2017年2月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―497『秘密基地 或は ヨシマ大学』

  気温も高く春めいて来た日曜日の午後、子どもたちの声が飛び交うので、庭に出てみると兄弟とお友達と云った取り合わせの子ども達とお母さんの姿がありました。
池で、ザリガニ釣りを始めるのかなと思いましたが、お母さんも一緒なので声掛けはしませんでした。来館者の案内中も時折元気な子どもの歓声が聞こえ、来館者からも「子どもは元気でいいですね」と自然な会話になりました。

 
 金正男(キム・ジョンナム)氏「暗殺」事件で「秘密」とか「暗号」と云った謎めいた言葉が現実性を持ったのでしょうか?今朝、来てみると杉浦医院庭園外の死角に「秘密基地」が建設?されていました。

杉浦医院板塀と敷地外樹木の死角にブルーシートの屋根が・・

  大人もツリーハウスなど木の上に隠れ家を欲しがるわけですから、子どもの秘密基地は、洋の東西を問わず憧れの空間でしょう。名作「トムソーヤの冒険」では、基地は洞窟の中でしたが、「秘密基地」の第一条件は、簡単に見つからい、仲間だけの「秘密」の場所でなければ意味もありません。

 

 杉浦医院の南にある現在の「昭和浄水場」から西一帯は、6、70年前は「ヨシマ」と呼ばれた葦の生い茂る湿地帯だったそうです。伸びた葦は大人の背丈以上になり、秘密基地建設の格好の場所でした。

朝、家は出ても学校には行かず、直接「基地」に登校する子どももいて、親や教師が探しても基地にはたどり着けないよう精巧な迷路も作られていたそうです。その秘密基地に登校していた子ども達は、大人になると「ヨシマ大学卒」として通っていました。                     

  こういう秘密基地の建設や運営には、必ず信頼を集めるリーダーが必要で、指揮を執ったドンは、後に青年団とか消防団の団長になったり、議員や町長など村や町のリーダーとなり、「あいつは、ヨシマ大学でも大学院まで出ているから・・・」と一目置かれていました。やはり子どもの頃から統率力があったということでしょう。   

 

 このようにヨシマ大学卒業生にとっては、秘密基地は学校以上のことが学べた「私の大学」だったわけで、「私の大学」は仕事だったり、映画だったり、恋愛だったりと人それぞれでしょう。管理の行き届いた現代の子ども達には「夢のような時代と社会だ」と羨ましくもあるでしょうが、そこには「自由」と「危険」が表裏一体だったことも確かです。

 

 材木屋さんの倉庫に潜り込み、秘密基地を造って遊んでいた兄弟が、林立していた丸太が倒れ、下敷きになって命を落としたと云ったニュースもありました。

昭和町のヨシマも湿地帯でしたから、ミヤイリガイにも絶好な生息地でした。秘密基地に登校した子ども達は、近寄らなかった「お利口さん」より地方病に罹った確率は大きかったことでしょう。まあ、悲惨な結果をもたらすかもしれないけどたまらない魅力がそこにはあるのが「秘密」の誘惑で、子どもに限ったことではありませんね。

持ち寄った木片などには暗号も書かれていますが、初心者の秘密基地ですね。

 さあ、4日経ったこの秘密基地、いつまで?どのように発展するのか?消滅をするのか?しばらく見守っていこうと思います。

2017年2月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―496『手塚治虫を育てた丸山昭氏』

  2月9日の新聞各紙には、漫画編集者・丸山昭氏の訃報を伝える記事が載っていました。

例えば、山日新聞では下記の通りですが、他紙と違うのは小見出しに「甲府出身」の一行が入っていることでしょう。

クリックしていただくと判読できます。
 

 丸山昭氏は、当ブログのラベルの一つにもなっている木喰上人や微笑仏の研究家の故丸山太一氏の弟さんです。

丸山太一氏からも生前、弟の昭氏の話を伺いましたが、講談社の編集者だった昭氏ですから、著作権にも精通していて、太一氏の木喰仏研究論文をつなぎ合わせたような本をI氏が出版した時は、「弟からもこれはひど過ぎるので訴えるべきだ」と忠告されたと云う話を覚えています。

