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2019年12月8日日曜日

杉浦醫院四方山話―600『薬袋勝氏の証言収録』

 先日、青山学院大学飯島研究室と獨協医科大学千種研究室の先生方が来館され、二階座学スペースに薬袋勝氏を招き、インタビュー形式で薬袋先生の証言を聞く機会を設定してくださいました。

 

 青山学院の飯島渉教授は、「衛生と近代ーペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会ー」と云う著書を法政大学出版局から出しているように「医療社会史」が専門の歴史家です。「日本の医療史では、日本住血吸虫症終息史が住民も参加してですから最大規模で一番ですが、特に戦後の山梨県での取り組みとそれに大きく関与したGHQとの関係など未だ解明されていないことがたくさんあります」と云うことで、昨年から当館所有の資料の分析と保存を進めていただいてきました。

 

 獨協医大の千種教授は、現在の日本住血吸虫症の研究では第一人者で、桐木助教授と共にフィリピンはじめ今なおこの病に苦しむ患者の救済にも当たっていますが、山梨には毎年ミヤイリガイの採集に来て、当館にも学生を案内くださっています。医療史の飯島先生も地方病については大変ご造詣が深い訳ですが医師ではありませんから、千種教授とのコラボも必要なのでしょうし飯島教授の研究内容は千種教授にも有意義なことから共同で研究に当たられているようです。


 前回は、梶原徳昭氏の話を収録しましたが、今回は梶原氏の先輩でもあり一貫して県の地方病行政に携わってきた薬袋勝氏の証言を収録しました。薬袋氏は「山梨県立衛生研究所」の歴史的変遷をたどる中で、薬袋氏個人の感想も含め大変興味深い話を自嘲気味に話されたのが印象的でした。

 薬袋氏は、学生時代を送った昭和40年代前半の大学の研究室に馴染めず春休みや夏休みになると甲府に帰っては甲府の中心街にあった山梨県立衛生研究所の前身の研究室に通って職員と一緒に研究していたそうで、特に公務員を希望していた訳ではなかったけどそのままそこに就職したのがこの生活のスタートだったと語り出しました。


 確かに昭和40年代の大学も県庁も現在からするとまだまだのどかで同じような経緯から都教委に採用された私には時代の空気と云ったものが感じられ親近感が湧きました。同時に公務員と云った職業は基本的には余り人気のない職種として軽んじられている方が変なエリート意識で小役人根性だけと云った人間にならずいいのかなぁ~とも・・・・


 薬袋氏の話で特に興味深かったのは、戦後いち早くGHQの医薬補給部隊が杉浦醫院を訪ね、三郎先生との親密な交流を続けた経緯についての証言でした。

 GHQは、なぜ県の研究機関であり地方病対策にも当たっていた県立衛生研究所ではなく杉浦醫院と云う個人病院を通して甲府盆地でこの病気の研究を推進したかと云う謎が解けたからです。

 それは、アメリカで主流となった思潮・プラグマティズム(実用主義とか道具主義とも訳される) からすると面倒な手続きやハンコ行政の県の組織を通すより、地方病の権威でもあった杉浦三郎と云う個人医師を介しての方が手っ取り早くスムーズに事が運べたからだと思いますと云うのが薬袋氏の見解でした。


 純子さんも杉浦家とGHQ研究者との親密だった交流をよく話してくれましたし、杉浦家で和服を着せてもらったアメリカ人女性と杉浦ファミリーの記念写真や三郎先生宛ての英字書簡が数多く残っているのも薬袋氏の証言を裏付けています。

 また、昭和21年、GHQが寝台車・食堂車・研究車からなる3両編成の列車を甲府駅に常駐させて、ここを拠点に甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤の研究・実験を重ねPCPを開発したと云う、市民から「寄生虫列車」とも呼ばれていた研究車内の写真に唯一の日本人として三郎先生が写っているのもそんな関係からでしょう。


 後のベトナム戦争等で使われた枯葉剤と云う名の科学兵器の原料ともなったPCPを甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤として当時住民を動員して撒いた映像も残っていますから、飯島・千種両教授等の地道な研究の中で、GHQの果たした地方病終息の役割やより正確な評価も明らかになっていくことは、歴史学の醍醐味でもあると思えた薬袋氏へのインタビュー収録でした。 

2019年9月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―592『GHQ統治下の日本の医療史』

  毎年8月15日になると「今年は、戦後○○年になります」と云ったアナウンスや記事が定番になっているように日本で「戦後」と云えば、太平洋戦争後のことで1945年のポツダム宣言受諾以後、実質はアメリカ軍でしたが連合国の占領、統治が始まった時からを指しています。

この連合国の占領は1952年のサンフランシスコ講和条約までの7年間続きました。

 

 日本は1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌日の15日正午に天皇が玉音放送で降伏したことを国民に知らせ日本の敗戦による終戦となり、8月30日に厚木飛行場に降り立った連合国最高司令官ダクラス・マッカ―サーの指揮のもと日本の戦後はスタートしたと云うのが現代史の時系列です。

  

 以前から気になっていたのは、マッカーサー着任前の8月27日には米軍406医学総合研究所のマクマレーン氏が杉浦醫院に来て、三郎先生にアメリカ人軍医への日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼していることでした。

 この米軍406医学総合研究所と連合国最高司令部=GHQの正式な関係についてもよく分かりません。占領下の日本の保健医療政策はGHQに置かれた公衆衛生福祉局(PHW)が管轄していたそうですから、このPHWと406は連合国組織と米軍組織の違いなのでしょうか?

 

 例えば山梨地方病撲滅協力会編纂の「地方病とのたたかい」誌には「米駐留軍は、終戦直後の昭和20年10月本県の地方病流行状況を視察している。22年には米軍406医学総合研究所が県庁内に臨時研究所を設け、本病把握と撲滅法の検討を開始した」とあり、マクマーレン氏が活躍している写真が4枚掲載されています。

 

 このように占領下の詳細な史実は素人が調べてもなかなか難しく、杉浦三郎氏と406やGHQとの関係も友好的だった話は純子さんからも聞いていますが、本当のところは曖昧なままです。

 

 この度、GHQ統治下の日本の医療史や感染症の歴史を専門に研究している青山学院大学文学部の飯島渉教授と研究室の皆さんが、杉浦醫院に残っているアメリカの研究者から三郎先生宛てに送られた多数の手紙やWHO関係の英字資料を紐解く作業に再度来館くださいました。

