2013年12月21日土曜日

杉浦醫院四方山話―300 『ブログ300話の雑感総括』

 当館のプレ・オープンと並行して、ホームページも開設されましたが、「ホームページの命は更新だよ」とA氏から指摘され、改修工事も数年続く状況での「更新」について、無い知恵を絞ってみました。

 母屋には、三郎先生の長女・純子さんが継続して生活していましたから、分からないことや知りたいことを尋ねにいく中で、純子さんは「面白い話の宝庫」であることや杉浦家には代々引き継がれてきた「お宝」が屋敷蔵に保管されていて、純子さんご姉妹から町に寄贈していただける意向であることなどを伺い、それらの紹介や純子さんのお話をメインにブログという形で紹介していくことで、H・Pの更新も図っていこうと始めたのが「杉浦醫院四方山話」です。

 前後して、20年来読んだ本などの情報交換を楽しんできたY氏が、「今は、チキリンさんが面白いよ」とネット上のChikirinの日記」と云うブログを教えてくれました。当時(約4年前)は、女性覆面ブロガー・チキリンも現在ほど売れっ子ではありませんでしたが、「おちゃらけ社会派」を自認して発する内容と「そんじゃーね!」で終わる文体は、それなりに楽しめました。その中に「ブログは蓄積がすべて」と云う話があり、「3年後も読まれているか」「読手を想定して書いているか」と云ったチキリンのブログテクニックが開陳されていました。単純な私は、「そうか、一定数を継続して書いていくことだな」と理解した結果が、300話になりました。そういう面では、チキリンさんは師でもありますが、現在のチキリン日記は、云わんとすることが分かってしまうことも多く、あまり読みませんから、ブログの読者なんて身勝手な者だと自分自身で実感できますし、個人が日々発信していく内容的限界やマンネリ化は避けられないことも必然のように思いました。

 そういう意味では、町内外の方々から顔を合わせるたびに「ブログ読んでるよ」「サボっちゃダメだよ」と声をかけられたり、県外からの来館者が「ブログを読んで来ました」とか「あのブログを書いてる方ですか」と言われ、案内がスムーズになったり、何より純子さんから「私やここの事を東京の親戚が全部知っているんです。姪からからも安心だって電話がありました。凄い時代なんですね」と喜んでもらったりが書いていく励みにもなりました。

 
 「個人的にはホームページもいらない」と思っていた全くのアナクロ人間が、まさかブログなどというモノに係るとは思ってもいませんでしたが、必要に迫られ写真の採り込みなども覚えましたから、「労働が人間を作る」のマルクスは、矢張り正しいのでしょう。        賢明な方なら書く前に考えておのが当然なのでしょうが、愚鈍な私は、書いていく中で「書いて開示していくことの意味」についても考えざるをえなくなりました。
 杉浦醫院を町が購入する意味は、私も担当の端くれでしたから「品格ある町づくりに寄与できる文化施設としての活用」を議会にも説明しましたが、根底には「自分が惚れ込んだ建造物」であったことが大きかったように思います。
「先ず惚れること」を何より優先する脳のクセがあり、「惚れたら口説く」が定石ですから、私の中では定石通りコトを進めたようにも思いますが、「惚れた所で働けるなら益々磨きをかけて」と掃除にも熱が入りますから、「先ず惚れる」は、マルクスは見落としましたが「凡人の価値」のようにも思います。
 
 
 饒舌はさておき、「品格ある町」に欠かせないモノとして、単に建造物としての杉浦醫院だけでなく、町民が共有できる「杉浦醫院物語」と云った「物語の醸成」が必要不可欠だと意識するようになりました。これは、角野町政のテーマである「コンクリートから人へ」と重なる「ソフト」を抜きにした町づくりはもろいと云う歴史的事実でもあります。30話位まで、その辺を薄々感じながら書きましたが、「書いて開示していくことの意味」を遅まきながら考える中で、「杉浦醫院四方山話」で昭和町、中巨摩郡、甲府盆地、甲州の歴史や風土、人々なども視野に、話を重ねていくことも杉浦醫院物語や昭和町物語を醸成していく一つの具体的試行であると考えるようになりました。

 まあ、大風呂敷を広げると収拾が付かなくなりますからこの辺で雑駁な総括としますが、ただ単にブログを書き続ければ、物語が構築されるなどと思っているわけではなく、国の登録有形文化財五件を有する杉浦醫院の建造物を最大限活かしての文化発信と子どもから大人まで来館者が杉浦醫院ファンになっていただく為の仕掛けや試行を重ねていくことが基本です。「杉浦醫院四方山話」もその仕掛けや試行の一つとして、これからも書いて行く所存です。
 本年はキリの良いこの300話で締め、また来春から初心に帰ってお目にかかりたく思います。ご愛読に感謝申し上げ、ちょっと早い気もしますが、皆様よいお年をお迎えください。

2013年12月18日水曜日

 杉浦醫院四方山話―299『かおり幼稚園年長組来館-2』

杉浦醫院を見学しての鉛筆画2枚も児童画と云われる子どもの絵画の面白さに溢れています。
 
 
上のりょうすけ君の絵の右から水色の池、その横に長方形を積み重ねたのは医院の階段で、下のけんた君の絵でも中央に横からの階段が描かれていますから、昔の一直線の急な階段は、現代っ子にはインパクトがあったのでしょう。二人とも同じく壊れた大きな古時計の上と下に調剤室の薬瓶や薬棚が描かれていますから、大人も目を見張る薬棚は子どもにも・・・・当然ですね。
 
 
 上のりょうすけ君の絵は、左上は土蔵のひさしに残っているスズメバチの巣、その右はホタルの幼虫を飼育している水槽、左下は土蔵和室に展示している軍刀、その右が応接室のソファーの椅子とグランドピアノ、玄関先から覗いた母屋の鶴の絵画、その右上は、土蔵和室に展示している矢羽の着物・・・・と、りょうすけ君の見学記録が的確に残されています。
 
 下のけんた君の絵は、中央の階段が、実見出来ない横からの視点ですから、けんた君の頭を通過したモノが描かれているわけで、個々の絵も簡単には特定できない記号論として観る者に読みとりを迫ります。例えば、画面左下に並ぶ10個の造形に思わず「うーん」で、先に進めません。超夕暮れ族が強いて答えれば、土蔵ギャラリーに展示してある器展の器ではないか?位です。画面中央下のショベルカーのような絵も当日、確かに納屋の工事はしていましたが、ショベルカーはありませんでしたから、全く違うもので??そうか名前のけんたの下にあるから、「けんた」は「建太」で、ひょっとしてけんた君のトレードマークが建設機械で、落款替わりのサインか??
けんた君の再訪によるご教示をお願いするしかありません。

2013年12月14日土曜日

杉浦醫院四方山話―298『かおり幼稚園年長組来館-1』

 過日、近くのかおり幼稚園の年長組の園児が見学にみえ、翌日鮎川先生が、園児が描いた絵を持参くださいました。初めての園児の見学会で、どの程度の説明が必要なのかも試行錯誤で、結局約1時間を杉浦醫院探検会として、裏の土蔵まで自由に探検してもらうことにしました。                                     詩人の茨木のり子さんが「大人は子どもの夕暮れではないのか」 と発したエッセイを思い出すほど子どもの眼と好奇心にあらためて脱帽してしまいました。絵の上にある三つの丸は、診察室の照明器具です。当214話「杉浦醫院の照明器具」でも紹介しましたが、アールヌーボー風の照明器具は、古さを感じさせないモダンなものですが、何の説明もしなかったこの照明器具をしっかり眼に焼き付けて帰っていたことに驚かされます。                    2階の階段脇にある自分の背丈より大きな壊れた時計には多くの子どもが喜びましたが、3時で止まったままの針も正確です。2階は和室に座卓が3つ並び、健造先生や三郎先生の新聞記事コピーをおさめたファイル3冊や本などの活字資料を置いていますが、座布団に座ってそれらの資料を開いて見る好奇心があるので、当館のDVD映像も点けてみました。すると食い入るように映像を観る顔・顔・顔です。以前、下見に来て「これは、低学年の子にはちょっと難しいので・・・」と賢明な?判断をされた先生もいましたが、矢張り、子どもに成り代わって、取捨選択をしてしまう気真面目さは、夕暮れ度も進んでしまう職業病かもしれません。
余談はさておき、その座卓での様子も上手に描かれていますが、手前3枚の茶系など色や柄もまちまちの座布団も実際絵のとおりですから、座布団が畳の上にずらっと並んでいる和室もこの子にとっては新鮮な光景だったのでしょう。
  
 かおり幼稚園の絵画指導には定評がありますが、12時までの見学の後、園で昼食を食べ終わった子から、杉浦醫院の見学会で印象に残ったことを好きにお絵描きした作品とのことですが、パターン化された「お礼の手紙」より内容がありずっと面白く、子どもも学年が進むということは、一面夕暮れに向かっていくことなんだなあ~と実感してしまいました。

2013年12月10日火曜日

杉浦醫院四方山話―297『杉浦診察所』

 母屋の屋敷蔵二階から、新たに「杉浦診察所」の看板が見つかりました。この看板の裏にも「明治24年6月開業」の折に記念保存の為造った看板であることが記されています。      昭和4年に新たに醫院棟を建設するまでは、母屋の一部を使って診察していたそうですが、この看板は現在の母屋建設前の建物に掲げられ、母屋に引き継がれた看板のようです。     8代目の健造先生は、横浜野毛の小沢良済医師に師事して西洋医学を修め、明治22年に医業開業免許状を受け、明治24年6月にこの地で西洋医学の診察所を開業しましたから、その際の記念看板であることは間違いありません。江戸時代初期に初代杉浦覚道が医業を起こし7代目杉浦嘉七郎までは漢方医で、江戸時代の医者は、往診が主でしたから、「診察所」の看板を掲げたのも健造先生が初めてだったのかもしれません。                                                 当295話でも紹介しましたように現在の母家は、明治26年8月起工、明治27年5月上棟の記録が見つかり、完成は早くとも明治29年頃とのことですから、明治24年6月から約5年間は現在の母家と別の建物で診察していたことになります。診察所と自分たちの生活空間を分ける必要性を感じていた健造先生は、新たに診察所も兼ねた母屋建設を始め、中央に廊下を配した当時としては大変めずらしい間取りの母家が新築されたのでしょう。 明治30年から約30年間健造先生は、現在の母家の南側の部屋を診察所として使い、廊下を隔てた北側で生活していたことになりますが、「清韻」と云う号を持つ文人でもあり、座敷では歌会始め宴会などもよく催されていましたから、当時の診察所は、現在の医院とは大分趣が違うものだったのでしょう。9代目三郎先生へ引き継ぐべく、健造先生は新たな病院棟建設を昭和4年に行いましたから、現存する杉浦醫院の建造物は、車庫と旧温室以外は、健造先生の手によるもので、その後100有余年を三郎先生、純子さんが手を入れながら引き継いで、現在に至っています。

