2019年4月15日月曜日
2019年4月11日木曜日
杉浦醫院四方山話―577『上杉久義村長と村営プール』
過日、甲府市から故・上杉久義村長の次女の方がご子息と一緒に来館くださいました。
「純子さんの妹の三和子さんと甲府高女に通ったので、ここにもよく遊びに来ました」
「一緒に帰るとお手伝いさんが何人もいて、しまいのお嬢様お帰りなさいと出迎えてくれて、百姓家と違うなあと思いましたよ」
「父が政治好きで県会議員にも何度も立候補したので、杉浦先生も懇意にしてくれて、いろいろ教えてくれたようです」
「そんなこともあって、父は村の子どもが地方病にならないようにプールを造ることが夢で、その為に村長になったようです。プールが完成した時は、俺は夢をかなえたと本当にうれしそうでした」等々、1時間以上元気にお話しくださいました。
歴代昭和村長の中でも上杉久義氏は、何かと話題になることも多く、インパクトの強い村長だったことは長いあごひげと共に語り継がれています。
上杉氏が村長になろうとした動機が「地方病から子どもを守るために村営プールを造ること」にあったという娘さんの言葉を聞いて「政治家の信念とか公約が生きていた時代の話だなー」と思うと同時にこの村営プールのプール開きで上杉村長自らが泳ぎ初めをした古い映像が蘇りました。
山梨県では発育途上の児童生徒が地方病に感染しないよう、県や医師会が学校を通して河川で泳いだり遊ぶことを大正9年以降ずっと禁止していました。
水道や風呂が当たり前になり、エアコンも普及した現代ですが、明治、大正、昭和と甲府盆の夏の酷暑を凌ぐには近くの河川で行水が当たり前でした。教師や親の目を盗んでは川に入って遊びたいのが子どもですから完全に制限することは難しく、結果として肌の柔らかい子どもが地方病に感染する確率は高かったのも特徴です。
この河川での行水禁止について、昭和村史には≪従って水泳ぎの技にも疎く、海国日本生まれながら水に入れば実に脆いものであり、かつて中支策戦に応召され、出征した皇国勇士が敢え無くもクリークの突破が出来ず無念の涙を呑んで護国の鬼と化した例も数えきれない。≫と、泳げないことが軍事力にも波及するとして、河川で泳げない以上≪一刻も早くプールを建設し、伸びゆく青少年達の自然の要求を充たす必要がある≫と記されています。
このような時代背景もあって、上杉氏は村営プール建設を政治信条として村長になったのでしょう。現代の「待機児童解消の保育園建設」と重なりますから、それぞれの時代的課題に対処するのが政治であり行政だと云うことになります。
有病地の小中学校へのプール設置が県の補助事業として優先的に進められたこともあり、地方病感染防止の徹底が山梨県下の学校プール設置率をいち早く日本一にしたことにも繋がりました。
昭和32年8月6日 押原プール竣工式 上杉村長自ら泳ぎ初め -「昭和村の記録」より- |
2019年4月3日水曜日
杉浦醫院四方山話―576『ー依田賢太郎著「いきものをとむらう歴史」-』
資料館や博物館には、心ある方々から「こんなものが見つかったけど」とか「この本ご存知ですか」と云った情報が時折寄せられます。
今回、昭和町河東中島にお住いの雨宮昌男さんから「一高の同級生だった依田賢太郎さんがこの本を贈ってくれたので読んだら杉浦健造と犬塚のことも書いてあったんでお持ちしました」と社会評論社刊「いきものをとむらう歴史」(2018年7月20日発行)を持参くださいました。
京都大学の工学博士号を持ちスタンフォード大学や東海大学で教授をつとめた著者・依田賢太郎氏が「動物のお墓」に興味をもって調査研究を始めたのは「動物実験を行っている日本の大学や研究機関は、なぜ欧米にはない実験動物慰霊碑を建立するのだろうか?」という素朴な疑問からだったそうです。
2007年には同じ社会評論社から「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」を出していますから、2007年以降の調査結果がこの本にまとめられ、前著と合わせると総数は五百数十基に及びます。
しかし、依田氏によれば「総数は何千、あるいは一万基になるかもしれない」といいますから、日本人が動物を供養してきた歴史・文化は世界に類例がないものであることが分かります。
さて、P59~P60には、「犬塚(昭和町西条新田、正覚寺)」名で以下の紹介があります。
