2012年6月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―153 『草履・下駄-1』

 粋に和装した純子さんが、晴れた日にお茶会などに出かける時の履物は、草履(ぞうり)か下駄(げた)ですが、この草履や下駄も奥が深く、一筋縄ではいきません。
「母から、よく足元が大切よ」と教えられたと云う純子さんの履物は、京都「伊と忠」のモノです。「伊と忠さんのモノは、足にピタッと納まって、歩くのも楽でした」「私はモノを大切にしてきましたから、帰ってくると底も拭いて、乾かしてから箱に入れておきました」と云うように購入した当時の箱入りで、中にあったメモ用紙には、購入年月日と値段、履いた日の会合名と日時も記録してあります。「もう使いませんからどうぞ」と、気前よく持参してくれますが、しっかり保管されてきた草履や下駄は、履物というより芸術品といった趣です。
 京都「伊と忠」の履物ガイドによれば、草履は、①婚礼などのおめでたい日用②晴れやかなお席用③およばれ用④あらたまったおしゃれ用⑤ふだんお気軽用と5種類に分かれるそうです。下駄も①やさしい足元に白木下駄②爽やかな浴衣姿に塗下駄③粋な足元に雨下駄④ひとえや絽の夏履き用と4種類あります。当然、これらの履物は、着物に合わせて変るそうですから、留袖から訪問着、紋無地、つけさげ、結城、大島、小紋、ウールとそれぞれが必要になるようです。
 私など、「婚礼は、晴れやかなおよばれの席だからあらたまって」行きますから、草履の①②③④は同じになりますが、これを無粋というのでしょう。無粋の極みが下衆になるのでしょうが、ちなみに、写真左の雨の日に履く、前に「つまかわ」のついた草履が35000圓也ですから後は推して知るべしですが、「京の着倒れ」文化は茶道を通して地方の素封家や趣味人にも浸透していたことを物語っています。

2012年6月25日月曜日

杉浦醫院四方山話―152 『梅雨閑話』

純子さんの「蛇の目傘」についてお伝えしてきましたが、書きながら自然にメロディーと共に出てきたのが、≪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン≫の童謡「あめふり」です。
現代では、「折りたたみ傘」や「車でおむかえ」が日常化して、この童謡の世界やフレーズに郷愁を感じるのは、やはり過ぎ去った遠い昔を懐かしむ懐古趣味と云う事でしょうか。
映画にもなった「瀬戸内少年野球団」の作家、悪友こと阿久 悠は、森進一や石川さゆりなど多くの歌手の作詞家としても名作を残していますが、基本は、故郷や過去を懐かしむ「ノスタルジー」で一貫していたように思います。例えば、都はるみの「北の宿から」や小林旭の「熱き心に」など、阿久 悠流の女心・男心で、上野千鶴子女史をして「そんな女いるわきゃねぇー」と毒づかせるだけのインパクトがありました。この阿久 悠作詞で、八代亜紀が歌った「雨の慕情」で繰り返された「雨雨ふれふれ もっとふれ 私のいいひと つれて来い」は、童謡「あめふり」の焼き直しであることは明白ですが、「大人の童謡」として「舟唄」と共に歌い継がれていくことでしょう。いやいや、上野センセイに叱られそうですから、「男の願望童謡として」に書き改めておきましょう。

―閑話休題―

 純子さんのお出かけは、着物でしたから、蛇の目傘は不可欠でしたが、この梅雨時など当然履物も雨用が必要になります。雨の履物と云えば、重ね重ねの懐古趣味で恐縮ですが、童謡「雨」も紹介しておかないと片手落ちの感がしますので・・・おつきあいください。 歌詞は以下の通りです。 
 ≪雨がふります雨がふる  遊びにゆきたし傘はなし  紅緒のかっこの緒が切れた≫
日本の童謡ですが、注釈が必要になる時代になってきた感もしてきました。「かっこ」は、「下駄(げた)」の幼児語でしょうが、そのまま「下駄の緒」では「下駄箱」行きで、この歌の良さは半減どころか・・・ですね。詩人・北原白秋の作詩ですから、当時「下駄」のことを「かっこ」と子どもたちが云っていたかどうかも不明ですが、確かに幼児が小さな下駄を履いて歩くと「かっこ かっこ」としそうです。日本語は、「ドキドキ」「ヒューヒュー」「キョロキョロ」「しっぽり」・・・と云った擬声(音)語や擬態語を詩人や作家が、たくさん造語して豊かにしてきた「オノマトペ」の言語でもありますから、「かっこ」も北原白秋の造語かも知れません。
 下駄は、「歯」と呼ぶ地面に接する突起部と「眼」と呼ぶ3穴で止めた「鼻緒」で構成されていますから、「紅緒のかっこ」は、右の写真のように赤い鼻緒の下駄で、「緒が切れた」は、緑の部分が切れて、うっとおしい雨に傘もない上に下駄までも・・・という雨を憂う少女の心情でしょう。そう云えば、吉田拓郎作詞作曲の「我が良き友よ」の導入も「下駄を鳴らして 奴が来る 腰に手ぬぐい ぶら下げて」と、懐古調ではありますが、共感するフレーズの数々に、世代を超えた普遍性も感じるのですが・・やっぱオジンの証明か。