2013年12月4日水曜日

 杉浦醫院四方山話―296『門前に新駐車場』

 アルプス通りの側道から入るこれまでの駐車場は、大型バスが進入出来なかったり、南から来た車は、ぐるっと約一周して駐車場にたどり着くご不便をおかけしてきました。                 フルオープンを前に入り口正面の杉浦純子さんの土地を純子さんから「駐車場にどうぞ」と申し出いただき、この度新たな看板も立ちました。写真のように杉浦醫院正面入り口の真ん前で、南側の西条新田公民館方面から来ると正面左側です。駐車場からは横断歩道を渡るだけですが、この道は西条新田の旧道で、現在も交通量の多い道ですから横断には十分お気を付け下さい。 

 下の写真は、東西に走る旧道を西から撮影したものです。道の両端には白線が引かれ歩道になっていますが、ご覧のように段差がある訳ではなく車の擦れ違いには当然歩道にもかかります。昭和浄水場に代表されるように水の町・昭和には、水路も至る所にありますが、車社会への対応や歩道確保のため水路に溝蓋(こうぶた)をして道路の拡幅を図ってきましたから、この旧道の左側、杉浦醫院の板塀沿いも溝蓋のかかった道路で、下には水が流れています。 
この道を東に進むと昭和高校や甲府西高、西に進むと農林高校がありますから、朝夕は自転車の高校生の往来も多く、自動車は対向車同士譲り合ってが日常的なので、それはそれで広い道路を我が物顔で走り去るより上等かもしれません。

2013年11月30日土曜日

杉浦醫院四方山話―295『母屋の建築年月日が特定できました』

 杉浦醫院の母屋は、これまで「明治中頃に東花輪の橋戸棟梁の橋戸工務所が建築した」と云うことで、正確な建設年月日は分かりませんでした。   

 過日、3代目の橋戸伯夫棟梁が、自らもかかわった屋敷蔵の2階天井に掛っていた棟上げ式に使った弓矢を外してくれました。
上棟式は、家屋の守護神や工匠の神をまつって、これまでの工事の無事と竣工までの加護を祈願し、新しい住まいに災厄が起こらないように祈念する祭事で、建前とも呼ばれていますが、最近ではあまり見かけなくなりました。この弓矢は、鬼門の方向に向けて放たれるようセットされたもので、伯夫棟梁は「この矢もオジイサンさんが造った矢だと思うよ。昔の大工はこういうものから神棚まで何でも造ったから」とお祖父さんの手仕事を懐かしんでいました。

 長いこと屋敷蔵の天井にしっかり釘打ちされてありましたから、下から見ると表の部分(写真右)しか見えませんでしたが、矢の先端部分(写真中)の裏に「明治二六年八月起工 同二七年五月二二日 上棟挙行」としっかり読み取れる文字で書き込まれていました。(写真下)
「明治26年の8月から始まって、10か月かかって上棟式をしたんですね」
「そうさね。上棟式からが細かな大工工事が多いから、多分出来上がったのは2年後くらいだったと思うよ」と伯夫棟梁。
純子さんも「祖父や父がよく橋戸さんがやりぽーけやった家だと云っていましたから、その位かかったかもしれませんね」と・・・
「昔は手間代が安かったから出来たけど今じゃあ無理だね。屋敷蔵の入り口の黒塗りの左官工事でも親方が自分の顔がきれいに写るまでそりゃー丁寧に時間をかけて塗って、鏡になる壁だと自慢していたけど、自分の仕事が残るから職人はきっちりした仕事をしていたもんさ」
「この矢でも今じゃベニヤなんかを使うけど、いい木を使って造ってるだよ」と云うように厚手の木を曲線で切込みを入れながら左右対称に細工され、それにご覧のようなデザインの絵も描かれていますから、あらためて大工さんは「総合芸術家でもあるなー」と感じ入りました。
この弓矢は、旧車庫の天井に吊り下げて展示してみようと思います。

2013年11月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―294『庭園の紅葉をお楽しみください』

 
 
 
 杉浦醫院庭園の紅葉が一気に進み、見頃を迎えました。庭園の自由散策だけでも可能ですから、この機会に杉浦醫院にお越しいただき紅葉をお楽しみください。尚、入り口門前の駐車場も駐車出来ますのでご利用ください。

2013年11月27日水曜日

杉浦醫院四方山話―293 『ヨロビ起こし-2』

  基礎の石を外し地面を掘り下げて、砕石と コンクリートで補強された地面に再度基礎の石が水平に積まれました。                 そこに土 壁の芯「コマイ」が入るよう中央に溝を彫った新しい土台を入れる微妙な工事が始まりました。基礎石の上に新しい土台が入るようジャッキで、壁全体をギリギリまで上げて、土台を置くと写真でもお分かりのように壁と土台の間にきれいな水平線が描かれました。(写真上)

 ここから、土台にあて木をして、基礎石の中央まで叩いて押し込んでいきます。
 既存の柱の垂直を確認しながら、新しい土台と柱ががっちり組み合うまで打ち込んだところで、ジャッキを下げると重量で柱と壁が刻んだ溝に入り、ピッタリおさまりました。(写真中)
このように文章で説明すると10行足らずの工程ですが、実際は付随して起こる予期せぬ問題への対応が多く、引っかかるコマイをのこぎりで切ったり、隙間に合わせたクサビを作って打ち込んだり等々、簡単には進みません。
特に古い部材と腐食して交換が必要な部材をつなぎ合わせる個所は、採寸して刻んで繋ぐ訳ですが、何か所もある繋ぎ目を合わせる加工には技術と手間がかかり、きっちり納まる度に「やりますねー」と、自然に称賛の声になります。

2013年11月20日水曜日

 杉浦醫院四方山話―292 『ヨロビ起こし』

 現在進行中の納屋の改修工事で、設計士と棟梁が工法を検討するなど一番気を遣った工事は、建物東側が約10センチ落ち込み、全体が東側に傾斜している「ヨロビ起こし」と云う修正工事でした。土壁をすべて落してしまえば比較的簡単な工事のようですが、現在の土壁は生かすことが前提ですので、笹本棟梁は、特注の金具を発注して、東側壁全体をジャッキアップし、腐食している土台を差し替え高さを調節して、元に戻すという工法で工事にかかりました。右写真が特注の金具です。この金具を内と外で連結して計6個セットしました。                                       更にジャッキアップしたとき浮いた壁の重量で、梁や柱が広がらないよう帯ラジェット(下写真のグリーンの帯)やチェーンラジェットでしっかり絞めて固定しておきます。

右写真のように特注金具と下のジャッキとの高さに合わせた柱を6個所にセットして、いよいよジャッキアップと云うところまで進みました。   当初予定した通りに事が運ばないのは、土蔵の改修工事でも経験済みでしたが、今回も屋根瓦を外して屋根の下地作業を始めると雨漏りで腐っている梁や土台、垂木などが随所で明らかになり、新たに刻みをして新しい梁や土台に入れ替える作業が次々起こります。
 ここまで、セットされた段階で、設計監理を担当している薬袋設計士を交えての協議の末、基礎の石も一度外して、基礎が沈まないよう基礎石の下を採石とコンクリートで補強してから再度基礎石を積み、新たな土台に入れ替えることになり、土間の土を掘り出して約30センチ掘り下げることになりました。             要は、具体的な問題に直面したらその都度、みんなの知恵でより良い工法や手順を考えて、現場の大工さんが試行錯誤格闘して事を運ぶ以外ないということが、改修工事の大変なところでもあり、面白いとこでもあるようです。取り壊して新しく建て直した方が安く出来ると云う現代では、「ヨロビ起こし」の工事など滅多にないそうですから、工法も現場の状態から編み出すしかないようです。 

2013年11月16日土曜日

 杉浦醫院四方山話―291 『秋のお香教室』

 当館の病院棟の2階は、座学スペースとしてデジタル化された日本住血吸虫関係のDVDを観賞したり、和の学習教室の会場として活用を図っています。改修工事の終わった土蔵にも畳敷きの和室がありますので、参加人数によって、どちらの会場も選択できます。
 
過日、「秋のお香教室」が参加者の都合に合わせて、午前の部と午後の部に分かれて開催されました。       香司の長坂先生が前回も和服でしたから、和服での参加者もあり「和の教室」の雰囲気が満ちていました。今回は、香袋を柱などにさりげなく吊るせるよう紐状の材料をさまざまな方向ににくぐらせて引き締める「結び」までを2時間集中して学びました。              「結び」は、人間が習得した最初の技法と云われ、これによって、物を束ねたり、結び合わせたりすることができるようになり、人間が他の動物と一線を画した力や文化を築く基礎になったと云われています。たとえば,石と木とをつる等ででしばりつけた石槍や銛(もり)で猟を始め、弓矢などの進化した道具へと発展したのも「結び」からで、日本の和結びも100種類以上あるそうですから、奥が深い和文化です。
下の写真は、午前の教室の参加者の作品です。中の「香り」もそれぞれ自分の好みの香りを調合したように香袋のデザインや色も多彩で、「結び」もそれぞれが挑戦した形で決まっていて、個性的な作品に仕上がりました。
                       

2013年11月9日土曜日

  杉浦醫院四方山話―290 『河西秀吏さんの写真』

 過日、西条二区の河西秀吏さんが「文化祭に出品した写真だけどここの池だから・・・」と秋の杉浦醫院庭園の池を撮影したパネル作品を持参くださいました。河西さんは既に数冊の写真集も上梓している写真家ですから、アッと驚く素晴らしい写真で、言われなければ杉浦醫院の池だと瞬時には分からない見事なものです。
 