「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠は日本住血吸虫症の患者の治療とこの病気の撲滅に私財を投じて心血を注ぎ、医師としての生涯を捧げた杉浦健造が発起人となり中巨摩郡により大正12年(1923年)に建立された。
ーー日本住血吸虫症の説明文は略ーー
杉浦健造の他その娘婿三郎、大鎌田村の三神三朗、石和村の吉岡順作など山梨県の郷土医が地方病の撲滅に多大な貢献をした。正覚寺に隣接する杉浦醫院は、現在、風土伝承館杉浦醫院として一般公開されている。」
と、当館についても紹介いただいていますので、依田氏が犬塚の取材にみえたのはこの10年以内の事と思います。この文と一緒に犬塚の「苔むした小祠」の写真が載っていますが、この小祠が犬塚の祠だったのかどうかは定まっていません。
依田氏の記述通り「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠」は現存していますが、8年前正覚寺住職に犬塚について直接聞きましたが「私が入った時から犬塚はありませんでした」と云うことで、「この祠が塚にあったもののようです」と云う紹介もありませんでした。
私もそうですが、多分住職も「犬塚」と聞けば、土盛りされた小高い墳墓的なものを連想されていたのではないかと思いますが、その塚の上に祠があっても不思議ではありませんから引き続きこの祠について確かめていく必要があります。
昭和町内には、この犬塚以外にも鳥獣供養碑もありますから、この本をきっかけに町内の「いきものをとむらう」歴史についても観ていきたいと思います。
今回、昭和町河東中島にお住いの雨宮昌男さんから「一高の同級生だった依田賢太郎さんがこの本を贈ってくれたので読んだら杉浦健造と犬塚のことも書いてあったんでお持ちしました」と社会評論社刊「いきものをとむらう歴史」(2018年7月20日発行)を持参くださいました。
京都大学の工学博士号を持ちスタンフォード大学や東海大学で教授をつとめた著者・依田賢太郎氏が「動物のお墓」に興味をもって調査研究を始めたのは「動物実験を行っている日本の大学や研究機関は、なぜ欧米にはない実験動物慰霊碑を建立するのだろうか?」という素朴な疑問からだったそうです。
2007年には同じ社会評論社から「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」を出していますから、2007年以降の調査結果がこの本にまとめられ、前著と合わせると総数は五百数十基に及びます。
しかし、依田氏によれば「総数は何千、あるいは一万基になるかもしれない」といいますから、日本人が動物を供養してきた歴史・文化は世界に類例がないものであることが分かります。
さて、P59~P60には、「犬塚(昭和町西条新田、正覚寺)」名で以下の紹介があります。
「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠は日本住血吸虫症の患者の治療とこの病気の撲滅に私財を投じて心血を注ぎ、医師としての生涯を捧げた杉浦健造が発起人となり中巨摩郡により大正12年(1923年)に建立された。
ーー日本住血吸虫症の説明文は略ーー
杉浦健造の他その娘婿三郎、大鎌田村の三神三朗、石和村の吉岡順作など山梨県の郷土医が地方病の撲滅に多大な貢献をした。正覚寺に隣接する杉浦醫院は、現在、風土伝承館杉浦醫院として一般公開されている。」
依田氏の記述通り「正覚寺の本堂脇の墓地入り口に苔むした小祠」は現存していますが、8年前正覚寺住職に犬塚について直接聞きましたが「私が入った時から犬塚はありませんでした」と云うことで、「この祠が塚にあったもののようです」と云う紹介もありませんでした。
私もそうですが、多分住職も「犬塚」と聞けば、土盛りされた小高い墳墓的なものを連想されていたのではないかと思いますが、その塚の上に祠があっても不思議ではありませんから引き続きこの祠について確かめていく必要があります。
昭和町内には、この犬塚以外にも鳥獣供養碑もありますから、この本をきっかけに町内の「いきものをとむらう」歴史についても観ていきたいと思います。
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