2014年4月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―331 『参河後風土記(みかわごふどき)』

 杉浦家の母屋には「はて?これは」と云う古いモノやめずらしいモノが押し入れなどに保管されています。今回ご紹介する「後風土記」も紙に包まれて、純子さんの字で「後風土記」と記され、しっかり保管してありました。

 

  ここ「杉浦醫院」は、接頭語として「昭和町風土伝承館」が付いていますから、「後風土記」が所蔵されていたのも何かの縁でしょう。           「後風土記」は、江戸時代編まれた『三河後風土記』ですが、この時代の本は、元本または底本を写した写本が中心ですから、この和綴じの「後風土記」も写本かと思います。

 

 写本は、人間が書き写す訳ですから、その写した人の誤字、脱字や文章が前後してしまったりするのは普通で、写し手の癖によって地名や人名に通常は使われない漢字を当てたり、その人独自の当て字が使われることもあります。この「三河後風土記」でも「三川」とか「参河」と記してある写本もあるようで、杉浦家に残っていた後風土記は、写真のように「参河」で統一された全10巻です。

  一巻目の最初が八幡太郎義家の挿絵と家系図で始まりますから、全45巻と云われた「三河後風土記」の武田氏が関係する部分の10巻かも知れませんが、不勉強で古文書判読が出来ない以上、然るべき方に依頼して解明する必要を痛感します。


 浅学の記憶では、武田家に代々伝わる貴重な家宝は、「み旗」と呼ばれた八幡太郎義家の旗と「楯無し」と呼ばれた鎧で、これも義家の父親・頼義から新羅三郎義光に与えられたもので、武田家はこの二つを神格化して崇拝し、武田家の時の当主が、「み旗、楯無しも照覧あれ。」と言うと、議論はやめて、当主の決断に従うという程、八幡太郎義家あっての武田家だったと云うような話を郷土史家から聞いた記憶による憶測ですから、アテにはなりません。

「アンと花子」の明治時代でも本は庶民には高嶺の花でしたから、江戸時代に本を買えるような家は並みの家でなかったわけで、江戸時代初期から、この地で医業を営んできた杉浦家には、読み書きも含めて本を楽しめる才を持った人が「三河後風土記」で歴史を学び楽しみ、代々読み継がれ、現在まで大事に保管されてきた全10巻であることは確かでしょう。

2014年4月23日水曜日

杉浦醫院四方山話―330 『川蜷(カワニナ)』

 

 ホタルの幼虫飼育に欠かせないカワニナは、ゲンジホタルやヘイケホタルなど水生ホタルのエサとして一般的ですが、肉を食用としている地域もあるそうです。

写真でもお分かりのように昭和町の水路などで見かけるカワニナの殻は黒褐色ですが、これは鉄分の付着によって黒っぽくなるためで、本来の殻は白いそうです。


 昭和町源氏ホタル愛護会では、ゲンジホタルの幼虫を飼育して、3月には、町内の河川などに放流してきましたが、放流先の河川や池にこのカワニナが生息していないとホタルが自生することはできません。例えば、10年近くメイン放流先にしてきた、押原小学校に隣接する押原の杜内のホタル池、ホタル水路では、愛護会員が、カワニナを放流したり、カワニナにエサを与えたりしてきましたが、井戸水が冷たく、水路が短いことから、水温が低くてカワニナは定着できませんでした。

 上の写真は、杉浦醫院庭園の池のカワニナとカワニナが徘徊した軌跡です。カワニナは冬になると水中の土の中にもぐり越冬し、水ぬるむ4月、5月になると土から出て、活発に動き出します。

4年前からこの池にカワニナを放流して、カワニナの生息をうながしてきましたが、今年はご覧のように越冬したカワニナが池の至る所で動き回り、水底の泥をキャンバスに現代美術風の文様を描いています。

一枚目の縦長の写真でもよく観ると泥に残る文様が確認できると思います。

 

 このようにカワニナは、ただ水が清いだけでは生息できず、水温も低すぎず、水底には泥が堆積していたり、エサになる落ち葉も豊富に必要ですから、杉浦醫院の池は、井戸水が適度に浸透して循環していることで水も適温に保たれ、池を囲む木々や水際に育つ多種多様な植物の落ち葉と石のコケや水中の藻などが、カワニナの生息条件を満たしているのでしょう。

カワニナが生息する場所には、ホタルも生息してきましたから、この池はホタルが自生できる条件が整っていることになる・・・・と、人間は勝手に「アーすればコーなる」と思い描くのですが、果たして結果は?・・・・

 

