2010年11月30日火曜日

杉浦醫院四方山話―9 『科学映像館』

 プレ・オープンに合わせて作製した、当館紹介のDVDも好評をいただいていますが、設置した52インチの液晶画面と再生装置を活かすうえでも、地方病関係の映像資料の収集と公開は欠かせません。地方病についての専門アドバイザーをお願いしている梶原徳昭先生から「地方病との闘い」や「人類の名の下に」等の過去の映像フィルムの存在は指摘されていましたが、県立博物館や県立図書館に保存されている16mmフィルムをデジタル化するには、放送局等に委託しなければならず、予算的にも厳しいものがありました。
 山日新聞の連載を機に、マスコミの取材が続きましたが、期せずして読売・朝日の両記者から「科学映像館」の話があり、そのサイトで貴重な科学映像が無料配信されていることを知りました「地方病との闘い」「日本住血吸虫」の2本は、既に配信リストに入っていました。さっそく、科学映像館を運営しているNPO法人に問い合わせると理事長の久米川氏は、唐突な電話での問い合わせにも親切かつ有意義なアドバイスを惜しまず、受話器を通して「人が生きる姿勢と価値」についても学ばせていただきました。
 大学教授を退任後、医学関係の貴重なフィルムの消滅を誰かが食い止めなければという思いから、科学フィルムのデジタル化とそれを配信する「科学映像館」の立ち上げに取り組んだそうです。「パソコンも全く出来なかったけどこれを始める必要から68歳から始めたんですよ」「私は、78歳になります。あなたはまだまだこれからです」と若々しい声で的確な内容を無駄なく語れるのも使命を全うすることへの情熱の発露と頭が下がります。
「インターネットの良いところを利用しての映像館です。3年半で、再生された映像は400万回を越えました。配信している映像も405本になりますが、まだまだI波映画はじめ壁があって配信できない映像もたくさんあります」「営利目的のNPOの壁や文化庁の壁も高いです」とご苦労をさりげなく客観的に話せるのも久米川氏の人格が醸しだす品性だろうと我が身を省みました。
 志の高い人や組織に出会えるのもインターネットの可能性の一つだと実感しましたが、配信映像も「医学・医療」関係に限らず 、「芸術・祭り・神事」や「自然」「動物」など10以上のカテゴリーを網羅しています。「中国、韓国からのアクセスも非常に多い」という科学映像館。梶原先生も「知らなかった」ということで、四方山話で周知する次第です。

久米川理事長のブログ

*久米川理事長のご協力で、上記の3種類の映像資料が収蔵出来そうです。

杉浦醫院四方山話―8 『ピアノ余話』

 昭和10年前後の「ピアノ」が、どのような位置を占めていたのか・・・「そうだ同じジュンコだ!」と昔、何度も観た映画をDVDで見直しました。新藤兼人脚本、高橋英樹主演の鈴木清順監督作品「けんかえれじい」です。製作したのは、昭和40年代ですが、映画の時代設定は、ちょうど昭和10年。清順監督が、脚本を無視して、どんどんアイデアを盛り込んだ為、新藤兼人氏が「私の脚本ではない」と怒ったと言ういわくつきの作品でもあります。あらためて清順氏の鬼才ぶりと高橋英樹の若くしなやかな肉体、思いを寄せる浅野順子の清廉な美しさ、全てまぶしくモノクロ映画の良さも確認できました。


 この映画で、マドンナ役の浅野順子が通う学校が、ミッションスクールという設定と彼女が家で弾くピアノは欠かせません。大正ロマンを引き継ぐ軟派に背を向け、旧制中学校の伝統的硬派精神を「けんか」を通してユーモラスに描き、「もっと大きなけんか(思想・政治)へ」と旅立たせる幕切れは、あの時代(1970年代)の若者への清順監督の熱いメッセージでもありました。鈴木監督が一番元気だった頃の作品「けんかえれじい」は、杉浦醫院の病院活動全盛期と合致していますので、当時の「ピアノ」の時代背景理解にも面白いかと・・・。

