2013年6月26日水曜日

  杉浦醫院四方山話―250 『カンゾウー1』

Old Takano House.jpg 山梨県甲州市塩山にある高野家住宅は、この地で江戸幕府に納める甘草を栽培していたことから、「甘草屋敷」と呼ばれ、国の重要文化財にも指定されています。
高野家住宅の主屋は、切妻屋根の前面上部に二段の突き上げ屋根のある「甲州民家」と呼ばれるこの地方特有の建築で、江戸時代後期の建築です。蔵などの付属建物も多く、敷地内にある古民家をそのまま塩山図書館分館の「甘草屋敷子ども図書館」として活用するなど文化財建造物の活用でも著名です。

 「甘草」は、薬草として江戸時代は、幕府官営の小石川御薬園で栽培し、幕府の貴重な収入源となっていましたから高野家の甘草は、この小石川御薬園の甘草を補給するため栽培され、江戸時代から「甘草屋敷」と呼ばれてきたそうです。

 
 杉浦家も初代杉浦覚道が、江戸初期にこの地で醫業を始め代々これを継いできましたが、特に五代杉浦道輔は、「若くして江戸に行き、古醫学を当時の名醫磯野弘道師に学び、郷に帰り先代の後を継ぎ醫業を為し、更に関西から遠く長州まで各地の薬園を訪れ、諸州の山野を歩き薬草を採取して回り、艱難辛苦の数年を経て帰郷し、自ら薬園を開き醫業に役立てた」旨が杉浦健造先生頌徳誌に記されています。

  
また、この道輔氏は、文人としても著名で「峡中歌人」とも呼ばれ、「後年、清韻道人と号し門人を育て、慶応三年十月五十八歳にて没す」とあります。

 八代目の健造先生は、この祖父道輔氏の偉業を顕彰すべく昭和四年に新築した醫院棟の前の薬園に「清韻先生壽碑」を建立しましたから、この碑が建っている一帯は道輔氏が全国を回って採集した薬草や薬木を自ら植えて造った薬園だった訳で、春には「シャカ」が、この梅雨時には「カンゾウ」の花が咲きます。

 この「シャカ」や「カンゾウ」が薬草として有効だったのか?はたまた甘草屋敷のカンゾウと杉浦醫院のカンゾウは同じなのか?次話に続きます。
 

2013年6月25日火曜日

 杉浦醫院四方山話―249 『商工会女性部のボランティア』


昭和町商工会の女性部の方々が今年も杉浦醫院の雑草取りなど清掃作業に来てくださいました。プレオープン以来毎年初夏と秋の2回メンバーと事務局の皆さんが和気あいあいと徹底的にきれいにして下さいます。

 
特にこの時期は蒸し暑い中での作業ですが、室内清掃組と草取り組に分かれ、毎回参加のベテランが「室内の掃除は、上から下に拭いていくのが本当だけど、雑巾がきれいなうちに畳を拭いて、床、ガラスの順でやったほうがいいよ」と経験智をアドバイス。

「暑いから1時間ね」の北爪部長の音頭で始まり、「黙々」と「隅々」が合言葉のように作業が進められ、ちょうど1時間できれいさっぱり仕上がりますからお見事です。                 作業後は、土蔵ギャラリーの「器展」を観賞して、「ここが涼しくていいじゃん」と土蔵のおだれで、事務連絡とティータイム。
「今度、清水新居に〇〇さんが喫茶店をオープンするけど、ゆくゆく商工会にも入るからって挨拶に来たよ」とか「女性部に入るのにはどうすればいいのかって〇〇さんが言ってたよ」と情報交換に花が咲き、時にドッと笑い声が起こる、よく働き、よく語り、よく笑う女性部の皆さんは「また秋ね」と当たり前のようにさりげなく引き上げていきますから、本当にありがたく頭が下がります。

