2015年6月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―428『林正高著・寄生虫との百年戦争』2

 15年前の2000年2月に発行された林先生の「寄生虫との百年戦争」には、先生だからこそ知りえた幾つもの貴重な「証言」や興味深く考えさせられる「話」が詰まっています。



 一例をあげると、「日本住血吸虫症」の病因解明から終息までの歴史で原点となっているのは、自分の死後、解剖して原因究明に役立てて欲しいと申し出た当時54歳の農婦・杉山なかの「献体」です。開腹手術の事例も無い1897年(明治30年)5月のことですから、当時としては驚異的な申し出だったことが語り継がれてきました。

 

 杉山なかが出したと云う「死体解剖願」の文面は、下記の通りです。

 

死体解剖御願
西山梨郡清田村第弐百拾六番
戸主 杉山源吉養母
杉山なか
当五拾四年
 私儀太平ナル御代ニ生存スルコト已ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病ニ罹り悩ムコト甚シ、依ツテ早速ニ某医ヲ迎ヘ診ヲ乞ヒタルニ病名サヘ指示セザルヲ以テ其后又二三某医ヲ乞ヒタルニ是又前同様莫トシテ一ツモソノ要領ヲ得ズ、遂ニ荏苒時日ヲ経過シ同年十一月ニ至ルニ病勢ハ漸々増進スルノミニテ毫モ減退セザル故最后諦メノ為同月下旬貴院ノ温厚篤実ナル御診察ヲ仰ギ充分ナル御鑑定ヲ得タルニ豈図ンヤ当地ノ近傍有名ナル地方病ニシテ未ダ病原ノ発見セダル最モ恐ルベキ疾病ナリ、是迄数多ノ該患者発見スルモ病原不明ノ為十中八、九ハ鬼籍ニ転ヅルノ不幸ニ接シタリト、妾事モ発病臥床最早殆ト一ケ年間ノ敷ニ及ブモ素ヨリ病原不明不治ノ病ナルヲ以テ如何ニ先生ノ百方御尽力且ツ御治療ヲ受クルモ日々衰弱ヲ増進スルノミニシテ到底恢復ノ見込無キハ勿論不日死亡ノ不幸ニ陥ルハ目前ナルヲ以テ、死后ハ是共貴院ニ於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病ニ罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠ニ妾ノ寸志ヲ遺保セランコトヲ懇願至候。依ツテ本日ヲ以ツテ戸主夫幷ニ親属〔ママ〕立会連署ノ上御願申上候也。
明治三十年五月三十日
右戸主 杉 山 源 吉
右夫 杉 山 武 七
右本人 杉 山 な か
右親属(原文ママ) 向 山 太 平
右親属(原文ママ) 戸 沢 近 太 郎 



 この「解剖願」に疑問を持ったのが当時NHK甲府放送局のチーフアナウンサー末利光氏だったそうです。

 それは、上記の書面は大変知的であることと毛筆の筆跡も立派だったことから、末氏は、≪一農婦に、このような文章と文字が本当に書けるのだろうか≫と考え、≪これは医学関係者、彼女の主治医であった吉岡順作が書いたものではないか≫として、解剖願の写しを持って当時、東京に住んでいた吉岡順作の長男・良雄氏を訪ね、≪これはお父さん(順作)の文字でしょうかと伺った。しばらく迷った後で、「間違いなく父の書体、筆跡です」との答えでした。そこから、この書面は、当時の主治医がシストの病因を究明するため、杉山なかの死体を解剖したのだということが、末利光氏によってあきらかにされたわけです。≫と記しています。

 

  そして、林先生は≪この事実は当時、この地方で患者も医師も、また住民もみんな一体となって、本病の原因発見にいかに一生懸命であったかを物語る一つのエピソードとして貴重であります。≫と結んでいます。



 15年前、本書で末氏が解明したこの事実を林先生が公表したことから、現在はこの「解剖願」は、林先生の本意にも沿って、下記のように記述されているのが一般的です。


吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることはめったにないことであり[58]あまりのことに涙した吉岡であったが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院(現:山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)を親族の署名とともに提出した。献体の申し出を受けた県病院第6代院長下平用彩と県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた
なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下[† 10]、杉山家の菩提寺である盛岩寺(せいがんじ、現:甲府市向町、地図)の境内、吉岡ら4名の助手を従え解剖が行われた[64][65]
                                             =地方病(日本住血吸虫症)・ウィキペディア=より転載