 手紙一枚一枚の内容を検証し、写真に納めパソコンに集積していくと云う気の遠くなるような作業を黙々と続けましたが、計3日間の作業では終わらず「もう一回来ます」と云いますから、正確な歴史を探求するには膨大な時間と人手が必要なことを改めて実感しました。


 また、この作業には、獨協医科大学熱帯病寄生虫病室の千種雄一教授と桐木雅史准教授も連続して参加していますから、歴史的にも医学的にもGHQ統治下の日本の医療史や感染症史には未だ謎も多いのでしょう。

 

 並行して、山梨県の地方病対策に一貫して携わってきた元山梨県公害衛生研究所の梶原徳昭氏への聞き取りインタビュー会も開き、貴重な証言を多数収録できました。

 飯島教授は「次回は、山梨大学の関係者にも参加いただいた方がよいので、宮本先生と調整して日時を決め、梶原さんの先輩の薬袋勝さんの話も実現させるつもりです」と確かな見通しと計画の元に調査活動を進めていることを教えてくれました。次回に備え、私たちも未整理の資料の用意や質問事項の精査など準備をしていきたいと思いました。

2018年11月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―561『三郎先生の軍刀ー2 登録証』 

 前話のGHQによる昭和の刀狩りに付随して、日本人が刀を自由に保有する事を規制する意味もあったのでしょう、美術品の日本刀を所持するには、日本刀1本1本に「登録証」が必要となり、この登録証の無い日本刀を持っていると不法所持として、懲役や罰金が科せられるようになりました。ですから、現在日本にある日本刀は全てお上に登録されていることになります。

そのお上は、都道府県の教育委員会ですから、登録済みの日本刀は全て有形文化財と云うことにもなります。


 では、今回の三郎先生の軍刀は登録済みだったのでしょうか?登録してあれば刀と一緒に発行された「登録証」が残っているはずですが、純子さんも「父や私が登録した記憶はありません」と云っていましたからから、探しても出てこないものと思われます。

 

 井上さんは「杉浦先生のように代々続く旧家などでは、整理していたら「登録証」の無い刀が見つかったということはよくあるんです。そういう場合は、刀を持って南甲府警察署の保安課へ発見届けを提出しなければならない。刀が必要なければ警察に置いて帰ればいいんだけど、これは何時どういう状態で誰が見つけたの発見届を出して、登録証をもらって保存すべき刀だから、直ぐにでも発見届を出すことだね」と教えてくれました。


 このように新たに「登録証」を得るには先ず警察署に「発見届」を出すことから始まります。この手続きが済むと、警察は届け出済み書と刀を返してくれます。

この届け出済み書に記載されている日時に、山梨県教育委員会に刀と届け出済み書を持参し、「登録証」発行の審査を受けます。

 

  この審査は日本刀の専門家によって行われ、伝統的な鍛錬を行い、焼き入れを施した日本刀であることが第一条件で、価値のあるものにのみ発行されます。表面的な錆(さび)であれば井上さんの研ぎによって本来の姿を取り戻せますが、芯まで錆びているような状態では登録証は発行されません。粗製乱造された鉄をただ打ち延ばして刃を付けただけの刀や、車のスプリングに使われていた板バネを加工したいわゆるスプリング刀や、一部の軍刀で洋鉄を使って作られたものなどは審査ではねられるそうです。

 

 このように、今回、三郎先生の軍刀は、警察への発見届けを経て県教委の審査にパスして下写真のような「登録証」が発行されました。

これさえ有れば刀掛けにそのまま掛けて展示公開しても良いのですが、不特定多数の方を受け入れる施設では、刀を容易に手に取ることが出来ないようにしなければなりません。なぜなら、その気になればこの刀を凶器として振り回したり、盗すまれ悪用されることが危惧されるからです。


 その辺をクリアする最善の方法も井上さんからご教示いただきましたので次話に続きます。

ご覧の通り「登録証」は、この刀についてのみの記載であり、所有者名など入っていません。これは、この刀が登録された証明で、所有者はこの登録証が有れば変更可能であることを物語っています。美術品として売買が想定されることから車の名義変更と同じ扱いになるよう図られているのかもしれませんが、ある意味、自動車一台一台に付いている「リサイクル券」と全く同じシステムのように感じました。

2018年11月18日日曜日

杉浦醫院四方山話―560『三郎先生の軍刀ー1 もう一つの刀狩り』

2016-08-13.png
GHQの刀狩りは、日本軍の刀だけではなく、民間の刀も没収しましたから、江戸以降の名刀も
根こそぎ消えたそうです。(写真はネットサイトから拝借しました)

2017年2月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―495『マイナスネジ・プラスネジ』

 来館した見学者を案内していると見学者の視点や興味から、教えられることも多いのが、この仕事の面白さでもあります。

過日、ご夫妻でお見えになったご主人は、大変な「物識り」で、展示品ごとに色々ご教示いただきましたが、今回はネジについて紹介します。

 

 当ブログでも何度か紹介してきた応接室のピアノを案内した折「そうだね。これは歴史的なピアノだ。全てマイナスネジだもん」とピアノに使われているネジに着目しました。

「戦前のモノはすべてこのようにマイナスネジです。日本でプラスネジが使われるようになったのは戦後で、ホンダの創始者・本田宗一郎がヨーロッパから持ち帰って広まったっていう話だね」と。

「それでは」と、昭和4年建築の当館の建具や家具等のネジを確認すると御覧のように全てマイナスネジでした。

 

「長崎のグラバー邸の修復工事はひどいね。グラバー邸は日本最古の木造洋風づくりでしょう、ネジは使ってもマイナスじゃなければダメなのにプラスネジで修復されてるんだもの話にならんよね」とのご高説も。

お説の通り、村松貞次郎著『無ねじ文化史』によると、「江戸時代の工業製品にはネジの使用例はなく、江戸時代とは「ネジ無し文化」の時代である」とありますから、江戸末期に作られたグラバー邸にネジが使われ、ましてプラスネジとは「話にならん」ですね。


 要は、ネジを製作するには、優れた工作機械が必要だった訳で、ネジを作るという事が江戸時代はできなかったからこそ、ネジや金物を必要としない「木組み」等の工法も発達したのでしょう。


 プラスネジは、1935年(昭和10年)にアメリカの技術者ヘンリー・フィリップスによって発明されたそうです。この発明もマイナスネジはドライバーが滑ったり、ネジの溝が潰れたりして、そのたびに腹を立てた彼が「なんとかならないか」と考えた結果だそうですから、「必要は発明の母」は万国共通ですね。

 

