2012年8月30日木曜日

杉浦醫院四方山話―173 『グリーン・カーテン』


 前話で紹介したグリーン・アクティブの公式ホームページで、発起人の宮台真司は、≪日本はいまだに民主主義の社会ではない。民主主義を獲得するには政治文化の改革が必要だ。それは以下のような変化である。〈任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ〈空気に縛られる社会〉 から 〈知識を尊重する社会〉へ≫と述べ、具体的に次のように書いています。
 ≪グリーンアクティブは「グリーン」に関心を寄せる者や集団が誰でも参加できる。「グリーン」について「何が本当のことか」を共有したい者たちの集まりである。これに参加した上で「グリーン」が本当に守るべき価値なのかを判断してもらう。あるいは「グリーン」のためには何が一番大切かという価値を発信してもらう。こうした民度上昇によって、議会は単なる手打ちの場所であり続けられなくなる。社会は〈引き受けて考える〉市民による〈知識を尊重する〉知識社会に変化する。日本が知識社会に生まれ変われば、「グリーン」に限らず日本社会は合理性を取り戻す。官界や財界の既得権益のせいで「一億総ゆでがえる」状態となるのを抑止できるだろう≫と。
 
「緑のカーテン」は、災害被災地でも昭和町でも全国至るところで、「節電」に呼応するかのように推進されてきましたから、これを否定する「空気」はなく、むしろ「緑のカーテン推進の空気に縛られた社会」と云った様相も呈しています。宮台氏はこういう現状を民主主義の社会ではないと看破して、「グリーン」について「何が本当のことか」を共有したい者が集まって「グリーン」が本当に守るべき価値なのかを判断しようと呼びかけています。
 当館でも「空気にのって」ご覧のように南西向きの建物に「緑のカーテン」を試みました。苗の種類にもよるのでしょうが、日除けや断熱効果には「よしず」の方が効果ありでした。「緑」一つとっても「空気」にのったり流されたりで、本当のところは曖昧といった事例は、「地球温暖化防止」の空気で縛って進められたダイオキシン対策等々数知れません。結果「KY」などという隠語と空気が蔓延し、子どもから大人までキョロキョロして空気ばかり読むことに腐心する甲州弁で云う「やたかしい」人間が大手を振る「だっちもねえ」社会状況になっているのでしょうか?宮台センセイ!

2012年8月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―172 『グリーン・アクティブ』

   「骨のある政治家がいない」「2世、3世議員ばっかりで世襲政治だ」等々、現在の日本の政治家については、嘆き節しか聞こえてきませんね。そんな中、甲州人・中沢新一(以下全て敬称略)が代表となって「グリーン・アクティブ」が結成されました。(パチパチパチ)
「まともな人間が政治に行かないから日本の政治が劣化した」と指摘されて久しい中、この「グリーン・アクティブ」の発起人、賛同人には、中沢新一、宮台真司、内田樹と云った「政治に行きそうもなかった」面々が名前を連ねているのが特徴で、思わずパチパチです。
著書「ペログリ日記」で「まともじゃない」烙印も押された田中康夫が孤軍奮闘、国政での活動と発信を続けていますが、数の政治では、点でしかありません。この面々も「まともな人間」か否かは、評価する側の価値観や信条で分かれるのでしょうが、個人的には、田中康夫やこの3人の著作で学ばせていただいてきましたから大いに期待しています。
 先ず、代表になった明治大学野生の科学研究所長 中沢新一は、「僕の叔父さん網野善彦」の著書もあるとおり前話で紹介した歴史家網野善彦の甥です。オーム事件の際には宗教学者として、麻原との関係も取りざたされ追われた過去もありますから「まともじゃない」とする方もいるでしょうが、ニューアカデミックの旗手として(もう古いか?)ジャンルを問わず、吉本隆明亡き後の現代日本を代表する思想家と云った感じです。
 都立大教授宮台真司は、ブルセラ社会学者として登場した感も強く「援助交際」という流行語の元祖でもありますから、まともじゃない?しかし、成熟社会に入った日本の現状と問題点を著書「まぼろしの郊外」で提示し「家庭、地域の学校化現象」に警告を発し、若者には「終わりなき日常を生きろ」と具体的道筋を示してきた社会学者です。鋭い視点と深い洞察、行動力は、同じ社会学者上野千鶴子と並ぶオピニオンリーダーでしょう。
 神戸女学院大教授内田樹の近書「日本の文脈」や「日本辺境論」は、以前当ブログでも紹介しましたが、武道家としてもご活躍ですし、フランス文学が専門ですが、「日本人とは何者なのか」「世界でどういう立ち位置を持っているのか」と云った社会問題にまで明瞭簡潔な答えを出し続けている、矢張り現代日本を代表する論客でしょう。
 この3人に共通しているのは、専門や象牙の塔に閉じこもらない自由闊達な研究と言論活動で、日本版緑の党とも云われる「グリーン・アクティブ」は≪これは「党」ではない。新しい富のかたち、新しい豊かさの感覚、新しい人間的絆のありかたをつくりだす全く新しいネットワーク型運動体です≫と、緑の山梨を本拠地にスタートした「政治運動」です。