尚、水色の背景色は当方で加えました。

2015年6月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―427『林正高著・寄生虫との百年戦争』1

 林正高先生から毎日新聞社刊行の著書「寄生虫との百年戦争」とNHK教育テレビに出演された映像資料を新たにご寄贈いただきました。VHSテープの映像資料は、DVD変換を依頼しましたが、テープにカビが発生しているためテープ洗浄が必要で時間がかかっていますが、仕上がり次第映像の内容等ご紹介します。

 

 先ずは、腰巻には大きく「1億2000万人を救いたい!」とある「寄生虫との百年戦争」について報告します。

  「1億2000万人を救いたい!」は、林先生の執筆動機でもありましょうが、執筆を勧めた毎日新聞社の担当者の思いでもあるのでしょう。


 この「1億2000万人」という数字は、日本で終息した「日本住血吸虫症」の患者が、1985年現在、全世界には未だ1億2000万人もいるとWHOが発表している数字です。

 山梨での終息後、林先生はフィリピンに蔓延していた日本住血吸虫症の患者を救う活動を24年間続けてきましたが、この本はその活動の詳細記録でもあります。

 

林先生は、前半の10年間は政府開発援助=ODAの専門医としてフィリッピンに赴き現地で治療や指導に当たり、後半の14年間は、非政府組織=NGO「地方病に挑む会」を林先生が立ち上げ、先生の知識と技術を現地の医者に伝えたり、多くの患者の命を救ってきた治療薬購入の募金活動について記していますが、同時になぜ林先生がこの活動をするようになったのか?先生の価値観を育んだ生い立ちから日本での地方病終息の歴史についても知ることが出来ます。



 今回は、その「日本での地方病終息の歴史」について、林先生の鋭い視点をご紹介します。

 「日本住血吸虫症」の学名は、世界で初めて病気の原因が寄生虫によるものだと云うことを1904年に桂田富士郎博士と三神三朗氏が現甲府市大里町の三神医院で虫体を発見して証明した事によりますが、これは一面では「富国強兵政策がシスト対策を促進した」と、林先生は看破しています。

≪当時の日本は、日清戦争、日露戦争に向けて「強い兵隊」を作らなければならない事情にあり、この病気の影響が大きな問題となりました。その原因を突き止めるようにと、軍部から時の県令、知事に報告されたこともあって、この奇病の発見に弾みがつくことになったのです。≫と。



 また、1913年(大正2年)のミヤイリガイ発見後、着々と進められたミヤイリガイ絶滅の官民挙げての諸施策や1931年(昭和6年)の寄生虫予防法の制定、1938年(昭和13年)からの土水路のコンクリート化で減少を辿った地方病も

≪太平洋戦争中と敗戦後には手がつけられずに、中断しました。この約6年間くらいの中断によってシストは、また、まんえんしてしまいました。ぶりかえしたのは、戦争中から敗戦直後です。戦後にはシスト患者が史上一番増えた、と言われております。≫と、戦争が地方病終息にストップをかけ、敗戦による混乱が患者を増大させた事を指摘して、「戦争」状態に入ることは、国民の生活や命は二の次にされると云う真実が、地方病と云う具体的な事例を通しても統計的に明らかにしています。


 この後、進駐してきたマッカーサー占領軍の衛生班406部隊が甲府に9年間常駐し、「人類の名においてこの病を終息させよう」と取り組んだ結果が、終息に拍車をかけた歴史も記されていて、シスト発見から終息まで「戦争」が大きく関与していた歴史を林先生は静かな文体で教えてくれました。


*この本で、林先生は「日本住血吸虫症」と寄生虫「住血吸虫」を合わせて「シスト」と表現しています。

2015年6月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―426『今年のホタル・来年のホタル』

 今年の昭和町の源氏ホタルは、5月に入ると中旬前から舞い始めました。

 

 愛護会では5月下旬から6月初めが今年のピークと予想し、5月27日に杉浦醫院ホタル観賞会、6月2日を昭和町ホタル夜会と総会で決めましたが、人間が決めたとおりにいかないのが自然相手の難しいところであり、面白いところでもあります。

