2014年11月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―382『庭園の紅葉をお楽しみください』

杉浦醫院庭園の紅葉が見ごろを迎えました。庭園は無料でご自由に散策できますから、

是非ご覧ください。


2014年11月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―381『昭和9年の新聞ー2 地方紙 』

 三郎先生が、父の遺志を引き継ぐ意味もあってか診察室に掲げた健造先生の写真額の裏には、前話で紹介した昭和9年2月20日付け「東京朝日新聞」と共に「山梨日日新聞」「山梨毎日新聞」「山梨民友新聞」の計4紙がありました。日付けも昭和9年2月15日、16日、18日と全て2月20日前の新聞で、当時の杉浦家ではこの4紙を併読していたことも伺えます。




東京朝日新聞は現在の朝日新聞ですし、山梨日日新聞も昔の名前で出ていますが、「山梨毎日新聞」は、現在ある毎日新聞とは無関係で、山梨の地方紙の一つでした。

 

 1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦までの15年間は、翼賛体制で軍国主義一色に染められた日本であったことは歴史が教えていますが、国民の世論を操作する上で、新聞等のマスコミへの統制も続きました。

その代表的な一つが「新聞統制」で、地方新聞を「一県一紙」体制にするのを目的に統合、削減を命じました。山梨県では、1940年(昭和15年)に「峡中日報」と「山梨民報」が、翌年の昭和16年に「山梨毎日新聞」が「山梨日日新聞」に統合され、山梨日日新聞が山梨の地方紙となりました。


 昭和9年当時は、杉浦家で4紙を併読していたように、県内には少なくとも4紙以上の地方紙や地域紙があったのでしょうが、6年後には、山梨日日新聞だけに統制されたことが分かります。

 9年当時の「山梨民友新聞」と15年に統合された「山梨民報」が同一紙なのか?今ある資料では断定できませんが、新聞統制で統合された山梨の地方紙には「山梨民友新聞」の名前は残っていませんから、「山梨民報」に変わっていた可能性大です。


 敗戦を機の民主化で、地方紙の「一県一紙」体制も解かれ、昭和21年には「山梨時事新聞」が創刊され、昭和44年までは、山梨日日新聞と山梨時事新聞の二地方紙があった山梨県でしたが、現在は山日新聞一紙の独占状態ですから、現象的には戦時中に戻ってしまった状況です。この選択の余地のない地方紙一紙状態は、県民にとっても心ある新聞人にとっても決して望ましい状況とは言えないのではないのでしょうか?

2014年11月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―380『昭和9年の新聞-1 広告 』

 杉浦醫院には、健造先生が東京銀座・江木写真館で撮った額入り顔写真が、診察室を見守るように飾られています。来年度オープン予定の「山梨近代人物館」の準備作業を進めている県立博物館の学芸員が、健造先生のこの写真をスキャンするために来館しました。



 初めてこの額を降ろして中の写真を出しましが、写真の裏には額との厚さ調節に何枚かの新聞紙が入っていました。

下の写真は、昭和9年2月20日付けの東京朝日新聞の全面広告です。

 何時の時代も広告の命は見出しであることに変わりなく、ドーンと「迫る!試験地獄」のコピーに「すし詰め教室」で勉学に励む「生徒諸君」の写真で受験競争の深刻さを表出し、この「受験準備戦線」に勝ち抜くには「健康保持の秘訣」が必要であるとさりげなく謳い、「ブルトーゼ錠」が効く!と云うコンセプトで、「生命の源泉」でもあるブルトーゼ錠の連用で「如何なる難関をも突破せられよ」と結んでいます。

 この全面広告は、現在の「藤沢薬品工業」の前身「株式会社藤澤友吉商店」が出していますから、「親子数代で愛飲しているブルトーゼ錠」と銘打って、引き続き発売されているのが薬効かと思うのですが、私の世代(団塊)でも「ブルトーゼ錠」は記憶にありません。

殺菌剤として中国等で戦う兵士の水あたりなどの特効薬として愛用された「忠勇征露丸」が、戦後「正露丸」となって現在に引き継がれていますが、その服用については物議も醸していますから、戦前の栄養補給剤ブルトーゼも食糧事情が一変した現代では「信じられない薬」だったのかも知れません。


 健造先生は、昭和8年9月10日に村葬で送られ67歳の生涯を終えていますから、診察を見守る健造先生の写真額は、引き継いだ三郎先生が、約半年後の昭和9年2月20日以降に掲示したことが、この新聞で判明しました。 

2014年11月19日水曜日

杉浦醫院四方山話―379『皇太子生誕記念ピアノを使った院内コンサート』

 16日(日)に当館庭園では、実行員会「マイパラ」の主催で、「杉浦もみじ伝承の会」が開催され、500人余の参加者で、用意した4か所の駐車場では足りず、急遽アルプス通り沿いの駐車場を杉浦精さんに手配していただき、事なきを得た程でした。             このイベントに合わせ、主に横浜や鎌倉など湘南をフランチャイズに演奏活動をしている「ライトハウス・アンサンブル」のメンバーが、ボランティアで院内コンサートを開催してくださいました。

