の皮膚感染が確定したことなどを写真を使って説明しました。

 

 また、健造先生が進めたアヒルやウサギ、ザリガニなど天敵によるミヤイリガイ殺貝活動など地方病終息に至るまでに動物の果たした役割の大きかったことも伝え、現代の機械化された日本農業も五十年前は人と牛や馬など家畜と一体だった映像なども観ていただきました。

現在もこの病の患者や患畜の多いアジア諸国で獣医として働く皆さんですから、寒い部屋も温かくなるほど熱心な研修会となりました。

 

 館内見学後、記念写真を撮りましたが、日本家屋の母家や庭園にも興味が尽きず写真撮影に忙しく、予定時間をだいぶオーバーして、次の研修地である北杜市の県酪農試験場へと向かいました。

2014年12月8日月曜日

杉浦醫院四方山話―385『杉浦家家相図-1』

 国や県が指定する文化財の建造物は多数ありますが、茨城県の水戸街道に面した土蔵造の造り酒屋「矢口家住宅」は、店蔵・袖蔵・元蔵の三蔵が並ぶ江戸時代の建造物で、家相図が7枚残っていることでも著名です。

この矢口家住宅の家相図は、天保9年(1838)から大正5年(1916)年のものまでで、増改築ごとに家相を観てもらい家相図に残したことから、内部の変化や歴史的背景が分って、建造物同様家相図も貴重な文化財になっています。


 県内でも富士吉田の「小佐野家住宅」と大月市の「星野家住宅」は、県の重要文化財に指定されている建造物ですが、両家には、「附家相図1枚」と家相図も一緒に指定されている表示が付いています。

また、南アルプス市の「安藤家住宅」には、家相図は残っていないようですが、「棟札」が母屋にあることから「附棟札1枚」の表記になっています。

家相図や棟札から建築年代が正確に判明できることも資料的に重要と云うことでしょう。


 

 純子さんから預かった資料の中から、下の写真のような「家相図」が出てきました。



 「明治5年12月」に「陰陽歴博士家大阪住 松浦翫古」の署名・捺印のある「家相方位鑑定図」です。  

現代ではあまり顧みられることの少ない「家相図」ですが、現在の杉浦家と重ね合わせてじっくり見てみると面白く、中国4千年の知恵に日本人の風土や経験値がなんらかの形で込められているのだろうと思えてきます。赤字で360度の方位を細かく分けていますから、方位学的なアプローチが基本なのでしょうが、そういう意味では、日当たりや通風なども考慮する合理性も加味されているようです。
 現代でも「家相図」まで作らなくても地形であるとか、地盤だとか方位、風向きなど「土地を読む」ことを自然にしていますから、「風水的」な検討が成されているわけで、「家相」という言葉を使うかどうかは別に必ず行われていることに気づかされます。

 

 杉浦家にこういう図面まで残されているというのは、風水に乗っ取った設計だった証でしょうが、大阪在住の陰陽歴博士に明治の初めに依頼していたわけですから、相当の金額が必要だったことは想像に難くありません。

 また、こう云った陰陽歴博士という職業も確立していて、実力さえあれば遠く甲州からも依頼があったことを物語っていますが、この家相図どおり現在は溝蓋がかかった水路ですが、杉浦家の南には川が流れていましたから、大阪の陰陽歴博士・松浦翫古氏は、当地にも足を運んで鑑定したのでしょうか?
さまざまな疑問や想像と共に思わずじっくりと見入ってしまった図面ですが、100年以上経過していますから、しっかり修復して保存、公開していくことも課題です。

2014年12月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―384『昭和9年の新聞ー4 東京大学総合研究博物館 』

 健造先生の肖像額裏にあった昭和9年の新聞は、現在からすると面白い記事や広告で溢れてれていて、興味が尽きません。

地方紙に広告のあった「第十銀行」と「有信銀行」、「大森銀行」も戦時経済が加速する中で、軍需資金調達に追われた国は、「戦時非常金融対策実施要領」などで銀行の国家統制策を進め、新聞同様、銀行の「一県一行政策」を打ち出し、現在の山梨中央銀行一行に併合された歴史も知りました。



