2011年1月28日金曜日

杉浦醫院四方山話―23 『火鉢』

 四季のある日本では、温度湿度が大きく変化する為、家屋もこの気候に適応すべく、さまざまな工夫が施されてきました。吉田兼好が「家は夏を旨として建てよ」と言っていたように梅雨時の多湿な環境と真夏の暑さを快適に過ごすことを前提に建築されてきたのが日本家屋ですから、冬の寒さはこたえます。杉浦家の母屋は明治中頃の日本家屋ですが、醫院は、昭和4年の完成で、独立した医院ということもあり、廊下で各部屋をつなぐなど一般的な居住用住宅と比べると新しい様式も導入されています。母屋では、梅雨を前に部屋を区切る障子や襖を取り払い、竹の簾に掛け替えるのが年中行事になっています。「これをやろうという気持ちが無くなったらお仕舞いだと思っています」と毎月の床の間の「お軸」の交換同様、純子さんは、きっちり季節を取り込んだ生活をしています。醫院も昨夏の猛暑時、東西南北にある窓を全開しておけば、それぞれの時間帯の風が室内を通り抜け、外から入ると涼しく感じ、エアコンがなくても過ごせましたが、冬の厳しい冷え込みに暖房は欠かせません。現在では、エアコンはじめ各種の暖房機器があり、火事の心配が少ない温風ヒーターで暖をとっていますが、建設当時の冬は、もっぱら「火鉢」が頼りだったようです。
日本家屋と長火鉢

 火鉢には、使わないときは火鉢の隅の灰に突き刺しておく炭を扱う「火箸(ひばし)」や鉄瓶や網を乗せる「五徳(ごとく)」、「消し壷」といった脇役と我が物顔で陣取るキセルをくわえた頑固オヤジやジジイが、五徳に乗せた鉄瓶で酒の燗をつけたり、時には網で餅や肴も焼きながら、子どもや孫の頭をキセルで小突いての「しつけ風景」が似合います。炭が燃える際の一酸化炭素も隙間だらけの日本家屋では、自然換気が出来ていたのでしょう。
 杉浦醫院には、患者の出入りで寒風が入ることや濡れた靴や足袋等を乾かす為に、玄関のタタキに堀火鉢が造られています。畳の待合室中央にも火鉢が置かれ、患者さんたちは、火鉢を囲んで待ちながら、体の具合や世間話で交流していたそうです。また、診察室にも、先生が触診や注射の際、手を温めた胴長の丸胴火鉢(まるどうひばち)が、残っています。三郎先生は、昭和52年8月までここで診察していましたので、この火鉢は、夏もそのまま机脇の定位置に置かれ、煙草好きな先生と患者さんの灰皿代わりになっていたそうです。純子さんも「父と患者さんが、あの火鉢で手あぶりしながら話したり、一緒に煙草を吸いながら診ていましたよ」と火鉢を囲んでの診察風景を語ってくれました。温かなコミュニケーション・ツールとして火鉢や煙草が、大きな役割を担っていたことがうかがえます。火鉢も消え、煙草も全面禁煙へと流れる中で「コミュニケーション能力の獲得、向上」が声高に叫ばれています。「<間を取り持つ>物言わぬツールの静かな存在が、人と人との自然なコミュニケーション形成に果たす役割の大きさについても再考されるべき」と、私は思うのですが・・・

杉浦醫院四方山話―22 『武田麟太郎―2』

 「山梨ゆかりの作家と作品」を収蔵・展示してきた山梨県立文学館ですが、武田麟太郎については、これまで、一度も取り上げられていないようなので、この機会に、興味のある方の「再読や初読」のきっかけになればと、武田麟太郎の略歴と作品を紹介してみます。

 「武田麟太郎は、明治37年(1904年)大阪市に生まれ、旧制三高を経て東京帝国大学仏文科に進みました。同人雑誌『真昼』の創刊など、文学活動と共に帝大セツルメントや労働運動にも加わり、昭和4年、律動的で無駄のない文体と複雑な構成をもつ新しい表現形式で「暴力」を発表、プロレタリア作家として一世を風靡しました。その後、転向して、井原西鶴から学んだ独自の作風で「日本三文オペラ」「銀座八丁」「井原西鶴」を書きました。1933年(昭和8)には川端康成、小林秀雄らと『文学界』創刊に参加。その文学活動は、終生、市井に生きる人々を愛して、これらの人々の哀歓をありのままに描く作風に徹していました。 戦前のファシズムの嵐の中で「人民文庫」を創刊して、当時の文壇にあって抵抗の文学を志し、戦後、武田文学の開花が期待されながら昭和21年に死去。田宮虎彦は武田文学を「あくまで権力に反逆しようとする逞しさ」とともに「市井事ものを書き続けて得たものは虚無と絶望だった」と麟太郎の死後、解説しています。そして「虚無と絶望を克服した時に、武田麟太郎のほんとうの出発点があったはずだ」と42歳で急死したこの作家を惜しんでいます。 池波正太郎や藤沢周平の元祖ともいうべき武田麟太郎の「市井事もの」。昭和8年に発表した短編『うどん-初恋について』は、うどん屋の娘に抱いた中学生の恋心を描いたものですが、市井に生きる人間への武田麟太郎の眼差しが素直に伝わります。

