2012年1月26日木曜日

杉浦醫院四方山話―112 『誕生祝い-2』

   杉浦純子さん同様「誕生祝い」は、お二人の妹と長男である弟にも贈られたそうですが、「結婚する時に母が、それぞれに持たせましたから、ここにあるのは私のモノだけです。母は几帳面でしたが、私は屋敷蔵2階のタンスに入れておいただけで、片付けられないから残っているだけです」と控え目な純子さんです。   杉浦家と懇意にしてきた方々は、杉浦家の「大切に保管しておく」という流儀、習慣を知っているからでしょう、杉浦家が贈ったものも「これは、杉浦さんからいただいたもので、記念に大事にしてきました」と持参して下さいます。上の写真は、その一つで約30年前長男を出産されたNさんが「この紅白の真綿が珍しくって、是非見ていただこうと思って・・」と、届けていただいた杉浦家からの誕生祝いです。
 「御百歳 吉彦様 杉浦」の祝儀袋には、長寿を願っての百円札が入り、二本の扇子が入った末広ののし袋には、紅白の真綿が結ばれています。Nさんは「寝付いていた純子さんのお母様からいただきましたが、純子さんが屋敷蔵の隠し階段の襖を空けて、階段のところに用意してあったこの真綿を巻いてくださったのをよく覚えています」と。「母は、長く寝たきりでしたが、赤ちゃんから大人までよく大勢の方が来て、ベッドの周りで遊んだり、話したりでにぎやかでした。それが良かったのか最後まで頭はしっかりしていました。」三郎先生と結婚した純子さんのお母さん綾さんは、健造先生の娘さんで、大正モダンの平和な時代に育ちました。「母が女学校の卒業式に着た羽織袴と編上げの革靴は残っていますが、私たちはずっと欲しがりません勝つまではの時代で、制服や菜っ葉服でしたから、着物も子どもの頃のモノしか残っていません」と純子さん。
右の写真は、お母さんが結婚式で使ったもで、高島屋のラベルのある木箱に入った2本の針状のモノは、角隠しを髪に止めるピンで、べっ甲の2本のピンも日本髪にさした櫛だそうです。開くと表は金、裏が銀の末広扇子は、花嫁衣裳の左帯に挿したものだそうです。
時代を物語たる80年以上を経過した品々は「空襲で西条の田舎は焼かれなかったから残っているだけで、甲府の旧家には桁違いなものがあったと思いますが、みんな焼かれて・・・そうそう、竜王の新海さんは、軍の物資を預かっていたとかで、玉幡で一軒だけ焼かれましたねえ」

2012年1月25日水曜日

杉浦醫院四方山話―111 『誕生祝い-1』

   「私が生まれた時、竜王の新海祐六さんからいただいた誕生祝いですが、新年なのでお持ちしました」と純子さんから85年前の誕生祝いが届きましたので、ご紹介します。
新海祐六氏は、山梨英和学院の創立者でもある新海家の当主で、仲人を健造先生夫妻がされたり、杉浦家は新海家のかかりつけ医として、古くから懇意だったそうです。山梨を代表する製糸業を営み「新海七軒まき」と云われ、新海家一帯には、取り巻きの一族が何軒もあったそうです。
   写真上の箱には、赤ちゃん用の紅白の帽子と「上百歳 純子様 新海祐六」と書かれた祝儀袋に百円札が入っていたそうです。一緒に贈られたお宮参りの着物に付けていく紅白の「お守り」も箱に入り、ガラスの蓋が付いています。
 木箱には、写真のように「白木屋」のステッカーと印が残っています。現在では、「白木屋」は、居酒屋のチェーン店名と云った感じですが、かつて日本橋白木屋は、日本を代表する百貨店でした。昭和42年に東急に吸収され、東急日本橋店となりましたが、平成11年には撤退。白木屋呉服店以来336年の永い歴史に幕を閉じた幻の百貨店ですから、このステッカーも貴重です。甲府岡島百貨店のロゴマークも老舗白木屋のマークを模した感もしますが、白木屋百貨店については、昭和初期の白木屋大火災で日本女性が下着を着用するようになったかのように面白おかしくねつ造した新聞記事でも有名です。日本女性の「羞恥心」について、全世界に配信されたと云うこの手のねつ造は、現代まで綿々と繋がっているのでしょう。
 冠婚葬祭の杉浦家の形や流儀は受け継がれ、純子さんに踏襲されています。先日も茶道を通して懇意にしている方にご不幸がありましたが、純子さんは、通夜に合わせて、甲府の清水家に稲荷寿司を六十個、喪主宅に届けてもらうよう依頼していました。
「昔から、ご不幸は急なことが多く、駆け付けたご親戚の方などのお夜食になればと、いつも清水家さんにお稲荷さんを届けていただくようにしてきました」と純子さん。

