2011年2月25日金曜日

杉浦醫院四方山話―28 『永仁の壷-1』

 杉浦純子さんの問わず語りは、健造・三郎父子や杉浦医院のエピソードに限らず、昭和町から日本の時には世界の社会問題から芸術、文化、着物、樹木、草花・・・等々、大変多岐にわたります。貴重な話を聞いた者だけが「面白い」としておくのは、もったいないので、私見も織り交ぜ書いているのが、この「四方山話」です。

先日は、「加藤唐九郎について調べてください」と依頼がありました。「陶芸家の唐九郎ですね」と確かめると「永仁の壷事件がありましたが、その壷を父が岡島から買ったので、加藤唐九郎と事件について・・・」「永仁の壷が、あるんですか?」「あの事件で、唐九郎がしばらく日本を離れ、アメリカに渡るというので、その費用捻出に売りに出たのを岡島が、父に持って来ました。父は、そういうことは全く分からない人でしたから、勧められるまま買わされたんでしょうけど・・・山梨では、八百竹さんのご主人が目利きですから、見てもらいましたが、ご主人は、唐九郎かな?ウスケかな?って・・・」「確か、松本清張が小説にしましたよね。唐九郎と文部技官の共犯説でしたっけ?すごいお宝ですね」ということで、「永仁の壷事件」について調べることになりました。先ずは、若い世代の為に「永仁の壷事件」について、Wikipediaから概要を貼り付けます。
 永仁の壺事件(えいにんのつぼじけん)は、1960年に発覚した、古陶器の贋作事件である。  1959年、「永仁2年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定された。しかし、その直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていた。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。件の瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着したが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれる。

 2000年11月に発覚した旧石器遺跡捏造事件は、"神の手"事件として記憶に新しいところですが、贋作とか捏造など「文化財」にまつわる事件は後を絶ちません。"神の手"事件は、発掘監督藤村某の仕業とされていますが、「藤村を利用し、暗黙のうちに捏造をそそのかした取り巻きや従来の考古学界こそ、この問題を引き起こした悪の主役だ」とこの件でも様々な「究明」もなされていますが・・当事者が全て亡くなってしまった「永仁の壷事件」について、調べていくと登場人物の「人生模様」が浮き彫りになったり、「人の業」が面白いので、この事件真相諸説を数回にわたり整理してみたいと思います。

2011年2月18日金曜日

杉浦醫院四方山話―27 『杉浦醫院雪景』


「雪が降ったから酒でも飲みにおいで下さい。
と誘えるような友人がいる老後がいい」と云ったのは島崎藤村でしたか?
「雪見酒」とか「雪見風呂」といった寒暖合わせた愉しみも日本人の遊び心でしょう。
写真より実景!雪が降ったら「そうだ杉浦医院へ行こう」おススメです。

2011年2月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―26 『宮入慶之助記念館』

ミヤイリガイ
 地方病=日本住血吸虫症は、日本住血吸虫という名前の寄生虫が、門脈に寄生することによって起こりました。この寄生虫は、孵化すると中間宿主であるミヤイリガイという小巻貝に入り、セルカリアに成長して、水田や水路、河川で、人間や牛、馬、犬等の終宿主に寄生し、終宿主の命まで奪う病でした。世界で唯一日本が、この悲惨な風土病を克服出来たのは、中間宿主であるミヤイリガイの発見により、この貝を行政と住民が一体になって絶滅させた結果です。このミヤイリガイを発見した、宮入慶之助博士の記念館が、慶之助氏の生地・長野市篠ノ井にあります。
先日、この記念館の宮入源太郎館長夫妻とご家族が、杉浦醫院に来館されました。宮入源太郎館長は、慶之助博士の兄の孫にあたる方ですが、9年前に当時の社会教育委員の県外研修会で訪問した時は、個人で記念館を開設し運営していました。現在は、NPO化したそうですが、行政の支援もありませんので、館長の使命感、情熱と賛助会員の支援で運営している大変志の高い記念館です。この記念館のすぐ南には、典厩寺があります。川中島の合戦で、27歳の若さで討ち死にした、信玄の弟武田典厩信繁公の菩提を弔っているお寺です。信玄と謙信が戦った、川中島合戦場がある八幡原史跡公園と長野市立博物館もすぐ近くです。さらに、車なら10分ほどで、真田10万石の城下町・松代があります。この松代地区には、武田信玄が築いた海津城(松代城)、真田宝物館・真田邸、宮入慶之助氏が通学した旧松代文武学校や、佐久間象山を祀った象山神社、新しいところでは、池田満寿夫美術館もあります。善光寺も3,40分ですから、長野市方面に行く機会には、是非立ち寄っていただきたい記念館です。
また、地方病資料館でもある「杉浦醫院」を開設する昭和町の各種委員会、団体等の研修会には、この「宮入記念館」を起点にした研修コースを検討してみてはいかがでしょう。お隣の長野県には、地方病発症者いなかったことから、地元ではこの宮入慶之助氏と氏の業績もあまり認知されておらず、行政や博物館でも取り上げられる機会も少ないようです。山梨県内で八割の発症者を数えた日本住血吸虫症=地方病の終息に決定的な役割を果たした宮入慶之助氏の記念館を訪れ、学ぶことは、孤高の精神で運営する宮入源太郎氏への何よりの「塩」になると宮入一家の訪問と懇談の中で痛感しました。当館でも「宮入慶之助記念館」紹介コーナーを設け、来館者にその存在を周知するなど連携を図っていきます。