 杉浦醫院庭園の秋は、何と言ってもモミジの紅葉です。この時期は、落ち葉も庭一面を赤く染めますので、紅葉を楽しんでもらうよう朝の落ち葉掃きも控えています。河西さんも前話の堀之内さん同様、人知れず撮影して、何も語らずさりげなく置いて帰ってしまう方ですから、この紅葉が去年のものか一昨年のかも分かりませんが、生半可な講釈を垂れたがる悪癖で、水野晴郎センセイ風にこの写真を解説してみましょう。
 <先ず何と言っても敢えて逆光を選択できる河西さんのカメラ技術とセンスが凄いですね〜。逆光故にまっすぐ伸びる竹の影が水面に投影され立体的な遠近感を醸し、実際の池の奥行きを倍加していますね〜。水面に広がるモミジの落ち葉に輝きを与える木漏れ日も素晴らしいですね〜。その上に、逆光にもかかわらず水面に反射される秋の青空もしっかりとらえて、赤や黄の紅葉を一層引き立たせていますね〜。いやぁ、写真って本当にいいもんですね〜>
 
 下の写真は、河西作品を劣化させて申し訳ありませんが、持参いただいた作品を私が撮影したモノです。クリックすると拡大しますので、概要をご覧いただき、間もなく全面紅葉を迎える杉浦醫院で、診察室に掲示した河西さんの実作品を是非ご鑑賞ください。実際の池と作品のアングルなどを見比べてみるのも面白いかと思います。玄関では、堀之内さんの丹精込めた菊花と菊香がお迎えいたします。 
 

2013年11月8日金曜日

  杉浦醫院四方山話―289 『堀之内一郎さんの今年の菊』


菊咲イチゲ「雪の精」
菊苗 福菊 元禄丸 1株
 プレ・オープン以来、杉浦醫院の玄関には、季節ごと花が絶えませんが、11月になると春から秋まで咲いたサフィニアを交換に西条一区の堀之内一郎さんが、菊を届けてくださいます。これも毎年ですが、音もなく現れサッと交換して疾風のように去って行きますからお礼の挨拶も出来ず、本当に「洒脱な方だなー」と憧れてしいます。まだ咲いていたサフィニア3鉢はそのままに丸菊3鉢に上の写真の「雪の精」2鉢と下の「元禄丸」4鉢です。

 菊の種類や育て方も無知の私たちに「元禄丸」「雪の精」と名札も立てて置いて行ってくれますから、今回の2品種の菊は和菊と総称される古代菊の代表的な品種であることも分かり大変助かります。
また、届いた鉢を見ると土が白く乾いていたので、「名人・堀之内さんが水遣りを忘れる訳もない」と育て方を調べていくと、土が白く乾くまで「水絶ち」をして、またたっぷり「水遣り」して、また「水絶ち」を繰り返すことで、茎もまっすぐ伸び強くなることが分かりました。ただ機械的に毎日水遣りすれば良いというものでなく花や葉を観察しながら土の乾き具合にも配慮するという綺麗な花は咲かせる「菊づくり」は「丹精こめて」が肝要なようです。
「元禄丸」の花写真から、日本のパスポートを飾る十六弁菊花紋を思い出しました。外国では、国旗と国章という紋章が法律で決まっていて、パスポートには国章を表紙にしているようですが、日本は国章が法律で決まっていない為か、天皇家の家紋が八重の十六弁菊花紋であることから、パスポートには一重の十六弁菊花紋が使われたそうです。矢張り、天皇が日本人であることを証明をしてくれているのが、日本のパスポートだということでしょうが、「春の桜と秋の菊」は、日本を代表する国花として定着していますから、桜と菊のデザイン2種類を用意して、好みで選択できると云った洒落があってもいいのになー・・・・と、余談でした。


2013年11月7日木曜日

 杉浦醫院四方山話―288 『台風被害と修復』

 10月の波状攻撃のような台風で、母屋屋敷蔵の壁や軒(正確には「けらば」と云うそうです)が、写真のように風圧なのか水によるのか定かではありませんが崩れ落ちる被害に遭いました。       
木造建築でも土蔵造りとか蔵造りと呼ばれているこの日本建築は、鉄砲の伝来で、城郭に防火・防弾のために30cm以上の分厚い漆喰大壁が用いられたことから、江戸時代以降は、城郭で発展した技術が生かされ、火災や盗難防止のために倉庫として裕福さの象徴ともなって盛んに建てらました。                                       漆喰の外壁が落ちて隠れていた軒の構造が露わになりましたが、あらためて竹と縄で編まれた土壁の芯を見ると手の込んだ技術であることに感心します。現代では、土壁に変わる断熱材もいろいろ開発されましたが、これも土壁の手間が工期の長さとなり建築費のコストを押し上げたからでしょう。
 
伝統的な木造工法
a= b=貫 c= d=床梁 e=束石(つかいし)
 土壁はいくつもの工程と職人さんの手間によって作られてきました。「木舞(コマイ)」とよばれる、丸竹と平竹を組み合わせた土壁の芯になるものを、右図cの柱とbの貫(ヌキ)にワラ紐を使い編みつけていきます。

この工程が終わると木舞が筋違になり、一つ一つの壁が固定され、がっしりと力強くなります。その後ワラを細かく刻んで混ぜこみ発酵させた土を丹念に木舞に塗りつけていきます、これは荒壁といい壁の芯になります。この後しばらく乾かし、荒壁の上に荒壁よりさらに細かいワラを練りこみ塗りつける中塗りをします。この時点で壁厚は約10センチほどになり、最終的にこの表面に珪藻土や漆喰を塗り、土壁が出来上がるのですが、長年にわたる使用に耐えるよう柱に溝をいれ、ここに土壁をさしこみ壁の端が柱から離れるのを防ぐ、といった細かい工程も必要になるそうです。 
 
 杉浦家の建造物は、土蔵造りの土蔵・納屋・屋敷蔵に限らず、母屋・病院・温室も全て土壁ですから、それぞれが、明治・大正・昭和初期の建物ですが、一世紀を経てもしっかり持ちこたえているのは土壁だからでしょう。全くの素人としては、現代建築しか知らない子どもたちにも上記の土壁の工程と職人技術が目の当たりにできるよう、補修工事も軒と壁の一部は、中の構造が分かるよう透明な素材で修復出来ないものかと思いますが・・・可能なのでしょうか?

2013年11月2日土曜日

  杉浦醫院四方山話―287 『鬼瓦』

 納屋の改修工事が始まり、昨日は屋根瓦の撤去作業が終日続きました。土蔵の改修では、瓦を一枚一枚外して水洗いし、野地板を張替え土盛りし、外した瓦を再度屋根に載せましたが、納屋の瓦は痛みが激しく、再利用しても先行きもたないということで、新しい瓦を載せることになりました。

 現代建築では、屋根に瓦を使うことも少なくなり、棟の末端に鬼瓦を付けることもありませんが、瓦屋根では、大小やデザインなど様々ですが雨の侵入を防ぐ役割も兼ねた鬼瓦が付いています。いわゆる魔除(まよ)けとしてつけられてきたものですから、怖い鬼の顔を彫刻したことから、「鬼瓦」と呼ばれてきましたが、時代と共に鬼面の瓦を付けると近隣の家を睨みつけているようで・・・と敬遠され、家紋や苗字を入れたものから福槌や宝珠など富を願ったものまで鬼面でない鬼瓦へと変遷してきました。
 
 旧中巨摩郡若草町加賀美地区は、良質の粘土の産地で、豊富な湧き水や燃料を採取する山が近くにあることから、古くから瓦産業が発達し、現在も甲州鬼面瓦と云う工芸品が、家内安全、無病息災、商売繁盛のお守りとして、屋根材と云うより装飾用贈答品として特産品になっています。

日本瓦は日本の気候に適応し、地震や台風に強い特徴や1,000度以上で焼成する粘土瓦は、不燃材としても優れ、耐熱性や遮音性も高いことから現代でも「屋根は瓦でなければ」と云う方も多いようです。


今回の改修工事で、瓦は新しくなりますが、由緒ある鬼瓦は活かすことになりましたので、慎重に外されました。
納屋の西先端の鬼瓦は、杉浦家の家紋「丸に鷹の羽」が彫られています。
 
この「鷹の羽」紋は、武士が多く用いたとされる紋ですから、江戸時代から苗字帯刀を許された医者の杉浦家の家紋も武士に準じた紋だったのでしょうか?はたまた、現在も杉浦姓が多いのは愛知県ですが、武田信玄が三河の国へ遠征した際、当地の名医を甲州に連れて戻ったのが杉浦家のルーツと云った話も聞きましたからその辺も関係するでしょうか?三郎先生の口癖は「昔のことを詮索するより先のこと」で、系図や来歴などには全く興味が無かったそうですから純子さんも、「ウチなんか田舎開業医の一平民でしょう」と淡々としています。     土蔵に隣り合わせた納屋の東端の鬼瓦には、たとえ土蔵が焼けても納屋には延焼しないようにという呪いで、写真のように「水」の文字が彫られています。
二つの鬼瓦は、単に真ん中が「鷹の羽」と「水」の違いだけでなく、左右の脚の部分のデザインも微妙に違い、それぞれが特注で造られたことを物語っています。
 
当館にお越しの折には、母屋をはじめそれぞれの建造物に鬼瓦など歴史的意匠や用途に応じた特徴も随所に見られますので、それらも是非お楽しみください。

2013年10月31日木曜日

 杉浦醫院四方山話―286 『トモエソース-3』

 主に野菜や穀類などで、「地産地消」と云う言葉を近年よく耳にしますが、流通が現在のように発達する前は、豆腐や酒、味噌、醤油、ソースも「地産地消」が当たり前だったことを「トモエソース」の空き瓶が、あらためて教えてくれました。

 現存するトモエソースを購入すべく、青沼通りの「清水酒販」に行ってきました。写真右のウスターソースと左の中濃ソースが市販されていて、一般的な中濃ソースが人気で、現在も固定客が求めに来るそうです。