 主人公の中学生、若山清吉が「つるや」の馴染客になったのは偶然のことで、学校からの帰途、うどんを食いに立ち寄ったのがはじまりである。「つるや」の近所にいる同級生の山下秀雄を誘って、道々、文学の話を語りつつ行くのである。「つるや」には看板娘、17歳のおとみがいる。「文学をやるからには、生命かけて恋愛をやらんとあかん、シリヤスになっ」と山下に励まされて、若山はおとみに艶書を書く。おとみの母親は、若山が中学校へ通っているので、将来は安泰な金持ちの坊ちゃんとみたのである。彼女は「つるやには借金が3000円ばかりある。おとみと一緒にさせてやるから、こちらの苦しい台所を救ってもらいたい」と言いだす。中学生の若山清吉は、そこで「はた」と行きづまった。これは大人でなければ解決できない話で、今の自分には問題にもならぬことだ・・・と。

2011年1月24日月曜日

杉浦醫院四方山話―21 『武田麟太郎―1』

 代表作「日本三文オペラ」で著名な小説家・武田麟太郎が、杉浦醫院の隣の正覚寺に滞在して、杉浦三郎先生の治療を受けていたことを、純子さんが教えてくれました。武田麟太郎は、庶民の生活、風俗の中に新しいリアリズムを追求した「市井事もの」とよばれる独自の作風を確立した作家です。同じ作風の池波正太郎や藤沢周平の人気が高い中、忘れられつつある作家ですが、武田麟太郎が甲府や昭和で疎開生活を送ったことは初耳でした。純子さんの話と武田麟太郎年譜から、彼の短い生涯と昭和村滞在期間を推定してみました。
「武田麟太郎年譜」によると≪昭和20年(1945)41歳 5月、東京麹町で戦災に遭い、甲府市伊勢町の夫人の実家遠光寺に疎開したが、甲府でも罹災。中巨摩郡昭和村へ移り、8月の敗戦を経て12月に昭和村の寄寓先から神奈川県片瀬へ移る≫ ≪昭和21年(1946)42歳 3月31日朝、片瀬の仮寓で肝硬変症のため死去≫とあります。
純子さんの話では「正覚寺先代住職の奥さんは、美人三姉妹の一人で、長姉は遠光寺の住職と次姉が武田麟太郎と結婚した」そうです。昭和20年5月に東京を焼き出された武田一家は、甲府の遠光寺に疎開しましたが、甲府空襲で遠光寺が焼かれたのは、7月7日の別名「七夕空襲」ですから、8日前後に正覚寺に再疎開したのでしょう。ですから、武田麟太郎は、8月15日の天皇の玉音放送は、正覚寺で聞いたことになります。暮れの12月に神奈川に戻っていることから、20年7月からの約半年、それも太平洋戦争終幕の困窮と混乱のピーク時に昭和村に居たことになります。 「体調が優れず、父が頻繁にお寺へ出向いて、診察していました。思想は「左」でしたが、静かな紳士だと父は言っていました」「寝付いていたのか姿を見た事はありませんでしたが、優秀な坊ちゃんが二人いたのを覚えています」「武田さんが居たことはこの辺の方も知らないと思います」と純子さん19歳の記憶は正確で、年譜とぴったり合致します。総合すると昭和村西条新田は、実質「武田麟太郎終焉の地」ともいえます。妻の姉妹を頼っての山梨での生活が、いかに作家・武田麟太郎に厳しいもので、体調にも・・・・織田作之助は、武田麟太郎を追悼して次の文章を残しています。
 「武田の死因は黄疸だったときく。黄疸は戦争病の一つだということだ。「ひとで」は武田さんの絶筆になってしまったが、この小説をよむと、麹町の家を焼いてからの武田さんの苦労が痛々しく判るのだ。不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったのだ。戦争が武田さんを殺したのだ。=前後略=」と。

