2019年12月26日木曜日

杉浦醫院四方山話―601『加茂悦爾先生』

 過日、広島大学の松嶋准教授と藤沢市にある三吉クリニックの広瀬先生が巨摩共立病院の加茂名誉医院長の話を聴きに再来館されました。

 お二人は「日本社会臨床学会」の学会員で、日本の臨床医療や医療人類史について研究しています。

先に紹介した松嶋氏の著書「プチコ・ナウティカ」は、イタリアの精神医学の先駆性を日本に紹介した本ですが、現在、日本の医学部学生の必読書に指定されているそうで、既に3刷を重ねています。その松嶋先生が、現在アプローチしているのが「日本住血吸虫症」で、実際に患者を診たり研究をしてきた臨床医の話を聴きたいと云う事で、加茂先生をご紹介した次第です。


 加茂悦爾先生は、88歳になりますが頭脳明晰、足腰壮健で姿勢よく車の運転もしているので話も速く、お二人の来館目的や指名の経緯等を話すと「それなら、横山先生も」とか「梶原さん、薬袋さんも適任では?」から「海岸寺もヒントになるのでは?」と云ったアドバイスもいただきましたが「今回は加茂先生の話に絞って・・・」と云うお二人の意向を伝えご協力いただきました。


 地方病を文化人類学的視点で研究しているのがお二人であることも事前に知らせましたから、加茂先生はそのための資料も持参くださいました。


 その一つは、産婦人科医でもあった功刀博氏が1975年(昭和50年)に「山梨生物」誌に発表した「山梨県の第三紀以降における地史的要素と植物群の変遷」と云う論文です。

 その論文の中に2200万年前、甲府盆地が海であったことを示す「グリンタフ変動の頃の海岸線」の図があり、中国と甲府盆地は海で繋がっていたことが示されています。

 お二人がフィールドワークに山梨や当館に足を運んでいる主目的は「なぜミヤイリガイが甲府盆地に集中したのか?」ですから、加茂先生は「それは分からん」としつつも「日本住血吸虫症が中国には古代からあったことから海を渡った船によって持ち込まれたのでは?」の論拠として、功刀氏の論文も持参されました。

 

  同時に後に広島大学医学部の教授になった加茂先生の同級生・辻守康氏が、甲府中学在学中「細菌二就イテ」と題した論文を昭和22年4月発行の自治会誌「希望」に寄せていて「あの頃から感染症の研究をしていたんだから広島大学でも有名な教授だったと思う」と、お二人の来館に合わせ必要となる資料を用意してくださいました。

 

 上記2誌は各40年と70年以上前に発刊された冊子ですから、私たちは先生の記憶力と整理・保管力に驚き感心してしまいましたが、何より本年の締めくくりに加茂先生の決して平穏とは言えない医師人生と苦難に遭遇した時々の誠実な対応とブレない姿勢についての話を聴けたことは、大変示唆に富み有意義な内容で驚異の若さの秘訣ともなっていることを実感できました。


 本年は、今回のお二人と並行して青山学院、独協医大の共同研究のメンバーが、それぞれのテーマで複数回来館いただき、私たちも知りたい「謎の解明」に当館資料を活用したり、当館を基点にフィールドワークを重ねたりと当館がアカデミックなジャンルからも光が当てられたように思います。

 

 引き続き、来春も麻布大学のさくらサイエンス一行様、北里大学寄生虫学教室の皆様等々、年度末まで当館への来館予定が続きますが、加茂先生始め山梨県内で地方病終息に関わった多くの方々が、それぞれの要望に合わせてご協力いただいてきたことが大きな要因となっています。

今年一年お世話になった皆々様にこの場をお借りし御礼申し上げ、合わせて、今後ともよろしくご指導ご鞭撻のほど申し上げます。

2019年12月8日日曜日

杉浦醫院四方山話―600『薬袋勝氏の証言収録』

 先日、青山学院大学飯島研究室と獨協医科大学千種研究室の先生方が来館され、二階座学スペースに薬袋勝氏を招き、インタビュー形式で薬袋先生の証言を聞く機会を設定してくださいました。

