2014年7月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―354 『健造先生「山梨近代人物館」入り』

  山梨県庁の別館と呼ばれている建物は、1930年(昭和5年)に3階建てで新築され、その後30年近く本庁舎として使われてきました。杉浦家の醫院棟が昭和4年築ですからほぼ同時代の歴史的建造物で、県はこの建物を保存すべく整備改修工事と活用計画を進めてきました。

中央奥の建物が昭和5年築の当時の山梨県庁本館(現・別館)
手前左は、昭和6年オープンの山梨県立図書館
昭和40年代まで県庁と図書館が向かい合って建っていた懐かしい写真

 22日付けの山日新聞によるとこの別館を「山梨近代人物館」として整備し、来年度オープン予定であることと、有識者5名で構成する「県庁別館展示施設整備検討委員会」が各分野で活躍した50人を選考したそうです。


 学術のジャンルで、ハンセン病治療の小川正子、東京タワー等の設計で著名な建築家内藤多仲と共に地方病の研究で杉浦健造先生が選考されました。約半年ほど前、事務局の県学術文化財課から、「健造先生が選考され、展示公開されるようになりますが、杉浦家の承諾は得られますか?」と打診があり、純子さんに説明し了承した旨を報告しましたが、「地方病関係では、三郎先生や三神先生も入れないと」と、私見を伝えると「そうなんですが、今回は健造先生お一人です」と、担当者の苦慮がうかがえました。


 確かに、この種の人選の困難さは容易に想像出来ますから、外堀である選考基準を一定のラインで決めてしまう必要があるのでしょう。今回は、先ず「近代を明治から戦前までの昭和」と規定して、更に「十分な資料が残っている」という基準まで設けて絞り込んでいったようです。    

三郎先生同様、日本住血吸虫の虫体発見者・三神三朗氏は、戦後も活躍しましたから、近代枠から外れてしまうことになり、業績とは関係なく選外となると云った選考で、今回の50人に絞ったのでしょう。


また、出身地別のバランスなども最終段階では加味されたやも知れません。今回、昭和町出身者は、健造先生と塚原等氏の2名です。塚原氏は、県内初めての盲学校である「山梨訓盲院」を設立した功績によりますが、昭和町民でも知らない方が多いようですから、周知していきたいと思います。

また、甲府市出身とされている外交官・杉浦譲氏も杉浦家と姻戚関係があるようですから、その辺も調査が必要です。


 県立美術館や県立博物館と違って、甲府駅から歩いて数分の地の利を得てオープンする山梨近代人物館で、昭和町の杉浦健造、塚原等の両氏が紹介されることで、昭和町や当館へと足が伸びるような「ハブ人物館」としての機能や展示を期待したいものです。

2014年7月20日日曜日

 杉浦醫院四方山話―353 『今週末の講演会二題』

 今週末の7月26日(土)に甲府盆地で開催される講演会についてお知らせします。


一つ目は、本町の文化財主事でもある今村さんからの情報で、お隣中央市教育委員主催の講演会「甲斐源氏と浅利氏」についてです。

 これは、豊富郷土資料館の開館20周年を記念して、甲府市出身の歴史学者・笹本正治信州大副学長を講師に招き、豊富地区ゆかりの浅利与一と甲斐源氏についての講演会です。

また、講演会の後には、「甲府盆地の開発」をテーマに、開発されるまでの経緯について、笹本副学長と市文化協会の比志保郷土研究部長、豊富郷土資料館の末木健館長をパネリストに語り合うシンポジュームもあります。

 会場は、玉穂生涯学習館2Fの視聴覚ホールで午後1時半から、入場無料で申し込み不要です。詳細等のお問い合わせは市教委生涯教育課、電話055(274)8522までお願いします。


 もう一つは、同じ日時に南アルプス市市民活動センター主催で開催される脳科学者の中野信子横浜市立大学客員准教授の講演会「脳科学から見て、市民活動って幸せですか?」です。