 自称「アンティーク家具」なども使われているネジ一つで真贋がバレそうですが、こういう物識り家は、「目利き」でもあるわけです。

 腕時計は、まだマイナスネジしかなかった1920年代に誕生しましたから、ヨーロッパを中心とした歴史的な高級腕時計は、全てマイナスネジで職人たちのハンドメイドだったそうです。

そこからマイナスネジは高級腕時計の証となり、現在にも引き継がれていますから高級感を演出したり、アンティークなデザインにはマイナスネジは欠かせないネジですが、締めの強度や使い勝手の良さから、現代ではプラスネジが主流となっているようです。

2015年11月6日金曜日

杉浦醫院四方山話―452 『 ピアノ再生物語3-整調作業ー』

  錆びたチューニングピンとピアノ線を磨くには、ご覧のようなワイヤーの錆び取り工具でゴシゴシ磨くしかないそうで、粉塵が舞う中、根気強い作業が続きました。研磨前と研磨後では、ピンや線に雲泥の差が出て「こんなに綺麗になる」から作業にも力が入るのだそうです。

 内部の磨き作業が終わるとピアノは、至る所でドライバーでの調節が出来る仕組みになっていて、一本一本ネジを締めたり緩めたりの手作業が必要になることを知りました。

 調整箇所によって大小のドライバーを使い分けての作業が延々と続きましたが「電動工具では締めすぎたり微妙な調整が出来ませんからドライバーでの手作業になりますね」と、ご覧のように辻村氏の手首から湿布は外せないようです。

 

  取り外せないピアノ内部の調整は暗いこともあって、左手にライト、右手に工具での作業ですが、一か所一か所丹念に調整していくのは、鍵盤に指先を落してピアノを弾いたとき、音が出るまでスムーズに同じ早さになるように「整調」する必要からだそうです。良く耳にする「鍵盤によってタッチが違う」と云った事を無くす調整でしょうか。

 

 これを「アクションの整調作業」と呼ぶそうですが、この整調作業はしなくてもピアノの音は出ますし、整調が多少おかしくても素人には分からないそうですが、ピアニストなら直ぐ分かるそうですから、この「整調作業」は一番大切な部分だからこそ時間を掛けるのだそうです。

 
 

 また、見えないこの調整作業に腕をふるう所に、調律師の醍醐味とやりがいがあるようで、 辻村氏と臼間氏は「これをやらない」調律作業が主流になっていることに警告を発しているかのようでした。

 

2015年11月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―451 『 ピアノ再生物語2-出荷検査』

  前話で、辻村氏の「ピアノ調律論」は「出来る限り工場出荷当時の状態に戻すこと」と、紹介しましたが、辻村氏は現在の「辻村音楽企画店」を起業して独立するまで、河合楽器でピアノの製造に従事し、最終の「出荷検査技師」を永く務めていたそうです。


 ですから、カワイピアノをお持ちの方は、ピアノの製造番号が付されたお客様カードの一番上にある「出荷検査」の「技師名」をご確認ください。

「技師名に私の名前・辻村晴男とあるカワイピアノが相当数あります」と話し、このピアノの内部に保管されているお客様カードを取り出しました。


 「おっ、これは尾島さんだ。この尾島一二と云う人はヤマハの有名な技師で、ピアノの製造に係った人なら知らない人はいません」と感慨深げです。


 「杉浦三郎様御所有」と記された桜色のカードには、先ず「御注意」が記載されています。

「弊社製ピアノの調律修繕は生みの親の弊社技師に御任せ願ひます。カードの記録は後々迄仕事の責任を明らかにしてピアノの御保存上重要な役目をするものでありますから必ず記入させて頂きます」

 

 その下に「山葉ピアノ 平型NO.記念 製番NO.21346」とあり、1から12までの表の1出荷検査の技師名に「尾島一二」とあり「尾島印」と「9年7月14日」がしっかり読み取れます。

2納入検査は、「内藤正民」「内藤の角印」に「9年7月20日」とあります。



 上記から、昭和8年に皇太子生誕記念として受注生産したこのピアノを三郎先生が甲府の内藤楽器に注文し、約一年後の7月14日に浜松市のヤマハ工場から出荷され、内藤楽器の内藤正民氏が7月20日にこの応接室に納入したことが分かります。



 アクションを外し鍵盤を外すと鍵盤の下から内部にかけて積年の埃がたまっていました。 

「この埃が虫食いの原因になるんです。」と、虫が食べた跡がアルファッベッドのような模様になっている緑のフェルトを指差し「この程度ならまだ交換の必要はありませんが、計画的に交換していけると一番いいんですがね」と、埃を専用掃除機で取り去ると、ピアノ線の錆び取り作業など内部の磨きを黙々と進めるお二人に、マスクとエプロンは必需品でしたが、肝心な細かい作業になると手袋は外して・・・と、再生に掛ける情熱がひしひしと感じられました。




2015年5月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―421『ー国史大辞典ー物語4』

 純子さんは「買っても読んだのかどうか」と謙遜していましたが、杉浦家の国史大辞典を紐解くと検索して読んだ形跡が随所にありました。それは、付箋だったり紙片がはさまれていたりですから、「この項目を調べたのかな?」と想像するのも一興です。

 

 例えば、紙片が入っていた222ページと223ページには、「イハツキジョウ(岩槻城)」から「イハヒべ(祝部)」まで約15項目についての辞典になっていますが、これは多分「イハヒべ(祝部)」を調べたのでしょう。

 純子さんにその辺を聞くと「そうですね。父や祖父より母がよく調べ物をしていましたから、一番使ったのは母かも知れません」との話で、多種多様な器などが残る杉浦家ですから「イハヒべ(祝部)」が、「古代日用または祭事等に食料もしくは飲料等を入るるに用ひたる土器の一種」と、挿絵と共に解説されていて、現存する杉浦家の器とよく類似した挿絵の祝部土器が幾つかありますから、ほぼ間違いないでしょう。

 

 上の写真は、「挿絵及び年表」が納められた別冊の2ページ分です。明治40年の日本のカラー印刷技術の高さに驚きますが、このページに限らず豊富なカラー挿絵そのものが写真とは違った精密さと色合いで楽しめます。

 ご注目いただきたいのは、そのページに挟まれていた葉脈の手づくり栞(しおり)です。葉と重曹さえあれば比較的簡単にできる栞ですが「この本にこの栞あり」と云った感じです.

