2013年1月29日火曜日

杉浦醫院四方山話―216 『満足屋』


 山梨県内には、全国区の「青木」とか「コナカ」等々のチェーン店と競合しながら、満足屋という紳士服のチェーン店があります。前話で、峡陽文庫に掲載されていた新旧の柳町通りの写真で、「新藤呉服店」のあった現在の銀座通り東入口は「満足屋銀座店」になっていることが分かり、同じ着る物を扱う店であることから、新藤呉服店が、時代に合わせて満足屋に名前をあらためて、現在に至っているのかと思いました。「思った」だけでは書けませんので、意を決して満足屋銀座店に電話して確かめてみました。
 不意の電話にも出た方は、「ウチの前身はやまと屋だったと聞いていますが、新藤呉服店はちょっと分かりませんね。ちょっと待って下さい」と他の方にも確かめて「やっぱり、ちょっと・・・」と親切に応じてくれました。「そうだ、呉服屋さんなら純子さんに聞けば解かるかな?」と、丁重に礼を云って電話を置きました。

 しばらくして、「そう云う電話は、三階に回しなさいと番頭さんには云いましたが・・」と満足屋の女性オーナーから、わざわざ電話をいただきました。
「私の祖父が、新藤呉服店から当時のお金で2万円で買ったと父から聞いています」
「じゃあ、新藤呉服店が満足屋さんになった訳ではないんですね」
「そうです。ウチは、南アルプス市の八田の出で、安原ですから」
「あれ、銀座で安原さん?じゃあ安原○○さんはお嬢さんですか?」
「○○は、私の姪です。○○とは?」「高校の同級生です」と、甲府盆地の人間関係は狭く、個人情報もお構いなく話は進みます。
「新藤呉服店の建物は、私も覚えていますが、中華風の黒塗りで、すばらしい建物でした」
「じゃあ、有信銀行も?」「ええ、子どもでしたから、銀行を遊び場のように通り抜けて・・・」
「空襲で焼けた時も庭に井戸の池がありましたから、大事な書類は池に投げ入れて逃げたのを覚えています」
「私は、新藤呉服店に掛けられていた木の看板を持っています。横書きで彫ってある立派なものですから、新藤呉服店の方にお返ししたいと思っていました。あげましょうか?」
「いえいえ、是非、写真だけ取らせて下さい」「探して、出てきたらまた連絡します」と、店員さんに輪をかけたご親切な電話に「満足屋って凄いね。満足満足」と脱帽して、ネット見ると・・・

2013年1月26日土曜日

杉浦醫院四方山話―215 『甲府銀座』


 木喰上人の研究家丸山太一氏は、今年95歳になりますが、甲府や山梨の生き字引と云っても過言ではない博識と記憶力で、訪ねるたびに貴重なお話を分かりやすく話してくださいます。先日は、甲府駅と甲府銀座についての話を伺いましたのでご紹介します。
 前にもお世話になった「峡陽文庫」townphoto.netのサイトに丸山さんのお話の具体的な写真と説明がありましたので、借用してお伝えします。
 峡陽文庫の写真は、現在の遊亀通り(旧柳町通り)を南から北に「銀座通り東」交差点を望む今昔写真です。左の写真の「左側の商店は新藤呉服店、2階建洋館は明治41年1月に竣工した有信銀行の本店であり、新藤呉服店と有信銀行の間が、現在の甲府銀座通りの東側入口にあたる。」そうですから、新藤呉服店の跡が現在の満足屋銀座店です。

下のtownphoto.netの写真は、「銀座通り東」交差点からの西側・銀座通りと東側の三日町通りです。丸山さんのご自宅は、三日町通り写真の4階建て吉字屋ビルの向かい側です。
現在は、甲府市中央4丁目ですが、「銀座通り東」交差点のある遊亀通り沿いが旧柳町で、甲州街道柳町宿として、甲府城下町の中心地でした。この通りには、旅籠が江戸時代は30軒以上並び、明治4年には18軒と記録にありますから、明治維新で激減したようです。現在、ワシントンホテルがあるのも柳町宿の名残でしょうか。
丸山さんのご自宅の裏が、柳町本陣で、建物も戦前まで残っていましたが甲府空襲で、有信銀行洋館も含めこの一帯は全て焼失してしまい、本陣の跡形もなく現在は駐車場になっています。 また、丸山さんのお話では、大正時代中頃まで甲府の銀座は、丸山さんの家の前の三日町通りだったそうです。交差点を境に東が三日町、現在の銀座通りは「三日町見附」で、三日町から三日町見附へと商店が広がって、現在アーケードのある甲府銀座が形成されたそうです。
 このおよそ150年で、甲府の中心・銀座も柳町から三日町さらに三日町見附へと微妙に移って行ったことになりますが、その辺のまとまった正確な資料もなかなか見つからないのも寂しいモノです。