2012年8月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―171 『気骨の甲州人O.Lの系譜』

 「甲州の地は、日本のオピニオンリーダーを輩出してきた風土である」と先に書きましたが、甲州が育んだ第55代内閣総理大臣・石橋湛山の経済評論家、政治家としての姿勢は、政党を問わず現在も事あるごとに引き合いに出される見事なものでした。日本が戦争へと傾斜していった昭和初期にあって、ひとり敢然と軍部を批判し続けた石橋湛山の壮烈な言論活動は、甲府市にある「山梨平和ミュージアム」の「偉大な言論人・石橋湛山コーナー」で確認することが出来ます。徹底した平和主義とリベラルで強靭な個人主義に裏打ちされた言論活動と政治姿勢は、色褪せるどころか現代にこそ必要なオピニオンリーダーであることを実感させてくれます。
 旧御坂町出身の歴史家・網野善彦も『ゆがんだ歴史観が侵略戦争を起こす』と繰り返し警鐘を鳴らし『明治以降の日本政府が選択した道は、「日本人」を頭から「単一民族」と見るまったく誤った自己認識によって、日本人を破滅的な戦争に導き、アジアの人民に多大な犠牲を強いた最悪に近い道であった』と通説とされてきた日本史を端から見直し、「網野史学」を確立したオピニオンリーダーでした。山梨でも山梨県立博物館基本構想委員長として、山に閉ざされた貧しい山梨県の通説を180度転換する史実を示し、その歴史光景を模型で再現するジオラマ展示の導入を図るなど山梨県の歴史を生き生き再現する展示改革を指導しました。甲斐源氏や武田氏中心の山梨県史にも異論を唱え、古代豪族の三枝氏や郡内地方で勢力を持った加藤氏を例に、武田氏以外の氏族研究の必要性や鎌倉時代中期には二階堂氏が甲斐守護であった可能性も示唆して、武田氏評価の再検討も提唱しましたが・・・・
 「貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だ」と甲州のマイナスイメージを逆手にとった、反骨のルポライター竹中労は、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作、話題作を世に送り出した甲府出身のオピニオンリーダーでした。特に『週刊明星』に連載した「書かれざる美空ひばり」で「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げた…中略…ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」と書き、部落解放同盟から糾弾されましたが、竹中は激怒して部落解放同盟に血闘を申し込んだという、あらゆる権力、権威に噛みつく反骨の人でした。父は画家の竹中英太郎で、妹の金子紫が「竹中英太郎記念館」を湯村山の麓に開設しています。絶版で入手不可能な著書が多い兄「労さん」のことも静かな紫館長が、やさしく話してくれますので、その兄妹のギャップも面白く、英太郎の絵画と「労さん」で2倍楽しめる記念館です。

2012年8月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―170 『論争で学ぶ』

 大量に生産された「団塊の世代」と称される私の世代は、一クラスに60人前後がひしめき、一学年12クラスと文字通り「塊(かたまり)」として扱われてきましたので、粗製乱造された世代でもあります。それはそれで、マギレテいれば通過でき、教育も管理も行き届かない居心地の良さもあり、個人的には恨み辛みなど全くありません。ですから、同級生と云っても顔も名前も知らなかったという事もお互い様です。
しかし、同級生の誰もが知っている際立った秀才とか美形と云った少年少女は存在しました。高校の同級生、末木文美士君は、誰もが認める秀才で、休み時間などプロレス技をかけ合って喜んでいた私たちを尻目に、新書や文庫本を静かに読みふけって、16、7歳にして大学者の風格を漂わせていました。東大でインド哲学を学び、そのまま東大教授となり退官後、国際日本文化研究センター教授として京都に移り、現在も仏教学の第一人者として活躍中です。