 電話に出てくださった店主と奥さんに持参した杉浦醫院納屋にあったトモエソースの空瓶を見せると「懐かしいねー。こんな税金まで表示していたんだ。でもこの瓶は、私の記憶にもないラベルだからかなり古いモノですよ」と、トモエソースの歴史や全盛時代の話をしてくださいました。
「おじいさんは、イカリソースで修業して深町で創業しました。当時は、県内にもソースを製造していた会社が7社ありましたから激戦で、うちは、大きなソース瓶の模型を載せた宣伝カーで県内を回りました」                 「私も助手席でウグイス嬢のようにトモエソース、トモエソースと連呼しました。車に子どもが集まるようにアメを用意しておいて、集まった子どもに配ったりもしましたね」
「ホーローの看板も作って、板塀などのお宅にお願いして釘で打って回りました」
「そのホーローの看板が、東京の古物商で1万円以上で売っていますよ」
「へぇー。まだ倉庫にあるかもしれないので、今度探してあったらお持ちしましょう」
「全盛期には県内だけでなく長野県も奥の大町や飯田まで、静岡の清水あたりまで卸していました。だんだん地ソースを扱っていた食料品店や酒屋さん、肉屋さんがなくなって、最後はトモエソースだけになりました。深町で昭和50年代まで造っていましたが、環境問題で工場をつぶして、兄がガソリンスタンドを始め、ウチがトモエソースを引き継いだ訳ですが、指名して買いに来てくれるお客さんがいるので続けてきました」と・・・・
昭和町に「イオンモール甲府昭和」が計画された時、イオンはこのモール店の商圏を山梨県内のみならず長野や静岡も視野に入れていると云った報道を目にした記憶がありますが、トモエソースの商圏は、イオンモールの想定商圏を席巻していた大先輩であることも知りました。

 清水ご夫妻は、既に当館にも来館いただいていて、「素晴らしい庭と建物を見せていただいて良かったので、先日は市川大門の栴檀の酒蔵の跡も見てきました」と云う「温故知新」のご夫妻で、お忙しい中でも歓迎していただき、大変お世話になりました。
「清水酒販」は、酒屋さんですから、店内のメイン商品は酒で、壁一面の大型冷蔵ケースには日本酒の一升瓶、それも全国の名酒がずっらと並んでいて、思わず「いい酒を揃えていますねー」と横道にそれ出しましたが、すぐ目に入った「雪中梅」をソースと共に購入して、ご機嫌で店を後にしました。 

2013年10月29日火曜日

杉浦醫院四方山話―285 『トモエソース-2』

 かつて甲府盆地一帯の地ソースとして存在した「トモエソース」を検索していく過程で、東京・上北沢のツナ商店にヒットしました。
このツナ商店は、「古い懐かしいもの」を専門に扱っていますが、ホーロー看板の一つに「トモエソース」の看板が、11,800円で販売されていました。この看板が甲府のトモエソースのモノかどうかは分かりませんが、三つ巴の商標は、大変酷似していて可能性大だと勝手にコピーさせていただきました。同時に、「トモエソース」の空き瓶3本も含め納屋に眠っていた杉浦家の古いモノもこういう世界では十分値段の付く「骨董品」であることが分かりました。

更に検索していくとトモエソース-食品工業(山梨県甲府市) - [電話帳ナビ]地図情報が出てきました。ここにある情報は、電話番号と所在地だけでしたが,早速、記載されている番号に電話して問い合わせました。その結果、甲府のトモエソースは、現在も健在であることが分かりました。

 近年、町や村の昔からのガソリンスタンドが次々消えていったように、法治国家の日本では一度法律で決まると個人の思いや願いに関係なく物理的にも経済的にも廃業や転業を余儀なくされてしまうケースが後を絶ちません。かつて土地々にあった地酒が「排水や排煙」の規制で製造できなくったように「うちのトモエソースも街中では造れなくなりました」と・・・・
 「関東ソース工業組合員だったので、近県の会社と共同で、現在は茨城県の工場で製造しています。スーパーなどには大手のモノが入っていますから、県内で、トモエソースを売っているのはウチだけでしょう。店は里吉4丁目で、青沼通りにありますから 」
 「私の先々代が、創業者の塩沢節逢です。トンボソースとか幾つか案があったようですが、トモエに落ち着いたようです。現在は酒屋ですが、トモエソースもありますよ」と、現社主が教えてくれました。
 
 急な問い合わせにも丁寧に応じていただいた社主は、青沼通りに「清水酒販」と云う店を構えています。茨城の共同工場で甲府の地ソース「トモエソース」が現在も製造され、清水酒販に出向いて購入し、愛用している県民がいることを知ると、それだけでもうれしくなってきました。

 甲府には、江戸時代創業の「富士こうじ」の冨士井屋糀店や明治時代からの「おかめ麹」、五味醤油の「やまご味噌」など甲州味噌や醤油が根強い人気、需要に支えられて現在も営業していますが、「トモエソース」も販売されていることは知りませんでした。空き瓶のラベルには「規格比重17度以上」と銘打ってある「トモエソース」をこれを機に賞味してみようと思います。

2013年10月26日土曜日

 杉浦醫院四方山話―284 『トモエソース-1』

 昨年の土蔵改修工事に続き、納屋の工事が始まりました。それに合わせて、納屋にあった杉浦家の書籍や瀬戸物、農具、家電製品、ビンなど多種多様なむやみに処分できない歴史的な収蔵物を移動して保管しました。

 これらについても整理しながら随時ご紹介していきますが、先ずは「トモエソース」の空き瓶が3本ありましたので、「トモエソースは杉浦家御用達のソースだったと思うのですが」と純子さんに聞いてみました。
 「トモエソース?初めて聞く名前ですね。ソースでは、ブルドッグソース位しか記憶にありません」
「生産者が甲府市深町二の一五四 塩沢節逢とありますが、深町ってどの辺でしたか?」
「女学校の時、深町から来ていた頭が良くってきれいな同級生がいましたから三日町の先だったか?確かではありません。そうそう、昔はソースより醤油でしたから、敷島醤油は覚えています。敷島で作っているから敷島醤油だと思っていましたが、女学校に行くようになって荒川橋の先、上石田に敷島醤油の大きな工場があって、甲府で作っているのを初めて知りました」と・・・

 純子さんには記憶のない「トモエソース」ですが、居合わせた昭和18年生まれの永関さんが、「生まれが穴切だったので、物心ついた5,6歳の頃、歩いて行った城東の親戚の辺で、トモエソースと書いてあった煙突を見た記憶がある」とのことで、 調べてみると、甲府市深町は「現在の甲府市城東1,2丁目で、旧桶屋町と工町から三ノ堀を隔てて東に接する郭外の武家地で、城下の南東端に位置する」とあり、永関さんの記憶どおりでした。
更に「甲府深町の歴史」と云う書籍も出版されていることも分かり、町立図書館レファレンスで、近々借りられることになりましたから、武家地・深町の歴史についても紹介できたらと思います。

 インターネットで「トモエソース」を検索すると全国には同じ名前のソースが幾つかあり、岡山県倉敷の「トモエソース」は、現在も県内ではメジャーなソースとして人気があるようです。また「トモエ〇〇」と云った製品や会社名もたくさんありました。

 これは、商標トモエが「巴(ともえ)」に由来しているからでしょう。「巴」は、「市松」や「唐草」「花菱」などと同じ日本の伝統的な文様で、 勾玉(まがたま)又はコンマをデザインしたような巴紋(ともえもん)という家紋もありますから、「トモエ〇〇」名が多いのも製造者や起業者の家の紋が巴紋だったことから命名されたのでしょう。また、寺社の神紋・寺紋にも巴紋は多く、太鼓などにも描かれる縁起の良い文様だったことも関係しているように思います。               巴を円形に配し、それぞれ一つ巴(ひとつどもえ)、二つ巴(ふたつどもえ)、三つ巴(みつどもえ)と言いますが、右写真のように甲府市深町の「トモエソース」は、三つ巴(みつどもえ)の代表的な巴紋のデザインです。

 大相撲の千秋楽でも優勝決定戦で「巴戦(ともえせん)」になることがあります。これは、相星の力士3人による優勝者決定のための戦いで、3人がそれぞれ2 人の力士と取組を行い、2連勝した力士が優勝となりますから、巴は、三つ巴が一般的でもあるのでしょう。

2013年10月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―283 『史蹟名勝天然紀念物-2』

 大正8年6月に施行された「史名勝天然念物保存法」で、鎌田川の源氏ホタルは国の指定を受けた訳ですが、白鷺城や会津城なども同じ「史名勝天然念物・白鷺城」で、こちらは、「史蹟」としての指定理由だったのでしょう。城や古墳、寺社から源氏ホタルまで一括りにした「史蹟名勝天然紀念物保存法」は、時代推移の中で不備が目立つようになり、特に1949年(昭和24年)の法隆寺金堂の炎上による壁画焼失を契機に、文化財保護行政の充実強化が求められ、1950年(昭和25年)に「文化財保護法」が成立し、「史蹟名勝天然紀念物保存法」は廃止されたました。 鎌田川の源氏ホタルが、天然念物の指定解除になったのは昭和51年ですから、昭和25年の文化財保護法成立後も旧法の指定は、継続されていたことが分かります。
文部大臣・鳩山一郎殿に申請した「源氏蛍発生地」の整備計画図
   この新しい法律では、「史蹟名勝天然紀念物」を「文化財」と云う用語にし、新たに埋蔵文化財も含めるなど保護の対象を広げると共に保存や公開、それに対する補助金なども定め、その都度見直しを図り、現代に至っています。
  この「文化財保護法」への改変過程で、鎌田川の源氏ホタルなど「天然(自然)記念物」を文化財に含めることについても検討され、諸外国では少ないことから、1971年(昭和46年)に環境庁(現・環境省)が発足した際、環境行政の一環として天然記念物保護を行おうという動きもありましたが、結局、文部科学省の外局である文化庁が、登録文化財の一環として担当しています。
 
 昨年8月に当館内の建造物5件が、国の「登録有形文化財」に指定されましたが、この登録有形文化財制度も当初は「建造物」だけに限られていました。2004年の法改正で、建造物以外の有形文化財についても登録対象となり、有形民俗文化財や記念物についても「登録制度」が導入されましたから、昭和町の源氏ホタルが至る所で自生し、復活すれば、「登録記念物・昭和町源氏ホタル」として、再度、国指定も可能になります。「史蹟名勝天然紀念物保存法」の制定、「文化財保護法」への改定に共通する背景は、経済発展を最優先し、それを阻害するものは古くさいものとして失ってきたと云う深い反省によるものですから、都市化の進む昭和町の源氏ホタルは、二重の意味で価値もあります。
                                      現在では、棚田をはじめとする「景観」も文化財として位置付けるなど、自然とそこで生活した人間の文化は密接な関係があり、ともに守るべきものであるという考え方が世界標準にもなっています。1972年には「世界遺産条約」が結ばれ、日本も20年後の1992年にこの条約を批准した結果、今年、富士山が世界文化遺産に登録されました。
これは、景観に加え環境や信仰、芸術など自然と人間が創造した文化も保護の対象になっていますから、あらためて、昭和初頭の国の天然記念物指定から今日まで、昭和町の源氏ホタルは、町のシンボル、象徴として町民に周知され、引き継がれてきていると云う足元の風土に眼を向けてみる必要性を再認識しました。    