杉浦家の庭園には「葉」は幾らでもありましたから、こうして手間をかけて栞も創り、さりげなく使っていた様は、矢張り本の楽しみ方にも造詣があった証左のように思います。

 

 厚く重い本編には、下の写真のように庭のモミジを「押し葉」していたページが幾つかあります。

 

 押し花ですと花の色が本に沁みますが、紅葉した葉なら本を汚すこともなかったのでしょう、本の重さを利用して「押し葉」も愉しむ、ここにも何げない杉浦家の風情と云った文化教養が滲み出ているように思います。まあ、「ローマは一日して成らず」は、この辺についてこそ言えるようにも思います。

杉浦醫院四方山話―420『ー国史大辞典ー物語3』

 杉浦家の蔵書印を確認する過程で、控えめに押された「柳正堂」の丸印が二冊の奥付にあることが分かりました。

 この丸印は、なぜか朱印ではなく紫がかった青印ですが、予約出版だった「国史大辞典」を健造先生は、甲府の柳正堂書店を通して予約し、柳正堂が杉浦家に納品したことが分かります。


国史大辞典を予約した人々: 百年の星霜を経た本をめぐる物語


 

 また、佐滝氏が所蔵の「予約芳名録」には、地方の書店の名前も多く登場するのが特徴のようですから、甲府の柳正堂も出てくるのか?佐滝氏の著書「国史大辞典を予約した人々」を早く読んでみたいものです。

 

 

 高校を卒業するまで甲府で生活した私にとって、本屋と云えば「柳正堂」でしたが、現在の甲府の本屋は「朗月堂」がメインになっているようで、「柳正堂はどうなったのか、影が薄いなー」と、急に気になりましたから、ちょっと調べてみました。

 

 

 柳町にあった柳正堂は、「1783年(天明3年) 柳町四丁目に大塚儀助により、江戸時代中期から小間物と書物の販売、木版による出版を創めた」と会社案内にあり、明治になると「県庁と取引契約締結」、「教科書取扱代表者」、大正時代は「山梨県官報販売指定」と順調に業績を伸ばしていった様子が記されていますが、なぜか長い昭和時代については記載が無く、一気に「2009年(平成21年)オギノ湯村ショッピングセンター店オープン」、「2010年(平成22年)オギノリバーシティショッピングセンター店オープン」「本社(中央4丁目2-18)より下石田2丁目20-10に移転」とあります。

 

 

 「柳町で正しく定価販売する店」が柳正堂の名前の由来だそうですが、既に本社は柳町に無いことも分かりました。確かに昭和30年から40年前半に通った柳町の店の前には自転車が林立していたのも思い出しますから、車社会になって甲府の繁華街で駐車場を確保するのも難しく、撤退を余儀なくされたのでしょう。

 上記のように現在の柳正堂は、いわゆるショッピングセンター内に3店舗を開いているようですから、販売している書籍も雑誌やハウツー本、売れ筋本が主であることは容易に想像が付きます。

 

 このように柳正堂に限らず、地方の老舗書店が廃業に追い込まれたと云うニュースは何度か耳にしていますので、アマゾンに代表されるネット社会で、朗月堂も厳しい経営かと思います。

 街から書店と酒屋が次々消えていくのは何とも寂しい昔人間ですから、「酒は酒屋で、本は本屋で」と言い聞かせ、未だアマゾンで購入したことは一度もないのがポリシーだと自負しているのですが、まあ無駄な抵抗で、時代錯誤だとお笑い者でしょうね。 

杉浦醫院四方山話―419『ー国史大辞典ー物語2』

 佐滝氏からの電話は、杉浦家に残っている「国史大辞典」が、明治41年7月発行の初版本か否か?本に蔵書印があるかどうか?と国史大辞典の本編は確認できたけど、もう一冊セットで販売された「挿絵及び年表」が見当たらなかったので、その一冊も残っているかどうかの確認をお願いしたいとのことでした。



 純子さんにその辺の経緯を話すと「国史大辞典は昔からありましたね。祖父が購入したモノでしょうが、使ったのかどうか?怪しいですね。新しいモノ好きで買ったんでしょうけど・・・」と謙譲の美徳と「そんなに大切に思って下さる方がいるモノだったら、ここに置くより、そちらへお持ちください。使ってもらえれば本も喜ぶと思いますよ」と、モノ離れの良さは、いつも感心する純子さんの人徳の一つです。


 

 杉浦家の国史大辞典本編と挿絵及び年表の2冊組は、前話の写真のとおり書棚に揃ってありましたが、挿絵及び年表は、ちょうど硝子戸の枠の裏にありましたから、佐滝氏には見えなかったのでしょう。

 

 また、上記写真のように右の「挿絵及び年表」の奥付には「明治41年3月5日印刷」「明治41年3月15日発行」とあり、左の本編奥付には「明治41年7月11日印刷」「明治41年7月19日発行」とありますから、「初版本」であることに間違いありません。

   

 杉浦家には、多くの判子が残っていて現在、土蔵二階に展示してありますが、佐滝氏から依頼された「蔵書印」は、国史大辞典2冊組の何処にも押印されていませんし、展示中の判子を確認しても「杉浦蔵書」の判子はありませんでした。杉浦家の蔵書は医学書に限らず多いのですが、云われてみれば蔵書印は今まで一度も目にしていませんので、購入した本に「自分のモノです」とばかり蔵書印を付くことをヨシとしなかったのかも知れません。

 

  明治41年発行のこの辞典の定価は20円でしたから、佐滝氏の換算では現在の20~25万円に当たるそうです。ちなみに現在も同じ吉川弘文堂が発行している「国史大辞典」は、全17冊組で、定価は29万7千円ですから、図書館や大学、研究機関には揃っていますが、個人で持っているという人は、歴史家位ではないのでしょうか?

 

 医者と云う理系の健造先生が、高価な歴史辞典「国史大辞典」を購入したのは、漢方医だった家系で、敢えて西洋医学を志した健造先生の並々ならぬ探求心が、医学知識のみならず人間としてより深い教養を得ようと云う明治文化人に共通する気骨のようなものだったのでしょう。

 全国で8800人が予約購入した事が分かる『国史大辞典予約者芳名録』には、山梨県では健造先生以外どなたの氏名が残っているのか、佐滝氏に情報提供をお願いしてみたくなりました。 

2015年5月17日日曜日

杉浦醫院四方山話―418『ー国史大辞典ー物語1』

 「歳ですかねー」などと照れながら自分の興味や趣味として、休日にさまざまな寺社仏閣や資料館、美術館などを計画的に見て回るのを楽しんでいる友人がいますが、最近では、「歴女」とか「鉄女」と言われる歴史マニアや鉄道オタクの若い女性も多いと聞きますから、年齢や性別に関係なく楽しみ方も多様化しているのは「日本も成熟社会に入った」証なのでしょう。

 