今年度から町内全小学校でも幼虫飼育を始めるそうですから、今夏、杉浦醫院で乱舞する成虫を目の当たりにして、昭和町の象徴・ゲンジホタルが子どもたちにも一層身近な昆虫となってほしいものです。カワニナ自生を頼りにホタル自生に向けての取り組みも試行していきたいと思います。

2014年4月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―329 『中澤年章挿絵』

 当269話・266話・267話等々でご紹介してきた「俺は地方病博士だ」の挿絵がパネルになりましたので、二階の和室に展示しました。


  地方病と呼ばれた日本住血吸虫症は、明治37年に日本住血吸虫が確認され、大正2年に感染経路や中間宿主ミヤイリガイが発見され、地方病の実像、実態が明らかになると予防方法も確立できるようになりました。大正時代に入ると、地方病に対して様々な普及予防活動も行われるようになり、その中で、大正6年5月に発行された小冊子が『俺は地方病博士だ』です。


 この小冊子は、山梨県医師会地方病研究部が地方病の予防普及を目的に小学生に読ませるため、先に募集した説明文に絵画を入れ、絵本にして印刷発行したものです。

 この挿絵を描いたのが、「最後の浮世絵師」と云われた旧田富町出身の中澤年章だと云われています。冊子の奥付に絵・中澤年章と云う記述もありませんから、「年章作ではない」との説もあるようですが、その辺については、266話267話をご参照ください。


 今回、文章部分は割愛して、中澤年章の挿絵だけをA3のパネルに伸ばしましたので、お越しいただいて、最後の浮世絵師・中澤年章の作品をお楽しみください。

2014年4月14日月曜日

杉浦醫院四方山話―328『民具-6 和竿(わざお)』

  魚篭の横に置かれた杉浦精さんのお父さんが愛用した釣竿は、長さが6メートルにもなる和竿で、二分割しなければ撮れません。
竹の釣り竿のことを総称して「和竿」と呼ぶのが一般的のようですが、和竿の正確な定義について、江戸和竿師5代目「東作」を襲名した松本栄一著『和竿事典』(つり人社、昭和41年)によると、「和竿は、日本産の布袋竹、真竹、淡竹、黒竹、矢竹、内竹、丸節、高野竹等を原料竹とする延べ竿と継ぎ竿とを総括して和竿という」とあります。

 これは、「戦後、六角竿の業者が、六角竿を広めるために和竿を丸竿または丸竹竿と呼んだことから、釣具屋でも丸竿と云う名が一般的になり、和竿を製作する竿師まで、この安手な造語「丸竿」を平気で使っているが、そもそも舶来の六角竿は、初め西洋竿と呼ばれ、これに対して日本独自の釣り竿が和竿と呼ばれたのである」と5代目東作は、嘆いています。


 現在は子どもでもグラス竿やカーボン竿にリールを付けての釣りをしていますが、この竹製の和竿が、私たちの少年時代の釣竿で、子どもの釣竿と言えば、釣り堀などで貸し出す一本の竹で出来た「延べ竿」でした。

 「延べ竿」でも長さによって値段も違い、「子どもは自分の背丈の上まで」と釣具屋の親父が言っていましたが、川や池に持ち運ぶわけですから、道理にかなっていました。


  「泰地屋東作」で知られる江戸和竿は、東作がそれまでの「延べ竿」を持ち運びに便利なように短く切って、使う時に継ぎ合せる「継ぎ竿」を製造販売して評判になり、「継ぎ竿」が「江戸和竿」の代名詞となりました。

これは、魚遊びの一道具にすぎなかった釣竿を美術工芸品の域に高めたと言われ、戦後、日本に進駐したアメリカ人は、竹製の継ぎ竿の精巧さと美しさ、実用性に驚き、大量に買い占めたことから、竿師と呼ばれた名人の作品は、大部分アメリカに流出したと言われています。

 

 杉浦さんの和竿もご覧のように8本に分解できる継ぎ竿です。この8本の竿がそれぞれの太さの組み合わせで、すっぽり中に収納でき、3本を竿袋に入れて持ち運ぶことが出来ます。

 順番に挿していくと、「ゆるからず、きつからず」絶妙の位置できっちり繋がり、1本の釣竿として何とも握り心地良く、遠くの深みに生息する川魚を狙いたくなります。

 

「子どもの頃、一度だけ親父と釣りに行ったのを覚えている」と杉浦精さんが言いますから、この竿も60年以上の時を経過したモノでしょうが、十分使える状態で、飴色に燻る竹の渋さが何とも言えません。こういうモノにも目をつけて買いあさったアメリカ人は、思いのほかお目が高い人種なのでしょう・・・・か。

2014年4月13日日曜日

杉浦醫院四方山話―327『民具-5 魚篭(びく)』

 NHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」が人気だそうで、東京在住の同級生たちも故郷の言葉「甲州弁」が懐かしく、「ハマっている」と云ったメールが飛び交っています。日本語は、方言と云う豊かな言語資源に恵まれているのも大きな特徴でしょう。

