2020年1月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―605『麻布大学サクラサイエンス』

 今年で6回目となる「麻布大学・サクラサイエンス」の一行31名の皆様が24日に来館されました。



今年は、アジア21カ国の獣医師や大学教授などの研究者が1月20日から29日まで麻布大学で「検出漏れしないランプ法による鳥インフルエンザとBVDの検出」とか「犬を用いた鍼灸治療法の実践」「放射線防護実験」等々最先端の獣医学を学び、この日は忍野八海等で富士山を愛でた後「日本住血吸虫症」について杉浦醫院で学習すると云うプログラムでした。


 リーダーの黄教授とサブの平教授とも6回目と云う事もあり「今年は日本での終息活動の具体的な取り組みに絞って話します」と限られた時間での有効活用を提案しました。

黄教授が私の説明を単に通訳するだけでなく、参加者の各国での現状や歴史について質問して参加者が答え、共通理解を図ってくれますから「日本住血吸虫症はバングラディッシュでは既にヒトの患者はゼロだが動物には残っている」等々、私たちにとっても貴重な学習機会となるのが、このプロジェクトの特徴です。

 中には日本住血吸虫症の大家もいて、終了後自分のスマホに残っている貴重な画像を次々見せてくれました。特に解剖時の最新の画像には住血吸虫もしっかり写っていてコピーを欲しくなりましたが、追って黄教授におねだりすれば・・・とも思い遠慮しました。

 

 前日の23日に平教授から最終確認の電話がありましたから「明日は天気が心配ですね。富士山も見えないかもしれないので忍野に行くなら、雨だったら森の水族館が良いと思います。2月3日からの公開となっていますが、生きたミヤイリガイとカワニナの飼育展示が始まります。もう準備は出来ているはずですから、杉浦醫院から紹介されたと話せばOKだと思います」と伝えました。


 到着するなり平教授から「水族館にも行ってきました。情報をもらって助かりました」と礼を言われ、黄教授は「水族館の方にはミヤイリガイの餌について自分たちの経験を伝え、感謝されました。これを機に水族館とも連絡を取り合っていくことになりました」と双方にメリットのあった旨の報告も受けました。


 麻布大学が夏休みや冬休みにサクラ・サイエンスと銘打ってアジアの獣医学者に研究機会を設けていることはあまり知られていませんが、毎年新たなメンバーが定員いっぱい参加していますから参加者には魅力ある内容となっているのでしょう。

約10日間、大学周辺のホテルに宿をとり、午前9時から夜7時、8時までぎっしり詰まったカリキュラムで学んで中日に当館の見学会が組まれていますから、前半が終了し後半に向かう節目のリラクゼーション的意味もあるのでしょう。

参加者は、帰りを惜しむように庭園内で写真を撮りあって思い出づくりもしていましたが、杉浦醫院が少しでもお役に立てれば光栄なことだと思います。

 

「私は定年退職になりますから来年からは平先生が仕切ります」と黄教授は宣言して帰途に就きました。「継続は力」を実感できた毎年の訪問とこのプロジェクトを定着させた黄教授の労に感謝しつつのお見送りは自然に頭も低く垂れました。 

2020年1月20日月曜日

杉浦醫院四方山話―604『忍野の森の水族館・新企画』

 山梨県忍野村にある「森の水族館」は、「山梨県立富士湧水の里水族館」の愛称ですが、忍野八海でも有名な透明度の高い富士の湧水で淡水魚を専門に展示している特徴ある水族館です。

 現在、この水族館は、株式会社・桔梗屋が指定管理者となって管理・運営をしていますが、若い職員は大変意欲的で「地方病の中間宿主として悪名高いミヤイリガイの展示を考えています」と当館にも何度か足を運んで準備をしていました。

 

 当館でも独協医大の研究室の皆さんが定期的に韮崎市にミヤイリガイの採集に来ていましたから一緒にミヤイリガイを採集して、水槽で飼育を試みたことはありました。

大学では湿ったガーゼに包むようにして飼育しているそうですが、見学者に棲息環境も分かるよう水槽に斜面状に土を入れ、そこに雑草も移植し底部に水を張って飼育しましたが、永く生かすことはできず諦めた経緯なども話し「是非、水族館のノウハウでミヤイリガイが常時観れるよう展示を実現させてください」と期待しお願いしてきました。


 約4カ月後の先日「やっと一月からミヤイリガイの展示を始める段になりました」と連絡が入り、二人の職員が展示説明文の相談にみえました。ミヤイリガイを展示する水槽を囲むように地方病の説明やミヤイリガイの生態などを分かりやすく説明した文案もそのままでも十分でしたが、有病地一帯のホタルが消えたのはミヤイリガイ殺貝活動の結果でもあることを入れて欲しい旨お願いしました。

 

 既に、森の水族館ホームページ上には、ミヤイリガイ展示開始の予告も載っていますので楽しみです。

http://www.morinonakano-suizokukan.com/

 

 これで、山梨県内には地方病関連の展示資料館が当館と県立博物館に加え森の水族館の三館になります。来年度の小学校4年生の社会科教科書にも地方病が取り上げられていますから、子ども達も多く訪れる森の水族館に当館パンフも置いてもらい相互に周知を図っていくことになりました。

 

 生きたミヤイリガイを目の当たりに出来るのは、世界中でもおそらく森の水族館だけだと思います。今月下旬からの展示だそうですから、事前に問い合わせて行くのがベストかと思います。

 