そんな訳で、今年の両イベントはホタル賞会が相応しい内容になりました。

 

 杉浦醫院ホタル観賞会では、昭和町の和太鼓サークル「笑和太鼓」のみなさんに暗くなるまで演奏していただき、ご覧のように多くの方々が約1時間、和太鼓を堪能しました。

 笑和太鼓は、昭和町の和太鼓グループですから、オリジナル曲に「蛍」が多いのが特徴です。

 基本曲「ホタル」で姿勢やバチさばき、リズムを練習し、4段打ちは「舞うホタル」、景気付けには「昭和町ホタルばやし」、乱舞するホタルをイメージした桶太鼓による「祭りホタル」等々、作曲・作調は、全て指導者の「太鼓バカ」こと鈴木孝長氏です。

 「バカの一徹」を意識してかどうかは知りませんが、「太鼓バカです」と自称してはばからない鈴木氏は、静岡県富士宮市から昭和に来て、既に15年近くなるでしょう。その間、昭和町の子どもから大人まで延べ人数では相当数の方々が和太鼓に励む姿を観てきました。

 

 笑和太鼓のメンバーは、現在も週4日の練習を行っていますから、スポーツの練習と同じ感覚でしょう。

まあ、指導者は「太鼓バカ」ですから、毎日でもいいのでしょうが、一つの稽古事に週4日放課後等に参加することを継続するのは、本人のみならず保護者にも大きな負担でしょうから、その辺の覚悟や強い意志が要求されます。



 その練習を繰り返してきたからこそ「日本一」の栄冠にも輝いた実績もあるのでしょう。そういう意味でも「太鼓バカ」に任せれば、聴いた方々に「感動」を呼び起こす演奏をしてくれるという事が、この10年の付き合いで、私には確信になっています。 

 とかく常識的なバランス感覚が、少数者やグループに対して、周囲と同じように行動するよう暗黙のうちに強制する「同調圧力」として働いているのが現代社会の特徴ですから、「笑和太鼓」も継続していく上では、世間の同調圧力をひしひしと感じてきたことと思います。

笑和太鼓には、「障害者」が「普通」に入っています。同調圧力を跳ね返す力は、そこにこそあるのだと前々から思っていましたが、それを鈴木氏は意識的にやっていないのも「太鼓バカ」の所以でしょう。

 

 まあ、バカ受けの演奏会を全くのボランティアで開催できたのも「太鼓バカ」の指導者としての力量ですが、イベント賞に寄りかからず、来年こそは文字どおりホタル賞がメインになるよう来年のホタルの飼育を14日にNPO楽空のメンバーと始めました。

2015年6月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―425『杉浦 譲と杉浦家』

 過日、甲府市相生にお住いの丸山善仁氏が「杉浦譲とこの杉浦醫院の関係についてお話ししたい」と来館されました。

 丸山氏は、持参された資料を取り出して「杉浦醫院は杉浦譲の分家にあたる家系ですが、その辺は聞いていますか?」と問われました。

「以前、県の方からも聞かれたので、健造先生の頌徳誌でも調べましたが、杉浦譲の記述はありませんでしたし、三郎先生の長女で、謙遜家の純子さんにも尋ねてみましたが、うちの関係にそんな立派な方はいないと思いますよ、という話で、はっきりした関係は分かりませんでした」と、対応しました。


 さて、「杉浦譲とは?」を説明しないと分からない甲州人も多いことでしょう。

 昭和も遠くなりましたから、江戸時代に生まれた明治の人となると大昔と云った感じでしょうか。詳細は、杉浦譲 - Wikipediaをご覧いただくとして、一言で紹介するとしたら「幕末から明治にかけて青雲の志を抱いて甲府から東京に出た杉浦譲は、日本に近代郵便制度を確立した実質的な生みの親」と云った所でしょうか。



 山梨県が、県指定有形文化財である旧山梨県庁舎別館に開設した「山梨近代人物館」の50人の中にも杉浦譲は選定されていますから、近代日本の礎をつくった山梨県人としての功績によるものでしょう。


 