木喰の「まーるく丸くまん丸く」を地で行くような太一氏でしたから、訴えることもしなかったようですが、一時代前の著作権意識は現在とは違っていたのも確かでしょう。

 

 丸山昭氏は、甲府中学から学習院大学で哲学を専攻し講談社に入社、手塚治虫作品を多数世に出した編集者として著名ですが、伝説にもなっている江古田のアパート「トキワ荘」の赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄、水野英子など無名だった漫画家を発掘した編集者として、NHKの記録映像にもなって放映されました。詳細は「丸山 昭さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス」を参照ください。

 

 この証言の中で、私が興味を持ったのは、丸山さんら漫画編集者と手塚治虫を始めとする漫画家の努力と力量で、昭和30年代に入ると大漫画ブームが起こった時の証言です。

漫画ブームの到来で、いわゆる児童文学書が売れなくなったことも手伝って、漫画=悪書として「悪書追放運動」が盛んになりました。

「漫画を読むとバカになる」と云った一面的な評価は、校庭に漫画を持ち寄って焼く「焚書」騒ぎとなって全国に広がる程でした。

丸山さんは、その時代を振り返って、

「その時の異常というのはもう大変、もうまるで魔女刈りですね、もう論理も何もないんですよ。「漫画だからいけない」って。漫画の何がいけないんじゃなくてその漫画という表現形式が子どものためにはならないということで。それで「三ない運動」なんていうのが始まって「売らない・買わない・読ませない」かなんか「三ない運動」なんていうのが全国に広まって・・」と証言しています。

 

 そういえば、 昭和50年代にも高校生には「バイクの免許を取らせない」「バイクに乗せない」「バイクを買わせない」という「三ない運動」が起こりました。確か高等学校のPTA連合会の大会で決議され、全国に広がった運動でした。面白かったのは、「三ない運動」にプラスされ「親は子どもの要求に負けない」と云った「三ないプラス壱運動」なんて進化を競うような運動になったことでした。

 

 学校図書館にもマンガが置かれる現代からするとバカげた話ですが、丸山さんや手塚治虫など当事者には大変な受難の時代でもあったことが分かります。こういう中で、手塚治虫がとったスタンスが「いかにも大人だな」と感心させられました。

それは、「漫画・おやつ論」だったそうです。主食だけでは人は育たないから「おやつ」がある。教科書や児童文学は主食、漫画はおやつとして子どもには必要だとする反論だったそうです。

 

 そんな時代から、「漫画」は、片仮名で「マンガ」表記になり、現在では日本発の文化として世界に広がり、ローマ字の「MANGA」が共通語になっています。

 

 漫画やバイクなどのたどった歴史は、現在を生きる私たちに幾つもの教訓を残していることを哲学専攻の丸山昭氏の人生が教えてくれます。

甲府生まれの甲州人が世界に漫画文化を浸透させた先駆者であったことを誇ると同時に丸山太一・昭兄弟は、微笑仏と漫画と云う当時は未だ評価の定まらなかったジャンルを対象に生涯をかけて、信念で研究と発掘に努めた人生であることが分かります。

「カッコいい」とか「ダンディー」とは、こういう人を形容する言葉だと思わずにはいられません。

2017年2月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―495『マイナスネジ・プラスネジ』

 来館した見学者を案内していると見学者の視点や興味から、教えられることも多いのが、この仕事の面白さでもあります。

過日、ご夫妻でお見えになったご主人は、大変な「物識り」で、展示品ごとに色々ご教示いただきましたが、今回はネジについて紹介します。

 

 当ブログでも何度か紹介してきた応接室のピアノを案内した折「そうだね。これは歴史的なピアノだ。全てマイナスネジだもん」とピアノに使われているネジに着目しました。

「戦前のモノはすべてこのようにマイナスネジです。日本でプラスネジが使われるようになったのは戦後で、ホンダの創始者・本田宗一郎がヨーロッパから持ち帰って広まったっていう話だね」と。

「それでは」と、昭和4年建築の当館の建具や家具等のネジを確認すると御覧のように全てマイナスネジでした。

 

「長崎のグラバー邸の修復工事はひどいね。グラバー邸は日本最古の木造洋風づくりでしょう、ネジは使ってもマイナスじゃなければダメなのにプラスネジで修復されてるんだもの話にならんよね」とのご高説も。