2012年6月22日金曜日

杉浦醫院四方山話―151 『蛇の目傘-2』

 前話で紹介した玄関先の「番傘代わりの蛇の目傘」も立派なものですが、「こんなのもありました」と持参いただいた2本は、表面にはうっすら油が施されていて手入れの行き届いた蛇の目傘です。
「番茶も出花」のコトワザもあるように「番」には、「普段の」と云った意味がありますから、「普段用の番茶でもいれたては味も香りも良い」が素直な解釈で、転じての「娘も・・・云々」は、個人差もありますし、本題と離れますので触れません。
和傘の「番傘」と「蛇の目傘」の違いも同様で、普段使いの和傘を番傘、お出かけ用の上等な和傘を蛇の目傘と分けていたというのが一般的でしょう。ですから、純子さんの云う「番傘代わりの蛇の目です」は、正確な表現であることが分かります。また、番傘の紙は厚く、骨竹の削りも粗く、安い油を引いた安価な傘で、江戸時代の商家が不意の雨の貸し出し用に屋号や番号を入れたことから番傘とよばれるようになったという説もあります。もっとも時代劇では、浪人と云えば破れ番傘片手に歩き、番傘を刀代わりに使ったり、下級武士の内職と云えば傘貼りが定番ですから、番傘は、男性用と云った感じです。着物姿の大原麗子が、蛇の目傘の頭を下に向け、軽く左右に回して、傘が少し開いたところで、か細い腕で、ゆっくり、そっと開いて、雨の中に消えていく・・・そんなシーンがあったような記憶も、蛇の目は女性用と云ったイメージに繋がっています。
後輩の結婚式で、とってつけた感のぬぐえない和装のご両人が、蛇の目の相合傘で「ご入場」した時は、思わず吹き出して笑ったことを思い出しましたが、これは、傘のシルエットが末広がりなので、縁起物ともされてきたことを式場が演出に取り入れた結果でしょう。傘の字は、八と十で構成されていることから、数え年八十歳の祝いを「傘寿(さんじゅ)」と云うのも縁起が良いことにも由来するのでしょう。傘も平安時代に中国から伝来したそうですが、安価な番傘が広がった江戸時代まで、一般庶民の雨具は、昔話の世界によく登場する「菅笠(すげがさ)」と「蓑(みの)」だったとさ。

2012年6月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―150 『蛇の目傘-1』

 先日、西条小学校4年生の3クラスの児童が、クラスごと時間をずらして見学に来ました。事前学習もしっかりして、杉浦医院に絞っての見学学習だということですから、病院棟だけでなく母屋も玄関先から中を見るよう案内しました。
障子を開けると直ぐ畳10畳の座敷ですから、現代家屋ではなかなか体験できない造りに子どもは興味深く覗きこんでいました。すると、男の子が玄関脇の陶器の傘立から頭だけ見える傘を指差し「これは昔のカサですか?」と質問しました。前から、番傘風の傘が1本入っているのは承知していましたが、取り出して開いてみるのは初めてでした。「よく気が付いたねー」と言いながら開くとバサッとスムーズに開き、十分現役の蛇の目傘でした。
子どもの眼や興味は何処に向くか分からない面白さもありますが、養老大先生がよく指摘するように「子どもには、ディテール(ささやかな違い、わずかな差)を見る目がある」のでしょう。「家の構造も随分違う、他にも違うものは・・」と傘立に目が行って「これは昔のカサですか?」「どうして頭が上に入ってるの?」「紙のようだけど?」
あらためて、「大人は子どもの夕暮れ」を実感させられました。
そんな訳で、純子さんにお借りして、傘立の「蛇の目傘」を撮影した2枚です。ご覧のように竹と和紙と木を素材に精巧なつくりの和傘は、漆と油で防水加工され、数十年経っても純子さんに愛用されています。「これは、番傘代りの蛇の目ですが、軽くてちょっとさすのに重宝です。今の傘と違って2段に開くので、雨の日の車の乗り降りには便利ですね」「着物には洋傘と云う訳に行きませんから、他にも何本かあります。ゴミのようなもですから捨てて結構ですが、探してお持ちします」と、至って控え目な物云いが身上の純子さんですが、「蛇の目が何本もなんて、夜目、遠目、傘の内って云いますから、必要だったってことでしょうね」と笑いながらの一層深く洒脱な謙譲のトドメに「今では夜目、遠目、帽子の内って、女性が男を揶揄してます」と見事にハズシた返答で、勝負ありですね。