 ライトハウスアンサンブルは、バイオリンやチェロ、ビオラの弦楽奏団ですが、今回はプロピアニスト市田良子さんのご協力で、純子さんたち三姉妹が使った皇太子(現天皇)生誕記念家庭用グランドピアノを加えた特別プログラムを用意いただきました。

 

 純子さんも「まあ、すてき。この家も父や祖父もさぞ喜ぶことでしょう」と、会場に出向きピアニスト市田さんと手を取り合って挨拶を交わしました。 昭和4年に病院専用棟として建築された会場ですが、音楽コンサートまで想定して造られたわけではありませんから、演奏家には無理があったと思いますが、「演奏しながら歴史的な重みをひしひし感じ、経験したことの無い気持ちで演奏できました」と、轟さんからおっしゃっていただきましたが、聴いた方からも「アマチュアと言っていたけどレベルの高い演奏で楽しかった」と好評でした。

 

 この日のために正午からと2時からの二プログラムをご用意いただき、2時からの「言葉と音楽のコンサート」には、劇団昴の女優吉田直子さんの朗読も入り、内容的にもハイレベルかつ多彩なコンサートを開催いただきました。

 実行委員会マイパラとライトハウスアンサンブルの皆さんは、自分たちの活動を楽しみながら、参加した方々にも愉しんでもらいたいというメンタリティーが共通していました。

 予算や仕事でやるんじゃなく、付き合いや動員でやるんじゃない、「何をやるかやるのは自分」の判断で、時間はもちろんお金も自腹で参画しようという「やる気」こそ、「協働の町づくり」の原点であることを実感させてくれた今回のイベントでした。

 

 

2014年11月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―378『伝染病と感染症』

  「うつる」病気の総称を感染症というのでしょうが、正確には、環境中[大気、水、土壌、動物、人など]に存在する病原性の微生物が、人の体内に侵入することで引き起こす疾患を感染症と云うようです。

  ヒトスジシマカが媒介する「デング熱」騒動がおさまったかと思ったら、「急速に感染者数を拡大している」と、今度は「エボラ出血熱」が、前例のない大流行であると報じられ、感染症が人々を不安に陥れていると言っても過言ではありません。


 過度?に衛生的な無菌、無臭社会が構築された現代社会ですが、約50年前の昭和36年の山梨県の感染症の統計を高橋積さんが提供してくれましたので、感染症への対応を考えたり、半世紀前の山梨を知る上でもご紹介しておきたいと思います。

 

 1998年(平成10年)までは「伝染病予防法」があり、赤痢(せきり)や疫痢(えきり)のほか腸チフス・パラチフス・ジフテリア・猩紅熱・ポリオ・日本脳炎などが「法定伝染病」として指定されていました。

すっかり聞かなくなった「赤痢(せきり)」と「疫痢(えきり)」は、赤痢菌が腸に感染することが原因で起こる感染症ですが、NHKの「花子とアン」でも花子の子は疫痢で亡くなったストーリーだったように一般的でした。大腸の赤痢が重くなって小腸にまで回ったものを疫痢とする分かりやすい分類もありますが、医学的に正しいのかは分かりません。

 

 この「赤痢」「疫痢」の昭和36年の山梨県の発生数は994例と1000人近くが感染し、疫痢で一人が死亡しています。この年の山梨県の「法定伝染病」の発生数は、赤痢を筆頭に合計1113例で、疫痢とジフテリアで、二人が亡くなっています。

 

 また、県民のカイチュウをはじめとする寄生虫の卵の保卵率も29%あり、「ムシクダシ」はポピュラーな日常薬でもありましたが、寄生虫対策が始まった昭和26年の寄生虫卵の有卵率は、95,8パーセントですから、県民のほとんどがカイチュウ等の寄生虫と共生していたことが分かります。学校での「検便」などの徹底で、10年後には29%へと激減し、現在では1%前後のようです。


 寄生虫病も感染症ですから、旧法定伝染病も含めると昭和36年当時の県内の患者数は、相当数になることが分かります。それらの反映として、昭和26年の日本人の平均寿命は、男60,8歳、女64,9歳、昭和36年には、男66,3歳、女70,79歳と推移して、現在に至っています。

 

 「伝染病」と云う言葉は「うつるんです」と、端的でいいと思うのですが、曖昧にボカスのが流行りなのでしょうか「感染症」に置き換わって、「伝染病」は物言わぬ動物、家畜に特化して「家畜伝染病予防法」として残っているのも不思議ですが、周りに感染者が多数いた半世紀前は、ニュースになることもありませんでした。

無菌清潔社会は、感染症の発症をニュース的価値にまで高めたことにもなりますが、それは「先進国」と呼ばれる国々のことである事実も見落としてはいけないことを統計は物語っているようです。