 「花子とアン」で使われたかどうか、私はドラマを観る機会がありませんので分かりませんが、「あのビクっちょはしわい」とか「あのビクがちょべちょべしやがって」と云った具合に女の子や娘を揶揄する時などに「ビク」もよく使いました。ちなみに前者は「あの娘は生意気だ」、後者は「あの女が調子ずいて・・とか、出しゃばって」と云った感じでしょうか。

この甲州弁「ビク」の語源についも調べてみたいと思いますが、同じ「ビク」の音で「魚篭(びく)」があり、籠やザルと同じく竹で編んだ漁具です。

 
 「資源に乏しい日本」と言われて久しくなりますが、豊かな森林資源や植物資源、水資源などは「資源」の範疇に入っていないのでしょうか?    日本人は、古代から恵まれた草や蔓(つる)、竹や植物の皮などの植物資源を利用して、身近な道具をつくってきました。

 民具ー1で紹介したざるやかごは、すでに縄文時代から存在していたそうで、小泉和子氏の著書『台所道具いまむかし』によれば、かごは「もの入れ」で、ざるは「水切り道具」であるというふうに分類されてきたそうです。

 方言同様、かごやザル、魚篭の材料も、それぞれの土地に育った多種多様な植物が使われ、魚篭やかごを編むのに使われてきたのが、生のときは柔軟で細工がしやすく、乾くと硬く丈夫になる「メゴ笹」という笹だそうです
 笹と竹の違いは、 一般的に背が高いものは竹、低いものが笹で、筍の皮がはがれ落ちる物が竹、ずっとはがれない物が笹というような区別があるようですが、自然界のモノは、ハッキリ区別はできないのも特徴でしょう。

 竹の魚篭は通気性がよいので、魚が傷まない為、現在でも釣り人には人気ですが、籠やザル同様プラスティック製のものも一般的になっているようです。用途に応じて編み方や形、デザインなど地方色を活かした素晴らしいものが多く、漁具と云うより人の心のやさしさやぬくもりが伝わってくる民具として、調度品にもなっている魚篭ですが、現在、写真の二点が展示してあり、「魚篭があって釣竿がないのも寂しいね」と、杉浦精さんが、「親父がアユ釣りに使っていた竿だけど」と、矢張り竹製の釣竿を持参くださいましたので、次話でご紹介いたします。

2014年4月7日月曜日

 杉浦醫院四方山話―326『健造先生胸像』

 当117話「彫刻家・笹野恵三氏」でも紹介しました健造先生の胸像について、来館者から貴重なお話を伺いました。この胸像が建った経緯や制作者について は、117話をお読みいただくとして、杉浦家母屋の玄関前右手に現在もひっそり建つ石の台座にまつわる歴史です。                   醫院応接室にある健造先生の胸像を観た来館者が「この胸像は、学校にあった胸像と同じだね。こういう顔をした立派な先生を確か昭和18年にみんなで送ったのを覚えてるさ」と切り出し「校長先生が、先生もいよいよ出征される時が来ましたという話をして、ここにタスキが掛けられ、みんなで出征兵士を送る歌を歌って送っただよ」と。                                                太平洋戦争の戦局が悪化する中、武器生産に必要な金属資源が不足し、それを補うために、官民所有の金属類の回収が始まったのは、1941( 昭和16)年9月からですから、2年後の昭和18年に押原小学校にあった頌徳碑の健造先生胸像も供出されたようです。杉浦家土蔵の鉄格子も切られて供出した跡が残っていますから国家総動員法にもとづく金属類回収令で、官民問わず厳しく供出を迫ったのでしょう。

 

 私は、頌徳碑 のブロンズ像を台座から外しての供出ですから、学校では夜間人目につかないようそっと外して、機械的に供出したものと思っていました。しかし、兵隊に行く人々に「出征軍人」のたすきを掛け、愛国婦人会のたすきをした女性をはじめ多くの人たちに見送られながら、ふるさとから過酷な戦場へとおもむいた出征兵士と同じように健造先生の胸像も「出征軍人」のタスキが掛けられ、子どもや教職員が歌う出征兵士を送る歌に送られての「出征」だったそうです。現在も駅伝や選挙などでは、「タスキをつなぐ」とか「タスキに鉢巻で気を引き締める」とか、タスキは何か意味ありげな存在であるのもこう云った歴史からくるのでしょうか。

 「祖父が溶かされてしまうのは何とも耐え難く・・」と床下に隠して、「鍋釜まで全て供出した」と云う家族の思いからか、応接室の健造先生は、現在も裸婦像と向かい合って、静かに微笑んでいるかに見えます。

