2012年7月28日土曜日

杉浦醫院四方山話―163 『風土を伝承するー4』

 当ブログで、木喰上人と微笑仏の研究に打ち込んだ丸山太一氏について何回か紹介してきましたが、山梨県の在野の研究者として、丸山氏とも親交のあった中沢厚氏の業績も伝承していく必要があります。息子である中沢新一氏が「どうして父さんはそんなに石に興味があるの」と問いかけたというエピソードがあるように県内の道祖神や丸石をつぶさに調査し、『石にやどるもの―甲斐の石神と石仏 』にまとめました。その後、学生運動昂揚期にデモ隊の投石をテレビで見て「つぶてとは何だったんだ」と、自分が少年時代経験した、笛吹川の石合戦の記憶から「つぶて」の研究へと進み、法政大学出版会からの『つぶて』を生みました。 
 都市化と管理社会の進行で、山梨県内でも石を投げて遊ぶ子どもの姿はすっかり消えた昨今ですから、「つぶて」も死語と化し、説明が必要になりました。『広辞苑』には、『つぶて[飛礫・礫]小石を投げること。また、その小石』とありますが、川の両岸に陣取った子どもや青年が向こう岸の相手目がけて石を投げ合う競技でもあり遊びが、かつてありました。それは、大人への通過儀礼としての意味も内包していたことを中沢氏は指摘しています。また、池や川の水面に石を投げ「水きり」の回数を競う遊びも日常茶飯事でした。

 人間は、鳥や魚、動物が出来ない「投げる」という動作は得意ですから、野球や球技もこの投てき能力を基本に発達したスポーツです。石投げや水切りは、離れた地点に変化を生じさせることに喜びを見いだした人間だけの遊びで、この投てき能力は、人類の文明や精神に大きく影響しきたことは確かでしょう。現在のインターネットも石投げや水切り遊びの延長上―より遠くまで、速く、正確に―に構築された文明だとも云えますから、「安全」だけを優先して、絶やしてしまうのは考えものです。
 
 水切り遊びをしながら、石の形状や重さ、投げ入れる角度とスピード、その為のフォーム等々を工夫し学習したことは、「物理学入門」でもありました。水きり現象は途方もなく奥が深く、謎の多い現象ですから世界中の少年や大人がハマった遊びだったのでしょう。管理スポーツの少年野球をはじめとするスポーツ少年団等で汗を流すのと違って、気晴らしやストレス解消に石を投げて遊ぶという楽しみが奪われた現代社会、子どもにとって幸せか否か分からなくなります。                          

 そんなことも考えさせてくれる中沢厚氏の論考も語り継いでいかないと消え去ってしまいそうです。

2012年7月27日金曜日

杉浦醫院四方山話―162 『風土を伝承するー3』

 山梨のお土産と云えば「信玄餅」か「黒玉」と共に浮かびますが、この「信玄餅」の本家争いも記憶に新しい所です。もともと「信玄餅」は「金精軒」が登録商標をしていた商品ですが、「桔梗屋」が、新たに茶巾パケージで「信玄餅」を発売したことから、「金精軒」と「桔梗屋」の間で、信玄餅の本家争いが起こり、結果、桔梗屋の信玄餅は「桔梗信玄餅」となって決着したようです。京都名物「八つ橋」でもありましたから、この手の「本家争い」は、山梨に限りませんが、大雑把な感覚で言うと山梨県民はバトル好きなようにも思います。「信玄餅」も両社の食べ比べで評価を楽しだりと、その後は、両社も共存共栄しているようにも思います。
まあ、頭に「桔梗」と冠を載せたり、「本家」と「元祖」に振り分けたりで決着するのは、日本人の深い知恵なのでしょう。
前話の「木喰の里微笑館」と「木喰記念館」のバトルも視点を変えれば、あの狭い丸畑の山あいに両館と再建された四国堂の3か所を廻る木喰の里フィールドワークには、貢献しているようにも思います。丸山太一氏の資料や著書は、両館にあるように「木喰上人」の研究家丸山氏は、木喰上人を通して「真言密教」「日本人の死生観」「日本人のDNA」等々から「ユング哲学」までを考察し、木喰が微笑仏を彫った全国各地に木喰と同じ年齢の時、実際に自分も足を運んで現地の微笑仏を拝観してきたと言う木喰行道研究の第一人者です。反面「ですから、木喰が死んだ93歳で、私もあの世に行く予定でしたが、2歳もオーバーしてしまい困っています」と洒脱に話す文化人でもあります。
郷土史にも造詣が深く、のむら清六画伯始め郷土史に輝く多くの方々との親交もあり、丸山氏の人格に信頼がおかれ協力を惜しまなかったことが「木喰精舎」の随所にみられます。その辺の記憶や正確な知識も抜群ですから、バトル好きと云う県民性?も確かならば、伝承に価する風土と云うことで、「木喰」や「信玄餅」同様の具体的な「本家争い」についてもご教示いただいて、山梨県民が本当にバトル好きなのか否かの検証もしてみたいものです。「ケンカのような会話」も甲州人の特徴ですから、先ず「マチガイナイ」自信もあるのですが、何のことはない、私が格闘技も含めて、バーサス好きなのでしょう。