 広告にあった名も知らない「薬」の歴史を調べていく過程で、東京大学総合研究博物館の画像アーカイヴスと云う存在も初めて知りました。そこには、明治24年から昭和20年までの日本の新聞広告が3000点収録されています。

東京大学総合研究博物館小石川分館

 大学の博物館では、東京農業大学「食と農の博物館」と東海大学の「自然史博物館」は知っていましたが、東京大学にも入館無料で、こんな素晴らしい博物館があることも知りませんでした。

それでは、地元の山梨大学にも発酵生産というユニークな学科があることから「ワイン博物館」があるのかと検索すると「ワイン研究所」はありましたが、「ワイン博物館」はありませんでした。

まあ、東京大学総合研究博物館もスタートは「資料館」だったようですから、研究所から博物館への移行も可能でしょう。国立大学の博物館は、入館料無料が共通していますので、ワインの試飲も含めての山梨のワイン博物館なら、さぞ人気の博物館になることでしょう。

 

 東京大学総合研究博物館の画像アーカイブスを拝見して、何処かでこう云った資料を保存していかないと確かに残らない史料であることを実感できますから、財政力のある東京大学が幅広くカバーしていくのも一つですが、「食と農の博物館」のように特色ある学部や学科を活かした大学の博物館、例えば山梨大学の「ワイン博物館」以外にも山梨学院大学なら「カレッジスポーツ博物館」とか、身延山大学なら「仏像博物館」など、地方にも点在する方が全体としては面白いかなと思いました。  

杉浦醫院四方山話―383『『昭和9年の新聞ー3 花柳病 』

 昭和9年の2月20日前後の新聞を紹介してきましたが、東京朝日新聞は薬の広告が8割を占めていました。全面広告の「ブルトーゼ錠」をはじめ「肺ぜん息にイマジミン」や「生殖器障害に特効コムポルモン」、「感冒予防にわかもと」「虚弱児童に飲み易い肝油」「ひび・しもやけ・やけどにエゼン軟膏」等々症状に合わせた薬の広告に混じって「正義が勝って製薬の王者今や起てり!ホシ胃腸薬」と、勇ましいフレーズの広告もあります。


 一方、山梨日日新聞はじめ地方紙の広告主は、医院と銀行が8割です。昭和9年当時の医院は全て「醫院」表記で、開業医の広告ですから、「杉浦醫院」も探しましたが、広告を出す必要もなかったのでしょうありませんでした。


 中央紙の東京朝日新聞と地方紙の医院広告で共通した特徴は「花柳病(かりゅうびょう)」「花柳病科」と云った現在では目にしない病気の醫院広告の多いことです。

 
 日本の伝統的な交遊スポットを「花街(かがい・はなまち)」と総称し、高尚には芸子の存在もあり「花柳界」と呼んでいたことから、性病をオブラートに包んだのが「花柳病」でしょう。ですから、カルテには、花柳病と云う病名の記載はなく、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、梅毒の三つの性病のいずれかだったようです

 

 江戸時代の遊郭や兵士の性病予防の必要性から敷かれた日本の公娼制度は、GHQによる公娼廃止令が出るまで、売春を特定目的のためには有用なものと認め,いわば必要悪としてその存在を承認してきました。

公娼制廃止後も赤線地帯、青線地帯と云われた売春目的の特殊飲食店が集まった地域が温存され、その後もトルコ風呂と呼ばれた特殊浴場等を経て、「手を変え品を変え」の風俗店で、売買春は、現在まで綿々と続いているのは日本に限りません。いわゆる「従軍慰安婦」問題の困難さと本質もそこに集約されているのでしょう。


 医学の進歩や新薬の開発などで、病の主流も時代と共に変わり、現在では、花柳病も死語となりましたが、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されてからもこの菌は生き続けていると云われていますから、地方病同様、流行が終息しているだけで、根絶されたわけではないと云うことでしょう。