 当館にもそう云った方々が「お一人」で訪れる事も珍しくありませんが、過日電話をいただいた佐滝剛弘氏は、現在「全国の登録有形文化財」を回っていると云うお話から始まりました。

 佐竹氏は、埼玉県から「閉館日の土曜日に来てしまった」そうですが、ご存知のように当館母屋には三郎先生の長女・純子さんが生活していて、気持ち良い天気の日には、母屋玄関の障子も開け放すのが純子さんの生活習慣ですから、佐滝氏は母屋が開いていたので声をかけたそうです。

 これもいつものことですが、視力が衰えたとは云え純子さんは「おもてなしの心」を体現していますから、佐滝氏に母屋座敷等の見学対応をしてくださったようです。


 

 母屋座敷の東一面は、造り付けの書棚になっていて、医学書に限らず多種多様な書籍で埋まっていますが、中央下段に納まっていた「国史大辞典」を佐滝氏は見逃さなかったのが、今回の電話の用件でした



 佐滝氏は、NHKディレクターの仕事と並行して、下記のように多くの著書を持つ作家でもあります。(「佐滝剛弘とは・はてなキーワード」から転載)


・ 「旅する前の「世界遺産」」2006.5.文春新書
・ 「日本のシルクロード 富岡製糸場と絹産業遺産群」2007.10.中公新書ラクレ
・ 「郵便局を訪ねて1万局 東へ西へ「郵ちゃん」が行く」2007.6.光文社新書・ 「世界遺産」の真実 過剰な期待、大いなる誤解」2009.12.祥伝社新書
・ 「それでも、自転車に乗りますか?」2011.12.祥伝社新書
・ 「観光地「お宝遺産」散歩 上級者のための穴場ガイド」2012.5.中公新書ラクレ
・ 「切手と旅する世界遺産 = traveling world heritage sites with stamps」日本郵趣出版 2012.9.
・ 「国史大辞典を予約した人々 百年の星霜を経た本をめぐる物語」勁草書房, 2013.6.

 最新刊は、2013年6月発刊の「国史大辞典を予約した人々」であるように佐滝氏は、この辞典の予約購入者約8,800人に配布された『国史大辞典予約者芳名録』を入手したことから、「百年の星霜を経た本をめぐる物語」として、この「国史大辞典を予約した人々」を著したそうです。


  『国史大辞典予約者芳名録』には、予約者の氏名が都道府県別に並べられているようですが、その中には、与謝野晶子、折口信夫、佐々木信綱などの文学者を始め、当時の文化人から商人まで分野にとらわれない多ジャンルの知識人の名前があるそうで、当時はまだ子どもだった太宰治や芥川龍之介らの実家や親が予約をしたことなどを解き明かしたのが「国史大辞典を予約した人々」の内容でもあるようです。



 当館から戻った佐滝氏は、この『国史大辞典予約者芳名録』で「山梨県中巨摩郡 杉浦健造」の名前が予約者として残っていることを確認しての問い合わせ電話でした。

佐滝氏に習って、杉浦家に残る 「国史大辞典」について、佐滝氏の依頼内容や純子さんの話などを基に当話で、数回に分けて物語っていきたいと思います。

2015年1月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―393『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-2』

 世界文化遺産になった現在の富士山は、約5千年から1万年前に形成された姿で、その下には約70万年前から噴火したと言われている小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から噴火していた古富士火山があり、この古代富士の形は現在のような左右対称に裾野が広がる優雅な円錐形ではなかったというのが通説ですが、誰もどんな形であったかは特定できない以上、一回り小さな円錐形の古富士を描きたくなるのも自然でしょう。


 この古富士を取り巻いていたのが「せの海」と呼ばれた広大な湖で、名前のように海のような広さでしたが、現在の富士山に至る噴火の溶岩流で「せの海」は全て埋め尽くされたそうです。

 現在の精進湖と西湖は埋め立てを免れた西端と東端で、流れ出た溶岩はせの海一帯を広く覆い「青木ヶ原溶岩」を形成し、その後この溶岩の上に新たに森林が生育して、現在の「青木ヶ原樹海」となっているわけですが、「樹海」も下に眠る「せの海」の「海」から来ているのでしょう。


 全11客の「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」は、ご覧のとおり純白に青の繊細な器です。

 平戸焼は、肥前国平戸藩松浦家の庇護の下で、松浦家の御用焼として焼成された陶磁器で、特徴は純白な肌に御用絵師の緻密な絵付けと細工・彫刻で知られる多種多様の技法が他窯では見られない至芸と言われているようです。

 

 松浦家が一貫してこの平戸焼きを補助し続けたのは、4代藩主松浦鎮信が茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)を立ち上げた茶人でもあったことから、藩主好みの繊細優美な神経が隅々にまで行き届いた陶磁器として、現在も愛好されているそうです。


 杉浦コレクションのこの碗は、彫刻された古代富士が「透画」と表示され、その古代富士の周りには「せの海」の波と航行する船が青く描かれ、「御飯茶碗」ですが、薄く小ぶりの品の良いつくりを一層際立たせています。この船舶数からも幻の富士王朝の栄華が偲ばれるようでもあります。

 

 茶会の主催者が来客をもてなす料理が日本料理の「懐石」ですから、一服の茶をたしなむ方々の「御飯茶碗」は、このように余韻の残る器でなければならなかったのでしょう。

 深遠な茶の世界は、とどまることを知らない奥深さで、矢張りお殿様でなければ追求できない世界でもあるようにも思いますが、昭和村西条で人知れずこの手の名品を蒐集してきた杉浦家の美意識も矢張り世間とは屹立したものだったのでしょう。

そうそう、田吾作は、懐石を弁当にしたものを「点心」と呼ぶことも今回初めて知りました。

杉浦醫院四方山話―392『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-1』

  詩人の宗左近は、名著『日本美 縄文の系譜』(新潮選書)で、≪8世紀初頭に成立した「古事記」や「日本書紀」に富士山は全く無視されて登場しないのに、僅か40年たらずの759年頃に編まれた「万葉集」には、富士が霊峰として華々しく登場しているのはなぜか≫と、詩人の直感で疑問を持ったようです。

 

 富士山は天照大神が祀られている伊勢からも見ることのできる山で、大和朝廷がその存在を知らぬはずはなかっただろうし、ヤマトタケル(日本武尊)は大和から東方に蝦夷征伐に向かう際、富士山を左回りにめぐるコースを辿った記録があるのに富士山についてひと言も触れていないのはなぜか?