末木文美士氏の近刊著書→

 プロレス仲間の同級生から「末木君が、石原慎太郎の大震災天罰論に賛成するような文章を新聞に発表して、ネット上で批判されている。面白いよ」と教えてくれました。「末木が何で慎太郎を」と早速検索して、その「面白さ」に引き込まれてしまいました。これは、真っ当な論争が持つ面白さで、対立する異論を読むことによって、より良い結論がより分かりやすく整理されると云う【正反合(せいはんごう)】の法則を実感できる面白さでした。
末木君が提示した一つの判断と、それを批判する判断の正・反二つの判断が統合され、より高い判断へ到達すると云う、ヘーゲルの弁証法哲学を想起させる論争でした。末木君が歳若い面々からツイッターやブログと云う電脳サイトで批判され、それに応えるべく未経験のツイッターやブログという相手の土俵にも乗り、弁明、反論、解説し、更なる「再批判も歓迎」して「正反合」を重ねていく・・・私には、吉本隆明と埴谷雄高の「コム・デ・ギャルソン論争」以来の読みながら考えさせられる論争でした。それは、両者が真摯な姿勢で、人品、学識、詰まった思いを提示し合う中で、両者のみならず読者をも高い次元へと誘っていく貴重な学習機会にもなっている意味でも一読に値する論争です。前話のゴルフに続き仏教学や3・11の捉え方でも、甲州の地は、日本のオピニオンリーダーを輩出している「風土」であることを実感できます。

2012年8月19日日曜日

杉浦醫院四方山話―169 『佐藤文宏氏夫妻』

お盆期間中は「帰省したので来ました」と云う方が何組か来館されましたが、佐藤夫妻も空き家になっているという旧大和村の生家に「掃除や墓参りにたまには来ないとね」「ホームページで開館したのも知っていたので」とおっしゃいながら、暑い中来館下さいました。
「杉浦さんとは親戚なので、純子さんにもご挨拶してきました」と甲府の旧八日町が生家だと云う奥さんとご一緒に楽しそうに見学されました。
 調剤室から案内しますが、古いイギリス製の浄水器の説明をするとご主人が指さしながら見事な発音で全てのスペルを音読して下さいました。「これは本場仕込みの英語だな」とピンと来ましたが、「男は黙ってサッポロビール」と戒め次に進み・・・こんな調子で気さくに話しながら館内くまなく案内後、2階でDVDも鑑賞し「今日は来て良かったです」と帰り際声をかけていただきました。そこで立ち話になりましたが、「私も70になりますから名誉教授にされて、今年でおしまいです」と云うので「どちらの大学ですか?」と尋ねると「日大です。専門はゴルフです」と「天下の日大ゴルフ部ですか?」「コーチとしてプロゴルファーを100人以上輩出してきました」と、とても70歳とはお見受け出来ない鍛え挙げた体型が若々しさを表出していました。「今では息子にバカにされるほど飛ばなくなりましたが・・」と往時には自らもトップレベルであったことをさり気なく語ってくれました。来館者名簿にフルネームで住所まで残していただきましたので「佐藤文宏」で検索すると「日本大学経済学部教授 佐藤文宏のホームページ」があり、自己紹介欄で=1942年生まれ,山梨県出身。日本大学大学院博士課程満期退学。1975年日本大学経済学部就任,現在に至る。1975年から2000年まで日本大学保健体育審議会ゴルフ部コーチ就任。団体戦(信夫杯争奪全日本大学ゴルフ選手権大会)25連覇に貢献。現在活躍中のプロゴルファー約130名輩出。1988年度スタンフォード大学留学。担当科目 体育講義 教養研究「スポーツ文化論」=と、お話のとおりでした。そのホームページ上に講義のシラバスもあり特に次の記述が現代の大学教授の苦悩と現実を見るようで特筆に値します。
受講者に対する要望  講義中の私語は厳禁。飲み物は机の上に置かぬこと。原則として遅刻は認めない。授業中、携帯電話などベルを鳴らした学生は即退場、除名とする。教室内は脱帽、コートは脱ぐこと。これらの要望に応えられる者のみ受講されたし。
佐藤先生、あと約半年、学生に迎合することなくビシビシ厳しく指導してやってください。

