2017年2月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―496『手塚治虫を育てた丸山昭氏』

  2月9日の新聞各紙には、漫画編集者・丸山昭氏の訃報を伝える記事が載っていました。

例えば、山日新聞では下記の通りですが、他紙と違うのは小見出しに「甲府出身」の一行が入っていることでしょう。

クリックしていただくと判読できます。
 

 丸山昭氏は、当ブログのラベルの一つにもなっている木喰上人や微笑仏の研究家の故丸山太一氏の弟さんです。

丸山太一氏からも生前、弟の昭氏の話を伺いましたが、講談社の編集者だった昭氏ですから、著作権にも精通していて、太一氏の木喰仏研究論文をつなぎ合わせたような本をI氏が出版した時は、「弟からもこれはひど過ぎるので訴えるべきだ」と忠告されたと云う話を覚えています。

木喰の「まーるく丸くまん丸く」を地で行くような太一氏でしたから、訴えることもしなかったようですが、一時代前の著作権意識は現在とは違っていたのも確かでしょう。

 

 丸山昭氏は、甲府中学から学習院大学で哲学を専攻し講談社に入社、手塚治虫作品を多数世に出した編集者として著名ですが、伝説にもなっている江古田のアパート「トキワ荘」の赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄、水野英子など無名だった漫画家を発掘した編集者として、NHKの記録映像にもなって放映されました。詳細は「丸山 昭さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス」を参照ください。

 

 この証言の中で、私が興味を持ったのは、丸山さんら漫画編集者と手塚治虫を始めとする漫画家の努力と力量で、昭和30年代に入ると大漫画ブームが起こった時の証言です。

漫画ブームの到来で、いわゆる児童文学書が売れなくなったことも手伝って、漫画=悪書として「悪書追放運動」が盛んになりました。

「漫画を読むとバカになる」と云った一面的な評価は、校庭に漫画を持ち寄って焼く「焚書」騒ぎとなって全国に広がる程でした。

丸山さんは、その時代を振り返って、

「その時の異常というのはもう大変、もうまるで魔女刈りですね、もう論理も何もないんですよ。「漫画だからいけない」って。漫画の何がいけないんじゃなくてその漫画という表現形式が子どものためにはならないということで。それで「三ない運動」なんていうのが始まって「売らない・買わない・読ませない」かなんか「三ない運動」なんていうのが全国に広まって・・」と証言しています。

 

 そういえば、 昭和50年代にも高校生には「バイクの免許を取らせない」「バイクに乗せない」「バイクを買わせない」という「三ない運動」が起こりました。確か高等学校のPTA連合会の大会で決議され、全国に広がった運動でした。面白かったのは、「三ない運動」にプラスされ「親は子どもの要求に負けない」と云った「三ないプラス壱運動」なんて進化を競うような運動になったことでした。

 

 学校図書館にもマンガが置かれる現代からするとバカげた話ですが、丸山さんや手塚治虫など当事者には大変な受難の時代でもあったことが分かります。こういう中で、手塚治虫がとったスタンスが「いかにも大人だな」と感心させられました。

それは、「漫画・おやつ論」だったそうです。主食だけでは人は育たないから「おやつ」がある。教科書や児童文学は主食、漫画はおやつとして子どもには必要だとする反論だったそうです。

 

 そんな時代から、「漫画」は、片仮名で「マンガ」表記になり、現在では日本発の文化として世界に広がり、ローマ字の「MANGA」が共通語になっています。

 

 漫画やバイクなどのたどった歴史は、現在を生きる私たちに幾つもの教訓を残していることを哲学専攻の丸山昭氏の人生が教えてくれます。

甲府生まれの甲州人が世界に漫画文化を浸透させた先駆者であったことを誇ると同時に丸山太一・昭兄弟は、微笑仏と漫画と云う当時は未だ評価の定まらなかったジャンルを対象に生涯をかけて、信念で研究と発掘に努めた人生であることが分かります。

「カッコいい」とか「ダンディー」とは、こういう人を形容する言葉だと思わずにはいられません。