2013年10月12日土曜日

 杉浦醫院四方山話―282 『史蹟名勝天然紀念物-1』

 昭和町を流れる鎌田川の源氏ボタルは、虫体と光源が大きく、数も多く、発生地域も広いことで、日本を代表する源氏ホタルとして知られていました。                      昭和3年には、この源氏ホタルが、押原連合青年団の手で多摩御陵に献納され、大正天皇のみ霊を慰め、昭和5年には、文部省(当時)から史名勝天然念物の指定を受けました。しかし、地方病終息に向けた水路のコンクリート化や駆除薬などによるミヤイリガイ殺貝活動で餌になるカワニナも死滅し、ホタルも姿を消して、昭和51年史名勝天然念物の指定も解除されました。                                                   純子さんは、母屋座敷蔵の収蔵品の整理を「目が衰えてからで遅すぎますね」と云いながらも旧知の永関さんや橋戸棟梁夫妻が見えると手伝ってもらいながら進めています。       昨日も、「こんなモノが出てきましたが・・」と昭和8年5月19日付けで、西条村外一箇村組合長杉浦健造が、文部大臣鳩山一郎殿に提出した「史名勝天然念物鎌田川源氏蛍発生地保存施設費追加補助申請」書を持参くださいました。
 
 鎌田川の源氏ホタルが「史名勝天然念物」に指定されたのは、「史名勝天然念物保存法」と云う法律が大正8年6月に施行された結果です。この法律が制定された背景も前々話の内田樹氏の指摘とも重なります。
 日清・日露戦争に勝利した日本は、急速に近代化、資本主義化がすすみ、各地で工場や鉄道建設の土地開発がおこなわれ、それにともない、その土地にあった文化財の多くが破壊されました。その反省と列強5カ国に並ぶ日本文化の独自性を発揮していく意味でも、欧米にならって、各地の文化財を保存していく法整備が必要になり、イギリスに留学経験のある黒坂勝美東京帝大教授が、保存すべき対象として国史学で用いられることの多かった「史」の語を、ドイツに留学した東京帝大三好学教授は、「天然念物」の語をそれぞれ提案した結果、法律の名称は、両論併記に「名勝」も加え、「史名勝天然念物保存法」と長いものになったそうです。
現代表記では、史は「史跡」、念物は「記念物」ですが、当時の法律は赤字のとおりです。
 
 ですから、「史名勝天然念物鎌田川源氏蛍」は、「史蹟」と「名勝」は付属で、「天然紀念物」としての意味合いで指定を受けたのでしょうが、法律の正式名称から「史名勝天然念物」となりましたから、鎌田川のホタル祭り会場付近を史跡名勝にふさわしく整備していこうと発生地保存施設費用の追加補助を文部大臣鳩山一郎宛に申請したのが今回の書類でしょう。                                                                  
 

2013年10月9日水曜日

 杉浦醫院四方山話―281『内田樹甲府講演会ー3』

 内田樹氏を招いたJCは、疲弊著しい甲府の街を「希望あふれる街」へと活性化させていくために、JCメンバーが「希望を力に」「希望に挑み」をスローガンに内田氏を講師に「街場のリーダー論」を拝聴して、知力向上を図ろうという企画だったようです。郎月堂にあったポスターにもその辺の意気込みは表象されていました。

 先ず、内田氏は甲府市に限らず日本の地方都市は全て弱体化して、どこでも再生を願って「町おこし」を図っているが、自分たち一人ひとりの消費行動の見直しと日本人の消費価値観そのものを問わなければ、地方都市の再生は無いとスイスを例に語りだしました。

 ユーロに加盟しないスイス国民は、ドイツ等から入ってくる安い商品より割高でもスイス製のものを買うことが定着しているそうです。 それは、安い外国製品に飛びつけば、スイスの産業は衰え、結果として自分たちの雇用もなくなって、国も国民も貧困化していくと云う「経済」活動の原則を知っているからで、高くてもスイス製を買う国民の消費価値観が、スイスを豊かな国にしているのだと・・・
 「安いことは良いこと」と云う短期的判断が長期的には自分たちの首を縛るという経済原理と高くても近隣の商店街で買い物をすることで、共同体を維持していこうという経済活動を国も行政も個人もしてこなかったのが、現在の日本の地方都市の衰退であると・・・・  甲府市の再生は、甲府市民に同胞と云った共同体意識があるか否かにかかっていて、JCがいくら旗を振っても市民に呼応する意識がなけば再生復活は困難であろうと悲観的でした。

 その上で、JCが求めるリーダー論でも時間を区切ったプランやマニュアルでリーダーが育つことはないとして、もともと「リーダー」の思想は、右に行くか左に行くかリーダーの決断・指示が、民族の生存につながった遊牧民族の思想で、日本のような農耕民族は、みんなで知恵を出し合い相談して決めるまとめ役がリーダーでしたから、「かつぐ神輿は軽い方がいい」と云うリーダー論が、現代でも通用していると明解に指摘しました。

 日本は、「和をもって貴しとなす」と最初の憲法で定めたてきた国です。それは、アラビアのロレンスやアラファト議長のような強いリーダーをむしろ排するように造ってきた国でもある訳です。だから、歴史上少なくとも3回大きな外的民族が日本に流入して来ましたが、一神教の国のようにこの流入民族を強いリーダーのもと国内に入れない戦いをしてきたかと云うと八百万の神を崇めてきた日本では族外婚(ぞくがいこん)と云う雑婚によって宥和、定着させ血の刷新も図ってきたと云う特殊な民族ですから、「強いリーダーシップ必要論」も効率優先の成果主義が叫ばれだしたほんの最近の現象であることを示唆してくれました。

 ちなみに、日清・日露の戦いで陸軍大将として、日本の勝利に大きく貢献した「陸の大山、海の東郷」と言われた大山巌大将は、「自分は何も決めず、指示せず。部下に好きなようにやらせて、責任は自分がとる」リーダーだったそうです。歴代最強の陸軍を作り上げたのは、大山大将の部下を信頼することで部下の能力とやる気を最大限引き出し、隊をまとめるという調整力こそが、一番必要とされたリーダーの資質だったことも検証されているといいますから、成果主義や効率主義の現代社会が求めるリーダーは、本質的に日本人のDNAと違う価値観が強要されているようです。

 今日の新聞広告で、内田樹氏の最新刊「街場の憂国論」の発刊を知りました。「脱グローバリズム」と云った文字も散見され、今回の甲府講演では、その辺のエキスを語ってくれたのかなと思いましたが、無料だった今講演の礼の意味でもアマゾンではなく街の本屋で購入しようと思います。

2013年10月8日火曜日

 杉浦醫院四方山話―280 『内田樹甲府講演会2』

 内田樹講演会に先立ち、甲府青年会議所について、会員以外の一般参加者に案内があり、「JCへは20歳以上40歳未満の男女に入会資格がある」旨の説明を「そうかJCは、年齢で青年を規定しているのか」と「子どもの誕生」を思い起こしながら聞きました。
 
 「子どもの誕生」は、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが1960年に出した著書です。子どもと大人の一線を当然視し、子どもへの学校教育を当たり前とする制度や現代の子ども観に対し、中世ヨーロッパでは教育という概念も、子ども時代という概念もなく、7歳位で言葉によるコミニュケーションが可能になれば、徒弟修業に出て大人と同等に扱われ、飲酒も恋愛も自由だったとし、子どもは、近代が誕生させた概念だと看破しました。
当然、半ズボンに代表される子ども服もなく大人と同じようなものを着ていたに過ぎないと云った指摘など当時の私には目から鱗の連続で、組合の青年部長を任じられた折「青年と云う概念も曖昧で、組合に青年部や婦人部と云った専門部は不要」と抵抗したことも思い出しました。
  
 甲府青年会議所に招へいされた内田氏は、サービス精神にも富み、「教育」から説明のあった「青年」へと話を進め、日本で「青年」が誕生したのは、日清、日露の大戦に勝って、日本が国際社会の列強5カ国入りした1905年(明治38年)以降からだと指摘しました。
 明治末から大正にかけては、国連で日本語が公用語に採用されるなど、戦勝気分が高揚し、日本人が自信に満ち溢れていた時代で、敗戦国になった戦後の日本人には想像もつかない程、国威が発揚されたそうです。確かに南下政策で負け知らずの帝政ロシアにイギリス、フランスなどにそそのかされて、日露戦争を始めた日本ですが、日本が勝てる訳ないと高みの見物を決め込むアメリカの予想に反して勝利した訳ですから、内田氏を含めて、戦後生まれの私たちには想像もつかない時代だったのでしょう。
ー有名な日露戦争の風刺画ー左から露・日・英・米
と同時に明治開国以来の「文明開化」や「富国強兵」「殖産興業」といった欧米に追い付き追い越せの近代化路線だけでは立ち行かない新たな日本国創造も迫られ、列強5カ国の中で日本の独自性を発揮するには、それまで切り捨ててきた日本の前近代も動員した「オール日本」が必要になり、そのけん引役として「青年」が登場したのだと・・・・
 
 前近代の江戸文化や儒教の精神などは、高齢者には定着していましたが、明治以降生まれた若年層には見向きもされないで来ましたから、この両者の橋渡し役をするのに編み出されたのが「青年」で、国はこの青年を市町村単位、府県単位で組織化し、国の統一した組織「大日本青年団」が出来上がり、太平洋戦争敗戦まで大政翼賛会の中核を担う組織となりました。

 昭和村青年団について「昭和村誌」には、「江戸時代から祭典など賑わいの世話役として「若衆組」「若連中」と云った統一なき自然発生グループが部落にあったが、これを母体に大正5年頃初代団長保坂国造氏を選出して、本格的「青年団」としてスタートした」旨ありますから、内田氏の指摘する「青年」誕生時期と符合します。