2012年7月24日火曜日

杉浦醫院四方山話―161 『風土を伝承するー2』

 丸山太一氏が、1980年(昭和55年)から1993年(平成5年)まで、編集、発刊してきた「木喰精舎」という冊子があります。これは、「全国木喰会(もくじきえ)」という青森から鹿児島まで1都2府18県に及ぶ会員への機関誌でもありました。木喰上人の故郷にふさわしく、山梨県は150名前後の会員を擁し、事務局も置いていました。創刊から12号までを編集した事務局長丸山氏は、80歳を前に事務局長の任を望月昌訓氏に譲り、4刊が発行されましたが、平成9年の16号で途絶えています。全16刊の表紙は、のむら清六画伯によるオリジナル作品が飾り、文中のカットは、志村量美氏の版画と岩下正孝氏と瀬田千作氏の写真で統一されています。
この全国木喰会の会長は、名古屋大学教授の宮坂宥勝氏が、名誉教授となった後も務め、京都支部や新潟支部などの活発な活動報告や研究提言などアカデミックな内容を堅持してきました。
この全国木喰会が、現在「風前の灯」であることを丸山氏が悔いて話して下さいました。木喰行道の生まれ故郷、丸畑に旧下部町が作った「木喰の里微笑館」と行道の生家である伊藤家の「木喰記念館」に行かれた方はお気づきのことと思いますが、資料館である「木喰の里微笑館」にある微笑仏は、レプリカばかりで木喰行道が彫った微笑仏は伊藤家の「木喰記念館」の押入れに五体あり、当主の伊藤勇氏は、容赦なく「微笑館」を蔑み、伊藤家の正統性を強調します。丸畑では、それ以前にも四国堂の木喰仏の所有権を巡って、生家の伊藤家当主と村民の争いが起こり、裁判沙汰の末に四国堂は解体して薪となり、仏像はほとんど他に売却されて四散したと言いますから、「木喰の里微笑館」と「木喰記念館」の争いも熾烈なものだったことでしょう。
 その伊藤氏が、事もあろうに諏訪在住の全国木喰会会長宮坂宥勝氏に会長職を自分に譲るよう談判に及んで、重鎮宮坂氏が身の危険も感じ降りてしまったことから、山梨の木喰会も有名無実になってしまい、全国会員も減少しているそうです。現在、会長の伊藤氏が発表している木喰関係の文書も大部分は、丸山氏の研究成果と文章の書き写しでありますが、丸山氏は殊更異を唱えず、じっと現在とその先を案じ、苦慮されていました。
 風土を伝承していく上で、下部町古関丸畑の「争い」は、他山の石として大変教訓的です。不幸な状態にある「木喰の風土」を30数年に及ぶ研究成果と客観的な資料で伝承していく「場」は、県立博物館が火中の栗を拾うのが一番と考えますが、ご高齢な丸山氏のご教示を受けられるうちに当館でお預かりして置くことも意義あることと思います。