2011年1月17日月曜日

杉浦醫院四方山話―20 『席書き大会』

 杉浦医院の待合室の柱に「本日ハ無醫村挺身診療ノタメ出張ニツキ休診イタシマス」と「日曜日ハ休診イタシマス 杉浦醫院」の木札の看板が残っています。昭和町源氏ホタル愛護会会長で、書家でもある若尾敏夫先生が「これは、保坂先生の字です」と教えてくれました。この保坂忠敬先生は、兄の忠信先生と独身時代、杉浦医院に下宿しながら、押原小学校に勤めていたそうです。若尾先生の小学校時代の担任だったということで、「先生の字は、すぐ分かります」と懐かしそうにエピソードを話してくれました。
 保坂先生は、習字教育に熱心で、「これは!と思う子を放課後残して特訓した」そうです。「私と純子さんの妹の郁子さんが同級で、保坂先生によく二人残されて、特訓を受けました。杉浦家のお嬢さんと一緒だということで、私は同級生の男子からよくからかわれました」「今で言う、イジメじゃないですが、二人はどうのこうのと・・・それが嫌でしたが、お陰で、私も書を続けています」と。「私は、そういうガキの先頭になって、はやし立てていた方でした」と笑い合いましたが、若尾先生の人柄そのままのクセのない綺麗な字は、やはり、少年時代からの仕込みがあってのことと納得しました。純子さんも「郁子は奇麗な字を書くとよく褒められていました。席書き大会の前は、よく遅くまで、保坂先生が教えてくれました」「保坂先生が居た時は、家の書き物は全部、保坂先生にお願いしていました」「東京に出て結婚されたのに早く亡くなられたようです」
 順子さんからすらっと出た「席書き大会」という言葉にハッとしました。「そんなに昔からあったのか」と。私の小学校時代の夏休みは「夏休みの友と自由研究」、冬休みは「冬休みの友と席書き大会」がセットで、楽しい休みを暗くしてくれました。このセットが未だ、続いていることも不思議でしたが、若尾先生の少年時代からあったことを知り、もっと驚きました。しかし、「主婦の友」のパクリでしょうが、「夏休みの友」とは、イヤラシイですね。いっそ「夏休みの敵」とでもしてくれれば、私にも親しみが沸き「先ず、敵をやっつけて」と意欲的に取り組んだかも知れません。少なくとも東京の学校では、この手の宿題は一切ありませんから、ひょっとして、このセットは、山梨県内だけのものでしょうか?それならそれで、十分歴史もあり、山梨の少年少女の長期休みの「伝承文化」?とも「伝統イジメ」?とも言えますね。この「友達」で、山梨県の小学生の学力が飛び抜けて高いといった話も聞きませんので、やはり、上からの「友」は、下々には「敵」でしかないように思いますが、みなさんは如何でしょう?

2011年1月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―19 『知水』

 プレ・オープン早々に来館いただいた富士常葉大学名誉教授で、風土工学研究所副所長の竹林征三工学博士から、著書「甲斐路と富士川」を当館にご寄贈いただきました。
先生は、昭和61年に関東地方建設局甲府工事事務所長として赴任され、山梨県の道路、橋、河川改修等々の指揮を執ったことから、「山梨の川を守り、道を拓く」思いが詰まった読み応えのある内容の本です。ご希望の方は、055-226-0290(山梨土木学会)でも入手可能ですし、当館でも貸し出しできます。
生命の維持にも欠かせない「水」
 「昭和町の歴史は水の歴史」と専門家からも指摘され、釜無川や南アルプス伏流水の「治水」「利水」については、これまでも見聞してきましたが、竹林先生は、「知水」「敬水」「馴水」という言葉と概念を「治水」「利水」に優先して考えるべきだと指摘しています。そこで、含蓄ある「知水」についての概要をご紹介します。
 先生は、≪水の本性を徹底的に知ることを「知水」≫と呼び、水の理について、孫子の兵法書にもあたり≪水は、一定の形がなく器に合わせて形を変える柔軟性があり、高所を避け、低所へ流下する否抵抗性を持ちつつ、いざとなれば、岩石をも打ち砕くエネルギーを秘めている≫と説いています。「弱さに徹して、剛に勝ち、強に勝つという水の本性を知ると、水を治める=治水とか利用する=利水とかの言葉には、人間の水に対する傲慢な接し方が潜んでいるように思えてなりません」と戒め「水の真髄を知れば、人間は、水に対しもっと謙虚な気持ちにならなければなりません」と結んでいます。
 老子は「最も理想的な生き方(上善)は、水のように万物を利して争わず、衆人の悪む所に居て、かつ存在は忘れられている生き方だ」と「上善如水」という言葉を残しました。水に関しては、歴史的にも文化的、精神的にも中国の方が、数段高いようです。そう言えば、「水を飲む時は、井戸を掘った人の恩を忘れず!です」と失脚後の田中角栄氏を国賓待遇で迎えた中国政府が、日本の抗議にはなったフレーズに「中国3千年の知恵」と脱帽した記憶があります。「上善如水」は、女性に人気の「日本酒銘柄」程度の認識だった私ですが、「水の町・昭和」は、先ず、≪「知水」度の高い町民が、「敬水」の精神で生活している町≫というソフトづくりと発信が必要かな・・と、竹林先生の著作から学びました。