2013年6月22日土曜日

杉浦醫院四方山話―248 『祝 富士山世界文化遺産登録』

 昨日から今朝にかけ日本のテレビ局は、富士山の世界文化遺産登録の正式決定が間もなく決まる旨の報道を繰り返し、中継で富士吉田市や富士河口湖町の役場や住民の声を伝え、祝賀ムード醸成を煽っています。
 甲州の「義理人情の並ぶ家庇①」で育った私ですから、ここは横並びで、杉浦醫院からの今日の富士山をお届けしなくてはと朝から「おあつらひむきの富士②」の一枚を狙っているのですが、午前中は「註文どほりの景色③」とはいかず、杉浦醫院板塀越しの富士山はこんなでした。
 
 「富士には月見草がよく似合う」の太宰治は、河口湖の天下茶屋に滞在して執筆しましたが、総じて富士山は合わなかったようで、「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、風呂屋のペンキ絵だ」とか上記の「」②③のような表現をしています。
 
 富士山と云えば、私には金子光晴の「富士」が忘れられない詩です。戦争末期の昭和20年3月に一人息子にも召集令状が舞い込み、光晴は息子を水につけたり松葉や杉の葉をいぶして煙を吸わせて体を弱らせ、喘息発作の診断書で召集を免れさせましたが、息子を戦地に取られるという不安に怯えながら疎開先の山中湖で書いた詩です。
戦地で失踪した息子の行方を探して夫婦であてどなく歩き回るという重苦しい夢から覚め、外に出て見上げた富士山は、金子夫妻にとって息子を奪い取ろうとする権力と重なったのでしょう。
 
  「富士」   金子光晴
重箱のやうに狭つくるしいこの日本。
すみからすみまでみみつちく俺達は数へあげられてゐるのだ。
そして、失礼千万にも俺達を召集しやがるんだ。
戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
誰も。俺の息子をおぼえてるな。
息子よ。この手のひらにもみこまれてゐろ。
父と母とは、裾野の宿で一晩ぢゅう、そのことを話した。
裾野の枯れ林をぬらして小枝をピシピシ折るやうな音を立てて夜どほし、
雨がふってゐた。
息子よ。
ずぶぬれになつたお前が重たい銃を曳きずりながら、
喘ぎながら自失したやうにあるいてゐる。
それはどこだ?どこだかわからない。
が、そのお前を父と母とがあてどなくさがしに出るそんな夢ばかりのいやな一夜が長い、
不安な夜がやつと明ける。
雨はやんでゐる。
息子のゐないうつろな空になんだ。
糞面白くもないあらひざらした浴衣のやうな富士。
 
 金子光晴は、「」①の「義理人情の並ぶ家庇」の日本に居たたまれなかった詩人でしたが、最終フレーズ「糞面白くもないあらひざらした浴衣のやうな富士」は、「風呂屋のペンキ絵だ」の太宰と共通する羞恥心からでしょう。

富士山の登録審査が始まると云う6月22日の午後4時30分現在、杉浦醫院板塀越しの富士山は、ご覧のとおり曇に隠れてしまいましたから、富士山も案外、金子や太宰と同じ羞恥心に富む山で、「オイラ世界文化遺産だなんてハズカシィー」とお隠れなのかなあー・・・

2013年6月21日金曜日

杉浦醫院四方山話―247 『ひょっとこ』

 私が「台所」について純子さんに尋ねた折、「お勝手は・・・」と、台所ではなく「お勝手」と云う言葉が自然に出てきました。同じ場所を指す言葉ですが、居間をお茶の間と言ったり日本語は多様です。

 重箱の隅をつつく様な些事にこだわるのは苦手で、大雑把な人生を送ってきましたが、前話の「へっつい」のように時代と共に消えゆく言葉もありますし、死語となっている言葉や語源を明らかにしておくのも「伝承館」の役割かな?と思い直し、「台所」と「お勝手」についても調べてみると、私が発した「台所」の方が古い言葉であることも分かりました。

 台所の語源は、≪平安時代の台盤(食物を載せるための脚付きの台)のある所≫という説が有力ですが、「炊き所」が転じたという説もあるようです。要は諸説あるということですから、純子さんの説明にもあった、「いろんな台があった」所だから台所が一番すっきりするなあとも思いました。「台所」の読みは「ダイドコロ」ですが、日常会話では「ダイドコ」と言っていたような気もしてきましたが、抜けてる私の間抜け読みだったのでしょうか?