2011年2月5日土曜日

杉浦醫院四方山話―25 『電球』

 杉浦醫院の照明器具は、昭和52年10月の閉院当時のもので、電球も付いていたままですから、約35年前の日本の医院の明るさと言っていいでしょう。「父は新しい物好きでした」と純子さんが言うように乗用車やピアノなどいち早く新しい物を取り入れていましたから、照明器具も応接室、診察室、玄関・・とそれぞれの機能と雰囲気に合わせ、当時としては重厚かつデザイン性にも優れた物が選ばれています。当然、「明るく」という思いもあったことでしょうが、建設当時は、蛍光灯が普及していなかったのか、全て電球です。しかし、昭和30年代には蛍光灯も広がりましたから、新しい物好きの三郎先生なら…と、思いますが、「好み・趣向」の問題として、変に白っぽい蛍光灯の明るさを三郎先生は拒否していたのでは…と、私は、勝手に思っていますが・・・
明るい部屋しか知らない現代の子どもたちは、調剤室や応接室に入ると「電気付いてるの?」といった表情で天井を見上げます。「この位暗い方が落ち着かない?」と聞くと「暗過ぎー」とか「ちょっと怖い感じ」と云った返事です。最近は、天井一面の蛍光灯を半透明のプラスチックガラスで隠した「光天井」を病院は、競って取り入れているようなので、子どもたちからすれば、病院は一番明るい所というイメージでしょうか。暗い感情でくる患者さんを明るい感情にしてあげる「ホスピタリティー」のなせる技でしょうか? 
町ホームページのトップでも「昭和町は生き生きと暮らせる明るい住みよい町です」と謳っているように「明るいこと」は「良いこと」で通っています。そう言えば、人の評価でもマイナス評価の代名詞として「ネクラ」なんていう言葉まで生まれ、イジメのターゲットにもなり、人間にも「明るさ」が要求されています。「暗さ」を排除することは、全てに好ましく、「発展・進歩」であり、それが「都市化だ!」という価値観が定着してきたように思います。まさしく、「蛍光灯文化が、日本を変えた」のでしょう。それにしても「蛍光灯」とは、どなたの命名でしょう。蛍には、真っ暗闇が必要不可欠な生存条件ですし、幻想的なほのかな光の点滅にも明るい街灯が迷惑至極なのに・・・
 
 アンデルセンの「マッチ売りの少女」が、少年時代好きだったネクラな私は「雪の積もった真っ暗な夜の町を、マッチを売って歩く女の子」のマッチは、照明と暖房の為のマッチと解していました。暗くなければ、もっとマッチが売れなくなって、彼女の手足はますます凍てついて・・・「暗い童話」好きが「暗い酒場」好きになっただけの恥ずかしい男の戯言ですから「蛍光等より電球」を三郎先生が主張し続けたのかどうかは、純子さんには、尋ねないことにしておきましょう。

2011年2月3日木曜日

杉浦醫院四方山話―24 『もてなし』

 杉浦純子さんは、茶道「有楽流」のお師匠さんですから、母屋には、若いお弟子さんから師匠の方々など茶道仲間がよく集います。千利休が示した「茶の七則」には、「もてなし」と「しつらえ」が全ての基本と記されています。「もてなし」 は、「心に余裕を持ち、相手に悟られないよう相手の感覚を尊重し、一期一会を楽しめるよう配慮することで、相手によりよい体験をもたらすこと」とあります。
このもてなしの真髄を識ってか否か、どこかの県か市で「おもてなし課」を創設したと聞きましたが、「看板に偽りあり」とならければ良いが・・・と心配してしまいます。さらに、的確なもてなしには、その準備を整える「しつらえ」が肝心と説かれています。「しつらえの真髄は、本質を的確に表現しつつ、本質を端的な形で表現する為に心地よい演出を加えて、相手に快適な気分を味わってもらうことで、相手によりよい体験をもたらすこと」とたたみ掛けられます。まあ、田吾作の私にはよく分かりませんが、「相手によりよい体験をもたらす」為には、「もてなし」と「しつらえ」を会得することだと理解しました。
 この精神に則っているかどうかは微妙ですが、健造先生の「もてなし」は、大変分かりやすく親しみが持てます。「杉浦健造先生頌徳誌」の中に「本県地方病研究並ビニ小学校職員生徒ノ身体検査ノ為ニ招致セル新潟医科大学教授以下学生ノ慰労ノ為、先生自ラ作詞作曲セル小唄、音頭アリ」と健造先生作詞作曲の「甲州音頭」など4作品が紹介されています。

=甲州音頭=
甲府 東にアリャ 新潟 西に 音頭とるなら西条よ   
ヨイトナ ヤレ ヨイトナ 音頭とるなら西条よ   
スッチョコ スッチョン スッチョンナ ヤレ スッチョン スッチョン チョン
医者になるなら 新潟の医科に   入る学生 皆博士
新潟医科の大学 世界の王座   卒業学生は 皆博士
お国自慢は 博士と美人   清き流れは 信濃川

健造先生胸像
 「末は博士か大臣か」の時代、三郎先生の母校でもある新潟医科大学の教授や学生の来村を軽妙洒脱に「もてなし」た健造先生の心意気は、甲府夜曲・博士行進曲・甲州小唄と共に「甲州一流芸者ヲシテ、レコードと為シ、新潟医科大学ニ贈リ、杉浦家ニモ保存スト聞ク」とあります。「趣味はもっぱら煙草だけでした」という三郎先生とは対照的に若松町の芸者さんを呼んでは宴席をよく設けたという健造先生。お洒落で、歌も詠み、蛍を愛でる風流人でもある郷土醫にして、村長でした。