2012年6月19日火曜日

杉浦醫院四方山話―149 『ザリガニ釣り』

この季節、杉浦醫院の庭園は、若葉・青葉が茂り、散歩コースには最適です。赤ちゃんを抱いたお母さんがベンチに座り、親子で緑を楽しんだり、イオンの買い物帰りだと云うご夫婦が庭から建物を観賞したり、ウォーキングサークルの皆さんが15分の休憩場所にと目的に応じて様々です。散歩ではありませんが、ここ毎日「ホタル観賞会」に来た子どもとお母さん、お父さんが、放課後や週末、庭園の池でザリガニ釣りに興じています。
 ホタルの幼虫を放流しても池に鯉や鮒、ザリガニなどがいると幼虫は食べられてしまうことから、この池には魚は入れないようにしてきましたが、ザリガニは自然発生して増えてきました。そんな訳で、観賞会の折に「ザリガニは捕ってもいいよ」と話したのがきっかけで、近所の何組かの親子が、網持参で、ザリガニ捕りを始めました。「一網打尽」と云う訳にはいきませんが、水底の枯葉や土と一緒にすくい上げる捕り方は、感心しません。安直なイベントや体験教室で「マスのつかみ取り」が開かれ、逃げ場のない水槽やプールに放たれたマスを追いかけて捕まえたり、網まで用意しての「つかみ取り」は、「子どもに卑怯を教えているようなものだ」と毒づきたくなるのは、私一人ではないでしょう。そこで、「ここのザリガニは網でなく、釣って欲しい」と話し、木綿糸と割りばしを用意して、エサは家にある煮干しでもイカでもその辺のカエルやミミズでも良いことを教えました。「ザリガニも命がけでエサを喰いに来る訳だから、君たちもそれなりのテクニックを学ばないとザリガニに失礼だし釣れないよ。引き揚げるタイミングとスピードを覚えると面白いほど釣れるけど名人になるには時間もかかるさ」と。翌日からそれぞれがバケツと釣り糸、エサを持って、4時前後から暗くなるまで釣っています。日曜日にはお父さんも加わり、釣り堀の様相を呈していたようですが、「庭で子どもの声が絶えず、にぎやかでいいですね。父や祖父も喜んでいるでしょう」と純子さん。「○○くんが網でとってました」のチクリには「網は卑怯だと君が教えてやればいい」「卑怯って?」「正々堂々、ザリガニと一対一で勝負するのが釣り、網は卑怯。分かった?」「でも○年生だもん」「歳が上でも下でも関係ないジャン。ザリガニだったり、年下だったら何してもいいっていうのが卑怯なんだから」「分かった」偉そうに道を説くほどハズカシーことはないのに気がついたら説いていました。「ハズカシィー!」

2012年6月16日土曜日

杉浦醫院四方山話―148 『註文請書-2・ルノー乗用車』

 この請書を更に見ていくと支払い金55万円は、現金払いであることも分かりますが、何より気になったのが、「6.下取中古車両」欄の記載です。下取り車は、1958年式ルノー乗用車壱輌とあり、クラウン納車時に24,1000円で引き取り、相殺して、55万円のRS20クラウンとなります。山梨トヨタは、簡単に「1958年式ルノー乗用車」と書いていますが、この時代のルノーは、名チューナーとして伝説のゴルディーニが関わった時期と重なりますから、あの名車ルノー4CVだったのか?それとも1958年に発売開始となったドーフィンをベースに、魔術師アメデ・ゴルディーニの手でチューニングされたスポーティーモデルのドーフィンなのか? 早速、純子さんに聞いてみました。
「そうですね。クラウンの前はルノーでしたね。ルノーは小さな車でした。小さくてクラウンに変えたように記憶しています」「クラウンの後、イギリスですかオースチンと云う車になったときもありました。アメリカのスチュードベーカーにした時は、ガソリンをばら撒いているようだからとすぐ変えましたね」と、県内女性ではいち早く運転免許を取得した純子さんは、車情報や知識も豊富です。
三郎先生は「新しい物好きだった」とよく純子さんが評してますから、大きさと云い間違いなく左の写真の1958年発売のドーフィン・ゴルディーニでしょう。当時の販売価格は、どこを調べても分かりませんが、「2年の落ちのドーフィン・ゴルディーニが、24万円はないよな~」が正直なところです。
昨年の東京モーターショーでもルノーは、「ルーテシア・ゴルディーニRS」を前面に出し、日本でも限定30台を発売しましたが、発表会場で完売になりました。そのカタログにも「ゴルディーニRSの車名の由来は、1958年から約20年にわたりルノーの高性能モデルを手掛けたエンジニア、アメデ・ゴルディーニの名にちなむ。ゴルディーニが手掛けた第一号車は『ドーフィン・ゴルディーニ』で、エンジンチューニングが施され高性能ラグジュアリーモデルとして人気を博した。」とあります。ゴルディーニ参画後のルノーは、モンテ・カルロラリーでの活躍はじめルノー黄金期を形成しましたが、傾きかけたルノー再生に引っ張り出された「ゴルディーニ」。同じく起死回生を狙う日産も「ダットサン」名を復活させたり、「昔の名前で出てきました」作戦。やはりターゲットは「昔の名前で出ています」世代の団塊世代でしょうか?