 「台所」同様「勝手」の語源もいろいろあるようです。
糧(かて)を炊ぐ場所であることから「糧」が転じて「勝手」になったという説が有力のようですが、糧(かて)は、「生活の糧」という言葉があるように生活を担う金銭でもあり、家計をやりくりする所という意味での「お勝手」なら、「お勝手は火の車」となるはずですが、「台所は火の車」が慣用句ですから、「糧(かて)説は、どうもなー」です。
 もう一説、弓道では弓を持つ左手を「押し手」、弦を引く右手を「勝手」といい、固定されている左手に対し、右手は自由が効く手とされ、女性が自由に使える所を弓道の右手になぞらえて、「お勝手」と云うようになったという説があります。「勝手口」は、玄関より自由に出入り出来る感じからもこちらの説の方が説得力があるように私は思いましたが、如何でしょう。

 台所とお勝手の語源や歴史を調べていく中で、「なるほど」と素直に感心したり、「もっと詳しく」と興味を覚えたのが、「ひょっとこ踊り」の「ひょっとこ」の由来についてです。
 台所の中心は「へっつい」の竈(かまど)で、薪を使っての煮炊きでしたから、火吹竹や団扇(うちわ)が常備品で、これを使って火をおこす「火男」の存在も前話の写真解説にもありました。
 「ひょっとこ」は、竈(かまど)で火吹竹をつかって火をおこす「火男」がなまって「ひょっとこ」となり、火を吹く口の形から、あのコッケイなお面ができたというものです。
 以来、「ひょっとこ面」は火の守り神として、台所に飾られていた地域もあるそうですが、火を吹く口元は、誰がやっても写真のようにとがる反面、目は見開きますから、火男の口と目に着眼して、この面を造形した人は、やはり天才だったのでしょう。

 しかし、「女性が自由になれる女の城」でもあったお勝手・台所に火男という男が存在した事実とこの火男が転じて「ひょっとこ」になり「ひょっとこ面」や「ひょっとこ踊り」が笑いの対象として派生したことを考えると、この火おこしを職業とする男性への差別を内包していた可能性や歴史もきちんと文献等で確認してみなくては・・・・・・・・と。

 
 「本当のことは暗くなります」が、六月と云えば太宰治の「桜桃忌」ですね。太宰の箴言「笑はれて笑はれて強くなる」に免じて、この稿を閉じたいと思います。

2013年6月18日火曜日

杉浦醫院四方山話―246 『おへっつい』

 前話で、杉浦家母屋の台所について純子さんの話を基に紹介しましたが、話の流れで勝手な単語で書いてしまった個所が気になり、「お勝手の真ん中にあった釜戸のことを何て言いましたっけ?」と、今朝尋ねてみると「私たちは<おへっつい>と呼んでいましたが、<くど>とも言いましたね」と。

 
「くど」は確かに聞いたことのある言葉でしたが「おへっつい」は、初めての言葉だったので、さっそく調べてみると「深川江戸資料館」の解説書に写真入りで「へっつい」の説明がありましたので、転載させていただきます。

土間には「へっつい」。煮炊きは薪を使っていました。鍋や釜があり、そばには渋団扇に火吹竹もあります。魚を焼く時は「七輪」を表に出して焼いたようです。

へっついのほかには、 流しがあり、そこには包丁、まな板、桶などがあり、その横には水瓶が置いてあります。
この写真には写っていませんが、横の棚にはざるが数種類そしてすり鉢、すりこ木、味噌こし、味噌、醤油、塩などを入れておく壷や鉢が乗っています。また、紺木綿をわらにまぜて編んだ鍋つかみは常時へっつい側に掛けてあったそうです。

飲料水は各家の水瓶に汲み置きしておきました。場所によっては水質が悪く、飲料水として井戸の水が使えない場合もあり、そういう所では水売りが、天秤棒に玉川上水あたりの水を入れた桶をかついで町々を売りに歩きました。
魚や野菜の下ごしらえ、また洗い物等は井戸端で行いました。ここは女房達の社交場、井戸端会議は毎日開催されました。

 
「くど」は、カマドの後部に位置する煙の排出部を意味したそうですが、京都では、カマドそのものを意味し、「おくどさん」と呼び、山陰地方では、煮炊きの設備を「かまど」、空間そのものを「くど」と呼んで区別していた地域もあったそうです。

