2014年5月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―338 『昭和22年の天皇山梨巡幸』

 杉浦醫院四方山話―166 『皇室フリーク-1』 でも触れましたが、昭和22年の昭和天皇山梨巡幸の新たな写真について、甲府市千塚町にお住いの石原よ志子さんから電話をいただき、お借りすることができました。石原さんは「今年、卒寿になります」と云いますから、90歳ですが、とてもしっかりしたお話に圧倒されてしまいました。



 石原さんは、昭和22年に山梨の警察では初となる女性警察官になり、その年の10月に天皇が山梨に巡幸した際、「お立ち寄り所」の警備を任ぜられたそうです。この写真は、その折に撮影した記念写真で、石原さん宅の居間に飾られていました。

 「ハガキ位の写真を主人が大きくして飾ってくれてたんで、字が読みにくくなってますが・・・」と言いながら一番上が「明治二十二年十月十四日」、次が「天皇陛下御巡幸記念」、下が「玉幡村御立寄所ニテ」と書いてあると説明してくれました。

 「この写真でモーニングを着ているのは、直接陛下に説明した杉浦先生と新海村長さんだけです。まだ、着る物や履物も不足していた戦後間もなくでしたから、軍隊で使ったゲートル巻きの人もいますが、みなさん議員や消防団長など当時の名士の方たちです」

 写真中央が杉浦三郎先生、その左が新海村長で、モーニング姿で手に帽子も見えます。新海村長の左の方が県警の上司で、三郎先生の右後ろの紅一点が、石原よ志子さんです。

 

「ついこの間まで、現人神(あらひとがみ)と崇められていた天皇陛下ですから、何か悪さをしようなんて思う人もいませんでしたね。ですから、この立ち寄り所の警備も、私と上司の二人だけでした」

「杉浦先生が持ってきたミヤイリガイを後ろのテントの中で天皇陛下が顕微鏡で観たようですが、私は天皇陛下にお尻を向けて外を監視していたので何をしたのかは見ていません」

「今から思うとウソのように静かな巡幸でしたよ。もうここに写っている方々も多分みんな亡くなったと思います。私が一番若かったはずですから」

 

ちなみに、天皇の全国巡幸資料によると、山梨巡幸の日程は次のように記されています。   

「山梨」 
昭和22年10月14日 長野県⇒韮崎・巨摩・玉幡村(現竜王町)・甲府・湯村温泉⇒常磐ホテル御宿泊
昭和22年10月15日 常磐ホテル御発輦⇒甲府・酒折村・山梨村・日川村・祝村・御坂峠・下吉田・大月⇒皇居還幸

とあり、初日の「玉幡村」で、三郎先生が有病地帯の水路を案内し、この立ち寄り所のテントで顕微鏡でのミヤイリガイ観察等をした後、宿泊先の湯村・常盤ホテルに向かったことが分かります。

 

 翌日の訪問先も比較的地味ですし、当時の道路事情からすると大変精力的な強行日程であったことも分かり、「なぜこんなにたくさんの場所を回ったのか?」とか「当時、もう常盤ホテルは山梨の迎賓館だったのか?」等々、当時の「天皇巡幸」についてと山梨の訪問先選定理由など知りたいことが次々出てきます。

2014年5月26日月曜日

杉浦醫院四方山話―337 『杉浦醫院ホタル観賞会』

 このところ「真夏日」の予報やニュースが流れ、日中の気温は確かに上がりますが、朝夕は風が吹いたりで、ぐっと気温も下がる日々が続いていました。そんなことから当初の5月25日頃からのホタル成虫の発生予想も遅れるのではないかと気をもんでいましたが、昨夜の観賞会には、多数のギャラリーに応えるように健気なホタルが、池のあちこちで点滅し始め、8時過ぎになると舞い飛ぶホタルも多く、都市化の進む昭和町でのホタル観賞スタートにふさわしい発生状況となりました。

 

 この日に合わせて、NPO法人・南アルプスファームフィールドトリップ主催の2014農業デザインツーリズムで、中央市のいちご園での見学や実習の後、当館を見学しホタル観賞をすると云う団体申し込みもありました。館内をくまなく見学し、二階座敷で、信玄弁当を小笠原流作法に則っていただき、暗くなったら池のホタルを観賞して帰ると云う内容のツアーでしたが、奈良や京都、東京などからの参加者もあり、みなさんも喜んでお帰りになりました。

 