これは、南アルプス市のスポーツ少年団で、サッカーコーチも務める山日新聞の清水記者からの情報で、「スポーツ少年団とクラブチーム、どっちが脳にいい?」と云った設問も用意され、講師の一方的な講演ではなく、来場者との対話形式で進める講演会だそうです。
 
  南アルプス市には「南アルプス市市民活動センター」が存在し、担当職員も配置されていることから、こういった企画も生まれるようです.
昭和町にも「すっきり昭和」はじめ町民の自主サークルが町内を舞台に活動していますから、川を隔てたお隣の南アルプス市の市民活動との交流も含め、参加してみようと思います。

開催日時は、7月26日(土)午後2時から、会場は櫛形にある南アルプス市市民活動センター(055-282-7325)です。会費1,000円、申し込みは不要。お問い合わせは、上記センターまで。


 なお、両講演会のチラシは、当館にもありますので、必要な方は当館までどうぞ。

 

2014年7月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―352『曽根義順氏日記-1』

 昭和町西条の浄慶寺の先々代住職・曽根義順氏は、明治41年から昭和26年までの43年間、毎日欠かさず日記をつけていました。この24冊に及ぶ日記帖は、これまで浄慶寺の私設資料館に保存されていましたが、この度、現住職・曽根孝順氏が当館に寄贈くださいました。 

既に山梨日日新聞紙上でも紹介され、ご存知の方もあろうかと思いますが、明治、大正、昭和の激動の時代を昭和町西条地区に生まれ育って、僧職をしながら生活してきた一人の町民の視点で綴られた日記ですから、証言資料、歴史資料として貴重な寄贈品で、感謝申し上げます。



 孫にあたる曽根孝順氏は「祖父も他界してもう60年以上経つ訳で、今さら個人情報云々もありませんから、展示公開しても構いません」とおっしゃていましたので、全巻を一堂に展示しました。

 曽根義順氏は、1885年(明治18年)生まれで、残っている日記帳の最古は明治41年ですから、義順氏が23歳の時に書いたことになります。

その明治41年の日記を観て、23歳の1月1日から日記を書き出したのか?それ以前から書いていたのか?どうも後者のように思えてきました。

 

 それは、記されている内容が、一貫して「淡々」としているからです。

日記は、例えば「恋愛日記」や「失恋日記」など個人的な「思い」が日記に向かわせてきたとするのが洋の東西を問わず一般的です。23歳と云う若さで、今年から日記を付けていこうとしたのであれば、その辺の「心境の変化」なり「決意みたいなもの」が書かれているように思うのですが、12月31日までの1年間の日々の書き出しは、「起床后掃除例の如し」か「起床后勤行す」で、期待したような日記に対する若い思いは見受けられません。「掃除例の如し」の記述からも、もっと以前から書いていたように思えてなりませんが、これこそ「下衆の勘繰り」で、仏道を歩み若くして住職となった義順氏の23歳は、下衆には計り知れない奥深き23歳だったのかも知れません。毎日正確に記されている「起床」と「就寝」の時刻をみても起床4時前後、就寝9時前後と規則正しく、我が身の20代と重ねるとその辺も雲泥の差で、精神的にも肉体的にも悟りの境地に達していたのでしょう。

 

 明治41年の義順氏の日記帳も「東京 図書出版社発行」の「明治41年富用日記」であるように日本人は日記好きの国民で、日記帖専門の出版社が、多種多様の日記帖を販売するのが年末の恒例になっているのは、現代でも変わりません。それは、キリスト教の国と異なり、就寝前に神に祈るという習慣が無いことが大きな要因だとも言われてきましたが、義順氏の一日を振り返り記録するという営為の継続は、明日の考察と早朝の清掃、勧行に繋がる宗教的行為のようにも思えてきます。

 

 武田百合子の「富士日記」や田中康夫の「東京ぺログリ日記」、つげ義春の「つげ義春日記」など現代の日記は、読者を前提にしていて、覗き見趣向の読み物として楽しめますが、この46年間に及ぶ曽根義順氏の日記は、その辺は微塵も感じさせない記録に徹した内容であることが、具体的年月日の詳細を読み込むことで貴重な史料となって生きてきます。