 純子さんは、丁寧語のおを付けて「おへっつい」と呼んでいますから「おくどさん」と呼んでいた京言葉につながります。「へっつい」と「くど」の解説写真を観ると共にカマドは2つですから、これが一般的だったのでしょう。また、釜戸・かまど・カマドとバラバラな表記も正確には「竈(かまど)」であることも学習しました。

 前話では、杉浦家の台所が特に広い訳ではなかったかのようなニュアンスの文章になっていますが、あらためて、中央にカマド3つのおへっついで、流し一帯もずっと広い訳で、明治中頃に井戸の近くにこれだけの台所を造った杉浦家は、食客が多いことを前提だったのかも知れません。

2013年6月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―245 『台所』

 杉浦純子さんは、明治中頃に建てられた母屋で生まれ、米寿を迎える現在もそこでお一人で生活されている元祖「おひとり様」です。広い大きな建物ですから、朝夕の雨戸の開閉や台所、風呂、トイレなど日常生活を送る移動が、純子さんの運動でもあります。
また、純子さんをほっとけない方々が、入れ替わりで何組も訪ねて来ますから、おひとり様でもお忙しい毎日で、外出しなくても世間の情報は多角的に入ってきます。
  純子さんのもとに多くの方々が見えるのは、身に着いたおもてなしの心で迎える純子さんの人徳によるものですが、これは、杉浦家代々の家風でもあるようです。
健造先生、三郎先生の時代には、多い時は4人のお手伝いさんと男性の運転手や作男が住み込み、いつも来客が居て、食事もしていたそうですから、賄いも大変だったことでしょう。

 現代では、食事までしていく来客もないのにアイランドキッチンとか対面キッチンと云った流行のキッチンで、少ない家族が小さく固まって食事をすると云うあまり意味のないモノが幅を利かせているようにも思い、「台所」について純子さんに聞いてみました。

「私が覚えているお勝手は、現在の場所ですが、真ん中に釜戸が3つありましたから、床は土間でした」
「今、冷蔵庫や保管庫がある所に、長い台がありました。テーブルのように高くなくて、低い台でしたから職人さんたちが膝を立てて何人でも座って食事ができました」
「裏が井戸ですから、水は窓から手渡しでしたね」
「ガスが入って、今のように流しが付きましたが、それまでは長い調理台でした」
「患者さんにも出す時がありましたから、甲府の魚屋さんからよく魚を届けてもらいました」
「田んぼの水の見張りがある時は、食事とお酒を届けましたが、通る人も入って宴会になって、そのまま寝てしまい、見張りにならなかったこともありました」
「お勝手を仕切っていたハナちゃんは怖かったけどよく働きましたよ。ハナちゃんたちは、客がみんな食事をしていくから、朝炊いたご飯は客に出し、自分たちはいつも炊き立ての温かいご飯が食べられると笑っていました」
「先生の所で肉を食べるのが楽しみだって云う時代でしたから・・・」と。

 料亭の厨房のような広い台所ではありませんが、調理台やちゃぶ台代わりの長い台など文字どおり台がいくつか置かれていたこの台所で、ハナちゃんの指揮で、臨機応変に料理された食事が来客に振舞われていたのでしょう。
冷蔵庫のない時代、台所はどこでも東北の日当たりの悪い寒い部屋でしたが、「男子厨房に入るべからず」の女の城でもあったことが、純子さんの話にもうかがえます。

2013年6月10日月曜日

 杉浦醫院四方山話―244 『アイスキャンディー』

 杉浦醫院のある西条新田地区は、西条地区のような商業施設は少なく宅地化が進み急激に人口が増えた地区でもあります。若い世代にも人気の昭和町ですから子供も多く、放課後、杉浦醫院庭園の池や駐車場を遊び場に子供がよく集まります。
 純子さんは大学を卒業後山梨に戻り、甲府にあった英和幼稚園に勤めていたそうで「子供の声や足音は本当にいいですね」と子供が集まることを厭わず歓迎しますから子供もその辺を敏感に察し、気兼ねなく集まりやすいのでしょう。
 