ここから、内田氏は、青年に課せられた近代と前近代の橋渡し役や近代と前近代の相克をテーマに次々名作を発表したのが夏目漱石の文学だと論を進め、日本人はこれ以降この近代と前近代の狭間で行ったり来たりの葛藤や苦悩を長く背負うことになったと話し、最後に演題である「街場のリーダー論」の「リーダー」についての話に移りました。
 

 杉浦醫院四方山話―279 『内田樹甲府講演会1』

 過日、甲府市総合市民会館でJC甲府(甲府青年会議所)主催で、内田樹氏の講演会が開催されました。現代日本の第一級オピニオンリーダーとして活躍の内田氏は、以前にも紹介した「日本辺境論」はじめ多数の著書や対談集がありますが、2002年に「講演お断り宣言」を出していましたから、その内田氏が神戸から講演に来るというので、聴きに行ってきました。

 冒頭、今回の講演依頼も再三断ったそうですが、JCのメンバー3人が神戸の道場まで来ての懇願に断りきれず応じたとのことでした。そういう意味では、甲府青年会議所には感謝しなければ申し訳ありませんが、講演に先立って行われたJCの研修報告が、内田氏が最も否定してきたパターン化された研修内容で、内田氏も「なぜ僕が呼ばれたのか分からくなってきた」と苦笑してのスタートでした。



前表紙
 演題は「街場のリーダー論」でしたが、上記のような状況から内田氏は臨機応変に神戸女学院大学での30数年の教員生活と合気道師範の武道家として行き着いた「教育」の話で始まりました。
 詳細は著書「街場の教育論」や「街場の大学論」に譲るとして、死後となって久しい「大器晩成」が教育の本質だと語り、2年とか4年と云った短いスパンで結果を出す、出させる教育なんてあり得ない。ましてや、数か月に何回か行った座禅研修で「集中力」を高めたと云うJCの研修会も・・・と、苦言を呈しました。

 「教育は、色々な教師が、多様な価値観で、様々な方法でかかわる中でブレークし、当人が学びの必要性を自覚し、学ぶ意欲を呼び覚ましたとき開花するものなので、少なくとも10年から50年と云った長いスパンで待たなければならないと云うことだけが分かった」と語りました。

 学校では「教育技術法則化」運動などに若い教師が飛びついたり、社会でも「自衛隊体験入隊」研修がもてはやされましたが、マニュアル化した教材や方法論で、生身の人間がコロッと変わるほど単純ではないということを先ず認識することが必要だということでしょう。「よい教師が正しい教育方法で教育すれば、子どもたちはどんどん成長するといった公式的な教育論は、人間理解が浅すぎる」という内田氏の自論は、もっと浸透して然るべきと私は思っていますが・・・・

 最終的には、自学自習する人間になることが飛躍的な伸びの源泉ですから、教育の現場では現在の生徒・学生がどうであれ、教えることや知ることが後の学びに役たち繋がることを教師はしっかり自覚して、自信を持って教壇に立ちつくす姿勢が、やる気のない生徒・学生にも葛藤を生じさせ、気づきにもつながるのだと質問者の高校教師に諭しました。
おっしゃる通り内田氏の壇上での語りと姿勢は、「夜9時を回っているから飲んで帰ろうか?いや帰って今日の話をメモってから飲もうか?」と不肖な受講者にも葛藤を生じさせ、結果、メモってから飲もうと喚起してくれました。
 

2013年10月3日木曜日

 杉浦醫院四方山話―278 『医業・医者ー4』

  有吉佐和子の原作を大映の黄金期を築いた甲府市出身の映画監督・増村保造が描いた「華岡青洲の妻」は、江戸時代の和歌山県に実在した医者・華岡青洲の「家」をモデルにした作品でした。
 
  日本映画の絶頂期でもあった1960年前後は、今思い返しても素晴らしい作品が多く、映画が輝いていた時代でした。特に若尾文子の妖しげな魅力を開花させた増村保造監督の作品は楽しみでした。「妻は告白する」とか「夫が見た」「清作の妻」や「卍」「刺青」など胸躍らせて見入ったのを懐かしく思い出します。甲府市では、以前、黒沢監督の脚本で著名な甲府市出身の菊島隆三展など開催した記憶がありますが、増村保造作品の連続上映会などで、鬼才・増村保造をもっともっと周知、顕彰すべきと思うのですが・・・
  
 余談はさておき、華岡青洲の家は、当時としては最先端の医院仕様だったことが、発掘調査で分かったそうです。
江戸時代の外科医として、世界で 初めて全身麻酔を使っての乳癌手術を成功させたと云う青洲の嫁姑問題に麻酔の人体実験を絡めた作品でしたから、普通の家のでは不可能で、手術室やそれに伴う排水路なども整備されていた本格的な医院の家だったそうです。往診が主だった江戸時代の医者の家は、普通の家と変わらないのが一般的だった中で、青洲の家は突出していたようです。
 

 明治中頃に造られた杉浦醫院母屋も国の登録文化財指定を申請した際、調査に来た文化庁の調査官も「明治期に真ん中に廊下と階段を配して、南北に部屋を分けたこの造りは大変珍しく貴重です」と指摘するほど代々医業を営んできた特徴を色濃く残しています。
 
 この時代の日本家屋は「田の字型」の間取りが大部分でした。
この間取りは結婚や葬儀など人が集まることを前提に、用途に合わせてふすまを開け閉めしたり、取り払って使えるようにした日本の風土、習慣に合った合理的な間取りで、普遍性があったのでしょう昭和の時代まで続きました。
 
 昭和4年に現在の醫院棟を新築するまで、健造先生は、写真の廊下左手前の板戸の部屋で患者を診ていたそうです。この部屋は玄関から向かって右奥にあり、外からも直接入れるようになっていましたが、玄関を上がった座敷が、待合室にもなっていたそうですから、真ん中の廊下で、公私を分けていたようです。

 純子さんの現在の生活スペースも全て廊下右側の部屋にあり、左側の座敷はもっぱら応接用として使われています。健造先生も三郎先生も私的な生活は、廊下右側を生活スペースとしてきましたから、明治中期に母屋新築の際、これまでの経験から、医者を開業していく上で、この廊下は必要だったのでしょう。


 

2013年9月28日土曜日

 杉浦醫院四方山話―277 『医業・医者ー3』

 御殿医や藩医は、代々同じ家が務めてきたことを前話でご紹介しましたが、杉浦家も江戸時代初期から昭和52年まで9代に渡って、この地で医業、医者をしてきましたから、御殿医や藩医と同じで、俄か町医者とは別格だったことを物語っています。
 また、江戸時代までは何代か続いた医者の家でも明治になって、医者になる資格や試験制度が整えられていくと途絶えてしまった家も多いそうですから、健一先生を含め10代医者が続いた杉浦家は、やはり特筆すべき家系でしょう。

 さて、江戸時代に医者を志す理由の一つは、武士でないのに医者には名字帯刀が許されたからだと云います。また、犯罪で捕まっても町人が入る牢屋ではなく、武士や神官などが入る揚屋(あがりや)と云う特別な牢に入れたそうです。これらは、漢文で書かれていた医学書を学ぶ必要から漢文を学ぶ過程で四書五経を修めた者が多かった為、与えられた特権だったようです。
 名字帯刀等の特権目当てに医者になる者もいたことからも江戸時代の医療はそれほど信頼されていなかったとも言われ、病を払う加持祈祷も盛んでした。

小石川療養所の井戸

「医者坊主(いしゃぼうず)」と云う言葉があるように、江戸時代の医者は髪を剃っているのが一般的だったようです。また、現代の病院や医院のように患者が来院するのではなく、もっぱら往診が主だったことも開業しやすい一因だったようです。
 
 保険制度のない江戸時代の医療費は、たいへん高額で医者に掛ることが出来なかった貧乏人も多く、目安箱で有名な八代将軍徳川吉宗が、目安箱に投じられた「貧しい人にも医療を」に応えて、無料の「小石川養生所」を設立したといわれています。
同じように「赤ひげ」に代表される献身的な町医者の存在も語り継がれていますから、保険制度に代わる「医は仁術である」の教訓で救われた人も多かったからこそ「江戸人情話」にも町医者はよく登場したのでしょう。

 

 杉浦醫院四方山話―276 『医業・医者ー2』

 雑談の中での純子さんの話には、ウエットに富んだ面白いエピソードが多いのも特徴です。先日も「父は、家には竹藪があるから、正真正銘の藪医者だ、とよく言ってました」と三郎先生の冗談話を紹介してくれました。
 適切な診療や治療ができない医者を揶揄する「藪医者」は、現代でも慣用語として使われていますが、江戸時代は、「医者でもやろうか」と思えば、誰でも簡単に医業が開業できたそうですから、藪医者が多かったのも当然でしょう。
 

 「藪医者」の語源は、諸説あってどれも的を射ていて感心しますが、一般的には「藪をつついて蛇を出す」ように「医者に掛って、余計な治療をされてかえって体調が悪くなってしまう」ことに由来するのでしょうが、こんな説も有力です。
「藪は風で動く」ことから、「風邪をひくと、医者も動ける」の意で、いい換えると「風邪くらいなら呼ばれるけれど、難しい病気では、声が掛からない」という見下された医者が藪医者だと。また、単に野暮医者が、なまって藪医者になったとも言われていますが、どの道「藪」か否かは、世間が評価することで、医者本人が決めることではありませんから、自ら「正真正銘の藪医者だ」と笑い飛ばしていたと云う三郎先生は、その辺にも自信と余裕があったのでしょう。
 患者が来るかどうかは別ですが、資格も国家試験もない訳ですから、簡単に医者になれた分、藪医者かどうかの品定めや風評は現代以上に厳しく査定されていたのでしょう。
 
 また、士農工商の江戸時代ですから、医者も看る患者で、幕府や大名に召しかかえられていた御殿医=御典医(ごてんい)、藩に仕えた藩医、民間の町医者の3段階に分けられていました。誰でも開業できたのは、町医者で、御殿医、藩医は、現代から観てもかなり高度な医学知識と治療術を身に着けた専門職だったそうです。
 