2012年1月21日土曜日

杉浦醫院四方山話―110 『百人一首あれこれー4』

   新春ということもあり「百人一首」にまつわる話が続きましたが、最終回は、杉浦家の中方屋製と丸福製の「百人一首」を写真で紹介いたします。














「母は百人一首の歌を全て覚えていましたので、母が入ったら勝負になりませんから、いつも読み手でしたが、父は私たちと大差ありませんでした。軍医として出征もしましたが、戦争の話は好きではなかったのか聞いたことがありませんし、戦争中でも父も一緒に小倉百人一首を愉しみましたから、愛国百人一首はありませんし、どんな歌が入っていたのかも知りませんでした」と純子さん。  時流に振り回されず偏見のない家庭を三郎先生夫妻は大切にしたのでしょう、住み込みの運転手さんやお手伝いさんも国籍や障害などに関係なく雇用するなど、百人一首に限らず、杉浦家の家風はリベラルで、純子さんにもその片鱗は随所にみられ、来客が絶えない毎日に繋がっています。

2012年1月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―109 『百人一首あれこれー3』



先に紹介した神田・奥野かるた店では、軽井沢に大正時代の別荘を改装して「軽井沢ちいさなカルタ館」という資料館を開設し、百人一首や郷土かるた、花札、トランプ、カードゲームなどの珍しいコレクッションが揃っているそうです。



このような日本の遊具に特化した資料館は、京都にもあります。こちらは、「軽井沢ちいさなカルタ館」と比較すると資料館というよりテーマパークといった規模のようです。           
   藤原定家が百人一首を選んだという小倉山の麓に2012年に全面的にリニューアルされてオープンした「時雨殿」は、建築費用21億円を任天堂相談役の山内溥氏が個人負担したそうですから、任天堂・時雨殿でもあります。デジタル映像技術や携帯端末などハイテク機器を駆使し、百人一首の新世界を体験できると人気だそうです。この任天堂は、文字通り「運を天に任せて」大きくなった企業ですが、元々は、京都の花札屋だったそうです。昨日、純子さんが「これが、よく使った百人一首です」と桐箱入りの百人一首も持参下さいました。現代仮名ですから戦後のものでしょうが、箱の蓋には「丸福特製」(○の中に福)と焼印がありますから、(株)丸福の製品です。この丸福は、山内任天堂が昭和22年(1947)に改称した会社の名前で、5年程カルタの製造販売を行なった後、社名を任天堂に戻して現在に至っていますから、このカルタは、私が生まれた昭和24,5年の製品ということになります。現在では、この丸福の百人一首も資料館に納められている位ですから、大変なレアモノです。
   純子さんから様々な杉浦家の「お宝」を拝見するにつけ、代々良いモノを大切に使い、しっかり管理して受け継いできた杉浦家の流儀を実感します。白州次郎、正子夫妻のように長い英国生活を通して、英国流を身につけた訳ではありませんから、杉浦家の価値観は、英国的価値観と同じだったと云えましょう。まあ、高度成長以前の日本では、もっとモノの耐用年数は長く、修理して使うのも当たり前でした。ゴミのようなモノが溢れ、買い替えを当たり前にすることで「成長」してきた日本経済と日本の「文化」生活ですが、真っ当な家や個人は、現在でもその辺については、きっちりした姿勢で生活していますが、少数だからこそ際立つ姿勢、美学となっていることも確かでしょう。