 

 先ずは、昭和20年8月15日前後の日記を読み込んで、順次報告していきたいと思いますが、義順氏の日記は、啄木のローマ字日記同様他人に読まれないよう図ったのか、大変難解なくずし字で、簡単には判読出来ませんから、古文書解読にも相当する読み込みが私たちには要求され、どなたかお力添え願えませんか?と正直SOS状態です。

2014年7月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―351『人力車ー2』

 前話の井上製車店からの手紙は、約1か月後の明治43年6月7日付けに続き、納品された人力車の領収証が入っていました。

 右が店主からの私信、真ん中が印紙付きの領収書、左が封書です。ご覧のように特注の便箋に大変達筆な毛筆です。 この便箋もなかなかよく出来ていて、上部にはローマ字表記で、「KUNITARO INOUE」に住所、電話番号を記し、右端には縦書きで「井上製車店」に続き「電話 本局 二三六一番」と「振替口座 東京一八五五六番」とあり、左端上に「明治 年 月 日」と日時を記入するようになっています。この便箋と書きなれた達筆さからすると井上国太郎店主は、人力車の製作よりもっぱら営業に専念した経営者だったのかもしれません。

 日本に郵便制度が誕生したのは明治4年ですから、約40年を経た明治40年代の便箋に既に振替口座番号があっても不思議ではありませんが、井上店主はこうした通信制度もいち早く取り入れ、全国に販路を拡げていたのでしょう。

 

 その井上店主から、もう一通、翌年の明治44年2月16日付けの手紙もありました。明治43年4月に新車の仕様書を、6月に領収書を送って間もないこの手紙でも二通りの仕様書を入れて、店主が「近代仕様」の人力車を私信で勧める手紙です。

 

 さて、その二通りの仕様車と値段を見ると安い方が七拾参円弐拾銭也、高い方は九拾壱円也とあります。約10カ月前に納品した車は、三七円五拾銭でしたから、2倍以上に跳ね上がっていて驚きました。

 

 店主の云う「近代仕様」は、車輪にあります。これまでの車輪は木製で接地部分となる外周に金物が打ってあるモノでしたが、近代仕様車は、「輪四十本ニッケルスポーク 英国製ゴムタイヤ付壱番」とあり、車輪でなくタイヤになっています。それも英国製です。約20円安い仕様は、「輪四十本ニッケルスポーク 英国製ゴムタイヤ付弐番」とありますから、ゴムタイヤの質が壱番と弐番でこんなにも違うようです。

 また、二つ折りだった乗車した時の室内である幌部分が、近代仕様では四つ折りになっている位で、一人乗りが二人乗りになった訳ではありません。デコボコ道を木製車輪で走る人力車の耐用年数がどのくらいだったのか分かりませんが、納品して一年未満の健造先生に英国製ゴムタイヤ付の新車を勧める井上国太郎氏は、現代ではサシズメ往時のホリエモン氏のようなやり手だったのでしょう。

2014年7月8日火曜日

杉浦醫院四方山話―350『人力車ー1』

  杉浦純子さんから預かった杉浦家の膨大な手紙類を仕分けして、整理保存作業を若林さんが進めています。健造先生宛のものが八割、三郎先生宛が二割と云った感じですが、三郎先生はいち早く電話を引いたことから、細かな連絡等は手紙より電話の時代になったことが大きいのかと思います。


 

 健造先生宛て手紙は、縁者や業者からミヤイリガイの発見者・宮入慶之助氏や山本節氏など医学関係者から文化関係者までと交友の広さが伺えると同時に全て毛筆で、達筆な文字が共通した特徴です。

これは、基本である「読み書きそろばん」の習得が、医学博士から職人さんまで徹底していたのでしょう、流れるように書かれた文字は判読も難しく恥じ入るばかりで、電卓に続きワープロやエクセル機能と云ったIT化で、確実に「読み書きそろばん」能力は衰退の一途をたどっていることを思い知らされます。


