2016年4月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―474 『日本住血吸虫発見の記念碑―地方関連碑2-』

 日本住血吸虫症の解明は、1897年(明治30年)の杉山なか女の解剖で新たな寄生虫の卵が発見されたことから、この虫卵を産む虫体の発見へと進みました。

 

 7年後の1904年(明治37年)4月9日に、岡山大学医学部の前身である岡山医学専門学校の桂田富士郎教授は、流行地甲府盆地の開業医・三神三朗医師の協力を得て感染したネコを解剖し、臓器を岡山に持ち帰り、5月26日にその門脈内から新しい寄生虫を発見しました。

 また肝組織内に患者の糞便に見られたものと同一の虫卵も発見し、さらに7月に再び三神氏宅でネコを解剖し、門脈から多数の雌雄異体の吸虫を検出しました。この虫体は、世界で初めて日本で発見したことから、桂田氏と三神氏は「日本住血吸虫」(Schistosoma japonicum )と命名し、世界の学会で認められました。

 

  世界には多数の寄生虫が存在しますが、住血吸虫は、「日本住血吸虫」と「マンソン住血吸虫」、「ビルハルツ住血吸虫症」の3種類が主なものです。

「マンソン住血吸虫」と「ビルハルツ住血吸虫症」の名前は、それぞれ発見者のイギリス人マンソン氏とドイツ人ビルハルツ氏の名がそのまま虫体の名前になっていますが、桂田氏と三神氏は、敢えて、自分の名を残すことを避けたそうですから、二人はその辺の価値観や感覚、センスも共通していたことから意気投合して、共同研究を進めたのでしょう。


 そんな二人ですから、この偉業を顕彰していくにふさわしい記念碑等の存在も不明ですが、現甲府市大里町にある「三神医院」に隣接する旧三神医院敷地内には、三神三朗氏の息子・寿氏が三朗氏の死後、1955年(昭和30年)に建てた「日本住血吸虫発見の記念碑」が、控えめに建っています。



明治三十七年七月三十日 此の地に於て始めて日本住血吸虫が発見された。三神三朗


 ご覧の様に小さな碑文を庭石に埋め込んだ質素な記念碑ですが、碑文の必要最小限の簡潔さが、桂田氏と三神氏の人徳を象徴しているようです。

この記念碑と三神三朗氏については、当ブログの253 『三神三朗氏ー1』から257 『三神三朗氏ー5』もご参照ください。 

2016年4月25日月曜日

杉浦醫院四方山話―473 『杉山なか女の碑ー地方関連碑1-』

 これまでも遠路来館いただいた方から「山梨県内で他にもこの病気の施設はありますか?」と尋ねられたこともありましたが、「ダーク・ツーリズム」の具体化を構想していくと山梨県内の地方病関連碑についての紹介は欠かせません。

 

 先ずは、虫卵発見につながった「杉山仲女之碑」をご紹介します。

この碑は「紀徳碑」と銘打たれていますが、甲府市向町の盛岩寺境内にあります。

建設者は、なか女の主治医であった吉岡順作氏が所属していた東八代郡医会で、明治43年6月建立ですから明治30年に亡くなったなか女の死後15年後になります。

  
 

縦書きの碑文は、全て漢字 で以下の文が彫られています。

 

紀徳碑

紀徳碑何為而建也念賢婦杉山氏之徳而建也杉山氏名仲甲斐国西山梨

郡清田村人為人貞淑而動敏其夫日武七業農民助之乗相従事畝間程好

不怠治家訓子女亦可観甲州有奇疾称地方病病原不良医亦来手

患之者多姥死民亦罷之嗣子源士口看護療養九三葛袋詳及疾篤其族嘱

之日五口不幸臥尊命在旦夕闇斯病不流行地州而独禍我郷国然未能明其

病原是可憾也吾死之後母以供仏語経為特解剖屍体以資病理研究之用

此事而遂功吾願足交言畢遂不起実明治三十年六月某日也享年四十有

凡東八代郡同盟医会従其遺言於成田岩寺銭域設壇操万制其屍啓斯病研

究之端爾来刀圭家研鎖十五年而始有日本住血吸虫病之創見馬顧在当

時弱者戟張之男児猶且厭忌解体而陛之況於茜裾荊叙繊弱之人其畏怖

果如何也而氏則毅然委其遺体為斯病解屍之鳴矢欲隣斯民於仁寿之域

不賢而能至平此哉頃者吾医会育謀伝遺徳干不朽立碑紀其事系以銘

銘自助夫治家死後体状慈恵愈磐

徳仏不忘

従四位勲三等熊谷喜一郎家額

明治四十五年壬子六月上滑東八代郡同盟医会建之

 