 杉浦醫院応接室には、ピアノと一緒に「ステレオ」もあります。スピーカーと一体型の懐かしいステレオです。中原俊監督のNHKドラマ「松ヶ枝町サーガ」では、このステレオが大切な役を演じています。この作品は、昭和初期の松ヶ枝町の日常を主人公の小学生・ツーちゃんの目を通してのドラマですが、この当時だったら実際に何処にでもありそうな風景や日常的な人間関係が、ノスタルジックかつシビアに描かれています。コーヒーを飲みながらステレオを聴きくという新生活を田舎町に持ち込んだ、岸部一徳演ずる「来たりモン」とそれを好奇心あふれる眼で覗く子どもたちが、杉浦医院のピアノ演奏に集まったFさんたちとダブります。

*2階「座学スペース」で、昭和時代の名作(?)鑑賞教室なども開催出来たらと思っています。

2010年11月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―7 『ピアノ』

 プレ・オープンの日から始まった山日新聞紙上での「杉浦父子の思いを未来につなぐ」連載記事の2回目は、応接室のピアノの前で取材に応じる純子さんの写真と記事でした。
「純子さんのお元気な姿を見てなつかしく、今日にも見学に行きたいのですが・・」といった問い合わから「よくぞ町が残した」や「ただ保存するだけでなく、若い高校生もかかわっていくという試みが素晴らしい」というものまで、あらためて新聞報道の反響の大きさに驚いています。
今にも純子さんが弾く音色が聞こえてきそうなピアノですが、それもそのはず、純子さんとは、75年以上の付き合いにもなります。今上天皇は、昭和8年12月23日生れですが、このピアノは、皇太子誕生の祝賀記念に、日本楽器=YAMAHAが、100台限定で製作したうちの1台です。天皇は「現人神」とされていた時代ですから、皇太子の誕生は、東京中に親王生誕を知らせるサイレンが鳴り、人々は旗や提灯を持って街を行列して祝ったそうです。
ベヒシュタイン社のグランド D280。
蓋を外し上から撮影
 この記念ピアノは、家庭用グランドピアノということで、ホールにあるグランドピアノより小ぶりですが、純子さんの説明では「中はドイツ製、外が漆塗りの日本製、鍵盤は本象牙」という造りです。デザインも鶴の脚をイメージした脚で、足置はガラス製の菊の御紋です。鳳凰が舞う姿を彫った譜面台など大変手の凝ったものです。
「父が、発売と同時に甲府の内藤楽器から買ったものですが、それが大変でした。友人の小野先生が、ピアノを買ったことを聞きつけて、怒鳴り込んできたんです。」「お前は、娘を歌うたいにする気かって。そんな時代だったんですよ」と純子さんは遠くを見るように語ってくれました。
 私の記憶では、昭和30年代の甲府でも、近所でピアノがある家は数軒だったように思います。杉浦3姉妹が、ピアノに向ってお稽古を始めると近隣の子どもたちが応接室東側の窓下に集まり、「背伸びして覗いたもんだ」と近所のFさんが話してくれました。
「車もない時代だから、めずらしピアノの音は、かなり遠くまで聞こえたなあー」と。

*1階応接室に当時のままの「記念ピアノ」があります。

2010年11月16日火曜日

杉浦醫院四方山話―6 『手拭い』

 甲府市古府中町で「奈麻余美文庫」を主宰する植松光宏さんは、本だけでなく“手のぐい”(甲州弁で手ぬぐいの意)の収集家でもあります。山日新聞記事で、植松さんが1930〜50年代に作られた約70点の「手ぬぐい展」を甲府で開催していることを知り、取材に来た山日新聞のA記者に杉浦家の手ぬぐいを植松コレクションに寄進すべく託しました。

「姉さん被り」今の塵除け。後ろから持ってきた端を
上から前に廻して、額の下から差し込んでいると思われる
  手ぬぐいは、現代ではタオルにおされて、脇役の感もしますが、本来は寒暑や塵除け、祭礼における装身具として、頭にかぶる由緒正しい木綿平織りの布です。物のない時代には、汗をぬぐうだけでなくいろんな使い方をされ、縫い合わせて風呂敷や布団にまでなっていました。
 植松さんは、手ぬぐいを文化として楽しんでいるようなので、杉浦家の手ぬぐいも、杉浦家と昭和町の歴史と文化、風土を象徴していますので、純子さんの了解のもと贈りました。

