2019年5月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―582『資料・情報御礼ー3 谷口哲雄記者様』

 新聞の毎日・読売・朝日は、中央三大紙とも呼ばれていますが、毎日新聞が1872年創刊で日本で最も古い歴史を誇る新聞のようで、戸別配達を世界に先駆けて実施したことにより、日本では地方紙も含め「新聞は配達されるもの」が定着したそうです。若者の活字離れやスマホの普及で紙媒体の衰退は顕著のようで、新聞の購読者数も減少の一途をたどり、値上げせずには戸別配達制度の維持も厳しいのが現実のようです。

 

 毎日・読売・朝日のような中央紙でも「山梨版」があり、県内の話題やニュースを報じていますが、取材したり記事を書く新聞記者は、転勤で甲府局に数年滞在し、異動辞令が出ると転勤を余儀なくされるようです。

 

 当館開館以来、上記3紙の中では朝日新聞の取材が突出していました。特に谷口哲雄記者は、甲府赴任約6年の間に数えきれない回数で取材にみえました。5月10日の茨城への転勤を前にわざわざ挨拶にも来ていただき、思い出話もできました。その折「山梨に来て最初の記事も地方病でしたから最後も地方病で締めようと思いました」と4月27日(土)の山梨版に「肝がん死亡率 全国並みに改善」の見出しで、貴重な記事を残してくれました。

 

 山梨県はC型肝炎の感染率や肝がんの死亡率が東日本で最も高い県として有名ですが、この一因として、地方病の治療に使われたスチブナールの静脈注射の回し打ちが挙げられていました。当18話「現代」でも触れましたが、杉浦三郎氏宛て私信の中にも杉浦醫院での注射針によるC型肝炎感染に抗議する内容のモノもありましたから、地方病との相関関係は間違いないでしょう。


 谷口記者の署名記事に共通するのは、派手なイベント的行事や事業よりコツコツと積み上げてきた成果や継続中の取り組みなどに足を運び、過去の問題を掘り起こすより、現在と未来に向けての視点での取材を基本にしていることでした。

 

 最終署名記事も山梨大学医学部肝疾患センターが、山梨県の肝がん患者の相談支援活動を継続的に行っていることを紹介し、その具体的取り組みとして「肝疾患コーディネーター養成制度」を他県に先駆けて10年前から実施してきた結果、現在384人の肝疾患コーディネーターが、市町村住民や職場で肝機能検査の受診の必要性の周知に取り組み、その成果は肝がん死亡率が全国平均化してきた数字に表れていることを伝えています。


 これは、地方病が1996年(平成8年)の流行終息宣言で終わったのではなく、地方病治療の後遺症としてのC型肝炎との闘いが現在も続いている事実に目を向ける必要があることを教えてくれます。

地方病終息の最終仕上げとも云える取り組みが、現在も山梨大学肝疾患センターを中心に行われていることを伝え、このような地味な取り組みを「百年戦争の最終段階」と結んでいるところに谷口記者の鋭い考察が表出しています。



 


2019年5月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―581『資料・情報御礼ー2 笛吹市K様』

 当館の来館者に共通する特徴は、俗に云う「物見遊山」タイプの方は皆無に等しいことでしょうか。

 まあ、漫画家で江戸文化の達人・杉浦日向子氏に言わせれば、江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っていて、生まれてきたのはこの世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えていたそうです。その象徴が一生上がれない場合もある「江戸すごろく」で、ステージを上げて行って「あがる」ことより、右往左往することに意味もあり、右往左往しながらいろいろな見聞を広めれば、もうそれで人生のもとは取れるんだという共通認識が現代社会との違いだと「物見遊山」を奨励しています。そんな意味からすると「物見遊山」タイプは皆無とはいい難い気もしますが・・・要は、連れだって右往左往しながら杉浦醫院に来るのではなく、目的をもった方々が一人で来館するケースが多いと云うことです。


 連休中、笛吹市から来館のK氏は、ガイド案内に従い館内をじっくり見学し「あらためて地方病の歴史を知り、後世に繋いでいくことの大切さを感じました」と感想を寄せてくださいました。

 

その折、応接室に掲示してある「昭和天皇と三郎先生」のスナップ写真の撮影場所が特定できていないことを知ったK氏は「背景に写っている山なみと鉄塔」をカギに特定可能ではと考えたようで、翌日には思い当たる3地点に出向いて実際に写真撮影した資料を郵送くださいました。