 整理しながら若林さんは「こんなモノが出てきました」と面白いモノをピックアップしてくれます。

今日は、「東京市神田錦町 井上製車店」から明治43年5月11日の消印で「杉浦醫院様」宛の封書でした。中には井上国太郎店主からの直筆手紙と「人力車製造仕様書」がありました。

 健造先生の人力車購入希望に井上国太郎店主が「一金 三七円五拾銭也」で「右之通り製造」と見積した仕様書には、箱や泥除けの寸法と塗りは極上、車輪のスポーク数十八本、幌の構造や内装の色は紺で生地は絹等々細かく仕様が記載され、「外に金弐円四拾六銭 甲府マデ運賃」と但し書きもあります。

 店主の私信には、「バネの採用で乗り心地が良くなっている」ことなどと「大輪 鷹ノ羽」「蛇ノ目 鷹ノ羽」と図入りで、車輪の真ん中のスポークが集まる部分と折りたたみ幌の蛇の目には、杉浦家の家紋である「鷹ノ羽」を装着する旨も書かれていますから、オプション仕様の人力車であることが分かります。


 純子さんが「祖父の時代の正月の医師会の集まりは、何時も甲府の積翠寺温泉で、県内のお医者さんが人力車に乗って集まったそうですが、甲府駅から武田神社までも登り坂ですが、そこから積翠寺はもっと急になりますから、乗ってる医者はいいですが、曳く車夫の方は大変でした。それでも皆さん競争のように曳いて登ったそうですよ」と話してくれたのを思い出します。

 馬車の馬よりも人間の労働コストのほうが、はるかに安かったと云う理由もあって、明治時代急速に人気の交通手段になったと云う人力車は、車夫あっての車ですから、わざわざ甲府の山の中まで曳かせなくても…と思いますが、車夫は普段から足腰を鍛え、「この日のために」と一気に登り切るハレの場だったのかもしれません。

2014年7月7日月曜日

 杉浦醫院四方山話―349『増村保造監督特集』

 山梨県甲府市出身の映画監督・増村保造は、1986年(昭和61年)11月に62歳で亡くなりました。

 

年齢からするとまだ若く惜しまれますが、東京大学法学部で同級生だった三島由紀夫は、1975年(昭和45年)11月に45歳で自戒していますから、二人に共通した美意識は、老いて丸くなると云った馬齢を重ねるよりも強靭な創造欲を完全燃焼させて逝くことにあったのではないでしょうか。

煙草が付きものの増村保造の写真は、「紫煙文化」を体現しているようで、現在となっては貴重ですらあります。

 

 その増村保造監督のフィルム作品全57作をこの夏、京橋フィルムセンターと呼んでいた東京国立近代美術館フィルムセンターが、一挙に上映していることを知りました。

 

 増村保造は、大映の監督として看板女優だった若尾文子の美しさと魅力を最大限引き出した作品から友人の三島由紀夫を役者として徹底的にしごいて創った「からっかぜ野郎」など日本の近代映画史上欠かせない名監督として語り継がれてきましたが、その増村作品が陽の目を見る機会ですから、今年の夏休みが一挙に楽しくなりました。


 増村作品の面白さや斬新さについては、ネット上でも書籍でも読めますので、興味のある方は是非お読みいただくとして、極私的な「増村保造論」を記しておきたいと思います。


 映画作品は、監督と俳優の織り成す映像文化でもありますが、増村保造監督の作品は、その主演俳優の存在感と魅力で圧倒させる作品ばかりと云っても過言ではありません。これは、絵画のジャンルで云えば「浮世絵」と重なります。

  例えば、葛飾北斎はいかに富士を効果的に画面に取り入れ、どのように描くかを長い間研究して、「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師ですが、北斎が書き溜めてきた富士のスケッチには、西洋画で用いられる遠近法を活用したり、モチーフである富士を画面いっぱいに描いたかと思えば、逆に遠景に配したりというメリハリの利いた構図や建物の柱などを生かした大胆な表現、そして何より描かれた人々の生き生きとした姿など増村作品とダブります。