 杉浦家から町に寄贈いただいた手拭いは、3種類あります。純子さんの説明では、「これは、お子様用です」という鶏を描いた手拭いと「手伝いに来てくれた方に配った大人用」が2種類です。この大人用は、2種類とも絵柄は「ホタル」です。白地に紺染めで川と草木を配し、3匹のホタルが黄色く発光しながら舞うシンプルかつ絶妙なデザインの絵柄に「ホタルの里 杉浦」の文字がさりげなく入っています。この文字も「何という書家の字ですか?」と聞いたほど味わい深い字ですが、「これは 母の字です。私は全然ダメですが、母は奇麗な字を書きました」と、必ず自分のことはへりくだる「能ある鷹の爪の隠し過ぎ」が純子さんです。
3種類とも反物で注文してあり、その都度人数分切り分けて渡していました。「うちの手ぬぐいは、ちょっと大きめなので使い勝手が良いと評判でした」と言うとおり、長さが一般的なものよりずっと長めです。子ども用も用意してあったということは、子どもも当時は、一定の年齢になれば労働力として手伝いに来ていたのではないかと思いますが、赤い鶏の絵柄から、豆絞りにもなるので、この地域一帯の子どもの名付け親として、杉浦家が、お祭りなどの折に子どもたちへのプレゼント用に作ったものでしょう。

*大人用2種類の「ホタルの里杉浦」手拭いは、1階洗面室の源氏ホタル紹介コーナーに展示中。

杉浦醫院四方山話―5 『まりつき』


 「そうそう、すっかり忘れていましたが、学校に入る前だったと思います。あそこで、まりつきをした覚えがあります。」と純子さんの明晰な記憶がまた一つ蘇りました。
過日、文化庁文化財参事官(建造部担当)付・主任文化財調査官(登録部門)という長い肩書のK氏が、杉浦醫院の視察に訪れました。杉浦醫院を国の有形登録文化財に申請するにあったての事前視察です。早川町から市川三郷町を経て、昭和町へと、この日県内3件目の視察でした。

ゴムまり以前の手鞠
 「ちょっとコワい感じの人でしたね」と純子さんが言うように体も顔も・・・もみんな大きな人でしたが、その体躯に似合わず「これ、醫院長室あらへん」といった関西弁とのギャップが、面白い人でした。  そのK氏が旧医院内を視察中、醫院長室で足を止め、柱や鴨居に触ったり、懐中電灯を取り出してあれこれ詳細に眺め、出した結論が≪これは、あとから部屋にしたもので、最初は玄関か出入り口だったのでは≫というものでした。≪看護婦室が6畳あるのに醫院長室がこの狭さということはありえない≫≪醫院長は、本や調度品に囲まれた部屋にいるのが一般的。応接室か2階が醫院長室だったと思う≫と云った内容を関西弁で指摘されました。「なるほど」と思いましたが、東西南北全て窓、前庭には、清謂寿碑がそびえ立つ南向きの明るい部屋で、大好きな煙草を愉しむには、もってこいの部屋」と私には思え、疑いもしませんでした。「長女の方に確認しておきます」とその場はやり過ごし、帰った後、純子さんに聞くと「下がコンクリートで、まりつきをしたんだから、確かに最初は醫院長室ではなかった」そうで、調査官K氏の指摘どおりでした。
 「まりつき」もすっかり見かけなくなりましたが、言葉の響きと共に覚えやすくリズミカルな歌がなつかしく「まりつき歌は、<あんたがたどこさ>でしたか?」「私は、てんてんてんまり てんてまりっていう・・」「あっ、<まりと殿様>ですね」といった「まりつき歌」談議になりました。歌いながらゴムまりをつき、最後は、お尻とスカートでまりをおさめて終わる女の子の遊びをチャンバラなぞしながら眺めては「何だか男の遊びは情けねぇーなー」と思った少年時代の思いと女の子へのあこがれをK氏と純子さんが呼び起こしてくれた視察でもありました。

*屋外から基礎をたどっていくと確かに醫院長室の下だけコンクリートタタキ跡が残っています。

2010年11月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―4 『寄生虫列車』

 廃線や消えゆく電車をカメラに収めようという鉄道ファンが話題になっていますが、その「鉄っちゃん」「鉄女」も知らないであろう列車が、かつて甲府駅にありました。人呼んで「寄生虫列車」です。
敗戦後、進駐した占領軍は、RAILWAY TRANSPORTATION OFFICEという名前の鉄道運輸司令部を置き、占領軍専用列車とダイヤを組み、将兵たちは公用、私用でこれを使って日本国内を移動していました。すし詰めの買い出し列車や窓の破れた電車で圧死者も相次いでいたのが当時の日本の鉄道状況ですから、日本人を尻目に「優雅」で「快適」な移動も勝者の常だったのでしょう。
 