2012年7月20日金曜日

杉浦醫院四方山話―160 『風土を伝承するー1』

 日本経済の高度成長とグローバリゼーションの進展は、私たちの生活圏である甲府盆地一帯の街並みも大きく変えました。それは山梨に限らず、日本全国どこを走っても同じチェーン店のロゴやデザインの店舗が並び、「地域の個性」と云った言葉は、過疎地の代名詞にさえなりつつあります。住民も望んだ都市化ですから、そこで育まれてきた歴史や風土、気質や人情といったものまで、平均化、都市化されるのも良しとしてきたのでしょう。     
 地域の個性は平均化しても地域の品性は、地域の歴史・文化を見直し継承していくことで、高めていくことが可能ではないでしょうか。それぞれの地域には、そこで織りなされてきた歴史があり、地域の由緒や伝承は、どこの町や村でも語り継がれ、地域への愛着となってきましたから、都市化の進む中で、地域の歴史や文化を愛好する人々は、逆に増えている現実もあります。
そのような地域の研究者や歴史愛好家の交流をはかることによって、多くの方々が歴史情報を共有し、これまで以上の広がりと深まりを持った「ふるさと再発見」となることをめざす場に活用していこうと「杉浦醫院」に「昭和町風土伝承館」の枕詞を付けた経緯もあります。
杉浦醫院を起点に歴史を楽しむ輪が広がり、地域の文化遺産を未来へと伝えていくことが、このような社会教育施設の存在意義でもあります。
 旧下部町丸畑生まれの木喰上人を柳宗悦の遺志を継いで、在野で研究、伝承活動をしてきた丸山太一氏の研究資料や著書と共に丸山氏の足跡も伝えていくことが、杉浦家と丸山家の数世代に及ぶ交流を背景に、可能になりそうなことから、上記の新聞記事になりました。地方病と云う風土病とその終息の為に尽力した杉浦健造、三郎父子と共に山梨の歴史風土を伝承してきた丸山氏の業績を氏からの寄贈品で進められることに感謝申し上げます。

2012年7月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―159 『堀之内さんのサフィニア』


 西条一区の堀之内一郎さんが、ご覧のように見事に咲いた紅白のサフィニアをサニートラックで持参してくださいました。昨年の11月には菊を10鉢、今年の3月にはパンジー4鉢を玄関に飾っていただきました。今回のサフィニアは、サントリーが開発、商品化したもので、「愛され続けて20年のロングセラー、波うつように豪華に咲きあふれます」と謳っていますが、キャッチコピーどおりにいかないのが世の常ですから、写真のように「豪華に波打って」咲かすのは至難の技でしょう。
当ブログ89話「菊と土」でも紹介しましたように、堀之内さんは一夏に茄子5万個を出荷した実績のある方ですが、雑菌に弱い茄子苗づくりの過程で、水路などの水底の泥土を引き上げ、乾燥させた土が有効であることを発見したことから、菊をはじめとする花にもこの土を活かしているそうです。茄子に有効な土は、花にもご覧のとおりで「売ってる土じゃこんなには咲かんよ」と、手間暇かけての大輪です。是非、実物をご観賞下さい。

2012年7月13日金曜日

杉浦醫院四方山話―158 『診療録・カルテ-2』

 東京はじめ県外から杉浦医院に通院した方々は、山梨で農作業の手伝いをしたり、子どもの頃川遊びに興じて地方病に感染し、その後上京したり引っ越した方だったようです。「東京や神奈川など県外の医院や病院では、地方病の治療が分からず、紹介状を持ってここへ来ていたようです」と純子さん。
杉浦醫院は、内科医でしたから、カルテも全てが地方病の患者のもであはりませんが、9割近いほとんどが地方病のカルテですから、「地方病の杉浦医院」と云われたのも過言ではありません。
治療法のなかった地方病に幾多のハードルを克服して、大正12年(1923年)に「スチブナール」が日本住血吸虫駆虫薬として開発販売され、地方病の本質的な治療が可能となりました。しかし、このスチブナールも昭和2年発行の山梨県誌には「塩酸エメチン、もしくはスチブナール注射は、2、3 の死者を生じたることありしゆえ、あるいは副作用をおこす恐れありとして、県はいまだ治療法を採択するに至らず」とあるように、本格的に使用されたのは昭和2年になってからだったようです。
糞便検査で日本住血吸虫症と診断された患者は、杉浦醫院でスチブナールや塩酸エメチンの注射を20本前後打つ治療をうけましたが、薬の副作用が強く、右の写真のように2、3日間をおいて打つのが一般的だったことをカルテが示しています。
しかし、「打たれ強い」という言葉もあるように人間の個体差は人それぞれなのでしょう。下の写真の患者さんは、合計22本の注射を6月3日からほぼ毎日打っています。この患者さんには「剛の者」の証しともなる記念のカルテですから、30年代に通院した患者さんで希望する方には、三郎先生直筆のカルテをお渡し出来るよう検討してみる必要があります。