2012年1月17日火曜日

杉浦醫院四方山話―108 『百人一首あれこれ-2』

   前話で、奥野かるた店の方から「上方屋・中方屋・下方屋」があったことを教えていただき紹介しましたが、これは、百人一首やかるたに限らず、徳川家康が幕府を江戸に開いて、江戸が名実ともに京都と並ぶ日本文化の核となるのに100年かかった歴史の中で誕生した屋号でもあるようです。天皇が住む都を「上」として、京都から大阪一帯を上方と称し、江戸より上だと自任していた多くの老舗も元禄時代以降、続々江戸に進出しました。
   畿内の上方に対して、江戸を下方、名古屋あたりを中方と呼んだ訳ではなく、大阪から江戸に出た上方屋が、中方屋、下方屋の名前で次々に支店を出し手広く商売をしたようですが、本店・上方屋にたいして、あくまで同列ではないと云ったところでしょうか。ちなみに、和菓子の虎屋や路線価日本一で有名な銀座・鳩居堂などすっかり東京のイメージですが、元は京都で、進出組です。
まあ、京都の貴族文化である上方文化に対し、江戸の文化は町人、庶民の文化でした。武士は、基本的に貴族にコンプレックスがありますが、江戸庶民はお上品ぶった上方文化に「てやんでえ!」の心意気で立ち向かい、江戸流に変形してきました。その一つが藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだ「小倉百人一首」です。歌がるたとして、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指し、江戸でも大いに流行しましたが、上方で詠まれた「小倉百人一首」に対抗して、「女房百人一首」とか「烈女百人一首」「奇人百人一首」「祇園名妓百人一首」等々、いろんな百人一首を創作して遊んでいたそうです。江戸の「遊び心」は粋で、ひまが人間と文化を作ったという「江戸礼賛」もこの辺が根拠のようですが、私も京料理の懐石より江戸の握り寿司やそばにより親近感があるのも「出」が関係しているのでしょう。
 この「百人一首」の歴史も日本が軍国主義に突き進むと「国家の非常時に、恋の歌を弄ぶとは何事ぞ!」で、「愛国百人一首」が生まれました。恋歌の多い小倉百人一首に代わる軍国的な愛国和歌を百首集めた「愛国百人一首」は、「君が代を思ふ心のひとすぢに吾が身ありともおもはざりけり  梅田雲浜」とか「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし日本魂  吉田松陰」といった類の歌で、台湾・満州・朝鮮の占領地はもとより、中国語・マレー語・英語に翻訳されたものまで出されたそうですから、国策とは、何をか言わんやです。
 テレビゲーム全盛の現代ですが、歴史と伝統のある「かるたクイーン戦」では、若い方々の活躍が目立ちます。知らず知らずに名歌を暗唱できる小倉百人一首は、日本人の遊びとして、優雅で上等であることは間違いありません。

杉浦醫院四方山話―107 『百人一首あれこれ-1』

   「昔の遊びと云えば百人一首やかるた位でしたから、母が読み手でよくやりましたが、これは大きさもちょっと小さめで遊びに使ったものとは違うので、お持ちしました」と、木箱に入った百人一首を純子さんが持参下さいました。
 木箱の蓋には、品よく意匠の施された鉄の小さな取っ手があり、裏には「一〇六七 特許 春島」と彫られています。また、木箱の上部には、土蔵造りの店の前に人力車が横付けされ「和洋かるたおろし 小うり 中方屋」ののれんが描かれた店の絵札が貼られています。この二つの大きな情報があれば、この「百人一首」の素状は直ぐ分かるだろうと「調べておきます」と預かりました。
 それから、「百人一首」や「中方屋」について調べ出すと面白い事実や知らなかった歴史も・・で、とても一回では紹介できませんので、「あれこれ」と題して、記していきたいと思います。
 