2012年6月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―147 『註文請書-1・RS20クラウン』

    屋敷蔵や土蔵、納屋といった保管場所が確保されていたとはいえ、杉浦家代々の保管力には驚きます。書画骨董や着物、帯から思い出の写真、手紙は元より領収書類も多数残っていることから、今となっては貴重な具体的な歴史をたどる足掛かりにもなります。

今日整理していた「註文請書(ちゅうもんうけしょ)」は、昭和35年6月14日付けと、ちょうど52年前の今日ですから、興味深く見てみました。ご覧のように山梨トヨタが、三郎先生にRS20クラウンを納品するにあったっての請書です。

   RS20クラウンと云えば、以前文化協会写真部長磯部さんの旧車コレクション倉庫で見せていただいた「観音開きクラウン」です。
観音菩薩像を納めた厨子の造りが、中央から左右対称に開く両開き扉だったことから「観音開き」と云われ、仏壇や門などでは一般的ですが、自動車では、RS20クラウンで初めて採用されました。
しかし、観音開きの後部座席ドアは、進行方向に向かって開く構造ですから、走行中ちょっとでもドアを開けようものなら風圧でパーンと開いてしまい、アメリカの安全規制に引っ掛かり、この形式のドアは自然消滅してしまいました。乗り降りのし易さの良さから、このクラウンに標準仕様になった訳で、三郎先生のように運転は運転手にまかせ後部座席が専用シートの場合は、非常に使い勝手の良いドアだったと思います。現在では、ルノーカングーと改造霊柩車のトランクドアに使われている位でしょうか。このクラウンが791,000円とありますが、昭和35年入社の甲府信用金庫の初任給が7,500円位だったと言いますから、およそ100倍の観音開きクラウンは、後部座席に子どもを乗せて・・と云ったユーザーは想定せず、おかかえ運転手ユーザーに的を絞ったトヨタの戦略だったのかも知れません。当時、開業医の往診用の車として「医者のダットサン」と呼ばれたダットサン211型が有名ですが、三郎先生はダットサンからルノーを経て、RS20クラウンに乗り継いだことが、この請書から分かります。

  

2012年6月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―146 『象嵌(ぞうがん)』

 先日、甲府で宝飾の経営、仕事をされている方々が来館されました。医院内を丁寧に見学して、2階で、DVDも鑑賞されました。2階床の間には、DVDを放映する53インチのテレビがありますが、その横に三郎先生が軍医として出征した時の軍刀を展示しています。これまでも、DVD鑑賞後「これは本物?」と、この刀に興味を示した来館者は結構いましたが、その刀が納まっている刀掛け(置き台)に眼を付けたのは、この日の方々が初めてでした。
「これは、凄いな」「ここまではめ込んである」「こういう職人技はもう出来ないな」と手にとって感心していました。
144話で、象嵌作家塩島東峰氏について記しましたが、東峰氏も刀の鞘(さや)や鍔(つば)に象嵌技術を駆使したと聞きましたから、刀掛けの製作も手掛けた事でしょう。
 象嵌(ぞうがん)は、文字どおり、象「かたどった」ものを嵌「はめる」工芸技法ですが、象嵌本来の意味は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味で、金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌等に分かれるそうです。金工象嵌は、シリアで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わったとされています。江戸時代になると京都などに優れた職人が多数生まれ、日本刀や甲冑、鏡や文箱、重箱などに腕を振るったことから、現在も京都は象嵌工芸品の本場になっています。
   右の写真のように刀掛け(置き台)は、木製です。台座部分の優雅な形や柱部分の曲線など木工品としても素晴らしく手の込んだ造りですが、その全面に貝殻を素材にご覧のような連続模様を嵌め込んである訳ですから、気が遠くなるような時間と技術を要したものでしょう。同時に上下平面の統一した意匠や柱や側面の模様など全体を俯瞰したデザイン力にも目を見張ります。
「父は新しいものにしか興味がありませんでしたから、これは、祖父健造のモノだと思います」と云う純子さんの説明のように軍刀と刀掛けの傷み具合、経年変化には違いがあります。「金属供出で、他の刀は全て出しましたが、刀掛けは残っていますから、他の物も探しておきます」と。刀と刀掛けが、セットで数組あったということでしょう。