この「寄生虫列車」は、杉浦醫院なくして甲府駅に常駐することはなかった列車です。
寝台車、食堂車、サロン車はもとより研究室車両や事務室車両からなる「長い列車だった」といいます。フィリッピンなどを占領したアメリカの将兵が、現地で寄生虫の感染症に悩まされていたことから、進駐軍は、アメリカの医者や研究者を杉浦医院で研修させ、日本住血吸虫症などの寄生虫病の研究をこの列車内で行ったのでした。
進駐軍鉄道運輸司令部が、研究用に特別列車を仕立て、甲府駅に常駐させて、地方病研究の先駆者杉浦健造・三郎父子の杉浦医院に指導を乞うたのです。目的に応じて、移動も寝泊まりも食事も研究も・・「快適」にできる自前の施設を列車で造り、必要期間、駅に常駐させたというアメリカ合理主義の象徴的な列車ですが、甲府を始め、全国の主要な都市は、空襲で焼け野原だったわけで、満足なホテルや旅館もないことからすれば、素早い対応策でもあり、これも勝者の「余裕」といった感じです。
 この「寄生虫列車」での研究には、杉浦三郎氏の三女・三和子さんや山梨県立医学研究所の飯島利彦氏、慶応大学の大島ゆりさんらも加わり、日米の共同研究で大きな成果を残し、地方病終息へ大きく貢献しました。
西条新田からこの「寄生虫列車」に通っていた三和子さんは、「食堂車では、スープや洋食のハイカラな食事を食べていたようです」と姉の純子さんが楽しそうに思い出していました。

*飯島利彦著「ミヤイリガイ」(昭和40年山梨寄生虫予防会刊)が2階展示コーナーにあります。
*「寄生虫列車」の詳細を記録した宇野善康著「イノベーション開発・普及過程」も展示中。

杉浦醫院四方山話―3 『進駐軍』

 平成15年度の昭和町タイムリー講座は『歴史家・色川大吉氏が昭和で語りおろす=日記・自分史でひもとく現代史連続講座=全8回』でした。
アメリカが、イラン・イラク戦争後のイラン国内での反米運動の盛り上がりに手を焼いていた時でした。
色川先生は、「現在のアメリカには、ベトナムでもイランでも終戦後までを見通しての余裕がない。
東西ドイツや南北朝鮮のように分断されなかった日本の戦後は、アメリカが、こんなところまでという位、ち密な情報収集と降伏後の日本の統治政策を研究していたことにつきる」と指摘していたのを思い出しました。
ッカーサー最高司令官を訪問した昭和天皇
1945年(昭和20年)9月27撮影
 左の写真は、終戦の年の9月27日に昭和天皇が、マッカーサーを訪問した時のものです。これよりちょうど1カ月前の8月27日、米軍所属の医学者マクマレン・ライト・オリバーの3博士が昭和町の杉浦医院に三郎博士を訪問して、寄生虫病の治療・予防についての指導を要請しているのです。8月15日の終戦の日から、わずか12日後のことです。
 当然、「徹底抗戦」を唱える日本軍も各地に残留し、一般国民も「鬼畜米英」のマインドコントロール下、米軍の進駐を不安に思っていた極めて不安定な情勢の中での訪問は、色川先生の指摘どおり、終戦前からの周到な調査と準備により、計画されていた訪問だったのでしょう。 この訪問を機に東京に本部を置く進駐軍の「406医学総合研究所」と杉浦医院の共同研究や研修医の受け入れが始まり、杉浦医院には、アメリカ人医師が入れ替わりで泊まり込み、三郎先生から治療法を学んでいったのです。
 現在も医院玄関左側には「英字看板」が残り、アメリカ人研修医受け入れのために改装した1階北側のタイル張りの「洗面所」が、当時の面影を残しています。
 この杉浦医院で学んだアメリカ人医師が、後に家族を連れて杉浦家を訪問したり、手紙や写真の交換など、家族ぐるみの交流が続いていました。杉浦家は、戦後の日米友好を築いた民間国際交流の草分け的存在といっても過言ではありません。

*杉浦家に贈られた「406医学総合研究所」の法被が、1階展示コーナーにあります。
*杉浦家に届いた数多くの「エア・メール」も展示中です。