2012年8月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―168 『顕微鏡』

 前話で、生物学には「顕微鏡」が要であると書きましたが、この顕微鏡の世界も日進月歩で大変奥が深く、顕微鏡マニアも多いそうです。前話で紹介した「天皇はなぜ生物学を研究するのか」の著者丁宗鉄氏も顕微鏡マニアを自認する医者ですが、顕微鏡を追いかけていく過程で、皇室所有の高機能顕微鏡の台数を知り、天皇と生物学の関係に興味も拡がったそうです。

 杉浦醫院診察室の机上にも健造先生、三郎先生が研究に使った顕微鏡が残っています。右の写真のように古色蒼然とした顕微鏡ですが「KRAUSS BAUSCH&LOMB」と彫られたプレートが付いていますから、顕微鏡マニアの間では現在も取引されているクラウスボッシュロムのレトロ顕微鏡です。          KRAUSS(クラウス)社はフランスの光学機器メーカーで、BAUSCH&LOMB(ボシュロム)社は、双眼鏡やコンタクトレンズで有名なアメリカの光学機器メーカーです。
 プレートには41871と番号も入り、更に「PARIS  ROCHESTER. N.Y.U.S.A  TOKYO」と刻印されています。パリにあったクラウス社とニューヨーク州ロチェスターにあったボッシュロム社が共同で開発製造したものなのか?クラウス-ボシュロムという会社があったのか?マニアの間でも特定できていないようです。なぜかTOKYOもあることから、東京の商社が両社とライセンス契約して日本のメーカーに造らせた可能性もありますが、確かな事は分かりません。

 分子生物学者の福岡伸一氏は、小学生のとき買ってもらった100倍程度のおもちゃの顕微鏡で覗いた蝶の卵や葉脈から顕微鏡オタクになり、現在に至っていると書いていますから、人間の好奇心や探究心の原点は、「ノゾキ」にあるようです。顕微鏡も覗いて初めて拡がる世界ですが、ニーチェの名言「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」を肝に銘じてノゾかないと火傷で済まないことも多いので、矢張りノゾキは要注意ですね。

2012年8月15日水曜日

杉浦醫院四方山話―167 『皇室フリーク-2』

 前話で、昭和天皇が生物学者であったことに触れましたが、現在の天皇も「ハゼの研究」や「水生小動物の研究」では、世界的に知られた研究成果をあげているそうですし、秋篠宮は「ナマズの研究」、黒田清子女史も山階鳥類研究所の研究助手でしたから、皇族の研究対象は「生物学」が定番と云った印象もするので、早速、丁宗鉄著「天皇はなぜ生物学を研究するのか」(講談社+α新書)を読んでみました。
興味や詳細を知りたい方は、本書を読んでいただくとして「なぜ生物学なのか?」についての著者の見解は、私には説得力がありましたから、ご紹介します。
本書によると日本の皇室が範とし、親しく交流してきたのは、ブータン国王一族ではなく、英国王室をはじめとするヨーロッパの王室や貴族であったことに「生物学」も由来しているそうです。これは、ヨーロッパ諸国の階級制度が背景にあり、現存する階級制度の最高位である貴族の嗜み(たしなみ)は、教養としての「学問」であり、たとえば日本の有産階級が好んでしたゴルフも下衆な嗜みで、あくまでも庶民のスポーツの一つであり、野球やサッカーのひいきのチームに熱を上げるのも庶民の嗜みと云った特権意識と差別意識に支えられた嗜みの階級化を日本の皇室も見本にした結果だと分析しています。
 その上で、日本の皇族に「学問を嗜み(たしなみ)」として取れ入れるに際し、国民の利害と密接に関連する政治学や経済学あるいは評価の分かれる歴史学などは差し障りがあるので、誰の利害も損なわず安心して発表もできる生物学が皇室御用達学問として定着したと論じています。「顕微鏡」が生物学研究の要ですが、家一軒分にも相当する最高級品を揃えることで、新たな発見も含め研究しやすい分野が生物学であったのだと云う著者の見解は、ズバリと云った感じで、大変面白く読めました。
ここからは私見で恐縮ですが、何かと話題の皇太子は、生物学では話題になりませんね。皇太子は、学習院大学文学部史学科で、専門は中世交通史ですから、歴史学を嗜みにしました。オックスフォード留学でもテムズ川の水運史を研究し、帰国後も学習院の大学院で中世交通史の研究を続け「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」と題する論文も公表しています。要は、生物学研究ご一家の中にあって文科系を選択した異端でもあった訳です。中世水運史は現在の利害とは直接には関係しないとはいえ、雅子妃選びにも繋がる皇太子の自己主張を感じます。この辺については、皇太子と云えばビオラ演奏で、音楽が嗜みのような報道が多く不満ですし、雅子妃の健康問題も含め諸々の情報も集めている私も結構な皇室フリークだと思いますが、「スカートまくりもお嬢のスカートじゃなければ意味がない」のピーピングTomと同レベルの類いであることも確かでしょう。