 先ずは、「中方屋」について、四方八方調べても関連する資料がありません。その中で、現在、東京でかるた専門店として、ギャラリーも開設している「奥野かるた店」ホームページの右の写真に出会いました。店2階「小さなカルタ館」の展示写真ですが、前列左ケースの右側のセットが、木箱の構造も札の大きさもそっくりなので、電話で問い合わせてみました。最初の女性も「中方屋についてですね、お待ちください」と、心あたりもある様子で、店主とおぼしき方につないで下さいました。
「現在の蔵前から浅草橋にかけての辺に、上方屋、中方屋、下方屋が、並んでありましたねえー」
「上方屋と下方屋は、戦後、廃業しました。中方屋はもっと前に廃業したと思います。多分、明治、大正から昭和の初期までだったと思います」「文字が変体仮名で書かれたものでしたら戦前までのものです。戦後は、歴史的かな遣いを廃止して現代かな遣いで、競技かるたもやっています」「木箱の中は、縦2列ですか? 札の裏紙の色は?」 「赤茶色と云う事は、ヤクタイシですね」
「ヤクタイシと云いますと?」 「薬の袋の紙です。薬袋紙は、とても丈夫な紙ですから・・・」
「多分、大正時代のモノだと思います。神田に来る折には、持参下さい。先日も山梨のお寺の方が、木のすご六を持ってみえました。めずらしいカルタや百人一首、すご六など展示していますから」等々、勝手かつ急な問い合わせにも、目の前に現物があるかのような的確なご教示と全くの素人相手に親切に関連するお話までいただき、感動しました。電話を切ってから知りましたが、「カルタは子どもからお年寄りまでみんなで一緖に楽しめるので、避難所などで活用して・・」と被災地にカルタを無償提供しているという奥野かるた店。是非近々訪ねてみたいお店です。

2012年1月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―106 『銀時計』

 「マルクス経済学者大内兵衛氏は、健造先生より約20年後の1988年に生まれ、東大経済学部を首席で卒業し、大蔵省を経て東大教授となりました。」と前話で紹介しましたが、結婚式などで、ご祝儀言辞だとしても「首席で卒業し・・」などと聞くと「首席卒業って、どういう基準だろうか」と縁のない私には不思議な謎でした。江森 敬治著「銀時計の特攻―陸軍大尉若杉是俊の幼年学校魂―」(文春文庫)を読んで、その謎が解けましたので、この機会にご紹介してみます。 以下、「首席」と「銀時計」についての解説を貼り付けます。 ― 明治維新から第二次大戦までは、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校において、各学部の成績優秀者に対して、天皇からの褒章として銀時計が授与された。天皇(又は代理)臨席の卒業式で与えられ、至高の名誉と見なされた。銀時計を授与された者は「銀時計組」と呼ばれた。 ― 貼り付け終わり。
 「首席卒業」と「銀時計」は、帝国憲法時代、軍学校から始まり、旧帝国大学等に対象が広がった制度ですから、銀時計が授与された者は、「首席卒業」を公にできた自他ともに認めるエリートだった訳です。ちなみに東京帝国大学では1899年から1918年まで授与制度が続き、323人が銀時計を授与されているそうです。また、選定基準は必ずしも明確ではなく、成績と人格も評価され、学部1名と決まっていた訳ではないそうですから、当時も自称「首席」はいたようです。
戦後の大学では、防衛大学校を含め、この銀時計授与はありませんから、誰が首席卒業者かは分からないのが普通ですが、「毎年、○○ゼミから首席が・・」とか「○○に就職したのが首席だ」とか・・未だ「首席」好きもいるようです。 
                 
 戦前の銀時計拝受者は、それに価するに足る十分な自覚があったというテーマで追ったのが「銀時計の特攻」です。これは、幼年学校、士官学校予科、航空士官学校と恩賜の銀時計を三度も拝受して卒業し、「将来の陸軍大将」と誰からも嘱望された青年将校若杉是俊の評伝です。若杉は、特攻隊の創設と共に率先志願して、昭和19年12月、フィリピン・ミンダナオ島沖の米艦隊に突入戦死しました。将来、帝国陸軍を背負って立つ逸材と目されたエリートにもかかわらず、「銀時計組」の自分は、軍人の模範とならねばならないと特攻を志願し散りましたが、同期や後輩には「絶対特攻にはなるな」と言い遺しています。この強烈な使命感は、真のエリートたる自覚を育んだ三つの銀時計と無縁ではないでしょう。大内兵衛氏の一貫性にもつながる22歳の散華は、こんな私でも涙なくして読めなかった一冊でした。

