2014年12月8日月曜日

杉浦醫院四方山話―385『杉浦家家相図-1』

 国や県が指定する文化財の建造物は多数ありますが、茨城県の水戸街道に面した土蔵造の造り酒屋「矢口家住宅」は、店蔵・袖蔵・元蔵の三蔵が並ぶ江戸時代の建造物で、家相図が7枚残っていることでも著名です。

この矢口家住宅の家相図は、天保9年(1838)から大正5年(1916)年のものまでで、増改築ごとに家相を観てもらい家相図に残したことから、内部の変化や歴史的背景が分って、建造物同様家相図も貴重な文化財になっています。


 県内でも富士吉田の「小佐野家住宅」と大月市の「星野家住宅」は、県の重要文化財に指定されている建造物ですが、両家には、「附家相図1枚」と家相図も一緒に指定されている表示が付いています。

また、南アルプス市の「安藤家住宅」には、家相図は残っていないようですが、「棟札」が母屋にあることから「附棟札1枚」の表記になっています。

家相図や棟札から建築年代が正確に判明できることも資料的に重要と云うことでしょう。


 

 純子さんから預かった資料の中から、下の写真のような「家相図」が出てきました。



 「明治5年12月」に「陰陽歴博士家大阪住 松浦翫古」の署名・捺印のある「家相方位鑑定図」です。  

現代ではあまり顧みられることの少ない「家相図」ですが、現在の杉浦家と重ね合わせてじっくり見てみると面白く、中国4千年の知恵に日本人の風土や経験値がなんらかの形で込められているのだろうと思えてきます。赤字で360度の方位を細かく分けていますから、方位学的なアプローチが基本なのでしょうが、そういう意味では、日当たりや通風なども考慮する合理性も加味されているようです。
 現代でも「家相図」まで作らなくても地形であるとか、地盤だとか方位、風向きなど「土地を読む」ことを自然にしていますから、「風水的」な検討が成されているわけで、「家相」という言葉を使うかどうかは別に必ず行われていることに気づかされます。

 

 杉浦家にこういう図面まで残されているというのは、風水に乗っ取った設計だった証でしょうが、大阪在住の陰陽歴博士に明治の初めに依頼していたわけですから、相当の金額が必要だったことは想像に難くありません。

 また、こう云った陰陽歴博士という職業も確立していて、実力さえあれば遠く甲州からも依頼があったことを物語っていますが、この家相図どおり現在は溝蓋がかかった水路ですが、杉浦家の南には川が流れていましたから、大阪の陰陽歴博士・松浦翫古氏は、当地にも足を運んで鑑定したのでしょうか?
さまざまな疑問や想像と共に思わずじっくりと見入ってしまった図面ですが、100年以上経過していますから、しっかり修復して保存、公開していくことも課題です。