2020年1月14日火曜日

杉浦醫院四方山話―603『山梨県の歌』

 最近の山日新聞広告記事に桔梗屋の中丸会長がエッセイ風に「山梨県の歌」について記していました。その新聞が手元に無いので正確さに欠けますが「隣県の長野県民は現在でも県の歌を老若男女が歌っているのに山梨県の歌は知っている人の方が少ない」と現状を嘆き「自分が子どもの頃は毎日ラジオから流れ、自分も歌ってきた」として、歌詞と譜面も紹介し「歌い繋いでいこう」と呼びかけていたように記憶しています。


 中丸氏と私は同世代ですから「確かに朝のラジオで流れていたなあ~」と思い出しましたが、中丸氏のように歌えるかと云うと歌詞もメロディ―も不確かで、郷土愛の差異かな?と思いましたが、桔梗信玄餅の一貫した懐古調CMは、会長の好みからかな?とも思いました。


 そんな訳で「山梨県の歌」について調べてみると1950年(昭和25年)に県政60周年記念事業の一環として歌詞を公募して8月12日に制定されたそうです。公募の結果は「入選該当作品無し」だったそうですが、佳作の1編を審査委員会が補作し、審査委員会が依頼した岡本敏明氏が作曲したそうです。


  このように山梨県に限らず全国47都道府県が都道府県民歌を制定しているそうですが、どれだけ県民に浸透しているかと云うと長野県がむしろ特異で、山梨同様が実態のようです。

 その原因は、県民がこぞって県の歌を希求して出来た県民歌ではないと云う誕生の過程にあるようです。

 

 山梨県が県歌を制定した目的は「戦後の混乱期にあって、郷土の素晴らしさを認識し、理想山梨建設の郷土愛を高揚させよう」と云う時代的背景からで、県民の復興意欲に「歌」が貢献することを「軍歌」で学習済みだったのでしょう。このように山梨県と同時期に制定された県民歌は「復興県民歌」と分類されていて、GHQが策定を奨励したことで作られた為ですが、もう一方、都道府県民歌で最も多い制定動機は「国体開催」に伴う制定だったそうです。


 

 第41回の山梨国体は、「かいじ国体」と銘打って1986年(昭和61年)に開催されましたが、全都道府県の最後に主会場として開催された国民体育大会でした。これは地方病終息宣言が出せない結果でもありましたが、山梨国体開催に合わせて新たな「歌」も作られました。

 かいじ国体の歌は、作詞:安藤壮一 作曲・編曲:早川博二 歌:デューク・エイセスで「富士晴れやかに」だったそうですが、中丸氏はご記憶でしょうか?

同時にかいじ国体音頭として「ふれあい音頭」が作られました。作詞は矢崎勝巳、作曲は市川昭介、編曲:斎藤恒夫で歌手の三船和子さんが歌ったそうです。


 このように「復興県民歌」として県歌が誕生した後、国体を開催した県ではそれぞれ歌や音頭を作り、それを機にその歌を県歌にしたそうですが、復興県民歌より国体時の歌の方が親しまれたことから、県歌を代えた県もあるそうです。


 まあ、音楽のジャンルも多岐になり、好みも多様化が進む現在、昭和25年当時のプロパガンダ的要素も見え隠れする歌を県民に強いても定着は難しいでしょう。

長野県の県歌の定着は「信州学は成立するけど甲州学は成立不可能」と看破した歴史家・色川大吉先生の論に理由があるようにも思いましたが、「君が代」同様、命令や強制によって歌わせても意味が無いことだけは確かでしょう。

2020年1月6日月曜日

杉浦醫院四方山話―602『あけましておめでとうございマウス』

   新年あけましておめでとうございます。本年も杉浦醫院をどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 当ブログも600話を重ねて子年に入りました。ブログを書くのにパソコンのキーボードとマウスを当たり前のように使ってきた訳ですが、子年と云う事で脇役のマウスにスポットを当ててみたいと思います。

 

 現在、世界中で使われているマウスはゆうに10億台を越えているそうですが、世界初のマウスは、7年前に亡くなったダグラス・C・エンゲルバート氏が1963年に作った右の写真のようなモノでした。世界初のマウスは、このように木の箱でしたが、エンゲルバート研究所の所員が後部から延びたコードが「ネズミみたいだ」と言ったことから、取りあえず「マウス」という名前が付いたそうです。そんな訳で、マウスの名付け親が誰であるかは、定かでないそうです。


  この世界最初のマウス誕生から40年以上が経過している現在、その間「ワイヤレスマウス」「トラックボール」「レーザーマウス」等々の進化を経て、現在では空中で操作可能なマウスもあるとか・・・


 しかし、選択やダブルクリックが便利でマウスは手放せないと云う私みたいな人間はもう化石みたいなもので、スマホの普及やタブレットとワイヤレスキーボードというスタイルが一気に進み、マウスの存在感も薄れてきたのも実態のようです。

 

 「水の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・」の鴨長明の世界観は「世の中の人と住いもかくの如し」でしたから、所詮マウスもスマホも「よどみに浮かぶうたかた」で「かつ消え、かつ結びて」の運命をたどるのでしょうが、このコンピューターやデータ通信などITとかICTと呼ばれる情報技術の分野の進化の速度にはただただ驚くばかりで、何とか付いていこうなどと思うこと自体、無駄な抵抗のように思えてきます。


 毎年、杉浦醫院の玄関を飾ってくれる橋戸夫人手造りの干支の置物が、今年も今日から来館者を出迎えています。

 

 一針一針縫ったり、紙粘土で造形したりと云った手作業の楽しさ、面白さは、幾らIT化社会が進んでも、また進めば進むほど見直されたり必要とされる文化であるように思います。情報技術の進化にネを上げず、ネた探しをしながら今年もマウスの世話になり更新していこうと思いますので、杉浦醫院四方山話もよろしくお願いいたします。