2012年8月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―166 『皇室フリーク-1』

 杉浦醫院の応接室と診察室には、昭和22年10月に昭和天皇が山梨に行幸した折、三郎先生が奏上書を書き案内した時の写真が、3点掲示してあります。
都が奈良や京都にあった朝廷の時代から、天皇が自ら地方に赴くことは稀でした。日本中至る所に「特産品」があるのは、天皇制によるものだと高校時代学びましたが、朝廷には、特産品から采女(うねめ)と称する女性まで全国各地から献上されるもので、皇室が地方に出向くのは、避暑や観光などに限られていました。
 昭和20年の敗戦を機に昭和天皇は「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」と話し、「全国巡幸」を始めました。その結果、昭和天皇は、山梨県だけでも昭和22(1947)年、昭和25(1950)年、昭和32(1957)年、昭和61(1986)年と4回来県しました。これは、戦後復興に励む国民にも歓迎され、天皇制存続の世論形成にも貢献し、多くの皇室ファンとも言うべき皇室フリークを獲得しました。これは、自衛隊の災害時の出動同様、被災地には天皇、皇后が訪問され、励まされるのが当たり前の現在の皇室と国民のありように継続されていますが、歴史的には60年余の浅い歴史ですから、愛される皇室づくりに自ら地方に打って出ることを始めた昭和天皇は、皇室の革命家だったとも言えます。 特に昭和天皇は生物学者でもありましたから、山梨と云えば地方病と云うことで、昭和22年の最初の巡幸で有病地帯を視察し、専門的な質問を三郎先生に尋ねられたり、以後の来県でも案内役の知事に「地方病のその後」について毎回尋ねたそうです。      三郎先生が昭和天皇を案内したことによるのかは定かでありませんが、杉浦家に残されている雑誌を拝見する限り、杉浦家の方々も「皇室フリーク」だったようです。まあ、雑誌の類は処分していくのが一般的ですから、他の雑誌は定期的に処分しても皇室関連の特集雑誌もひとまとめに処分するのは後ろめたく、はばかられた結果、皇室関連雑誌が多く残っているのかも知れません。この後ろめたさが「内なる天皇制」としてすり込まれているのが日本人だと説く学者もいますが、多くの蔵書家が共通して「蔵書を観られるのは精神のストリップのようで嫌だ」と言うのもその辺の機微もあってのことでしょう。