 上記のようにほぼ予想どおり、今年の昭和町のホタルは、今週から来週にかけて発生がピークとなります。昨夜もホタル採集を楽しみに虫かご持参の親子もいましたが、ホタルの成虫は2週間前後と短い「命」ですから、持ち帰っての飼育観察には適しません。

特に当館庭園の池には、ホタルのエサのカワニナも自生し始めましたから、発生したホタルの成虫がこの池の苔などに産卵し、孵化して幼虫となり、大きく育ってまた来年の今頃飛び交うよう、ホタルの自生に向けて取り組んでいますから、舞い飛ぶオスや葉陰で光るメスを持ち帰ると産卵に至らず自生は不可能になります。ホタルの幻想的な光の舞いは、発生した川や池の自然の中で観賞するのが一番ですから、そう云ったホタル観賞の「昭和ルール」と云ったものを観賞者同士でも創り上げていって欲しいものです。

 今晩から、車での庭園内乗り入れとホタルの採集、持ち帰り禁止を前提に6月5日まで、杉浦醫院庭園を夜間ホタル観賞開放いたします。毎晩、ボランティアでホタル発生数の確認と見回りを近所の杉浦精さんやNPO楽空の古屋さんなどが行ってくれていることで、楽しめるホタルの光景でもありますから、皆様のご協力をお願いいたします。

2014年5月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―336 『グルダのベートーベン全集』

 杉浦純子さんが生活する母屋には、純子フリークとでも形容すべき友人・知人が、新旧を問わず訪れ、純子さんとの楽しい会話を楽しんでいます。

 

 お隣の正覚寺ご住職には、お二人のお姉さんがいて、現在はそれぞれ千葉県とウイーンにお住まいです。ウイーン在住のA子さんは、帰国した折には、いつも純子さんを訪ねては旧交を温めてきましたが、今回は、千葉県在住のU子さんとお揃いで当館を見学後、20世紀を代表する名盤・フリードリッヒ・グルダのベートーベンCD全集を純子さんにお土産に持参しての訪問でした。

 A子さん姉妹は、純子さん姉妹や純子さんの姪御さん達が弾く応接室からのピアノ演奏を聴いて育ったことから、音楽に憧れと興味を抱いたそうです。それも格調高いベートーベンやモーツアルトなどクラシックが聴こえてきたので、「私もいつの間にかクラシックファンになって、ウイーンに憧れるようになりました」とA子さん。「純子さんの姪御さんは、特にお上手でしたね」とU子さんの記憶は、弾き手を識別出来るほどですから静聴されたのでしょう。


 そう云えば、毎夕5時になるとお隣からご住職のお勤めが始まり、読経と木魚で「おっ5時か」と時報代りになっていますが、読経の声はかすかですが、木魚の音は締め切った真冬でもしっかり響いてきます。楽器が持つ音量に対抗するには人間の声量は数を頼むしかないのでしょうか、「声明(しょうみょう)」と云う僧侶の大集団が仏典に節をつけて歌う?仏教音楽が人気ですが、5,6人では、大きな葬儀の延長のようで、あの迫力と魅力は出せないように思います。


ピアノ協奏曲全集、ピアノ・ソナタ全集 グルダ、シュタイン&VPO(12CD) 

 A子さんのこのCD12枚のお土産は、グルダが30代の時に集中して一カ月で録音したと云うだけあって、表現の一貫性が高く評価されている名盤ですから、純子さんも「眼は衰えたけど耳はまだ聞こえますから本当にいいものをありがとう」と大喜びで、さっそくテーブル上のCDラジカセにセットしました。

 木魚のリズムも「帰れ、帰れ」と聴こえてくるような無粋な私でも、グルダのベートーベンは、学校で聴かされたベートーヴェンは何だったのかと思うしなやかさで、クラシックをジャズアレンジしたジャック・ルーシュのプレイバッハ同様、何回聴いても新鮮ですからクラッシックの新たなファン獲得に多大な貢献をしたことは間違いないでしょう。

2014年5月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―335 『検索窓新設とIT技能雑感』

 当ブログ「杉浦醫院四方山話」も300話を越え、再読や確認のために2年前、3年前の文章をカテゴリーを頼りに探すことがありますが、書いた本人でも「あれ、こんなジャンルに入れたのか」と戸惑ったり、時間がかかることが多くなりました。

 そんな折、ポスターとカタログ作製で、細かな注文にも気持ちよく対応してくれたS印刷のT営業女史から、「ご提案」をいただきました。      それは、「四方山話の検索がしやすくなるように単語を書き込めば関係する話の一覧が出てくる検索窓を貼りませんか?」と云う内容でした。