  杉山なか女は、死後の自らの体を解剖して、この奇病の原因究明に役立ててほしいと、献身的に治療にあった吉岡順作氏に申し出たそうです。生前、患者が自ら解剖を申し出ることは皆無だった時代でしたから吉岡医師も涙したそうですが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名とともに提出しました。

 

『死体解剖御願(おんねがい)』

「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」

—死体解剖御願、杉山なか。
明治30年(1897年)5月30日

 

 このは解剖願いを提出した6日後の6月5日になか女は亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺で吉岡医師ら4名の助手を従え解剖が行われました。

 

 杉山なか女の死体解剖は、現代の「献体」にあたるものでしょうが、山梨県では初の病理解剖だったそうですから、ここでも「男より女の方が・・・・」の感を強くします。

2016年4月18日月曜日

杉浦醫院四方山話―472 『桜も散りましたが・・』

 杉浦醫院の庭園は、2月末の梅の花から3・4月にかけて咲いたモクレン・ユキヤナギ・ミツバツツジ・桜も散り新緑の季節を迎えようとしています。

 幼稚園や保育園では、温かくなると屋外で過ごす時間も長くなるのでしょう、先ずは近くのかおり幼稚園の年少組のみなさんが散歩に来て「春になりましたねー」と教えてくれました。

 3月には「ダーク・ツーリズム」でも触れた京王観光のバスツアーの皆さんが3回見えましたが、庭から正面に富士山が見えたのは最終組だけで、花冷えの日になったこともありました。

 ミツバツツジが咲き、桜も5分咲きになると地元・西条新田区のいきがいクラブ主催の「花見会」が開かれました。雨天の場合は公会堂になることから事前に模造紙にちぎり絵の桜も咲かせ、当日は紅白幕も張る気合の入った準備でした。

 いきがいクラブの皆さんには秋の落ち葉の季節に合わせて庭園清掃でもお世話になっていますから、夏に予定している「杉浦醫院・お茶と落語と花火の夕べ」に出演いただく山梨落語研究会代表・紫紺亭円夢師匠に無理を言って、スペシャルゲストとして出演いただき皆さんに漫談をお届けしました。

 

 また、4月3日には「すぎでん・桜まつり」が有志の実行委員会主催で開催されました。若い方は新たな言葉を創造し、オジンには説明を受けないと分からない造語があふれていますが、実行委員の方が作ったチラシには「すぎでん」なる言葉が登場していました。「風土伝承館・杉浦醫院」を「すぎでん」としたのでしょう。どこを組み合わせるかで何通りかの略語が作れるわけですが、確かに音としては「すぎでん」がベストでしょう。

 当館の交流施設「もみじ館」で何回か練習会もしてきた「ウクレレ・ピクニック」のメンバー始め、飛び入りでの楽器演奏や歌唱披露を愉しむ舞台をフリー・マーケットが囲む形での祭りでしたが、正覚寺の桜も満開で、時折舞う桜吹雪も文字通りステージに花を添え、集まった地域の方々にも楽しいひと時となりました。

2016年4月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―471 『宮入慶之助記念館だより 第23号』

 特定非営利活動法人宮入慶之助記念館が定期発行している「宮入慶之助記念館だより」の23号が届きました。毎号、記念館や日本住血吸虫症、ミヤイリ貝に関係する記事で構成されていますが、今号には巨摩共立病院名誉院長の加茂悦爾先生の原稿が載っています。
  限られた字数の中でしょうが、先生の研究生活とこの病気との係わりや今は無き「山梨医学研究所」の歴史など書き残しておかないと消えてしまう内容ですので、全文を転載します。
 