お説の通り、村松貞次郎著『無ねじ文化史』によると、「江戸時代の工業製品にはネジの使用例はなく、江戸時代とは「ネジ無し文化」の時代である」とありますから、江戸末期に作られたグラバー邸にネジが使われ、ましてプラスネジとは「話にならん」ですね。


 要は、ネジを製作するには、優れた工作機械が必要だった訳で、ネジを作るという事が江戸時代はできなかったからこそ、ネジや金物を必要としない「木組み」等の工法も発達したのでしょう。


 プラスネジは、1935年(昭和10年)にアメリカの技術者ヘンリー・フィリップスによって発明されたそうです。この発明もマイナスネジはドライバーが滑ったり、ネジの溝が潰れたりして、そのたびに腹を立てた彼が「なんとかならないか」と考えた結果だそうですから、「必要は発明の母」は万国共通ですね。

 

 自称「アンティーク家具」なども使われているネジ一つで真贋がバレそうですが、こういう物識り家は、「目利き」でもあるわけです。

 腕時計は、まだマイナスネジしかなかった1920年代に誕生しましたから、ヨーロッパを中心とした歴史的な高級腕時計は、全てマイナスネジで職人たちのハンドメイドだったそうです。

そこからマイナスネジは高級腕時計の証となり、現在にも引き継がれていますから高級感を演出したり、アンティークなデザインにはマイナスネジは欠かせないネジですが、締めの強度や使い勝手の良さから、現代ではプラスネジが主流となっているようです。

2017年2月6日月曜日

杉浦醫院四方山話―494『ピアハウスしょうわ』

 今日の朝日新聞山梨版の「会いたい」のコーナーに「ピアハウスしょうわ」の運営に尽力している永島聰さんが紹介されていました。

旧西条交番の建物をいわゆる「ひきこもり」の方々のフリースペースとして利用して、交流と社会参加を促すよう図っていますが、永島氏個人による永続的な運営には無理もあり、その辺の悩みも紹介されていました。旧交番がひきこもり支援スペースと云うのも面白いのですが、交番は文字通り2~3人が一組で24時間交代で番にあたる所でしょうから、「ピアハウスしょうわ」もこれにならって利用者の交代制による運営も視野に入れていく必要もあるようです。


 

 永島聰さんは、数年前の山日新聞のシリーズ記事にも「元ひきこもり」として実名で登場しましたが、今回の朝日新聞でも自らのひきこもり歴を語って、ひきこもり当事者としての経験や思いを運営に生かしているそうです。

とかく日時を指定しての交流会が多い中、常時来たい時利用できる風通しの良さは、利用者には好評でしょうし、行き場に苦しむ方には得難いスペースでしょう。ひきこもりに限らず「当事者主義」と云う言葉や考え方も一般的になりつつありますが、永島氏のように具体的な実践活動に取り組む方は未だ少ないのが実態です。

 

 「当事者主義」では、例えば、高齢者やしょう害者のケースでもケアが中心になり、必ず「する人」と「される人」と云う相互関係が生じます。当然、「ハッピーな介護者でなければハッピーな介護はできない」と云う課題も生じ、より良いケアには、相互に高い意識と覚悟が求められたからこそ永島氏のように困難に直面する中で試行錯誤を余儀なくされてくるのでしょう。


 一層進むといわれる高齢化社会では、誰もが「ケアを受ける」時が訪れます。ケアするのは妻や夫、嫁など家族が前提だった時代から介護保険制度の導入で社会が看る時代に移行する中で、高齢者でなくてもしょう害者や不登校、ひきこもりなど様々な弱者もケアが必要になります。

 

 永島氏の指摘のように、このケアを「地域や社会も共に担っていく」ことが住みよい地域、町づくりには欠かせなくなっています。

「ピアハウスしょうわ」は、町福祉課と協働してオープンしましたから、昭和町の福祉施策の具体化でもあります。永島氏と利用者の当事者主義を尊重し、運営には口出ししないスタンスが町内外に利用者が広がっているのでしょう。


 当館庭園を「癒しの空間」として利用されている方もいます。当館から徒歩圏内にある「ピアハウスしょうわ」の利用者や永島氏に地域として何が出来るのか共に考えていく必要を示唆した記事でした。