このコピー写真ではハッキリしませんが、三郎先生の右肩上に鉄塔があり、その背後に茅ガ岳連山が写っています。
以前、来館された方が「これは旧若草町南湖の辺だね」と自信を持って断定してくれましたから、
ミヤイリガイの生息地に案内後、本部の有った旧竜王町万才に戻ったのかと思っていましたが・・・

「背景の山は、左に裾野を引く茅ガ岳とその右に観音峠、そして曲岳へと続く山並みです。山並みは見る角度によって少しずつ変わりますので、本日(4月29日)朝にイオンタウン、開国橋、そして白根インターの3地点から撮影して見比べてみました」と3地点からの解説入りの山並み写真を提示して、もう一つのポイント鉄塔は「送電線であり、これは地上権の関係もあり戦前から今日まで同じ場所である可能性が大きい」ことも教えてくださいました。


 その上で、K氏は「この写真が撮影されたのは、おそらく杉浦醫院の近くの送電線の南側、地名で云えば旧竜王町玉川から昭和町押越にかけての範囲が有力ではないかと考えます」と結論付けていただきました。


 このように来館者が写真の撮影場所を特定する為にご尽力頂いた以上、遅まきながら他のスナップ写真も参考に何とか特定しなければ申し訳がたちません。

 テントを張って顕微鏡なども用意して昭和天皇を迎えた本拠地は、旧竜王町万才であることは間違いありませんが、掲示してある写真の撮影場所は、そこから移動しての可能性もあったことから特定できていませんでした。

数あるスナップ写真を一枚一枚確認したところ二人が立っていた左端にテントを固定するロープが写り込んでいる写真がありましたから、昭和天皇と三郎先生が採集したミヤイリガイをテント内の顕微鏡で直ぐ観られるようミヤイリガイ生息地の土水路近くにテントを張り、そこを本部とした巡行だったことが分かりました。

 

 K氏に特定していただいた「送電線の南側で北の背景の山は茅ガ岳・・・山並みです」の旧竜王町玉川は、旧竜王町万才の隣ですからぴったり一致します。K様のご尽力で、また一つ展示物の解明も進みましたこと、この場で恐縮ですが厚く御礼申し上げます。

2019年5月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―580『資料・情報御礼ー1 東広島市K様』

 前話の依田賢太郎氏からの寄贈本に続き、この連休中も貴重な資料や正確な情報を幾つかお寄せいただきましたので、お礼方々、ご紹介させていただきます。


 4月28日に広島県からお一人で来館くださったK氏は、東広島市の公務員の方ですが、当館ホームページ上の「地方病について」の文章の中に誤記があることを来館時にもご教示いただき「正確な資料を後日送ります」と帰られました。


ホームページ上では、「地方病」について次のように記載しておりました。

≪地方病とは日本住血吸虫の寄生によってヒトを含む哺乳類に発症する寄生虫病であり、山梨県甲府盆地底部、利根川下流域の茨城県、沼田川流域の広島県深安郡片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部など、ごく限られた地域にのみ存在した風土病である≫


 K氏は、上記赤文字の部分が誤記であると国土地理院地図と共に次のように指摘してくださいました。

「芦田川と沼田川の位置関係について別紙のとおり地図をお送りします。カラー画像をFAXしているので写りが悪く見にくいと思いますが、片山病旧有病地を通って福山市に流れる川は「芦田川」です。沼田川(ぬたがわ)は三原市に流れていきます」

「片山病(地方病)に関連する河川は芦田川とその支流の加茂川と高屋川ですが、片山地区でちょうど合流し、芦田川にはさらに下流で合流します」と。

 

 ホームページ立ち上げ時にトップページに幾つかの項目を載せる為文章を書きましたが、正直なところ「地方病について」の記載は、何らかの資料を転載したようです。それは、私自身が「芦田川」「沼田川」という固有名詞に全く記憶がないことでもバレバレです。

あらためてグーグルマップで「旧・片山地区=現・福山市神辺町」を確認しましたが、K氏のご教示どおり芦田川と沼田川は同じ県内を流れる川とはいえ旧・片山地区をかすりもしていない沼田川は明らかな間違いで、未確認のまま転載していたことを反省しましたし、何より早速正確な記載に訂正できることを感謝申し上げます。


 K氏から旧・片山地区は福塩線の神辺駅から西方1Kmほどの地区であることも教えていただきましたから、ストリートビューでその一帯を観ると最初に出てきた画像で思わず「えー」と驚きました。それは、山を背景に広がる平地にはコンクリート水路が整備された田圃が広がり、民家の造りや大きさも何だか見慣れた昭和町や韮崎市など山梨の田園風景そのままだったからです。