 丸山氏がお住いの相生1丁目の旧名は「二十人町」で、歴史的には徳川幕府甲府勤番の同心二十人の組屋敷が置かれていた所です。

 丸山氏は、県庁在職中から地域の歴史を学び、同じ二十人町出身の杉浦譲について研究を重ね、関連する参考文献も書蔵して、「新時代を役人として駆け抜けた俊才・杉浦譲」という著書も発表している杉浦譲の研究家で、県立博物館にも資料を提供してきたそうです。

 
 

 全5巻の「杉浦譲全集」を読み込み、日記のなかに「譲の父・杉浦七郎右衛門の分家が西条新田の医師・杉浦健造」である旨、記述されているのを発見したそうで、その全集も持参され、付箋のページを開くと上記に繋がる内容の記述が確かにありました。

 
 

 丸山氏は、杉浦譲と生前交友のあった大久保利通、岩倉具視、渋沢栄一などの政財界人から樋口一葉など文化人との関係など細かく調べ「杉浦譲年譜」等々にまとめてありました。上の写真資料も丸山氏がまとめた系図にある杉浦健造と杉浦譲の関係を示すものです。

 
 

 杉浦醫院の家系は、健造先生の頌徳碑建立時にまとめられた「頌徳誌」にありますが、「杉浦譲」との姻戚関係については記されていません。

 実子に拘らず養子を入れてのより優秀な世継ぎが一般的だったのが医者の家系の特徴ですから、杉浦醫院も江戸時代初期から三郎先生まで9代続いた医者の家系には養子縁組も多く、今回の丸山氏の資料から杉浦譲系の分家から杉浦醫院へ養子で入った可能性も高く、正確なところは、頌徳誌とも重ね合わせた緻密な突合せが必要になりますが、純子さんを筆頭に過去をあまり詮索しないのも杉浦醫院の家風のようにも感じます。

2015年6月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』

 林正高先生からご教示いただいた大岡昇平氏の「レイテ戦記」刊行後の「補遺」について、私見を交えて紹介してきましたが、林先生の指摘を古守豊甫氏を介して大岡氏に伝えた作家・井伏鱒二についての貴重な記述がありますから、ご紹介します。


 山梨県立文学館にも井伏鱒二の展示コーナーがあるように井伏鱒二にとって山梨は「第二の故郷」とも云えるのでしょう。

例えば、どちらかと云えば太宰治で有名な御坂峠の「天下茶屋」も基は井伏鱒二の定宿でしたし、戦争中は旧東八代郡甲運村 (現・甲府市和戸町)に疎開して、「甲運亭」の鰻を全国区にしましたが、この時のかかり付け医が古守豊甫氏だったのでしょう。

 また、筆名を「鱒二」とした程の釣り好きですから、山梨では俳人・飯田蛇笏と連れ立っての富士川はじめ山梨でのアユ釣り、ヤマメ釣りのエピソードは、多くの作品にも結実しています。

 

 まあ、「人生即別離」の漢詩を「さよならだけが人生だ」と訳した井伏氏には「山梨より甲州がよく似合う」と云った感じですが、井伏氏の郷里は、片山病と呼ばれた日本住血吸虫病の有病地帯でもあった広島県福山市でしたから、大岡昇平氏の「補遺」にも以下のように記されています。


≪井伏さんは片山病について、随筆風に五枚を書いて下さった。片山病の由来から、甲運病(現在、この地名は消滅し、石和市内の小学校名にしか残っていない。山梨病という)に及ぶ。ー中略ー

井伏さんは昭和19年5月から20年7月まで甲運村に疎開していた。よくよく日虫病に縁があったのである。-中略-

なお井伏氏の随筆は例の如き名文で、私はこの夏、甲府に行ってその報告を書くから、それまでにどこかへ発表してくれ、と頼んだが、氏にはその気はまったくないという。私だけのために書いてくれたのだ。だから私も氏の文章を引用しないわけだが、当節金を貰わずには一字も書かないコピーライター的文士の輩出の中で、風雅な文人気質の例として、感謝をこめて特記しておきたい。



   ここに出てくる「片山病」は「片山貝」と共に周知されていますが、「山梨病」「甲運病」は初見ですが「地方病」と同義であることは分かりますから、林先生も特段「誤記」とはしなかったのでしょう、訂正は入っていません。