2012年7月12日木曜日

杉浦醫院四方山話―157 『診療録・カルテ』

 杉浦醫院は、建物のみならず、内部も閉院当時のままが保存されていることから、来館者にも驚きや懐かしさも含め、ご好評いただいています。例えば、ここに通った患者さんのカルテやレセプトもそのまま残っています。
 昭和23年に出来た「医師法」24条で、「 医師は、診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録(カルテ)に記載しなければならない」と定め、「その医師において、5年間これを保存しなければならない」としていますから、カルテの保存義務は、最後にカルテに記載した日から5年となり、とっくに処分されていてもおかしくないものです。昭和30年代の莫大な枚数のカルテですが、杉浦医院に通った患者さんの地域と数の統計を出してみようと整理を始めました。平成の大合併前の市町村ごと袋分けしていくと袋の枚数が50袋以上になります。県外も秋田から関東一円全てと愛知、京都、宮崎までの10県に及び、県内は富士吉田から小渕沢まで44市町村ですから、ほぼ全市町村から来院していたことが分かります。
 長い間、カルテは「患者に見せる必要はない」とされ、医師のメモとして「何を書いてもいい」し「適当に書き直してもいい」という意識さえあったと云われてきました。興味があって、のぞいても専門用語をドイツ語か英語で書くのが普通でしたから、記載内容を知ることは出来ませんでした。
それが、2005年4月施行の個人情報保護法で、カルテなど診療記録の取り扱いが大きく変わりました。本来、カルテに書いてある内容は、患者にとっての個人情報ですから「自分の情報を見る権利」は、憲法上も保障されていましたが、法制化して、開示を義務化するまで「白い巨塔の伝統」として変わりませんでした。まあ、個人情報保護法もEU・ヨーロッパ連合が、EU加盟国に対し、他国との間で個人情報のやりとりをする際には、自分の国と同程度の個人情報保護法を整えていなければ、その国との間で個人情報のやりとりをしてはいけないと定めたことから、EU加盟国と取引できなくなっては困ると日本でも慌てて作った個人情報保護法ですから、「外圧」の産物でしょう。アメリカの外圧で、学校の完全週休2日制も敷かれたように日本のシステムは内からではなかなか変わらないのも「伝統」でしょうが、カルテ開示義務化以降、医療訴訟も多発し、欧米化しましたね。

2012年7月10日火曜日

杉浦醫院四方山話―156 『NPO法人楽空(らく)との協働』

 一昨年、「源氏ホタル舞う奇跡のまちづくり」活動を昭和町で取り組んだ甲府青年会議所(JC)のメンバーが、昨年は、昭和町源氏ホタル愛護会に入会し、自分たちも「鎌田川ホタルの会」を立ち上げ、愛護会のサポート活動をしてきました。今年は、約10人のメンバーで、新たに「NPO法人・楽空」を結成して、さまざまな町おこし活動を進めていくそうです。
3年越しになる古屋氏と小林氏が中心になって、「楽空」の中に「鎌田川ホタルの部」を設け、今年の杉浦医院ホタル観賞会や町のホタル夜会でもフットワーク良く大活躍いただきました。「楽空=鎌田川ホタルの部=」では、今年度事業として杉浦醫院と協働で、種ホタルの採集からホタルの幼虫飼育、幼虫放流という通年活動にも取り組みたいと、意欲的に6月から準備を進めてきました。
 杉浦醫院では、幼虫の飼育もしながら、地方病終息に向けた宮入貝の殺貝活動と昭和の源氏ホタルの盛衰史も分かるよう展示していますが、新たに「楽空」の水槽2台が入り、一層活気を呈してきました。
 6月には、昨年に引き続き、昭和町商工会女性部の方々が、雑草取りと窓拭きのボランティアに来ていただきました。落葉の季節には地域の方々がホウキ持参で来ていただくなど、当館には、個人から団体まで、多くの方々のお力をお寄せいただいています。
3年目の今年、NPO法人と継続した活動を進める中で、協働の実績とノウハウを積み重ね、本オープン後の運営にも活かしていきたいと思います。
 今年、杉浦医院庭園の池のホタル発生数は飛躍的に増えましたから、現在の昭和町内のホタル生息環境としてはベストかと思います。昭和の源氏ホタルの名所となるよう、池の水路整備や管理と共に周辺の自然環境も整えていくことで、昭和町源氏ホタル愛護会積年の願いでもある百匹単位での源氏ホタルの乱舞を実現していきたいと思います。その為にも自生に向け、室内水槽での幼虫飼育と並行して、東西取水路に設けた小池での幼虫飼育も試行し、ご協力いただいている多くの方々にご案内して、観ていただきたいと思います。