 今時珍しい子供らしい子供の2年生春樹君は、元気に「こんにちはー」と毎日のように事務所に声をかける少年です。先月、西条小学校の2年生が「地域探検」で来ましたが、前日に「春樹君は杉浦醫院が遊び場で、もういろいろ探検しているから、明日は探検隊長だな」と話すと「うんいいよ」と言っていましたが、当日集団の中の春樹君を見ると放課後の元気な春樹君とちょっと違う神妙な顔つきです。「うーん子供もつらいなー」と隊長を命じられなくなってしまいました。

 昨日は、仲良しの真知子さん(仮名)と「こんにちはー」と呼ぶので出てみると二人でチューブ入りのアイスを食べながらご機嫌です。「おっ、アイスキャンディーか」と聞くと「違うよ。〇〇だよ」「中身はアイスキャンディーだろ」「違うもんねえー」と二人は顔を見合わせて笑っています。「はて?もはやアイスキャンディーは死語なのか」と不安になりましたが、「そうだ、いいものを見せてやろう」と読みかけの本、矢野誠一著「昭和食道楽」を思い出しました。

  歳のせいでしょうか、最近は食べ歩くより食べ物本を読みながら飲む方がおいしくて、この手の本が必需品ですが、作家のエッセーも含めて、食べ物本は次々出ていますから、私と同じような人間が結構多いのかもしれません。

 矢野氏の文章に合わせた挿絵は、唐仁原教久氏の手によりますが、雰囲気がほのぼの伝わり、挿絵画家の面目躍如です。特に「アイスキャンディー」の項のこの一葉は、何度見ても飽きません。
 
  男の子の遊びといえば野球で、空き地や田圃で、そろった人数で3角ベースもやりました。野球帽をかぶって、夏は水分補給にとお小遣いをくれましたからアイスキャンディーのおじさんがまっわて来るのが楽しみでした。ミルクとアズキは高かったので、5円のイチゴかメロンで悩みましたが、今思えば色は確かに赤と青で違っていましたが、味は同じようなものでした。

 二人にこの挿絵を見せると「でっかいアイスだ」と的を得た感想にびっくりしましたが、女の子の頭と同じほどのアイスキャンディーですが、色つき氷で味はうすかった分「でっかく」て、水分補給にはなりました。

 紙芝居やアイスキャンディー、金魚売り、ポン菓子などあの時代は、おじさんの仕事が子どもの楽しみと結びついていましたし、自転車やリヤカーで子どもが遊んでいる場所を巡ることで生活も出来ていたのでしょうから、本当に時代は進歩したのか?春樹君も50年早かったほうが・・・・と、思案橋ブルース(化石か?)してしまいました。

2013年6月5日水曜日

 杉浦醫院四方山話―243 『歴史家 色川大吉氏』

 北杜市大泉に在住の歴史家・色川大吉氏は、今年88歳になりますから、杉浦純子さんと同級生と云うことになります。
 東京経済大学の教授を退任後、「八ヶ岳南麓には、自分に合う温泉が多かったから」と山梨に移住して現在に至っていますが、登山やマキ割で夏に鍛え、冬になると地元のスキー場では「爆走老人」と呼ばれる程の猛スピードで、颯爽と滑り降りる色川先生の姿が毎日のように見られるそうです。

 執筆や講演、地域活動でも現役で、近刊も二冊出ましたが、一冊は、昭和町立図書館の新着本コーナーに入っている日本経済評論社刊「色川大吉歴史論集 近代の光と闇」です。 色川先生らしい歯切れの良さで「歴史」についての貴重な証言に引き込まれ、あらためて「歴史家」と云われる所以や自覚について考えさせられました。

 昭和天皇の弟で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁(たかひと)氏とは、東大文学部で共に歴史を学んだことから、天皇制の是非について2人で対談した内容も披露されています。三笠宮は「天皇制は憲法にあきらかなように、すべて国民に任せるという気持です。国民が望まない場合、天皇制は無くなってもよいと思います」と言い「昭和という元号についてはどうですか」と色川氏が尋ねると「西暦にしたらよいですよ。元号はなにかにつけ、とても不便です」とリベラルな三笠宮の思いも紹介されています。