 

  北斎の富士は、増村の若尾文子でもあり、自身でも気づかない若尾文子をカメラを通して暴き出したような作品群は、「赤い天使」から「妻は告白する」「夫が見た」「卍(まんじ)」「刺青」へと連続して、若尾文子の新たな魅力を生み出しました。若尾文子の顔の大胆なアップから、その美しさに潜む怖いほどの魔性をも表象する表現技法とそれを倍増させる構図など、私は「増村監督は映像の浮世絵師である」と、若かりし頃「映画芸術」誌に投稿しました。

 

同時に、真ん中に大きく役者を描いた浮世絵の役者絵を彷彿させるように、増村作品は、若尾文子のみならず「兵隊やくざ」と云えば勝新太郎、「痴人の愛」=安田道代(後の大楠道代)、「第二の性」=緒形拳、「黒の試走車」=田宮二郎、「遊び」=関根恵子(後の高橋恵子)と云った具合に作品名と主演俳優がしっかりリンクして記憶されてしまうのも特徴です。それだけインパクトのある演技力とカメラワークを要求しての撮影を徹底した結果でしょう。


 見落とした渥美マリの「でんきくらげ」と浅丘ルリ子の「女体」を始め、シルバー割引310円で、あの大スクリーンで、フィルム映像の増村作品に再会できるという喜びで、ついつい饒舌になりましたが、「黒沢明作品の脚本家・菊島隆三と増村保造は、甲府盆地が生んだ日本映画の巨星である」に免じて、ご勘弁ください。

 

2014年7月3日木曜日

杉浦醫院四方山話―348『帛紗(ふくさ)』

 「今では、結納も略式になったり、結納無しも多いようですが、私たちの時代では結納に欠かせない帛紗(ふくさ)は、どこの家にもありましたが、こんな立派な帛紗は、矢張り杉浦先生の所は違いますね」と、柳沢さんが解説してくれた「立派な帛紗(ふくさ)」は、ご覧のとおりです。

 

   婚姻により、両家が親族となる「結」びを祝い、贈り物を「納」め合う儀式を「結納」と云いますが、男性から女性へ、と云うより男性家から女性家へ、帯や着物地などに鰹節やスルメなどの縁起物を添えて納めるのが一般的だったようです。現代では、帯や着物の代わりに結納金を贈るようですが、これも家と家の結びつきよりも個人と個人の結びを重視する時代の流れでしょう。                                    

写真の杉浦家帛紗は、結納品の上に掛けて納める為に使われたものです。ですから、帛紗は、もとは贈り物を届けるとき、その道中で日除けやチリで汚れるのを避けるためのホコリよけだったようで、まあ別格の風呂敷といったところでしょうか。

 

江戸時代になると競って立派な物が作られるようになり、元禄の頃には裏も付けて、最高の裂で作られるようになりました。当初は覆いキレとして使われていた帛紗も贈り物が形式化し、盛んになると美的要素を加味した差別化が図られ、贈り主の心が伝わるよう様々な絵柄の帛紗が次々に作られました。

 

 杉浦家の帛紗は、写真のように三越呉服店の三番頭稲垣氏が納めた物であることが包み紙からわかります。三越が、「三越呉服店」と称していたのは1927年(昭和2年)までですから、明治もしくは大正時代のものと考えられます。健造先生と三郎先生は多くの仲人をつとめられたそうですから、結納に使うというより慶事に杉浦家からの贈り物に使われた帛紗のようです。

 図柄も「鶴は千年、亀は万年」の鶴・亀が、「円満に」と云うことでしょう丸く円形に描かれています。純子さんは「こんな田舎ですから、お帛紗の下は、お米やお餅が多かったですよ」と笑っていますが、御餅の上に掛けられたこの帛紗で「メデタシメデタシ」感も倍増したことでしょう。