 御殿医や藩医のような格の高い医者にはおいそれとなれなかった大きな理由は、処方する薬と医療技術にあったそうです。薬や病気に対する高度な知識や技術は、門外不出にして、代々「家」によって受け継がれるよう医者の家元制度が敷かれていたそうです。
その代り、殿様の病気を看る御殿医や藩医の家では、実子が跡取りになれなかったケースが大部分だったといいます。実子を含めた弟子の中から医療技術も人格も最も優れた者に家督を譲る必要から、実子より優秀な弟子を養子にして、「お家」存続と医術の高度化を最優先するのが当たり前だったのでしょう。
 医者であり作家の森鴎外も江戸末期に現島根県津和野で、津和野藩主、亀井家の代々御典医をつとめる森家の長男として生まれましたが、祖父と父は共に養子だったと言いますから、実子と云えども実力がなければ継げない厳しい世界だったことも分かります。

2013年9月25日水曜日

 杉浦醫院四方山話―275 『医業・医者ー1』

 「医師法」が制定されたのが、明治三九年五月二日ですから、それ以前の健造先生の時代では、医師になる為に大学の医学部で専門教育を受け、国家試験に合格するという現代のようなシステムはありませんでした。
健造先生が師事した小澤良済氏肖像画

 館内に掲示してある健造先生のプロフィールでも「1889年(明治22年)微典館(現・甲府一高)卒業後、西洋医学習得のため横浜市野毛の小沢良済医師に師事し、医業開業免許状を受ける」とありますから、西洋医学の開業医のもとで修業を積んで、その師から医業開業免許状が与えられたようです。     余談になりますが、右の肖像画は、杉浦醫院二階和室に健造先生の写真と一緒に飾られている小澤良済氏です。歌舞伎役者のような・・・はたまた吉行淳之介ばりの優男で、明治初頭の横浜野毛で開業医、さぞオモテになられたことでしょう。この小澤氏の長女たか子が健造先生の妻ですから、修業時代の資性温良高潔な健造先生が小澤良済氏に認められたということでしょう。
               ー閑話休題ー
 この医業開業免許状の交付条件も各都道府県で異なっていたそうですし、杉浦家のように代々医業を営んできた子息とそうでないケースでも違っていたようです。

 明治三九年制定の「医師法」で、医師となるには一定の資格を有し内務大臣の免許を受けなければならないとされ、初めて国で統一した資格による医師免許が規定され、幾多の改変を経て現代に至っているようです。

 「杉浦健造先生頌徳誌」にある家系紹介によると「杉浦家初代杉浦覚道は、宝暦年間(1750年~1764年)医業を創め、安永6年(1777年)没せられる」とあり、以後代々この地で医業を営む素封家として、「其の名古く四隣に聞こえ」たそうです。                                                        
  池波正太郎の「仕掛人・藤枝梅安」の主人公梅安は、表の顔は鍼灸医、裏の顔が仕掛人(殺し屋)という設定で人気を博しましたが、同じ江戸時代、代々医業を続けてきた杉浦家。では、江戸時代の医者とはどのようなものだったのか?数ある資料からまとめてみます。            

 藤枝梅安も裏の顔として殺し屋と云う「副業」を持っていましたが、江戸時代の医者の代表的な副業は「仲人」だったそうです。 それは、往診が基本の江戸時代ですから、医者はあちこちの家に赴き、家族構成や家庭の事情について詳しく知ることが出来たからでしょう。「仲人」もすっかり死語になりましたが、健造先生、三郎先生も数多くの仲人をしたそうですが、両先生は、これを副業にしていた訳ではなく、名士として所謂「頼まれ仲人」が重なったのでしょう。

2013年9月21日土曜日

杉浦醫院四方山話―274 『新渡戸稲造と山梨ー2』


     ↑最前列の方   ↑新渡戸稲造

 上記の写真が、植松氏持参資料のコピーを転写した身延山中での記念写真です。
中央の二人の紳士と御付の面々に案内役の僧侶が両脇に、その更に前にいる方が健造先生ではないか?と云うのが植松氏の推論でした。
 
  翌日、塚原省三さん宅を訪ね、写真を観ていただきましたが、塚原さんは開口一番「この人?健造先生とは全然違う人だね。」と即断されました。
 
 植松氏の説明では、新渡戸稲造はクリスチャンであったこともあり、身延山久遠寺としては仏教徒の僧侶がクリスチャンを案内している写真はよろしくないということで、この写真の面々についての名前を公にしていないそうです。
 東京女子大初代学長やベストセラー「武士道」の著書もある新渡戸稲造は、1984年(昭和59年)に発行された5千円札の肖像にも採用された著名人ですから、たくさん残っている写真を照合して、上記写真の中央右の紳士は、新渡戸稲造だと植松氏が解明したそうです。新渡戸以外の人物が誰かは判明していないことから、植松氏の探求が続いているようです。
 
 そんな訳で、当ブログをご覧になった方で写真上の人物が特定できる方は、お手数でも当館までお知らせください。
 
 また、植松氏の研究では、新渡戸稲造は、札幌農学校(現・北海道大学)で、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なクラーク博士の影響を強く受け、後に甲府中学(現・甲府一高)校長となって赴任した一級先輩の大島正健を慕っていたことから、甲府中学にも講演に来たり、クリスチャンだった関係で山梨英和学院にも何度か来ているそうですが、両校には新渡戸稲造の書は残っていないそうです。

 杉浦醫院四方山話―273 『新渡戸稲造と山梨-1』


 先日、新渡戸稲造や後藤新平について研究している甲府市在住の植松永雄氏が来館されました。植松氏の来館は、杉浦醫院の館内見学ではなく、杉浦家の新渡戸稲造の軸にありました。
174話「新渡戸稲造の書」でも紹介しましたが、座敷のお軸を季節ごとに掛け替えている純子さんは、中秋の名月前後は、この新渡戸稲造の軸を掛けていますから、植松氏の訪問にも座敷に案内して観てもらうことができました。
新渡戸稲造が残した掛け軸
植松氏は、収集した資料も持参して、現在解明したい課題についても説明してくれました。
 
 説明によると、山梨県内にある新渡戸稲造の書は、三点だけだそうです。その一点が杉浦家の軸の書で、「間違いなく新渡戸先生の書ですね」と感激の対面をしました。
 
 もう二点は、下部ホテルのロビーに現在も飾られている「ようこそ旅人よ この地が疲れた足を癒す格好の場所です」の英語の書(写真上)と身延聖人茶屋玉屋旅館のギャラリーにある矢張り英語の書(写真下)です。
 

 植松氏によると、この二点の英字書は、昭和4年に新渡戸稲造が身延山に来たとき投宿した際、宿の要請で書いたものだそうです。クリスチャンだった新渡戸稲造は、カナダ人女性と結婚しましたから、乞われて書いた書には英字の物が多く残っているのも特徴です。

 植松氏は、杉浦家に残る「秋の月」を詠んだ書の真贋といかなる経路で杉浦家にあるのかを確認するのが目的の訪問でしたから、経路について、純子さんに聞くと「祖父の代の物であることは聞いていますが、祖父が購入したのか書いていただいたのかは分かりません」とのことでした。

 そこで、植松氏は、資料を広げ「この写真のこの方が健造先生であれば、昭和四年に身延山に来た折、杉浦先生が地元の名士として新渡戸先生一行を案内し、そのお礼にこの書が贈られたことで、ぴったり一致するのですが」と自論を語りました。
 身延山中での記念写真の先頭にいる人物が健造先生ではないかと云うのですが、私の直感では「違うな」でしたが、純子さにも観てもらいました。「目が弱ってちょっとよく見えませんから、省三さんならしっかりしていて分かると思いますよ」と塚原省三さんに委ねられました。

  その後、館内を見学した際も植松氏は展示してある写真を覗き、「この方は?」と健造先生の写真を指差すので「真ん中は健造先生です」と答えると「じゃぁーさっきの写真の方とそっくりじゃないですか」と再度、記念写真を取出し「晩年の健造先生だと思います。顔の骨格が同じですよ」と指摘されましたが、結局「近くにお住いの塚原さんに観てもらい結果を報告しますから、連絡先をお願いします」で、写真の人物の特定は持越しになりました。
 それでも「今日は大変な収穫がありました。明日は、身延山に行きます。今度、新渡戸稲造の研究者で有名な拓殖大学の〇〇先生と一緒に来ますから・・・」と帰路につかれましたが、高校教員を退職後、ライフワークとして、明治・大正期の著名人と山梨のかかわりを研究されていると云う植松氏の後ろ姿は、とても活き活きとしているのが印象的でした。

2013年9月14日土曜日

杉浦醫院四方山話―272 『葬式ー3』

「近親者は黒衣、礼服で<送り>をする。料理は油揚げ、豆腐、野菜物等の<精進料理>であるが、式が済むと<精進落し>と云い、魚類を出す。式の済んだ翌日、施主が<ご苦労呼び>と云い取持の人達を招く、葬式は寺で行うが、当家で告別式を済ませるのもある」。                    
 「精進料理」は、現代ではヘルシーなお座敷料理と云った感もしますが、「精進」は「相撲道に精進します」で定番のように「物事に精魂を込め、一心に進む」ことを意味していますから、「仏さまの教えを一生懸命守ります」という意味の料理だったのでしょう。
 精進料理で、肉や魚を使わない理由の一つは、包丁で野菜を切っても野菜が暴れることはないのに対し、動物や魚は「死」をはっきりと感じさせるからだとも云われています。食事前の「いただきます」も「お命いただきますの短縮形だ」と小学校で習いましたが、精進料理だから殺生をしてないと考えるのではなく、野菜にもいのちがあることに気づくことが大切なのでしょう。

 まあ、美食や食べ歩きが豊かな生活の象徴のように一般化し、結果メタボだとか騒がれる現代では、人間が他のいのちを奪わないと生きていけない存在であることを悟り、それが苦痛になった「よだかの星」の宮澤賢冶は、「かわいそうな人間」として片づけられそうですが、せめて「これ以上ムダな栄養はとらない」と云ったストイックな価値観は、増加が止められない地球人口ですから、グローバルな価値観として広がる必要があるように思います。そうは言っても陽が傾けば「今宵、タコぶつと焼き鳥で・・・」と云った煩悩は、凡人には如何ともし難く・・・「こまった困ったこまどり姉妹」です。

「七日目に<初七日>と云い、近隣へおはぎを配り、墓参りをする。七日間曼荼羅を座敷へ吊るして供養する。四十九日目に<四十九日>と云い、一升餅をつき、四十九片に剪って寺へ贈り供養する。一年目に一周忌、三年忌、七年忌一三年忌なぞ塔婆を立てお供養する。」
 上記のように13年忌までの一連の供養も大分簡略化された現在、葬儀社主導で、あまりにスムーズでパターン化した葬式では、引導を渡す僧侶の影も薄くなり、葬式関係にしか必要とされない日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるに至っています。これも葬式に多くの時間と人手を掛けられなくなった社会構造の変化に起因するのでしょうが、なるべくサッと終わらせたいという多くの人間の本根の需要もあってのことですから、方向性としては確実に「葬式など一切不要」に向かっているのでしょう。

「お産が重くて死んだ仏のために<川施餓鬼>と云い、二一日の間川端に経文を書いた白布を四本棒につり、杓を備えておく。道行く人がこれに水をあげることにより仏は浮かばれると云われている。」
「川施餓鬼」は、昔多かった水の事故で亡くなった人を供養する仏事だと思っていましたが、昭和では、いわゆる「水子供養」を「川施餓鬼」で丁重に行っていたことが分かります。この供養方法が消えて、お墓に「水子地蔵」が建つようになったのでしょうか?