 『日本住血吸虫宮入貝感染実験当時の思い出』  

巨摩共立病院名誉院長 加茂悦爾

 

 私は昭和31年に信州大学を卒業、昭和32年に山梨県立病院第一内科に勤務しました。

当時の肝硬変末期患者の治療法は、腹水除去のみでした。

巨摩共立病院は、甲府盆地西側の南アルプス市桃園に所在します。ここに私が来て間もない昭和42年に、山梨県で「地方病(日本住血吸虫症)の神様」と言われていた杉浦三郎博士との出会いがありました。同先生から「今までの仕事をまとめて学位を取りなさい」と勧められました。

 

 私は故郷で開業医になるつもりでいたので学位取得は念頭にありませんでしたが、卒業後十年にして母校の病理学教室の研究生になりました。

そして、毎週金曜日に大学に通い「日本住血吸虫性肝硬変は自己免疫疾患か?」という仮定のもと、数年間の動物実験に携わる事になりました。

それには、寄生虫学と順応生化学両教室の絶大なご支援を頂きました。

 

 巨摩共立病院は職員数約千名の公益法人山梨勤労者医療協会の一病院で、そこの旧伝染病棟を改築して本県における難病解明のために「山梨医学研究所」が昭和52年に開設されました。

その目的は、本県で高死亡率の肝硬変・肝がんは日本住血吸虫やブドウ酒に起因するのではないかを、更にリュウマチの病因も解明する事にありました。

 

 草野信男元東大病理学教授を所長とするこの研究所は病理・生化学・寄生虫の三部門から成り、二台の電子顕微鏡や冷暖房完備の動物飼育室などがありました。

私は研究所前庭の一角に宮入貝飼育池を設置し県予防課地方病科の米山係長の協力や研究所職員数名の協力により集めて来た貝をその池で飼っていました。

 

 私が急性日本住血吸虫症患者を診察したのは、昭和38年が最初にして最後でした。昭和40年ごろから本県における検便の虫卵検出率は激減し、本症の診断には皮内反応と直腸生研が不可欠となりました。

学位取得後も私の研究は続き、諸種の実験動物を飼育しました。宮入貝感染法、皮内反応試薬の作成、COP検査などには、国立予防衛生研究所や山梨県立衛生研究所の大きな協力をいただきました。

 

 残念ながらこの法人は、昭和58年に130億円の債務超過をもって倒産し、研究所は閉鎖され、私の研究生活は終わりました。

診療生活に移って14年後の平成7年に、債務は7千人の債権者に全額返済され、その翌年に私は退職しました。

 

 私自身にとって実体顕微鏡下に観察し得た宮入貝感染状況は驚きであり、これを8mm映画に撮って置きました。このフィルムは昨年2月に私が宮入慶之助記念館を訪問したことが機会となり、映像とともに説明を加えてデジタル化されたDVDとして生き返りました。

いくつかの大学で学生の教育や一般講演にも使われているようです。

多くの方々に喜ばれたことは、偶然の事とは言え、私の望外の喜びとなりました。

2016年4月6日水曜日

杉浦醫院四方山話―470 『ダーク・ツーリズム-2』

 山梨では昨今「ワイン・ツーリズム」が脚光を浴びていますが、これは以前からあった「ワイナリー巡り」とは違った新たな旅行スタイルで、ワインの原料となるぶどうを育んだ土地を散策しながら、ワイン産地の自然や景観からそこで生活する人々や文化にも眼を向け醸造家とも交流して、自分好みのワインを探していく旅と云ったところでしょう。


 味の講釈より腰を落ち着けてじっくり飲みたい私のような人間にはあまり向かない旅ですが、フットワーク良く歩いて見学したり飲んだりの旅は、確かに単なる酒好きの宴会旅行とは一線を画す新たなスタイルで「若かったら、そんな飲み方も・・」とは思いますが、私には「どうも」です。


 そんな根暗向きの旅という訳ではありませんが「ダーク・ツーリズム」も「ワイン・ツーリズム」同様新たな旅のスタイルとして、もっと拡散していくに値する旅で、ジワリジワリですが広がっている様に思います。

 