 超がつくアナログ人間ですから、Tさんの提案内容も具体的にイメージ出来ず、「費用はどの位かかりますか?」とピント外れな返答をすると「当社のUが担当していますから、無料で出来ます」と・・・

 実は何話かで中野信子と云う固有名詞を使ったらしく、「どういう関係?」と問い合わせがあったのに未だその話が見つからず、気になって数か月が過ぎていましたから、「それは助かりますね」と即答で依頼しました。 すると、間もなく「カテゴリー」の上部に下記の窓が付きました。 

このブログを検索

 そこに、UTYのMデュレクターが取材にみえ、持参した資料を見ながら、日本住血吸虫症のウィキペディアのライターについて問われました。「はいはい、その方は・・・」と余裕で応え、さっそく小窓に「ウィキペディア」を入れてクリックするとお目当ての「180話ウィキペディアライター」が出てきましたから、スムーズに詳細を知らせることが出来ました。ちなみにこの話は、「ボランティア」のカテゴリーに入っていましたから、この小窓が無かったら簡単には探し出せなかったかも知れません。

  そんなわけで、気の利いた「ご提案」をいとも簡単に実行していただいたS印刷の若い女性コンビには、この場を借りて御礼申し上げ、IT人間には常識でもアナログ人間にはまだまだ知らない機能もいっぱいあるのでしょうから、お気づきの「無料ご提案」を「今後ともよろしくお願いします」と、厚顔無恥では負けません。

2014年5月14日水曜日

杉浦醫院四方山話―334 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-3』

 重箱の隅をつつくような綿密さを要求される類のことは、苦手意識が先ず働いて前に進めなくなる癖は重々承知していましたが、この玉籠集も正確な内容を捉えようとすると少ない資料にあたったり、縁者に聞くなど細かな積み重ねが必要になり、手こずります。



 前話に引き続く玉籠集奥付の次ページトップには「道輔・西条新田・杉浦道輔」その下に「大輔・  道輔男」更に「八百代・大輔母」の名前があります。杉浦家5代目杉浦道輔と妻の八百代、その子大輔の3氏の作品が掲載されていますという案内でもあります。


 当164話「風土を伝承するー5」を参照いただくと山本家および杉浦道輔氏の概要がお分かりいただけますが、道輔氏は、「巨摩郡落合邨宗持神社神主矢崎義陳氏の第七子で杉浦家に養子として入った」ことが、杉浦健造先生頌徳誌に記されています。一枚目の写真右下中央に「義幹・落合・矢崎筑前」の名前がありますから、道輔氏の兄弟だった方でしょう。

 

 また、頌徳誌よると、道輔氏は、「後年清韻道人と号し、門人には逸見筋塚川に於いて医業を開始せる三井栄紹の子栄親を始め多数あり」ともあり、一枚目の写真左上に「栄親・塚川・三井将監」の名前があり、頌徳誌の記載どおりです。大輔氏の子が健造先生ですが、1866年生まれですから玉籠集が編まれた当時2歳では流石の健造先生も歌は詠めなかったのでしょう。

 しかし、杉浦健造先生頌徳誌には、健造先生の歌もたくさん収録されていますし、清韻と号した祖父道輔氏を顕彰すべく「清韻先生寿碑」を建立したのも健造先生ですから、医業のみならず幅広い文芸活動を代々この地で継続してきた文化の蓄積が、現在の建造物や庭園、収蔵品に表象されてると言っても過言ではないでしょう。

更に「久紀・西条・野呂瀬源右衛門」隣に「久富・野呂瀬茂右衛門」があり、西条ですからあの野呂瀬さん繋がりだろうと予想出来ます。

 

 こうして観ていくと江戸末期の西条村には玉籠集に掲載された歌人が10人いたことになりますから、西条村は短歌村でもあったと云えます。  同時に江戸末期読み書きができ、歌を詠むと云うのは、神主とか医者などごく限られた方々だったわけで、「田もつくり、詩もつくろう」と農民や庶民が文芸活動に参画するまでには、百年近い年月が必要だったことも分かります。 

2014年5月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―333 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-2』

 写真をクリックしていただきますと拡大して観やすくなりますが、この歌集「玉籠集」奥付にある歌人名簿です。このページ右上に「甲斐」とあり、県内歌人の号もしくは歌名・所在・フルネーム等が一覧になっています。