 葬式関係は、深入りしていくと宗教問題ともかかわり、それぞれの宗派や価値観、信心深さととも重なりますから、私のような者があまり多言を弄すと「しまったシマッタ島倉千代子」になるのがオチですからこの辺で。

2013年9月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―271 『葬式ー2』

  昭和33年発行の「昭和村史」から、昭和町の昭和30年以前の葬式の風習について順次紹介していますが、付随する件で、例えば前話の「せとじゅう」についての情報などお寄せいただけると助かります。

「近親者が到着するまでは葬式は出さない。当村内押越では昭和の初めに定めた時間を励行することを申し合わせ、いかなる事情があっても厳格に時間を守るようになり、見舞人その他大勢の人が時間を空費することがなくなって、一般から喜ばれている。」
   「近親者が到着するまで葬式は始めない」と云う了解事項が長く続き、内押越地区がその慣例を刷新し、現代に至っていることが分かります。
「時間を空費しない」と云う価値観はドンドン進み、セレモニーホールでの葬式では、案内係が弔問者数により「焼香は一回でお願いします」と当たり前のように指示し、皆、大人しく従っているのも「時間を空費しない」と云う金科玉条があってのことでしょうが、「何か違うなー」は、私一人ではないでしょう。
  すっかり話題性が無くなった感もしますが、ミヒェエル・エンデの「モモ」は、その辺の価値観を揺さぶってくれたファンタジーでした。読み取り方も様々でしょうが、私には「一番の贅沢は、時間の空費だ」と云うことをエンデは主張していたように思います。
 まあ、高度経済成長を通してのグローバル社会では、効率的な生産性の向上こそが世界と伍していく上でも当たり前になりましたから、「時間の空費」は罪悪でもあり、勤勉な日本人には受け入れやすい価値観でしたが、個人的には、かつての日本には沢山いた「朝寝・朝酒・朝湯が大好き」な庄助さんの方に魅力を感じます。
 
 
「穴掘りの人達には「穴掘酒」を出し、この人達が棺を運ぶ。式の状況により僧侶は三人、五人、七人等で、昔は「野飾り」に五色の布旗、花籠、竜頭、又は「門へい」を立て饅頭など供えたが、今は弔旗、ちょうちん位で、家により親戚、知人から花輪が贈られる。

野辺の送りーちょうちん棒や弔旗、布旗等がー
旧田富町東花輪地区では、穴掘りの担当を「おもやく」と呼んでいたそうです。多分肉体的にも精神的にも「重い役」だったからでしょう。昭和町など甲府盆地の南は、地下水が高いところでしたから、土葬のための穴を掘っていくと水が湧いてきて、棺を水底に入れるようになったそうです。   純子さんも「健一が、葬儀に出て、あんなに水がいっぱいの中に入れたんじゃ、冷えっちゃってかわいそうだと云ってたのを思い出します」と弟さんを偲ぶように話してくれました。
 
 土葬の場合は、一族で不幸が続くと穴掘りは、前葬した位置と重ならないように掘らなくてはならないので一層難しかったそうです。一升瓶の飲み残しの穴掘酒も一緒に入れたそうで、前回の穴掘酒が出て来ると「骨酒になって旨くなっている」と喜んで飲んだ穴掘人もいたそうで、「砂糖」同様「酒」が貴重な時代でもあったことを物語っています。
 

杉浦醫院四方山話―270 『葬式ー1』

 杉浦醫院の東隣は、水路を挟んで法華山正覚寺です。純子さんは時折「ここから真っ直ぐお隣に行きたいと思っています」と笑いながら言いますが、杉浦家の菩提寺もこの正覚寺で、地方病の原因解明や感染経路究明に使われた実験動物を供養するため、健造先生が建立した「犬塚」もかつては境内にあったそうです。この正覚寺で、昨日、葬儀が営まれました。町の施設になって4年目になりますが、正覚寺での葬儀を目の当たりにするのは初めてです。セレモニーホールの出現で、家や寺での葬式はすっかり影をひそめましたが、葬式は風習、風土として地域ごと特徴や違いもありましたから、昭和町での昭和30年以前の葬式について「昭和村史」からたどってみます。
 
 「部落の費用や寺の費用で弔旗、ちょうちん棒、霊柩車などを備え、貧乏な家でも最低の葬儀が行われるように仕組まれている、<お取持ち>と云い隣組程度の人達が寄り、一人か二人の<帳場>責任者を定め、会計を司り、その家相応の葬儀計画を立てて取り運ぶ。」
 「弔旗」「ちょうちん棒」なども消えゆく昨今ですから、残っているものを収集しておく必要を感じますが、確か河東中島区の棺桶が、教育委員会で保管してあった記憶がありますから、納屋の工事が終わったら、かつての葬式道具も展示しようと思います。
 
 また、村八分にあっても葬式と火事の二分は、村落共同体で行っていたことが分かります。


「親戚へ死亡を知らせるには二人の<飛脚>をたてたものだが、今は簡素になり、一人で間に合わせ、時には電報で知らせる」
 飛脚の任を甲州弁で「おとぼれーあかし」と云っていた記憶もあります。
 
「部落の人や知人は、死亡を知った夜<お仁義>に行き、葬式の時<見舞>に行って<香奠>の金を贈る。」
 故深作欣二監督の「仁義なき戦い」の見過ぎでしょうか、「仁義」は真っ当な人には無縁だと思っていましたが、山梨では「お」を付けて「世間付き合い」「義理」と云ったイメージで使っているようで、「おとこしの仁義」とか「おんなしの仁義」と云った言葉も聞き覚えがあります。この「おとこし」「おんなし」も方言でしょうが、漢字表記は「男子」なのか「男衆」なのか「男師」なのかもしっかり知りたいところです。
 文化人類学者嶋田義仁先生の甲州学序説によれば、北風吹きすさぶ甲州は「ヤクザで非情な風土」に尽きるそうですから、「親分・子分」関係やヤクザ用語が日常語として使われているのも違和感がないのでしょう。そう云えば、嶋田先生の名前も「仁義」をひっくり返した「義仁」ですから、無頼の徒がアフリカ学の先頭を走らせているのかも知れません。
 
見舞人に酒食を出し、箱入れの饅頭又は砂糖などを香奠返しとして引いたが、今はあまり行われない。」
 私が子どもの頃、箱に入った砂糖が積まれていましたが、現代は差し詰め「お茶」でしょうか。葬式の酒食で思い出すのが、何処で聞いたのか葬式と云えば必ず現れた「せとじゅうやん」の話です。
 純子さんも「父や母の葬儀の時は来ませんでしたが、祖父の葬式に来たのを覚えています。いい声でお経を読んでくれましたが、あの人は頭のいい人だとみんなが話していたのも覚えています」「ごーけごーけごっとことん」と云いながらカエルのように跳ね歩くのが面白かったのか、男の子たちは、せとうじゅうやんの後をついて歩きましたね」「ごーけごーけごっとことんの後にも確か続く言葉があったのに、歳ですね思い出せません。省三さんなら覚えていると思いますよ」と。せとじゅうは、昭和20年代位まで葬式の酒食を求めて中巨摩一帯の葬式に風呂敷を背負って現れた名物オジサンだったようですが、石もて追われることなく「せとじゅうやん」と愛され、親しまれたからこそ、半世紀が過ぎても語り継がれ話題に上るのでしょう。

2013年9月3日火曜日

杉浦醫院四方山話―269『浮世絵師・中澤年章-4』

 「最後の浮世絵師」と云われた中澤年章が、故郷山梨に戻って描いた肉筆画の特徴と魅力は「卓越した人物の描写力にある」と云われています。

画面中央に人物を大胆に置き、テーマに合わせた表情、体型、顔つきから指の動きまで緻密さと大胆さが混然一体となって、観る者に迫る人物画を豊かな色彩で描いた作品は、一目見て年章作であることが分かります。

 「俺は地方病博士だ」の挿絵もご覧のように物語に合わせて年章が強調したいカットを登場人物の大胆な構図で描写しています。

 こういう意図と構想で描いた挿絵が、初版では統一しているのに対し、再版で差し替えられたことにより、ボカされた感は否めませんが、臨機応変に対応して描ける年章の筆力は。こうして比較することで一層際立ちます。

 無類の酒好きだったという年章は「酔ふて筆を揮(ふる)えば雲湧き龍踊る」と歌っていますが、韮崎の若宮神社神主の藤原茂男氏は「年章さんは祖父がよく面倒を見ていました。明治34年から7年まで滞在したようですし、その後も大正に入ってからも来たようです。よく酒を飲む人で画料を絵の具を多少買う以外殆んど酒代につぎ込んでいました。春画も酒代欲しさに何点か描いたようです」と述懐しています。

 
 中澤年章研究にあたっている樋泉明氏も「何処で死んだのか?墓が何処にあるのか?全く杳として不明です」と「実家跡は、優美堂書店の隣辺りかと?今でも屋敷神さんの名残が優美堂の隣に残っています」と、謎に包まれた中澤年章の掘り起こしを現在も続けています。

 杉浦醫院版「俺は地方病博士だ」が新聞報道され、挿絵を描いた中澤年章と云う郷土画家を紹介してきましたが、これを機に印刷技術の進歩で浮世絵師としての道を絶たれた中澤年章を供養する意味でも現代の印刷技術で、全ての挿絵を大型パネル化して、館内で展示していきたいものと思いました。