ところが「万葉集」のなかでは、たとえば山部赤人(やまべのあかひと)は富士山を指して「天と地が分かれたときから神々しい」とか「霊妙な神の山」「国の宝」とまで礼讃しているように、富士山が突如「日本の神」と讃えられるようになったのはなぜか?

宗左近は、想像力を駆使して次にように推理しました。


 それは、富士山は東国・蝦夷の信奉する山で、大和朝廷の山ではなかったからではないか!「万葉集」で急遽「富士山」を持ち上げたのは、朝廷の御用歌人が蝦夷の歓心をかうためにでっち上げた「老檜な文化工作」であった!と、結論付けたのでした。

 

 今年の山日新春文芸短歌の岡井隆選の入選一席は、神の山くぐりて里に噴きいでし水のよろこび鯉をやしなう ー中央市・萩原照子ーのように、山を御神体とし、巨木や岩にしめ縄を張って神聖視する山岳信仰は、綿々と現在まで引き継がれていますから、縄文人たちが、大噴火とともに突然出現した巨大で美しいこの富士山を、神の仕業と考えたのは当然でしょう。

 

 この並はずれて秀美な富士山は、太古の昔から日本に存在していたわけではなく、その歴史は意外に浅く、現在の三千メートルを超える高さと均等のとれた円錐形が完成したのは、今から五千年からせいぜい一万年だろうとされています。

五千年前とすると縄文時代真っ只中であり、一万年前としても、縄文時代の初頭ですから、宗左近の「日本美の源は縄文にあり」の推理は説得力もあります。


  当話は、新杉浦コレクションの「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」が肝心なテーマですが、「古代富士」で引っかかってしまい、宗左近センセイに登場願った次第です。

 額面通り「古代富士」とすると透画の富士山は、写真のように円錐型に裾野が広がった縄文から現在にいたる富士の姿で、なぜ「古代」なのか?詩人ではありませんが釈然としません。

 

 確かに、縄文時代の富士山大噴火以前の富士山を「古代富士」とし、その麓に大和朝廷と並ぶ富士王朝があったと古代史ファンの間では論議され、富士山大噴火で溶岩に埋まって消滅したとされる富士王朝の上に現在の青木ヶ原樹海が形成されたことになっています。

 

 青木ヶ原樹海には「謎の石垣」もあることから、一層信憑性を帯びて語られてきましたが、富士王朝があったとすれば、その王都のあった場所は大樹海地帯ですから完全に未発掘で、しかも堆積した溶岩で金属探知機などの地中探査レーダーも機能しないことから、富士王朝が本当にあったのかどうかは、一切不明というのが考古学の常識のようです。

 

 この肥前・平戸焼の名工も、古代史ファンで富士王朝存在説の信奉者だったのだ!しかも彼が透してみた古代富士は、高さ広がりこそ現在より小さかったものの円錐型の優雅な姿であったのだ!と、詩人・宗左近に学び、浅学も推理してみたのですが・・・・

2015年1月11日日曜日

杉浦醫院四方山話―391『萬朝報(よろずちょうほう)』

 丸い器を四角の箱に納めておくのに動いて割れないよう四隅に新聞紙を丸めて入れたのは、健造先生の奥様だったことが大正10年の新聞で推測されますが、前話の「時事新報」ともう一紙「萬朝報」と云う新聞紙も3枚使われていました。



 この萬朝報は、「よろずちょうほう」と読むそうで東京5大新聞には入っていませんが全国紙で、名前の由来も「よろず重宝」とシャレから来ているそうですからスズキの軽自動車「あると便利」のアルトと重なり、日本人特有の命名知恵の一つでしょう。

 

  萬朝報は、日刊新聞で明治25年(1892)に翻訳家であり作家の黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊しました。黒岩自身が同紙を舞台に『鉄仮面』『巖窟王』『ああ無情』などの翻訳小説を発表したことが固定読者を獲得した一因だったそうですから、歌を詠み水墨画を描く文人でもあった健造先生が黒岩涙香編集の紙面に共感していたのかも知れません。


 また、社会記事、政治記事の充実を図り、内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦ら当時の社会主義者も加わって社会批判を展開し、日露開戦前には一時非戦論を主張したことでも知られていますが、その一方で、政治家や有名人の妾調査をしては三面で暴露するゴシップ記事も多く、萬朝報が現在の「三面記事」の語源となったと云われています。

 

 まあ、現代では死語となりつつある「妾(めかけ)」ですが、萬朝報は権力者のスキャンダルから一般人の商店主や官僚の妾も暴露し、その内容も妾の実名や年齢にとどまらず妾の父親の実名、職業まで記載する徹底ぶりが大衆にも受けたのでしょう、社会思想社から「蓄妾実例」と云う文庫本になって出版されたようです。

 個人情報とかプライバシーがうるさくない時代で「男の甲斐性」と云った言葉も日常語でしたから、スキャンダルも有名税的要素もあり、「俺の妾をなぜ載せない」という逆抗議もあったと云う、何とものどかな時代で、ちょっと羨ましくさえ感じてしまいます。

2015年1月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―390『時事新報』

 代々、杉浦家の建造物を手掛けてきた東花輪の橋戸夫妻が、年末に純子さんが生活している母屋の掃除や正月飾りにみえ、人形作りが趣味の夫人からは、今年も前話の写真のように干支の人形をいただきました。

ご主人が「純子さんもあまり記憶にないモノのようだけど押し入れから土蔵に展示できるお宝が出てきたから」と、器の入った三箱の新杉浦コレクションを届けてくれました。


 

 年頭あいさつ後の当話は、この器の紹介から始めようと先ず「備前平戸焼古代富士透画御飯茶碗」と書かれた木箱の蓋を開けると写真のように布に包まれた器の四隅には、筒状に巻かれた変色した新聞紙が、きっちり割れ防止に入っていました。


 「おいしいものは最後に」を口実に、骨董品級の器より俗な話題も散見できる古新聞にどうしても興味が行ってしまう自分を自覚できたのも杉浦コレクションのおかげですが、視力が衰えて新聞も読まなくなったと云う純子さんが「新聞は読まなくってもいろいろ使い道がありますから」と二紙購読を継続しているのもこのように新聞紙を活用してきた杉浦家の生活習慣からでしょう。

 

 そんな訳で、早速この古新聞を広げてみると大正10年7月8日付けの「時事新報」でした。「時事新報」は、東京日日新聞・報知新聞・国民新聞・東京朝日新聞と共に戦前は「東京五大新聞」と云われた全国紙で、大正中期までは「日本一の時事新報」とも呼ばれる購読数を誇っていたようです。

 