2012年7月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―155 『八百竹菖蒲園』

茶道具や茶掛け軸の購入や骨とう品の鑑定などで、杉浦家が代々親しくお付き合いしている甲府八百竹美術品店の小林さんが、「私は、枯らす名人ですから、こちらで生かしてください」と菖蒲(しょうぶ)のポット植え苗を多数持参してくださいました。「八百竹さんのことですから、この時期ギャラリーで、菖蒲の花をめでる会とか開いたんでしょうね」と純子さんも長いお付き合いでお見通しと云った感じです。

  「あやめ」と「しょうぶ」は、漢字表記がどちらも「菖蒲」なのは、なぜなのか?とか「アヤメさん」「スミレさん」「ユリさん」「カエデさん」と言った具合になぜ源氏名には、植物の名前が多いのか?前から気になっていました。加えて、「いずれがあやめか、かきつばた」の諺からすると、「かきつばた」も「あやめ」「しょうぶ」と似ていそうだが?等々の疑問も、まあ、いいか・・・の結果、5,6月頃、池の近くに咲く剣状に伸びた葉の花は、全てアヤメで通してきました。「しょうぶ湯に花しょうぶを入れるバカがいる」と云った話を聞いた時「しょうぶ」と「花しょうぶ」は別物であることも知りましたが・・・これを機に、花や葉を観て「かきつばた」「あやめ」「しょうぶ」と分けられるよう学習しようかと八百竹さん寄贈の菖蒲の苗を池西側の廃水路に砂や土を入れ、「八百竹菖蒲園」を造りました。苗には、「旭匠」とか「多摩川の月」だのと、それぞれ違った名前が付いていましたが、花をつけてもらわないことには、葉だけでは、全く違いが分かりません。「源氏蛍」という種類もありますから、この廃水路下流にも新たなホタル生息小池を・・と改造してカワニナを放しました。来年の菖蒲の花とホタルにご期待下さい。



2012年7月3日火曜日

杉浦醫院四方山話―154 『草履・下駄-2』

 日本人の生活様式も大きく変わり、住宅も和室より洋室が占める割合が増え、玄関で靴や履物を脱いで家の中に入る習慣は、依然変わっていないのが不思議なくらい畳からフローリングになりました。
同じように西欧人からみれば、湯気が立つ熱い湯に入浴したり、ふとんを敷いて寝ることなど日本人の当り前の生活様式をアレコレあげつらう外国人は後を絶ちませんが、何から何まで洋式に行かない必然性があるのでしょう。それは、日本人の生活様式は、日本の気候や風土、産業を基に育まれ、そこから日本独特の文化が生まれ、定着してきた長い歴史に裏打ちされた伝統文化になっているからでしょう。
 履物は、脱ぐことを前提にしてきましたから、着物の草履も脱いだ後の見映えにまで心配りがされています。純子さんの草履の柄をアップしたのが上の写真です。手間暇かかるつづれ織の模様が、揃えて脱いだ時、左右で繋がり、左右一体で一つの絵柄になるという細やかさです。「時代が変わって、最近はホテルなど履物を脱がないままでの会合も多くなりましたから、草履も鼻緒に凝るようになりましたね」と純子さん。
 履物にとって、一番変わったのは、道路でしょう。デコボコ道や水たまりの土の道が無くなり、アスファルト舗装された道路が当たり前になりましたから、雨の日に長靴を履いて登校する児童の姿もめっきり少なくなりました。
「雨の日は、雨下駄が欠かせませんでしたね。雨草履もある時代ですから、こんなに道が良くなると雨下駄を履く方もいませんね」「雨下駄もそのうち時代劇でしか見られなくなるんでしょうね」「雨下駄は、着物にはねをあげない形になっていましたね。歯も高く、浸み込まないよう表には竹の皮で編んだ畳表が貼られ、つま先には、皮の爪皮がついていました。爪皮も今ではカラフルなビニールで、木も防水の塗りで、随分軽くなったようですが・・・」まあ、女性用の草履や下駄だけでも用途に応じて何種類もある日本の履物文化ですから、ポッと来た外国人にその深遠さが解かろうはずもないのでしょう。