 

 青山学院の飯島渉教授は、「衛生と近代ーペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会ー」と云う著書を法政大学出版局から出しているように「医療社会史」が専門の歴史家です。「日本の医療史では、日本住血吸虫症終息史が住民も参加してですから最大規模で一番ですが、特に戦後の山梨県での取り組みとそれに大きく関与したGHQとの関係など未だ解明されていないことがたくさんあります」と云うことで、昨年から当館所有の資料の分析と保存を進めていただいてきました。

 

 獨協医大の千種教授は、現在の日本住血吸虫症の研究では第一人者で、桐木助教授と共にフィリピンはじめ今なおこの病に苦しむ患者の救済にも当たっていますが、山梨には毎年ミヤイリガイの採集に来て、当館にも学生を案内くださっています。医療史の飯島先生も地方病については大変ご造詣が深い訳ですが医師ではありませんから、千種教授とのコラボも必要なのでしょうし飯島教授の研究内容は千種教授にも有意義なことから共同で研究に当たられているようです。


 前回は、梶原徳昭氏の話を収録しましたが、今回は梶原氏の先輩でもあり一貫して県の地方病行政に携わってきた薬袋勝氏の証言を収録しました。薬袋氏は「山梨県立衛生研究所」の歴史的変遷をたどる中で、薬袋氏個人の感想も含め大変興味深い話を自嘲気味に話されたのが印象的でした。

 薬袋氏は、学生時代を送った昭和40年代前半の大学の研究室に馴染めず春休みや夏休みになると甲府に帰っては甲府の中心街にあった山梨県立衛生研究所の前身の研究室に通って職員と一緒に研究していたそうで、特に公務員を希望していた訳ではなかったけどそのままそこに就職したのがこの生活のスタートだったと語り出しました。


 確かに昭和40年代の大学も県庁も現在からするとまだまだのどかで同じような経緯から都教委に採用された私には時代の空気と云ったものが感じられ親近感が湧きました。同時に公務員と云った職業は基本的には余り人気のない職種として軽んじられている方が変なエリート意識で小役人根性だけと云った人間にならずいいのかなぁ~とも・・・・


 薬袋氏の話で特に興味深かったのは、戦後いち早くGHQの医薬補給部隊が杉浦醫院を訪ね、三郎先生との親密な交流を続けた経緯についての証言でした。

 GHQは、なぜ県の研究機関であり地方病対策にも当たっていた県立衛生研究所ではなく杉浦醫院と云う個人病院を通して甲府盆地でこの病気の研究を推進したかと云う謎が解けたからです。

 それは、アメリカで主流となった思潮・プラグマティズム(実用主義とか道具主義とも訳される) からすると面倒な手続きやハンコ行政の県の組織を通すより、地方病の権威でもあった杉浦三郎と云う個人医師を介しての方が手っ取り早くスムーズに事が運べたからだと思いますと云うのが薬袋氏の見解でした。


 純子さんも杉浦家とGHQ研究者との親密だった交流をよく話してくれましたし、杉浦家で和服を着せてもらったアメリカ人女性と杉浦ファミリーの記念写真や三郎先生宛ての英字書簡が数多く残っているのも薬袋氏の証言を裏付けています。

 また、昭和21年、GHQが寝台車・食堂車・研究車からなる3両編成の列車を甲府駅に常駐させて、ここを拠点に甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤の研究・実験を重ねPCPを開発したと云う、市民から「寄生虫列車」とも呼ばれていた研究車内の写真に唯一の日本人として三郎先生が写っているのもそんな関係からでしょう。


 後のベトナム戦争等で使われた枯葉剤と云う名の科学兵器の原料ともなったPCPを甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤として当時住民を動員して撒いた映像も残っていますから、飯島・千種両教授等の地道な研究の中で、GHQの果たした地方病終息の役割やより正確な評価も明らかになっていくことは、歴史学の醍醐味でもあると思えた薬袋氏へのインタビュー収録でした。