2012年1月7日土曜日

杉浦醫院四方山話―105 『春風満座』

新春を迎えた杉浦家の座敷床の間は、前話の写真のとおりですが、座敷西側の額も「春風満座」の額に交換されました。文字通り「春風座に満つ」で、座敷は一気に迎春の趣になり、書や絵画の存在感と軸や額という表装文化の掛け替えることの意味など、現代社会が忘れかけた「暮らしの歳時記」という言葉と実態を感受できました。
 厳しい寒さが続いていますが、この書を見上げると「冬来たりなば、春遠からじ」といった諺にも思い至るのは、この書が、大内兵衛氏の揮毫だからでしょうか。「私が物心ついた時からお正月にはこの額に変えていましたから、祖父の代のモノだと思いますが・・・」と純子さん。
 マルクス経済学者大内兵衛氏は、健造先生より約20年後の1988年に生まれ、東大経済学部を首席で卒業し、大蔵省を経て東大教授となりました。しかし、軍国主義がすすむ戦時下、マルクス経済学者は苛酷な弾圧をうけ、ほとんどのマルクス経済学者は大学から追放されました。大内氏は、その代表的な学者としても著名ですから、失職した時期の「書」であれば、「明けない夜はない」と云った意味も含めての「春風満座」の可能性もあります。 
大内氏は、漢詩や能筆でも知られた文化人で、4、5年前「治安維持法違反容疑で逮捕された大内兵衛氏の拘置先の早稲田署で揮毫した漢詩が見つかった」という新聞報道がありました。その漢詩は、無題の七言絶句で、「囚われの身では何もできないと人は言うだろうが、自分には歴史を観る眼が備わっており、留置場に閉じ込められても、狭苦しいとは思わない」と心境を謳い、末尾に「昭和13年初夏於早稲田署 大内兵衛書」と署名があったそうです。
 「歴史を観る確かな眼」は、戦後の東大復職、退官後の法政大学総長、美濃部都政のブレーンと・・大内氏の「春」に続きました。この時代の書であれば、三郎先生の代と重なり、純子さんの「物心ついた時から・・」と大きくズレますので、大内兵衛氏が不遇な時期に健造先生が清韻亭の座敷の一幅として、揮毫を依頼した可能性の方が高いように思いますが、大内兵衛氏と杉浦健造氏の接点になる資料や証言は、今のところありません。

2012年1月4日水曜日

杉浦醫院四方山話―104 『謹賀新年』

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


 2012年は、宮入慶之助博士のミヤイリガイ発見から99年目です。
中間宿主となるミヤイリガイの発見で、地方病の原因や感染経路が究明され、治療法や予防法も確立でき、終息に至った訳ですから、来年は記念すべきカイ発見100年を迎えます。 
 長野市の宮入慶之助記念館では、今年からその準備に入るそうですが、同じ地方病資料館として、杉浦醫院でも連携した取り組みを企画していこうと思います。
 
「暗い夜こそ、見える光もある」と云う言葉を何度も思い返した昨年でした。
脳天気にオール電化などと云う住宅設備を検討した恥ずかしい自分も見え、あらためて一貫して自説を貫いてきた人間の輝きと価値を再確認できたのも天災と人災が織りなした「暗さ」からでした。そういう意味では、嫌いな都知事の天誅説もあながち否定できず、一層暗澹たる気持ちになりましたが、杉浦醫院の玄関には橋戸棟梁夫人の手作り人形が飾られ、杉浦家母屋の座敷には、朝日に鶴が舞うお軸と右手に扇を挙げ、左手に獅子頭の博多美人が
見事な活け花と共に新年の到来を告げています。「心新たに励まんとす」です。