 「ダーク・ツーリズム」と云う言葉は、日本では聞きなれないかも知れませんが、欧米では歴史も市民権もある旅の一ジャンルです。

直訳すると「暗い旅」ですから、物見遊山やレジャー志向の旅ではありませんが、例えば「広島の原爆ドームと平和公園は見ておきたい」とか「3・11の実態を自分の眼で確かめたい」と云った思いから旅に出るのが「ダーク・ツーリズム」ですから、何らかの「学習」を内包した旅とも云えますが、正確には「人類の悲しみを承継し、亡くなった方をともに悼む旅」と定義されています。

 

 「ダーク・ツーリズム」の象徴ともなっている「アウシュビッツ強制収容所」は、第二次世界大戦中に、ヒトラーのナチ政権が国家をあげて推進した人種差別政策により、最大級の惨劇が生まれた所ですが、ここでは見せしめの「死」からガス室に送られる「死」、飢餓による「死」、病気による「死」、過酷な労働による「死」など、ありとあらゆる「死」であふれていた日常を目の当たりにする訳で、「人類の悲しみを承継し、亡くなった方をともに悼む旅」に世界中から多くの人々が集まるのは、矢張り人間の尊厳ともいうべき畏敬の念は、普遍的に共通して持ち合わせた感情であることを証明しているのでしょう。


 山梨の風土病であった日本住血吸虫症=地方病も流行終息宣言から20年経つと若い世代からは「地方病って痴呆症のことかと思った」と云う素直な声や感想も聞かれる程、ある意味風化の一途をたどっていますが、山梨の近代と現代を語る上には欠かせない風土病で、多くの方々の命を奪った事実は消えません。

 

 山梨の「ダーク・ツーリズム」コースを構想すると当館は外せない存在になりますが、病だけでなく戦争による死者もいますし、死に限らず現在は姿を消してしまった多くの歴史的遺産などもダーク・ツーリズムを構成しますから、さしずめ当館はその拠点施設ともなりますから、点を線にしていくようなハブ機能も考えていきたいと思います。

2016年4月5日火曜日

杉浦醫院四方山話―469 『ダーク・ツーリズム-1』

 京王観光が主催したバスツアーで3月だけで3回、東京から団体見学として来館いただきました。

 

 今回のツアーを企画して1月に下見に見えたI氏の名刺には「仕入部」とあり、常に新たなスポットを提示して集客を図る旅行会社は「仕入部」と云う部署を設け、担当者はアンテナを高くして「これは!」と思う新スポットを開拓していることを知りました。



 I氏は「3月末に3回予定して、京王線沿線の方を対象に参加者を募ります。ただ最少催行人数に達しなかったらキャンセルになりますが・・・」と話しながらも当館に確かな手応えを掴んだようにも感じました。

まあ、一般的には最少催行人数を少なく設定すると催行中止の確率は低くなる分、参加費は高くなり、逆に多く設定すると参加費は安くなるが、催行中止の可能性が高くなるのでしょうから、この辺の人数設定も旅行会社では過去の経験やデータからはじき出すのでしょう。


 2月に入ると「3回とも参加人数に達しましたから予定通り伺います」と連絡があり、当館の見学は午前中1時間の予定であることが分かりましたから、京王観光に当館製作のDVDを貸し出し、バスの車内で事前に観賞して来館いただくよう図りました。


 到着したバスガイドさんが「笹子トンネルを出てDVDを上映しましたら、昭和インターで丁度終わりピッタリでした」と報告くださいましたが、日本住血吸虫症=地方病についてご存知ない方々が、車中でのDVD観賞で「寄生虫病」であることなどの予備知識を得て見学いただくことで、より興味を持って効率的な見学会になりました。




 

 案内しながら参加者から「DVDを観て私は泣いてしまいました。今日は休暇を取って参加して本当に良かった」と云った感想をいただくなど時間も延長しての見学会は参加者の熱意で有意義なものになりました。


 このツアーは、当館と韮崎の大村美術館をセットにした企画のようですが、当初は話題性から「大村美術館目当ての参加者かな?」とも思いましたが、どっこい当館に興味があってと云う方々から直接声掛けをいただき、「日本人の旅行も時代はダーク・ツーリズムの流れかな?」と実感できたツアーでした。