2012年6月1日金曜日

杉浦醫院四方山話―145 『杉浦醫院・ホタル観賞会』

昨夜(5月31日)、杉浦医院庭園で「杉浦醫院ホタル観賞会」を開催しました。NPO楽空の古屋さんが作成、配布した本年度版「昭和町源氏ホタル観賞ガイドMAP」の周知効果か、7時前から参加者が訪れ、7時30分になると池の前にはたくさんの人が集まり、今か今かとホタルの発光を待ちました。間もなくギャラリーの期待に応えるかのように葉影でポッ・・あっちの木影でもポッとホタルが光り始めました。
 7時50分、メイン・イベント「子ども紙芝居」が、母屋玄関を舞台に上映開始となりました。押越造形教室の小学生が、坂本先生の指導で書き上げた脚本と絵を作者自身が上映するという文字通り手づくりオリジナル紙芝居です。大人も子どもも「ホタルと地方病」をテーマにした紙芝居に引きつけられ、好評に応えてのアンコール上演にも動ぜずの堂々の語りに大きな拍手。紙芝居終了で、予定の8時を迎え、すっかり暗くなった池の周辺には、20匹とも30匹とも・・・源氏ホタルが点滅し、舞い始めました。肝心な杉浦醫院のホタル映像は、NHK甲府放送局のプロカメラマンがしっかり撮影して、6月4日6時10分からの「まるごと山梨」の中で放映されますので、お見逃しなくお楽しみください。

杉浦醫院四方山話―144 『SEIKO・クレドール』

セイコーウオッチ株式会社 バーゼルワールド 2012
高級ウオッチブランド<クレドール>H・Pから
 昨年の今頃、当ブログ49話「エミール・ガレ」の中でも触れましたが、昭和町押越在住で、昭和町カルチャーデザイン倶楽部3代目代表でもあった塩島敏彦氏は、途絶えて久しいアンティークジュエリー「ピクウェ」を現代に甦らせた宝飾作家として著名です。ピクウェは、ベッコウ、象牙、真珠母貝などの有機素材の表面に、金、銀、真珠貝などでデザインされた模様を、象嵌(ぞうがん)状に連続して押し込み、その連続模様を楽しむ技法ですが、再現することの出来ない幻の技術とされてきました。
 象嵌(ぞうがん)作家の父・東峰氏から象嵌技法を学んだ塩島氏は、象嵌によるピクウェ再現に挑戦し、世界で唯一ピクウェの再現に成功し、その製造技法を後進にも伝えるべく、株式会社東峰を立ち上げ、現在に至っています。
 その塩島氏のピクウェが、今年、セイコーの高級ウオッチブランド<クレドール>に採用され、6月から発売になります。上記写真のように高度な象嵌(ぞうがん)技法「ピクウェ」を駆使した3機種30本の数量限定での発売ですが、手づくりが基本のうえにセイコー社の形状規定をクリアする精度で、これだけの数を揃えるのは大変だったと思います。
 宝飾品のピクウェは、全て一点ものですから、高級車と同じ位の価格ですが、6月8日(金)発売予定の<クレドール>シグノ18Kホワイトゴールドと18Kイエローゴールドモデルは、税込1,470,000円の希望小売価格が付き、7月7日(土)発売予定の<クレドール>ノードJ 18Kピンクゴールドモデルは840,000円ですが、既に大手デパート等が買い付け、完売だそうです。塩島氏は「今製作している宝飾品が100年後に存在し、アンティークジュエリーとなりえた時、初めてT.SHIOJIMAのブランドを名のれるのだ」と控えめですが、昭和町商工会にも加入する塩島氏が、世界に発信する「T.SHIOJIMA COLLECTION」は、ジュエリーのみならず高級時計でも輝き、その真価が着実に評価を増していることを物語っています。