2017年7月23日日曜日

杉浦醫院四方山話―510『殺貝剤開発と田の草取り』-1

 梅雨明けと共に今年は空梅雨で、早くも山梨県内の農作物に影響が出だしたとの報道もありますが、いよいよ本格的な夏の到来です。

甲府盆地の夏は「炎天下」と云う言葉がピッタリの暑さが有名です。

現代ではエアコンの普及も進みそれなりの対暑策も講じられますが、日本住血吸虫症終息に向けて殺貝活動全盛期の昭和30年代までは、この炎天下の農作業である「田の草取り」が、甲府盆地の農民を苦しめていた過酷な労働でした。


 殺貝活動の中で開発された化学薬品が思わぬ副産物を生んで、甲府盆地の農民を「田の草取り」から救ったという地方病にまつわる明るい話が、宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」と云う本に記されていましたので、要約しながら報告します。


 宇野氏によりますと、その中心になったのが杉浦三郎氏と県農業試験場の由井重文技師でした。当時三郎先生は山梨県医学研究所の地方病部長もしていましたから、新たに開発されたサンブライトおよびDN-1の薬液が田んぼに侵入して水稲に薬害が出ることを案じ、三郎先生から山梨農事試験場の作物科科長であった由井重文氏に電話で薬害試験を依頼したのが始まりでした。

宇野氏はこの電話を「これは、殺貝剤が水田除草剤へと転換するきっかけを作った重要なコミニュケーションであった」と指摘しています。


 中間宿主ミヤイリガイの殺貝剤としては、長い間消石灰や石灰窒素が使われてきました。戦後GHQが甲府駅に停車させこの病気を研究した「寄生虫列車」では、強力な殺貝剤の開発も行われました。約6000種の化合物の中からミヤイリガイ殺貝に有効な2種類、「サンブライト」と「DN-1」を特定したそうです。

 

 この新開発の薬剤を実験指導者・杉浦三郎氏のもとで、1953年(昭和28年)5月15日に実験調査が行われました。散布する土地の土質条件の違いも考慮して県内4か所を選定してのフィールドワークでした。


 その結果、「サンブライト」と「DN-1」は、ともに90パーセント以上の殺貝効果が認められ、ミヤイリガイに有効な薬剤であることが証明されました。それを受け、三郎先生が由井技官に「ミヤイリガイ殺貝には有効だけど、これを水路などに散布することによって、水稲を枯らす心配はないかどうかを試験して欲しい」と云う依頼になったそうです。

 

 それは、この薬剤の散布で魚害ともいうべき魚の大量死を目の当たりにした三郎先生ですから、農民の命でもある米に被害が及ばないことの確証がなければ散布できないとの思いからだのでしょう。

2017年7月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―509『湯村温泉・昇仙閣・常盤ホテル』

  「甲府の奥座敷」とも呼ばれた湯村温泉は、湯村山のふもとにあり、歴史的には弘法大師の杖により湧出した温泉だとか、葛飾北斎から太宰治まで文化人が愛した温泉地とか言われてきました。また、真偽はわかりませんが「武田節」も湯村温泉が発祥の地との記載もあります。

 現在の湯村温泉では、老舗「常盤ホテル」に対し新興「甲府富士屋ホテル」といった図式も感じますが、甲府富士屋ホテルは本当に「新興」なのか?ひょんなことから調べてみることになりました。


 甲府富士屋ホテルのサイトを見ると結婚式等の会場も大小幾つかあるようですが、メイン会場は≪披露パーティ/SHOUSENKAKU【昇仙閣】≫と、懐かしい「昇仙閣」の名前が出てきます。

 山梨県内の「歴史資料」をネットで公開している「峡陽文庫」は、その質の高さと詳細さに加え貴重な画像資料が豊富で、当サイトへの転載使用も許可いただいて来ました。甲府富士屋ホテルの歴史もこの「峡陽文庫」に上記画像と共に下記の簡潔な記述がありました。


『昇仙峡ホテルは昭和12年に甲府市郊外(当時は西山梨郡大宮村:昭和17年4月1日に甲府市に合併)の湯村温泉に開業し、同17年には名称を『昇仙閣』と改めている。
 その後、昭和37年10月5日には国際興業株式会社により買収され、新館の建設など拡張・整備されながら営業されてきたが、昭和63年に営業を終了し同年2月5日に昇仙閣跡に新たなホテルの建設が着工され、平成元年10月17日に『甲府富士屋ホテル』がオープンし現在に至っている』


 上記から、現在の甲府富士屋ホテルは、山梨の名勝地「昇仙峡」の入り口のホテルとして、昭和12年に「昇仙峡ホテル」の名称でオープンし、5年後に「昇仙閣」と改め昭和37年まで常盤ホテルと並ぶ湯村温泉の代表的ホテルだったことが分かります。そういう意味では、甲府富士屋ホテルも湯村温泉の老舗ホテルであることが、敢えて「昇仙閣」の名前をホール名に残していることでもうかがえます。

敗戦前の昇仙閣には、東京目黒にある鷹番小学校の学童が集団疎開していたそうですから、昇仙峡は秘境として人気があった時代、旧西山梨郡大宮村の湯村温泉も現在とは違った山村だったのでしょう。


 以前、古老から「昔の馬返し場所だった所が、今の常盤ホテルだ」と云った話を聞きました。

甲府市中心街(柳町周辺)から甲府駅や石和、富士川舟運の鰍沢等を馬車が結んでいた山梨馬車鉄道が後に山梨軽便鉄道となったそうですが、その資料には甲府中心街と湯村温泉を結ぶルートの記載はありませんでした。しかし、現在の常盤ホテルは、湯村温泉郷の入り口に位置していますし、甲府の奥座敷に定期馬車が人を運ぶ実需もあったでしょうから、古老の話には信憑性もあります。

この山梨馬車鉄道や山梨軽便鉄道は、山梨県の民間公共交通の元祖でしょうから、詳細を調べていきたいと思います。