 表紙に宮沢賢治の写真があるように近代の「光」として宮沢賢治を「闇」として麻原彰晃を取り上げ、「その時代、歴史が人間に強いる重みと辛(つら)さ」についての語りおろしは、色川先生の歴史、時代を鋭く観る眼と人間への温かい眼差しがひしひしと感じられる内容でした。

 これは、同じ歴史家の故網野善彦氏への厳しい批判にも繋がります。     近現代史が専門の色川先生が、中世史について一切語っていないのは、語るに値する研究をしていない自覚があるからで、東大の3年後輩だった中世史家の網野氏が、晩年日本の近現代史について多くを語り、残した著書の内容について、色川先生の評価は低く、「網野を疑ってかかることから、歴史家網野善彦への真の理解もはじまる」と温かく突き放す姿勢も圧巻でした。
 
 米寿を迎え知力、体力とも益々お元気な色川先生の講演会≪日本の進路と日本国憲法≫が、近々甲府で開催されます。特に日本国憲法制定にかかわった日米関係者の詳細なデータと歴史事実についての証言は、近現代史家・色川大吉氏のライフワークジャンルとも云うべき専門性ですから「日本国憲法」を考える上でも欠かせない講演会となるでしょう。
 
山梨平和ミュージュアム主催 色川大吉講演会 
≪日本の進路と日本国憲法≫
 
  と き   6月16日(日)13時30分~16時30分
   
    ところ  甲府市朝気1-2-2 県男女共同参画推進センター            
 講 師   色川大吉氏(歴史家 東京経済大名誉教授)

2013年6月4日火曜日

 杉浦醫院四方山話―242 『一紅会歴史部会来館』

 甲府一高東京同窓会には、「一紅会(いちこうかい)」と云う女性部会があり、毎年同窓生の講師を招いて文化講演会を開催しているのは知っていましたが、一紅会歴史部会と云う分科会もあり、定期的に歴史学習会を持ち、その年に学んだ内容と関係する場所を見学して確かめる研修会も開催し、昨年は富山県だったそうですが、今年は故郷・山梨県内を巡るコースで、当館にも来館いただきました。

 女性の会ですから、企画運営は女性が行っていますが、参加者は男女を問わないそうで、この歴史部会にも男性が多数参加していました。
講師は、「通貨統一」「土地制度」「株式」など、近代の経済政策をミステリータッチに描く「経済時代小説」という独自ジャンルを切り開いた、昭和38年卒業の作家渡辺房男氏で、「渡辺房男先生と行く甲州路歴史散策バスツアー」でした。

 昭和30年卒から私より若い卒業生まで約50名が、新宿から大型バスで見えましたが、昭和村出身と云う方もお二人いたり、調剤室では薬剤師の方が、応接室のグランドピアノではピアニストの方が…と、それぞれの専門家がその場その場で解説や実演まで多彩でした。

 「少女時代に純子さんにとてもよくしていただきました」と云う世話人の井上若子さんのはからいで、母家座敷での昼食会も組み込まれ、新緑の庭園で純子さんも着物姿でお迎えして旧交を温めていました。庭園や医院、器展等見学後、中村キースヘリング美術館へと向かいましたが、夜8時新宿駅解散の盛り沢山な12時間だったようです。

 小渕沢のキースヘリング美術館は、東京でバイオのベンチャー企業を立ち上げた昭和40年卒の中村和男氏が、美術館や薬園を故郷山梨に開設している一環ですが、先日の山日新聞「ジモトロジー」シリーズで、昭和44年卒中沢新一氏がインタビュー記事「県出身者活用し魅力発信を」で語っていた内容と重なります。

 「僕も含め、山梨出身の経済人や文化人は自分のことを山梨県人だからここまで出来た、と思っているし、外から見るからこそ山梨の価値を発見できる。人脈や知識は情報発信にも役立つはずですよ」と語っているように「3・11」以降、都会生活者の故郷見直しの機運は高まっているようで、今回の一紅会のようなツアーも広がっていくでしょうから、「昭和町風土伝承館杉浦醫院は外せない」と云う存在にしていきたいものです。