2012年8月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―165 『いーなとうぶしょうわ』

 広報昭和8月号に昭和町農産物直売所の起工と10月13日(土)オープンの記事があり、この農産物直売所の名称が「い―なとうぶしょうわ」となったことも紹介されています。「いーなとうぶ」と聞けば「イ―ハトーブ」と重なるのは私一人ではないでしょう。「公募して付けたのかな」とも思いましたが、総務課長が来たので聞いてみましたら「名前は、東部農協が付けた」ことが分かりました。記事にも「今回起工した農産物直売所は、町の補助金により中巨摩東部農業協同組合が主体となり建設・運営するものです」とありますから、東部農協が命名しても不思議ではありません。農協に宮沢賢治ファンが居てちょっと拝借したのでしょうか?「とうぶ」を「とーぶ」と表記しないなら「いーな」も「いいな」で統一して「いいなとうぶ」が真っ当でしょうが、これでは流石に「町の補助金で建ててもらって、いいな東部農協」と皮肉られかねないと、「い―な」とボカし、しっかり「とうぶ」は残したのでしょう。東部農協も日常会話では「とーぶのーきょー」ですから、ここは「イーナトーブ」としっかりパクッテいただき、平仮名表記の「しょうわ」に繋げ、「イーナトーブしょうわ」にして欲しかったなあ・・・と私は思いますが、大きなお世話か。           
名称にあえて拘ったのは、後発の農産物直売所ですから名称のインパクトも必要で、事業主体になる東部農協が語呂の良い「イ―ハトーブ」にあやかろうと云う発想は面白いと思ったからでもあります。イ―ハトーブは、宮沢賢治がエスペラントという世界共通語に親近感を抱いて学んでいたことから、賢治の故郷岩手県をエスペラント語で発音すると、イーハトーヴになることから、理想の土地とか、理想郷とかの意味も込めて賢治が岩手をイーハトーヴと命名した夢や理想を内包した固有名詞です。賢治は、盛岡をモリーオ、花巻をハームキヤ、東京をトキーオ、仙台をセンダード等々、実在の地名をベースに多くの地名を造語して童話等に登場させています。これは、後にタモリが、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いて、「六ヶ国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」を編み出したのと共通する「遊び心」にも繋がります。
 現在、市川大門線にある昭和町の農産物直売所は、「JA中巨摩東部昭和支所農産物直売所」が正式名称で、建物も名称同様、右の写真のとおり「お堅い」感じですが、新たな「い―なとうぶしょうわ」は、語感同様、夢や希望、理想を感じさせてくれる施設になる事でしょう。
それにしても「い―なとうぶしょうわ」のロゴを作成する上でも「イーナトーブしょうわ」の方が、デザイナーも腕の奮いようがあるように思うのですが、酒も飲まずにしつこくなるのは、間違いなく加齢によるものでしょう。

2012年8月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―164 『風土を伝承するー5』

昭和町風土伝承館ですから、昭和町の文化風土醸成の歴史と人々を紹介して、このシリーズのまとめとします。この地に生まれ育ち、この地で生活しながら或いは東京に出て文化活動に励まれた先達個々については、昭和33年発行の「昭和村誌」にジャンルごと個人名で紹介されていますので、詳細は図書館にもある村誌でご確認いただくとして、この村誌を監修した宮崎正一の存在と力量は見逃せません。読売新聞の硬派な筆陣で知られ、同時に短歌運動30年の文芸家として全国区で活躍されていた方ですが、体調を崩して西条新田に帰省、療養中に村誌編纂が重なり、懇願されての監修役だったようですが、後の昭和町誌の原型ともなるまとまった内容の村誌を残した功績は多大です。尚、当四方山話129話『宮崎家長屋門』でご紹介したのが、宮崎正一の生家です。

 健造・三郎父子は、いわゆる近代医学と言われる西洋医学を修めた医者ですが、杉浦家は、江戸初期からこの地で代々漢方医を営んできましたから、杉浦醫院5代目杉浦道輔も漢方医でした。健造の祖父ですが、6代目の父大輔が早世したため、大輔の弟、嘉七郎が7代目となり、8代目の健造、9代目三郎に引き継がれました。
 昭和4年に母家に続く病院棟を建設した折、健造は病院棟の前庭に「清韻先生寿碑」を建立しました。杉浦健造先生頌徳誌の中には「道輔ハ文学ニ秀デテ武術ニ長シ詩歌絵画ニ堪能ニシテ特ニ好ンデ墨竹ヲ描キ名誉ヲ博シ杉浦家ニ遺筆ヲ残ス」とあるように、道輔遺筆の墨竹画と書が、十数点現在も杉浦家に残っています。健造も歌を詠み作品も残っていますから、祖父の影響と思慕から道輔の偉業を後世に伝えていこうと健造先生は「清韻先生寿碑」を建てたのでしょう。

 この清韻先生=道輔の前の江戸時代中期、西条の若宮八幡宮の神職にあった山本忠告も山県大弐と並ぶ郷土の学者です。京都に遊学して神道や国学、和歌を学んで帰郷し、加賀美光章、飯田正紀らと皇道の復古を説くと共に音楽や和歌に長じ、歌集「月明集」などの著書は、現在東大図書館にあるそうです。山本忠告の子孫である山本節も山日新聞記者や甲府商業教諭として、竜馬と千葉さなの論考や漢詩の指導などで活躍した異才でした。
 この地に生まれた多くの先達の文化的気質が、柳沢八十一氏や油川行広氏など昭和町文化協会設立の中心メンバーに引き継がれ、現在に至っていることを「昭和村誌・第4編生活のゆとり」の中で実感することが出来ます。(この稿、敬称は略させていただきました)