 

一転した戦後民主教育の中で、個人崇拝に繋がる云々で、学校に残った頌徳碑の台座も杉浦家に返還され現在に至っているわけですが、純子さんも含め「この胸像を学校に寄付してもよっかったんですけど・・・」の思いも強かったことと思います。

 台座だけの頌徳碑より、「この胸像を台座に取り付けた方が」との指摘もありますが、戦争末期の金属供出の歴史を語り継ぐ意味でも台座だけの頌徳碑の存在は貴重です。

2014年4月2日水曜日

杉浦醫院四方山話―325『昭和カメラ博物館・磯部 オープン』

 文化協会写真部長はじめ昭和町文化協会のシンボル的な存在としてご活躍いただいている上河東の磯部寛さんが、この度イオンモール東の区画整理地内に「昭和カメラ博物館・磯部」をオープンされました。

 

 磯部さんは、知る人ぞ知るカメラと自動車の収集家ですが、これまでもまち歩きや社会教育の教室等で、自宅玄関にあったカメラ展示コーナーや自動車の倉庫などをご無理を言って見学させていただいたりしてきました。常永地区の区画整理工事が始まった頃「一段落したら自動車はスペース的に厳しいけれどカメラを展示して公開できるようにしたい」と云ったお話を伺いました。その後も「場所は決まったけど仕事の合間に一人でやっているからなかなか進まなくってね」とおっしゃっていましたが、きっちり綿密な磯部さんですから、あとは時間の問題だなとオープンを心待ちにしていました。

 

 「やっと、何とかオープンすることが出来ました」と今日、手づくりの案内チラシを持参くださいました。チラシの「SHOWA CAMERA MUSEUM ISOBE」の展示内容は、以下のとおりです。

 

*「日本の歴史的カメラ」明治42年~

*「コニカ カメラ50年の歴史」

*「ブローニーフィルム使用カメラ100年」

*「ドイツ・アメリカ・イギリス・中国・ロシア等各国のカメラ」

ーカメラは現在500台展示中 順次展示物は更新していきますー

*「ミニカー」の展示

*「手づくり木工作品」の展示

 

 なお、このカメラ博物館は、磯部さんが個人で設立、企画、運営を行っている私設博物館ですから、開館日も毎週土曜日と日曜日の午前10時から午後5時までと夜間も7時から9時まで開館し、入館も無料と云う、趣味を地域貢献や社会奉仕に活かそうという崇高な精神の産物でもありますから、見学希望者は、事前に電話連絡を入れての見学をマナーとしたいものです。連絡先:055-275-2148または090-4059-8372 (磯部) 

カメラ博物館の場所は、昭和町飯喰常永土地区画整理地内7区6画です。

杉浦醫院四方山話―324『杉浦醫院ポスター』

  本オープンに合わせて、ポスターとパンフレットを制作しましたので、ご紹介します。

                                     昭和町の新たな文化発信拠点となる杉浦醫院ですから、その辺が感じられ、表象されるポスターにしたいと思い、昭和町文化協会の会員作品で構成することを制作会社に伝え、ご協力いただきました。                          右の写真が出来上がったB2版のフルカラーポスターです。正面からの写真は、額のガラスが乱反射してしまうので角度を付けた写真になりましたが、メイン写真は、以前当話でご紹介した文化協会写真部の河西秀吏さんの写真です。もう一枚右下の赤いモミジと白い障子のコントラストが見事な母家玄関の写真も河西さんの作品をお借りしました。                                                                                                    「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」の書文字は、文化協会顧問の若尾敏夫先生の隷書体です。若尾先生は、「白嶺」という号を持つ書家でもあり、杉浦醫院の歴史的存在を考慮して、篆書体(てんしょたい)や隷書体(れいしょたい)で、数組の題字を書いてくださいました。               先生は、「この篆書体が面白いと思うけど」と一押しでしたが、「はて、何と読むのか?」と読めません。ポスターだから「はて?これは?」と云うのも十分ありですが、楷書体と篆書体の間の隷書体に落ち着きました。

 

 山日印刷カメラマン撮影の館内写真の組み合わせなど数回の差し替えや位置替えを経ての出来上がりでしたが、杉浦醫院の池を囲む紅葉したモミジを捉えた河西さんの写真を拝見した時、構想は決まり、半分完成したような感が正直しました。ポスターには、「メイン写真・河西秀吏」「題字・若尾白嶺」の表示は、ご両人の意向もあり入っていませんが、昭和町文化協会メンバーの奥ゆかしさと力量が遺憾なく発揮され、「いいポスターだね」と好評なのもご協力いただいた方々のおかげと感謝しております。