 昭和町関係では、右下に「忠告・西条・山本摂津守」と「忠徳・西条・山本摂津守」「忠義・西条・山本図書」左下に「為忠・西条・山本玄番」等々の名前が記載されています。この「山本姓」の5名は、町指定文化財・山本忠告の墓の山本一族であることは間違いないでしょうが、直系の三井夫妻に確認していただきました。

 

 すると「一番先にある光章・小河原・加賀美信濃守は忠告の実家で、忠告は、加賀美家から山本家に婿に来たんだ」

「この實啓・鏡中条・斉藤権頭はウチの親戚で、父が神主を辞めた後、この斉藤家が義清神社の神主を引き継いで現在に至っているわけさ」

「ここにある山本は全て忠告からの累代で、忠告から為忠まで5代にも渡っているけどいつ作られた本なの?」

「文久2年、1862年に編まれたとありますが・・・」

「ちょっと、あの累代表があるだろう」で、山本家の系図を拝見することになりました。

 

 

 山本家の系図は、出生年ではなく「神道裁許之年」と没年が記載されています。「神道裁許之年」は、神主になった年と云うことのようですから、忠告は、1764年に神主となり1773年に没しました。ですから、「玉籠集」が編まれた1862年にはすでに他界していたことになります。

その子、義忠は、1771年神主となり1821年に没していますから、やはり他界後になります。

忠徳は、1826年から1872年ですから、「玉籠集」が編まれた1862年当時に晩年を迎えていたことが分かります。

三井夫人の曽祖父・為忠は、1860年から1918年とありますから、1862年当時新進気鋭の歌人として、既に作品を残している可能性も十分あります。

ですから、この「玉籠集」の編集にあたっては、山本忠徳氏が自分の歌に父と祖父の残した作品と子と孫の作品も入れて編んだ結果、山本家の5代の名前が残っているものと思われます。

 

  先の三井氏の指摘のように「玉籠集」に作品を寄せた甲斐関係の方々は、山本家の面々以外にも神職の方が多いようです。そう云えば、現代短歌の大御所・岡野弘彦氏も代々神主の家の生まれで、国学院大学で学んだそうですから、神職の素養や研修には歌詠みも入っていたのでしょう。

2014年5月2日金曜日

杉浦醫院四方山話―332 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-1』

前話の「参河後風土記」十巻と一緒の包みに「玉籠集」上下二巻の和綴じ本がありました。


 「玉籠集」は、「ぎょくろうしゅう」または「たまこもるしゅう」と呼ばれた歌集です。

江戸末期の文久2年(1862年)に飯塚久敏が選者をつとめて、各地の歌人320名の1338首が収録され、上・中・下巻の全三巻の歌集ですが、現在のところ中巻はありません。江戸時代に編まれた短歌集ですが、流れるようなかな書で、1ページに六首と詠者の名前がきっちり納まっています。

 

下巻の巻末には、詠者の所在地とフルネームの一覧が記された奥付もあり、そこから詠んだ歌も検索できるよう工夫されています。この歌集を編んだ飯塚久敏について、「和歌大辞典」には、次のように紹介されています。

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飯塚 久敏∥イイヅカ ヒサトシ  国学者

〔生没年〕 文化6年(1809)~元治2年(1865) 〔享年〕56

 国学者。上野国群馬郡倉賀野宿(現・高崎市)に生まれる。

 江戸に出て橘守部の門に入り、一家をなす。橋本直香・武居世平らと交友した。甲信地方に門人が多かった。和歌に長じ、また地理にも詳しかった。守部の息子で後継者の冬照とは対立し、冬照の編集した「橘守部家集」について安政5年『玉帚』を著わし、その撰を難じた。また文久3年8月、歌集『玉籠集』を上梓。著書は他に『式外神社考』『上野国旧地考』『倭姫世記補註』などがあったが、その多くは散逸した。

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甲信地方に門人が多かった」の記載通り、奥付の詠者一覧には、「京」から始まり「佐渡」まで国々の歌人名が載っていますが、「甲斐」の歌人が際だって多いのが興味をひきますので、次話で、その辺を詳細に紹介いたします。

また、 飯塚久敏は、良寛をいち早く世に紹介した作者としても知られています。

 「いまはむかしゑちごの国に良寛という禅師ありけり。」これは天保14年(1843)、飯塚久敏の著書『橘物語』の書き出しで、良寛の没後12年にして書かれた伝記物語として注目されたそうです。