2018年3月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―537『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-3

 福山誠之館高校と甲府一高の同窓会について感じたままを書いて来ましたが、これも何かの縁ですので、両校や両風土に重なる部分を記してまとめとにしたいと思います。

 

 『誠之館人物誌』の中には井伏鱒二氏がいます。下記リンクのように当四方山話の中でも井伏氏には何回か登場願いましたから、井伏氏の紹介ページを読んでみました。この『誠之館人物誌』の凄いところは、取り上げた同窓生一人一人の「経歴・業績」や「生い立ち」だけでなく、誠之館で学んだ中でのエピソードや意味にまで言及していることです。

 

 井伏鱒二について、元校長だった吉田博保氏が『旧制福山中学と「山椒魚」ー試練が培った井伏文学の土壌ー』を書いています。

詳細は、上をクリックして読んでいただくとして、吉田氏は福山中学校時代の井伏には、総じて居心地の良い学校生活ではなかったことを代表作の一つ「山椒魚」と重ねて評しています。

 

 具体的には、

≪しかし、満寿二(鱒二の本名)青年にとって、当時の誠之館中学は、必ずしも満足感をもって受け入れられていなかったように思われる。 「岩屋」の内に閉じ込められた「山椒魚」の「悲しみ」は、当時の井伏の「誠之館中学」という閉鎖社会を投影しているように思える。≫  とか

≪私は農家の出身で、幾らかそのせゐもあるだろうが、中学時代には阿部正弘公(創設者)を大して崇めてゐなかった。幕末のころの私の先祖や近隣の人たちは、殿様を恨む百姓一揆を秘かに歓迎してゐたと思はれる節もあるほどだ。『半生記』≫ 

更に

≪服装検査も頻繁に行われ、彼自身も、大正2年(1913年)6月(2学年次)の服装検査にひっかかり、粟根から出て来られたお母さんが、「田舎者で、私の日頃のしつけが悪いものですから」と深く謝罪され、舎長の生徒から井伏君を直接忠告制裁したいむねを受けた舎監が、それを制し、同郷の友人や親戚筋の先輩に、今で言うカウンセラー的手法で、彼の相談相手として立ち直らせてほしいむねを頼んだエピソードもある。≫ 

等々を挙げつつ

≪いわば、多感な青年時代に、多くの試練を与えた福山中学は、以後の井伏文学を生む母胎を形成する一翼を担ったと言ってよかろう。≫と結んでいます。


 成る程、後に進んだ早稲田大学文学部仏文科や日本美術学校も全て中途退学していますから井伏鱒二は、厳しい福山中学で≪言いしれない「諦観(あきらめ)」に到り≫≪この「諦観」を原点に、「諧謔(ユーモア)」と「哀愁(ペーソス)」にあふれた表現手法≫を確立したという吉田氏の評には説得力があります。


 郷里・福山には戻らず、中央線阿佐ヶ谷に住み甲州をこよなく愛した井伏鱒二は、戦争中の疎開先も甲府の外れ甲運村でした。山梨での釣り友達・飯田龍太氏も山梨でのかかり付け医・古守豊甫氏も甲府一高の同窓生でした。甲府の定宿「梅ケ枝」や「天下茶屋」等、井伏氏にとって山梨は「第二のふる里」と云っても過言ではないでしょう。

 当杉浦醫院に通った患者さんが残した落書きの中にも井伏鱒二の名訳が刻まれていますから、甲州人に愛された井伏氏と云えます。

それは、生まれ育った広島県福山地方は、甲府盆地同じ盆地でもあり、山梨と同じ日本住血吸虫症の数少ない有病地域でしたから、井伏氏にとっても甲州人にとっても親近感もあったのでしょう。

甲州・無頼氏が刻んだ井伏鱒二の名訳「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
 

44話 『落書き考』      116話「紫煙文化ー2」   

424話『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』  

2018年3月5日月曜日

杉浦醫院四方山話―536『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-2

 当館の図書資料の中に昭和62年度甲府中学・甲府一高同窓会が再販した「歴史資料写真集」と云う約50ページの冊子があります。奥付に初版は昭和54年1月で、これを増補改訂した第3版が62年3月、同年5月には第4版とありますから、需要があって版を重ねていることが分かります。


 この写真集は、望月春江の「鯉」から始まって鳥居雅隆や米倉寿仁等々の絵画、石橋湛山や中村星湖等々の「書」など「本校卒業生」の作品から講演のため来校した西脇順三郎の色紙など甲府中学・甲府一高が所蔵している文化資料の写真集です。


 この写真集が編まれるように甲府一高は、福山誠之館高校に勝るとも劣らない文化資源を擁しているのにその存在や内容が全くと云っていいほど知られていません。

その点、福山誠之館高校は学校が内包する歴史資料を同窓会が管理して公開していることがホームページ上からもうかがえます。

要は、学校と同窓会の「関係」の違いかも知れません。


 上記の「写真集」の中には、「校門門扉」「図書館前の池」「本館前庭」「校門西石庭」「日新ホール前庭」「中庭」等々の写真も入っていますが、それぞれの寄贈者は「東京同窓会」「甲子会」「御坂会」「惜城会」「昭和2年卒業生」等々、同窓会もしく同窓生有志が母校に寄贈したものであることが分かります。甲府一高同窓会は、母校に気前よく必要な備品や施設を寄付することが伝統になっているようです。昭和町の押原中学校の桜並木も同じように同窓生の手による植樹だったそうですから、山梨県の同窓会全体の傾向かも知れません。

 

 贈られた学校は、以後これらの維持管理をしてきたのでしょうが、在校生には学校を構成する一部としての認識しか持てないのが実際かと思います。福山誠之館同窓会は、このような同窓会の寄贈物を同窓会が積極的に常時周知活動をしていますから、在校生も同窓会の寄贈物に囲まれた学校であることを知りつつ同窓生となっていき、その伝統が継承されているのでしょう。


 まあ、よく言えば甲府一高同窓会は「金は出すが口は出さない」、福山誠之館同窓会は「金も口も出す」と云った感じもしますが、矢張り同窓会に対する風土の違いと解すのが妥当かな?と・・・・


 

 近々では、甲府一高の卒業生で、「中世史」の東京大学教授だった五味文彦氏の蔵書が市川大門町の旧二葉屋酒造店を改修したギャラリー内に寄贈されるそうです。同窓生である五味氏の学術書は、同窓会が窓口を開いておいて母校内に「五味文庫」を設け、公開した方が五味氏の意にも添うように思いました。同じような事例はもっとあるかと思うと矢張り「勿体無いなー」です。