2011年1月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―18 『現代』

 杉浦医院に「社会教育主事実習」に来たK大学のSさんが、杉浦医院内の本棚を見て、「えー、芥川龍之介が現代小説全集にある」と驚きの声を発しました。大正時代発行の「現代小説全集」ですから、芥川や島崎藤村が「現代」でも当然ですが、「現代」を現に今、進行している時代と規定すれば、村上春樹など現在、作品を書いている作家が「現代作家」ということになり、「えー」となったのでしょう。紫式部の恋愛感情や吉田兼好の無常観など、文学や芸術のテーマは、時代を超えて現代を生きる人間にも共通し、一向に色あせませんが、分野によっては、それぞれの時代の「現代」は、現在では考えられないこともたくさんあります。
 杉浦健造・三郎父子の時代の予防接種では、同じ注射針で薬を何回も吸い上げて、次々に打っていく「針の使い回し」は、日本中でごく普通に行われていました。その後、WHOから政府が何度も勧告を受け、全国の医療機関から完全に「針の使い回し」が無くなったのは1980年代に入ってからです。医療の現在は、文学とは対照的に当時の常識は、現在の犯罪へと大きく変わりました。
同様に、映像資料「人類の名のもとに」は、山梨県と米軍406医学総合研究所の共同研究と住民、行政の一致した取り組みで、地方病を撲滅寸前まで追いつめたというテーマの記録映画です。その中で、宮入貝殺貝に農薬「ペンタクロロフェノール」が開発され、大変な成果を上げたことが紹介されています。このペンタクロロフェノールも現代なら「とんでもない環境汚染農薬」という評価です。「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」と科学映像館で配信されている「人類の名のもとに」を観た、科学者遠藤浩良先生からご教示いただきました。
 このように、当時は、当たり前でも一定の時間経過の中で「あれは一体何だったのだろう」という事は、記憶に新しいところでも「ダイオキシンと小型焼却炉処分問題」始め・・・忘れることと自分が現在、享受している状態がベストだと考え保守的になるのが日本人の特性だとも言われています。そう言えば、つい60数年前まで「一神教の神風国家」万歳だった日本人が、北朝鮮やアルカイダを「洗脳云々・・・」「言論の自由が・・・」と評論したり、小馬鹿にしているのも恥ずかしいことだなー・・・と。

2011年1月1日土曜日

杉浦醫院四方山話―17 『お年玉』

 昨年は、多くの方々にお世話になって、風土伝承館杉浦醫院がスタートできました。お世話になった皆々様に年賀状にて、お礼と本年もどうぞよろしくとご挨拶すべきところですが、この場を借用して、「昨年中は誠にありがとうございました。本年も変わらずのご支援ご協力をお願い申し上げます」の失礼、無礼をお許し下さい。
最初に発行されたお年玉付郵便はがき
 映像資料の収集で大変ご尽力いただいた「科学映像館」の久米川理事長から、「年賀状」にまつわる縁起の良い、深い話を伺いましたので、本年の最初の四方山話にて皆様と分かち合いたいと思います。
 久米川先生は、毎年600枚の年賀状を交換し合っているとのことですが、暮れにはその印刷、発送作業に追われるそうです。「実は、昨年のお年玉年賀はがきで、1等が当たりまして、32インチの液晶テレビをいただきました」「100万本に1本の確率ですから、宝クジに当たる確率より大変だそうです」「夏まで、当たっていることを知らなかったのですが、出した方が几帳面な方で、自分の出した番号が、どなたに行ったかまでは分かりませんが、1等に 当たっていると、暑中見舞いで知らせてくれたので、確かめたら私に来ていました」「お礼にサマージャンボの券を20枚送りましたが、それは全然ダメだったようです」と。
「やはり、女神は少欲の善人に微笑むんですね。私なんか切手以外当った記憶がありません」
「いやぁー、これは偶然でしょうけど、実は、私は50年前にも1等が当たったんです」「ビデオカメラが賞品でしたが、当時のビデオカメラは、重くて大きなもので、今は処分してしまいましたが・・・」と。
聞きながら、ドキンとして思いました。「50年の間に、100万本に1本の確率が2回。これは、単なる偶然ではなく、<お天道さまは全てお見通し>は、真理だ」と。そして「この話をさり気なく、私に語ってくれたのは、今まで、神も仏も関係ねーやと居直って、生きてきませんでしたか?という久米川先生からの私への<お年玉>だ!」と。「科学者である久米川先生が、偶然に謙虚なのも逆に科学者だからこそだろう」と。2011年の年頭に、人智を超えた「サムシング・グレート」を素直に受け入れようと遅まきながら思えたことが、私には最高の<お年玉>でした。