2014年11月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―377『コレクション考』

  杉浦家は、初代・覚東氏が当地で江戸時代初期からから医業を営み、7代道輔氏まで漢方医で、慶応2年生まれの8代・健造氏は近代医学を学び、9代・三郎氏まで引き継がれた医業・医者の家系であり、この一帯の地主でもありました。

 杉浦家歴代が構築してきた家風は、医学に限らず、書や絵画を描き歌を詠み、蛍を愛で、茶を嗜む等々の文化的嗜好が顕著で、代々が収集してきた書画骨董をはじめ「杉浦コレクション」と呼ぶにふさわしい収蔵品が残されています。



 「コレクション」は、本来の実用的な機能から切り離されて、日常とは別の体系に組み込まれているモノを云いますから、杉浦醫院に多数残る「カルテ」は、医者には必要な実用品でしたから、杉浦家のコレクションとは言えませんが、風土伝承館杉浦醫院にとっては、史料的価値のあるコレクションとなります。

また、売るために集められた品物の集合もコレクションではありませんから、旧温室に展示してあるマルヤマ器械店から寄贈された医療機器も丸山さんにとってはコレクションとは言えませんが、当館にとっては、カルテ同様貴重なコレクションと云えます。

 

 同時に、「杉浦コレクション」として保存していく場合は、構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていることも大切な要素となります。

杉浦純子さんから町にご寄贈いただいた杉浦家の収蔵品は、より良い保存と必要な修復など「特別な庇護」が町には求められます。杉浦コレクションを保存しながら公開していくために町では、土蔵と納屋をギャラリーへと改修工事を行ったのもその具体化の一つですし、一点一点写真に撮り、寄贈品目録の図録化作業を進めています。

 三郎先生の長女・純子さんと二女郁子さん、三女三和子さんはご健在で、純子さんは東京在住の妹さん達とよく電話で話していますが、純子さん同様妹さんたちからも「町で残してもらうのが一番だから、私たちは何もいらない」とおっしゃっていただき、現在に至っています。


 

 ここに来て、純子さんのもとには「町にやるなら、私に譲って欲しい」と云う要望も多いようですが、個々の収蔵品が個人に散逸した場合、集合体としての杉浦コレクションの価値は落ちますし、個人に渡った品の行く末も案じられます。


 昭和町西条新田に江戸時代から続いた杉浦家が代々医業を営み、この地の風土病であった地方病の研究治療の第一人者として患者を救い、地域医療に貢献しつつ文化的趣味生活の一環として価値ある品々を収集してきた証が、杉浦コレクションです。

モノには,本来それにふさわしい場所というものがあります。「取らずともやはり野に置けレンゲソウ」の句を出すまでもなく、その辺については、相続争いして分散していた文豪のコレクションも最終的には公共施設に寄贈され、記念館となった例など歴史的教訓も多数ありますから、杉浦家の意志を尊重されるよう切に望みたいものです。

2014年11月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―376『土蔵の建築年が判明』

  純子さんは「お蔵は、母屋(明治25年築)の後に建てたそうですから、明治の終わりか大正時代の建築だと思います。納屋はお蔵が手狭になって建てたようですが、新館(昭和4年築の病院棟)より前ですから大正時代だと思います。」と、土蔵と納屋の建築について教えてくれましたが、確かな建築年は不明でした。



 新たに純子さんから預かった手紙や写真などの資料の中に土蔵新築に伴う石屋さんの領収書があり、土蔵の建築年が確定できました。

 手書きの領収書は、「甲府市穴山町 志村三代蔵」と云う石屋さんのもので、「土蔵下に入れた山崎石の代金や石工十五人の工賃、セメント代金」等が記載され、「明治四十五年三月七日」とあります。

 

 登録有形文化財の申請をした折に来た文化庁の調査官も「明治後期から大正にかけての典型的な土蔵づくりの建物」と評していましたから、符合します。


  明治45年は、1月から7月までで8月以降は大正元年でもありますが、この時代の「六拾参円」が、現代の幾らに相当するのかはモノによっても違い換算は難しいようです。

例えば、明治45年の白米10キロは、1円位だったそうですから現在は約3500倍位になっているわけですが、消費者物価等の統計資料を単純に換算すると明治末期と現代では、約8000倍となるようで、これも家などの建築費になると大工さんの賃金も入ってきますから、単純には比較できないようです。


 杉浦家に残る古い資料を拝見していつも感心するのは、この時代に書かれたものは全て達筆な手書きであることです。石屋の主が記した(であろう)この杉浦様宛の領収証もご覧の通りです。

 

 和紙に墨の毛筆が主要な筆記具であった時代には、専門書家以外にも数多くの能筆の人が存在したわけで、それらの人たちの書は、決して書家と呼ばれる専門家の書に劣るものではないように私には思えます。書家の字が見事なのは当たり前ですが、市井の石屋が仕事の一環で書いたこのような書を目の当たりにすると、この人たちは、自分が能筆であることは意識していたかも知れませんが、書家になろうなどとは考えたこともなかったのが、またとても素敵なことだと思えてきます。