 この「東京5大新聞」は、東京日日新聞が毎日新聞、報知新聞が読売新聞とスポーツ報知、国民新聞が東京新聞、東京朝日新聞が朝日新聞と現在ある全国紙の前身になっていますが、唯一日本一と呼ばれた時事新報だけが消えてしまったようです。その辺の詳細については、時事新報 - Wikipediaをご参照ください。

全盛期の大正10年の「時事新報」。朝刊と夕刊があり、山梨版もあることから、甲府に支局があったことも分かります。

 

2014年12月8日月曜日

杉浦醫院四方山話―385『杉浦家家相図-1』

 国や県が指定する文化財の建造物は多数ありますが、茨城県の水戸街道に面した土蔵造の造り酒屋「矢口家住宅」は、店蔵・袖蔵・元蔵の三蔵が並ぶ江戸時代の建造物で、家相図が7枚残っていることでも著名です。

この矢口家住宅の家相図は、天保9年(1838)から大正5年(1916)年のものまでで、増改築ごとに家相を観てもらい家相図に残したことから、内部の変化や歴史的背景が分って、建造物同様家相図も貴重な文化財になっています。


 県内でも富士吉田の「小佐野家住宅」と大月市の「星野家住宅」は、県の重要文化財に指定されている建造物ですが、両家には、「附家相図1枚」と家相図も一緒に指定されている表示が付いています。

また、南アルプス市の「安藤家住宅」には、家相図は残っていないようですが、「棟札」が母屋にあることから「附棟札1枚」の表記になっています。

家相図や棟札から建築年代が正確に判明できることも資料的に重要と云うことでしょう。


 

 純子さんから預かった資料の中から、下の写真のような「家相図」が出てきました。



 「明治5年12月」に「陰陽歴博士家大阪住 松浦翫古」の署名・捺印のある「家相方位鑑定図」です。  

現代ではあまり顧みられることの少ない「家相図」ですが、現在の杉浦家と重ね合わせてじっくり見てみると面白く、中国4千年の知恵に日本人の風土や経験値がなんらかの形で込められているのだろうと思えてきます。赤字で360度の方位を細かく分けていますから、方位学的なアプローチが基本なのでしょうが、そういう意味では、日当たりや通風なども考慮する合理性も加味されているようです。
 現代でも「家相図」まで作らなくても地形であるとか、地盤だとか方位、風向きなど「土地を読む」ことを自然にしていますから、「風水的」な検討が成されているわけで、「家相」という言葉を使うかどうかは別に必ず行われていることに気づかされます。

 

 杉浦家にこういう図面まで残されているというのは、風水に乗っ取った設計だった証でしょうが、大阪在住の陰陽歴博士に明治の初めに依頼していたわけですから、相当の金額が必要だったことは想像に難くありません。

 また、こう云った陰陽歴博士という職業も確立していて、実力さえあれば遠く甲州からも依頼があったことを物語っていますが、この家相図どおり現在は溝蓋がかかった水路ですが、杉浦家の南には川が流れていましたから、大阪の陰陽歴博士・松浦翫古氏は、当地にも足を運んで鑑定したのでしょうか?
さまざまな疑問や想像と共に思わずじっくりと見入ってしまった図面ですが、100年以上経過していますから、しっかり修復して保存、公開していくことも課題です。

2014年11月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―381『昭和9年の新聞ー2 地方紙 』

 三郎先生が、父の遺志を引き継ぐ意味もあってか診察室に掲げた健造先生の写真額の裏には、前話で紹介した昭和9年2月20日付け「東京朝日新聞」と共に「山梨日日新聞」「山梨毎日新聞」「山梨民友新聞」の計4紙がありました。日付けも昭和9年2月15日、16日、18日と全て2月20日前の新聞で、当時の杉浦家ではこの4紙を併読していたことも伺えます。




東京朝日新聞は現在の朝日新聞ですし、山梨日日新聞も昔の名前で出ていますが、「山梨毎日新聞」は、現在ある毎日新聞とは無関係で、山梨の地方紙の一つでした。

 

 1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦までの15年間は、翼賛体制で軍国主義一色に染められた日本であったことは歴史が教えていますが、国民の世論を操作する上で、新聞等のマスコミへの統制も続きました。

その代表的な一つが「新聞統制」で、地方新聞を「一県一紙」体制にするのを目的に統合、削減を命じました。山梨県では、1940年(昭和15年)に「峡中日報」と「山梨民報」が、翌年の昭和16年に「山梨毎日新聞」が「山梨日日新聞」に統合され、山梨日日新聞が山梨の地方紙となりました。


 昭和9年当時は、杉浦家で4紙を併読していたように、県内には少なくとも4紙以上の地方紙や地域紙があったのでしょうが、6年後には、山梨日日新聞だけに統制されたことが分かります。

 9年当時の「山梨民友新聞」と15年に統合された「山梨民報」が同一紙なのか?今ある資料では断定できませんが、新聞統制で統合された山梨の地方紙には「山梨民友新聞」の名前は残っていませんから、「山梨民報」に変わっていた可能性大です。


 敗戦を機の民主化で、地方紙の「一県一紙」体制も解かれ、昭和21年には「山梨時事新聞」が創刊され、昭和44年までは、山梨日日新聞と山梨時事新聞の二地方紙があった山梨県でしたが、現在は山日新聞一紙の独占状態ですから、現象的には戦時中に戻ってしまった状況です。この選択の余地のない地方紙一紙状態は、県民にとっても心ある新聞人にとっても決して望ましい状況とは言えないのではないのでしょうか?

2014年11月19日水曜日

杉浦醫院四方山話―379『皇太子生誕記念ピアノを使った院内コンサート』

 16日(日)に当館庭園では、実行員会「マイパラ」の主催で、「杉浦もみじ伝承の会」が開催され、500人余の参加者で、用意した4か所の駐車場では足りず、急遽アルプス通り沿いの駐車場を杉浦精さんに手配していただき、事なきを得た程でした。             このイベントに合わせ、主に横浜や鎌倉など湘南をフランチャイズに演奏活動をしている「ライトハウス・アンサンブル」のメンバーが、ボランティアで院内コンサートを開催してくださいました。

 ライトハウスアンサンブルは、バイオリンやチェロ、ビオラの弦楽奏団ですが、今回はプロピアニスト市田良子さんのご協力で、純子さんたち三姉妹が使った皇太子(現天皇)生誕記念家庭用グランドピアノを加えた特別プログラムを用意いただきました。

 