 若いK氏が、片山病(日本住血吸虫病)を知ったきっかけを「片山病対策に当たった一部事務組合⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆の名称に驚いたところからですが、これには昭和天皇の戦前戦後2回の行幸がきっかけであると日本獣医師会雑誌の記事が伝えています」と記し、昭和55年に解散した⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆についての詳細も広島県ホームページで確認できることまで教えてくださいました。


 初耳の「御下問奉答片山病撲滅組合」は、山梨県にあった「山梨地方病僕滅協力会」と同じ目的の組織であることは予測がつきますが、「御下問奉答」の接頭語はK氏も驚いたように「なぜ?」と調べたくなります。


 これについて「日本獣医師会」サイトの論文に以下の説明がありました。

 ≪ー前略ー 戦後,全国を巡幸された天皇は1947年12月(昭和22年),備後路の旅で神辺小学校を訪れた.このとき,案内役の楠瀬県知事に「その後,片山病はどうなっていますか」と尋ねられて関係者を感激させた.このことから福山市と神辺町では,市議会と町議会の中に御下問奉答特別対策委員会を設置し,県でも翌年「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,一層の防除対策に取り組むこととなった.-後略-≫と。

 

 天皇の発した一言「その後,片山病はどうなっていますか」が「広島県地方病撲滅組合」の名称を「御下問奉答片山病撲滅組合」に改めさせたと云うことです。戦前のことなのかと思えば昭和23年の戦後ですから、約70年を経た令和の代替わりでも異様とも思える皇室報道が続いたこの連休中を思い返すと「さもありなん」とか・・・複雑な気持ちになります。 

2019年5月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―579『依田賢太郎氏からの寄贈本』

 4月に当ブログで2話に渡って依田賢太郎氏の著作「いきものをとむらう歴史」とその中で取り上げられている杉浦健造と「犬塚」について紹介してきましたが、そんな縁で、この度依田氏から当館に2007年刊の「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」と2018年刊の「いきものをとむらう歴史」の2冊の著書をご寄贈いただきました。


 2冊とも社会評論社から刊行された本ですが、依田氏は2005年には子どもを対象にした「東海道どうぶつ物語」を東海教育研究所から刊行していますので一貫してどうぶつと日本人の関係をテーマに調査研究をしてきたことになります。

 

 精読させていただくと単に「どうぶつのとむらい」の足跡をたどった本ではなく、依田氏の人生観、哲学が依田氏をして足跡をたどらせたことが分かります。

それは、執筆にあたって参考にした文献一覧にも表出されています。

柳田国男や谷川健一、川田順造、鯖田豊之と云った多くの民俗学者の著書、山折哲雄や梅原猛から末木文美士までの宗教学者の著書をはじめ歴史学者や哲学者の著作や県史や各教育委員会発行のガイドブックまであらゆるジャンルの資料を紐解いて、依田氏が集大成した哲学がどうぶつを通して語られていることを参考文献一覧が物語っています。

 

 また、「私はこれまで、病気や事故で失われた人間の体の働きを助けるための人工臓器や、痛みを取り除くための装置などの研究をしてきました」と云う工学博士の依田氏ですから「ネズミなどの小動物の血液や細胞を使った最小限の実験が欠かせなかった」と云う現実に直面して「どうぶつのとむらい」と日本人の歴史に向き合うようになったようです。

これは、自分の仕事に誠実に関わると観えてくる世界も広がり、解明すべき課題も次々に押し寄せ、結果として上記のような広いジャンルの資料も読み込む必要に迫られると云う研究者の宿命に忠実だった依田氏の姿勢と視点の確かさに拠るものでしょう。


 依田氏は「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」のエピローグで、動物塚は「いのちの物語」であるとして、最後に「贅沢で、無駄の多い、豪奢な生活を追い求めるのではなく、簡素で、無駄のない、足ることを知る生活が求められています。動物や自然はそのことを教えてくれます。そして、簡素をとるのは勝れて積極的な選択です」と結んでいます。


 多くの「いのち」に向き合ってきた杉浦醫院に依田氏寄贈の「いのちの物語」の著作本が新たな資料として展示出来ることは、健造先生が「犬塚」建立に流した汗が約百年後に同じ高校の同窓生によって結実した不思議な縁も感じます。小学生向けの「東海道どうぶつ物語」も購入して揃えておきますので、杉浦醫院で親子ご一緒に「いのち」についても学んでみてはいかがでしょう。