 赤字で表示した部分に作家・井伏鱒二の真骨頂が目に浮かぶようですが、これに大岡昇平も「私だけのために書いてくれたのだ。だから私も氏の文章を引用しない」と応える「文人気質」は、「当節」あまりお目にかかれない物書きの哲学が清々しく滲み出ていて、文士の魂の交友を教えられました。

 

 それにしても大岡氏をして「井伏氏の随筆は例の如き名文で・・・」と言わしめた井伏氏の日本住血吸虫病の随筆を是非読んでみたいものですが、井伏氏が発表しなかった以上、大岡昇平全集にも収録されていないでしょうから、「補遺」で明らかにされた井伏鱒二の「幻の随筆」ということになります。



 大岡氏は引用はしなかったものの甲府への取材前に読んだ井伏氏からの五枚の随筆風私信に影響されたのでしょうか、「補遺」も全体的に随筆風で、刊行された「レイテ戦記」の記載もれを後から補い加えると云う意味では、日本住血吸虫病についての具体的な漏れが何で、どう補って何処に追加されるべきかは曖昧で、私でさえ物足りなさを感じます。

 しかし、補遺執筆のために林・小守両医師を甲府に訪ねた大岡氏の見聞や感じたこと考え方は、井伏氏の一文でもお分かりのように一貫していますから、文学のジャンルでもある随筆風になっているのも矢張り文学者なのでしょう。そういう意味では、詠み易くもあり楽しめた「補遺」でした。

2015年6月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―423『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー2』

 林正高先生は、前話で紹介した大岡昇平の『日本住血吸虫ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ』が掲載された中央公論の文献と共に「山梨県医師会報」に連載された有泉信先生の「地方病とレイテ島」のコピーも一緒に送付くださいました。


 有泉先生のこの文献と大岡氏の「補遺」を読み比べることで、有泉先生の医師としての姿勢や正確な記述が、相対的に大岡氏の御歳と「補遺」の祖雑さを浮き彫りにしているように私には読めました。



 それは、大岡氏の「補遺」には、少なくない誤記が散見され、林先生の訂正文字が随所にあることでも分かりますが、中央公論に発表された後、林先生は中央公論編集局長と大岡原稿の誤記の訂正方法について協議したそうですが、結局はそのままになってしまったようで、「大岡氏のためにも残念な一文となりました」と、林先生も悔いています。


 筑摩書房から出ている全24巻「大岡昇平全集」の第23巻は、「雑纂・補遺・資料」ですから、多分、誤記の多い、林先生が悔やむ「大岡氏のためにも残念な一文」が、そのまま収められているのでしょう。



 林先生は大岡氏に、「日本住血吸虫病の濃厚な有病地帯であったレイテ島に昭和19年10月20日に上陸した米軍は、その水田地帯で日本軍と激戦を交えたことで、約1700名の米兵に地方病の感染者を出した」旨、「レイテ戦記」に記述されているが、「米兵にそれだけの感染者が出ているなら日本兵にもかなり出ているはずで、日本兵の感染者に触れていないのはアンバランスではないか?」という指摘を届けました。

それに対して、大岡氏も林先生の指摘を認め「書き落としたままではうまくない。私は7~8月中に甲府へ行って、古守先生、林先生に話をうかがわなければならない、と思った」と、「補遺」執筆に至った経緯も記述されています。



 詳細は、全集または来館いただいてお読みいただけたらと思いますが、この「補遺」発表の翌年、大岡氏は亡くなっていますから、ライフワークともいうべき「レイテ戦記」の完全性を求めて、広辞苑や医学大辞典での下調べのうえ「歩行失調」「難聴」をおして、林先生への取材のため「甲府行き」を敢行した、一種の紀行文のように私には読めました。



 そういう意味でも林先生からご寄贈いただいた「補遺Ⅱ」コピーには、大岡氏の誤記に林先生自らが訂正した正記が入っていますから、全集で誤記のまま読むより、当館の林先生文献で読んだ方が良いでしょうし、何より一緒に有泉信先生の「地方病とレイテ島」を併読することで、より一層正確な「レイテ戦」理解に繋がるものと思います。

 貴重な情報の詰まった文献を送付くださった林正高先生には、重ね重ね厚く御礼申し上げます。