 純子さんも「まあ、すてき。この家も父や祖父もさぞ喜ぶことでしょう」と、会場に出向きピアニスト市田さんと手を取り合って挨拶を交わしました。 昭和4年に病院専用棟として建築された会場ですが、音楽コンサートまで想定して造られたわけではありませんから、演奏家には無理があったと思いますが、「演奏しながら歴史的な重みをひしひし感じ、経験したことの無い気持ちで演奏できました」と、轟さんからおっしゃっていただきましたが、聴いた方からも「アマチュアと言っていたけどレベルの高い演奏で楽しかった」と好評でした。

 

 この日のために正午からと2時からの二プログラムをご用意いただき、2時からの「言葉と音楽のコンサート」には、劇団昴の女優吉田直子さんの朗読も入り、内容的にもハイレベルかつ多彩なコンサートを開催いただきました。

 実行委員会マイパラとライトハウスアンサンブルの皆さんは、自分たちの活動を楽しみながら、参加した方々にも愉しんでもらいたいというメンタリティーが共通していました。

 予算や仕事でやるんじゃなく、付き合いや動員でやるんじゃない、「何をやるかやるのは自分」の判断で、時間はもちろんお金も自腹で参画しようという「やる気」こそ、「協働の町づくり」の原点であることを実感させてくれた今回のイベントでした。

 

 

2014年11月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―377『コレクション考』

  杉浦家は、初代・覚東氏が当地で江戸時代初期からから医業を営み、7代道輔氏まで漢方医で、慶応2年生まれの8代・健造氏は近代医学を学び、9代・三郎氏まで引き継がれた医業・医者の家系であり、この一帯の地主でもありました。

 杉浦家歴代が構築してきた家風は、医学に限らず、書や絵画を描き歌を詠み、蛍を愛で、茶を嗜む等々の文化的嗜好が顕著で、代々が収集してきた書画骨董をはじめ「杉浦コレクション」と呼ぶにふさわしい収蔵品が残されています。



 「コレクション」は、本来の実用的な機能から切り離されて、日常とは別の体系に組み込まれているモノを云いますから、杉浦醫院に多数残る「カルテ」は、医者には必要な実用品でしたから、杉浦家のコレクションとは言えませんが、風土伝承館杉浦醫院にとっては、史料的価値のあるコレクションとなります。

また、売るために集められた品物の集合もコレクションではありませんから、旧温室に展示してあるマルヤマ器械店から寄贈された医療機器も丸山さんにとってはコレクションとは言えませんが、当館にとっては、カルテ同様貴重なコレクションと云えます。

 

 同時に、「杉浦コレクション」として保存していく場合は、構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていることも大切な要素となります。

杉浦純子さんから町にご寄贈いただいた杉浦家の収蔵品は、より良い保存と必要な修復など「特別な庇護」が町には求められます。杉浦コレクションを保存しながら公開していくために町では、土蔵と納屋をギャラリーへと改修工事を行ったのもその具体化の一つですし、一点一点写真に撮り、寄贈品目録の図録化作業を進めています。

 三郎先生の長女・純子さんと二女郁子さん、三女三和子さんはご健在で、純子さんは東京在住の妹さん達とよく電話で話していますが、純子さん同様妹さんたちからも「町で残してもらうのが一番だから、私たちは何もいらない」とおっしゃっていただき、現在に至っています。


 

 ここに来て、純子さんのもとには「町にやるなら、私に譲って欲しい」と云う要望も多いようですが、個々の収蔵品が個人に散逸した場合、集合体としての杉浦コレクションの価値は落ちますし、個人に渡った品の行く末も案じられます。


 昭和町西条新田に江戸時代から続いた杉浦家が代々医業を営み、この地の風土病であった地方病の研究治療の第一人者として患者を救い、地域医療に貢献しつつ文化的趣味生活の一環として価値ある品々を収集してきた証が、杉浦コレクションです。

モノには,本来それにふさわしい場所というものがあります。「取らずともやはり野に置けレンゲソウ」の句を出すまでもなく、その辺については、相続争いして分散していた文豪のコレクションも最終的には公共施設に寄贈され、記念館となった例など歴史的教訓も多数ありますから、杉浦家の意志を尊重されるよう切に望みたいものです。

2014年5月14日水曜日

杉浦醫院四方山話―334 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-3』

 重箱の隅をつつくような綿密さを要求される類のことは、苦手意識が先ず働いて前に進めなくなる癖は重々承知していましたが、この玉籠集も正確な内容を捉えようとすると少ない資料にあたったり、縁者に聞くなど細かな積み重ねが必要になり、手こずります。



 前話に引き続く玉籠集奥付の次ページトップには「道輔・西条新田・杉浦道輔」その下に「大輔・  道輔男」更に「八百代・大輔母」の名前があります。杉浦家5代目杉浦道輔と妻の八百代、その子大輔の3氏の作品が掲載されていますという案内でもあります。


 当164話「風土を伝承するー5」を参照いただくと山本家および杉浦道輔氏の概要がお分かりいただけますが、道輔氏は、「巨摩郡落合邨宗持神社神主矢崎義陳氏の第七子で杉浦家に養子として入った」ことが、杉浦健造先生頌徳誌に記されています。一枚目の写真右下中央に「義幹・落合・矢崎筑前」の名前がありますから、道輔氏の兄弟だった方でしょう。

 

 また、頌徳誌よると、道輔氏は、「後年清韻道人と号し、門人には逸見筋塚川に於いて医業を開始せる三井栄紹の子栄親を始め多数あり」ともあり、一枚目の写真左上に「栄親・塚川・三井将監」の名前があり、頌徳誌の記載どおりです。大輔氏の子が健造先生ですが、1866年生まれですから玉籠集が編まれた当時2歳では流石の健造先生も歌は詠めなかったのでしょう。

 しかし、杉浦健造先生頌徳誌には、健造先生の歌もたくさん収録されていますし、清韻と号した祖父道輔氏を顕彰すべく「清韻先生寿碑」を建立したのも健造先生ですから、医業のみならず幅広い文芸活動を代々この地で継続してきた文化の蓄積が、現在の建造物や庭園、収蔵品に表象されてると言っても過言ではないでしょう。

更に「久紀・西条・野呂瀬源右衛門」隣に「久富・野呂瀬茂右衛門」があり、西条ですからあの野呂瀬さん繋がりだろうと予想出来ます。

 

 こうして観ていくと江戸末期の西条村には玉籠集に掲載された歌人が10人いたことになりますから、西条村は短歌村でもあったと云えます。  同時に江戸末期読み書きができ、歌を詠むと云うのは、神主とか医者などごく限られた方々だったわけで、「田もつくり、詩もつくろう」と農民や庶民が文芸活動に参画するまでには、百年近い年月が必要だったことも分かります。