2013年1月23日水曜日

杉浦醫院四方山話―214 『杉浦医院照明器具-2』


 部屋の大きさに合わせた大小二つのアール・ヌーボー風の曲線で統一されたペンダント形ライトが、「古色蒼然(こしょくそうぜん)」と云った四文字熟語がぴったりの杉浦医院診察室に一層の趣を添えています。
 ご覧のように意匠も色も至ってシンプルで、花の様式と謳われたアール・ヌーボーランプのような多彩な色を駆使していないのは、医院診察室の照明だからでしょう。
 つる草のようなうねる曲線を多用して組み合わせるのがアール・ヌーボーのガラス工芸品の特徴ですから、左下の写真のように上部の円周をを菊の葉の模様で廻らし、真下から見ると菊の花模様のデザインは、アール・ヌーボーの花の様式そのものです。

 当ブログ49話「エミール・ガレ」でも紹介しましたが、アール・ヌーボーは、20世紀初頭前後、ヨーロッパやアメリカでおこった革新的な芸術運動で、「産業革命以降、粗悪になった実用品に芸術性を取り戻そう」という趣旨のものですから、芸術性が求められる様々な実用品に波及しました。結果、花瓶や照明器具にもゴシック美術や、日本の浮世絵の影響も色濃い作品が多数作られ、その代表的なガラス作家エミール・ガレが人気を博し、ガレの水差しも購入している杉浦家ですから、診察室の照明にアール・ヌーボーを選択した美意識も共通しているのでしょう。
重量もあるこの照明器具は、鉄の鎖で吊るされ、天井にはご覧のように頑強なステイが組込まれ、全体を支えています。相似形の二つのランプの明かりは、決して明るい訳ではありませんが、大変落ち着く形容しがたい優雅な光です。

2013年1月19日土曜日

杉浦醫院四方山話―213 『杉浦医院照明器具-1』


 純子さんが「新館」と呼んでいる昭和4年築の病院には、それぞれの場にふさわしい当時の照明器具が取り付けられて、現在もそのまま使える状態です。
「新館」建設ということで、健造先生と三郎先生が吟味して選んだ照明器具であろうことが伝わるそれぞれに個性的で、手の込んだ今となってはアンティークランプもしくはレトロ照明ですので、実物をご覧いただくのが一番ですが、ご紹介していきます。
 先ずは、母屋と病院を結ぶ廊下天井に設置された照明器具は、ご覧のように六角形の和風でもあり、どこか洋風な感じも漂わせる照明です。
しっかりした黒塗りの枠にガラスがはめ込まれ、下も六角錐台(すいだい)の笠(今風にはシェード)が垂れさがり、台座の六角形の枠は天井にネジでしっかり固定されています。
電球が切れた時は、下左の写真の白い楊枝状の軸が左右に動き、これを右に引き抜くと反対側のちょうつがいが開いて電球交換が出来るという精巧な仕組みになっています。

 これと同じ照明器具は、階段入口部分にもう一つあり、大きさも形状も全く同じですから既製品として、当時は販売されていたものでしょう。
曇りガラスを通した電球の光は、ぼんやりと雪洞(ぼんぼり)のような温かみがあります。
以前、心ある識者から「館内の照明が白熱球や蛍光灯なら、LEDに変えた方がいい」とアドバイスをいただいたことがあります。「実物」の良さと凄さをご覧いただくのが病院棟のコンセプトですから、廊下の照明と云えども裸電球を吊るさなかった杉浦家の拘りと昭和時代初期の先端照明器具が放つ光りを見て、感じていただきたく、識者の忠告もありがたく拝聴したままです。しかし、消費電力や寿命を考慮して(?)白熱電球は今後生産・販売を終了させ、LED電球への切替を促す動きが広がっています。これも天下の宝刀<地球温暖化防止>の御旗からでしょうが、温暖化が望まれるほど寒い日が続く甲府盆地です。

2013年1月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―212 『受付けマスコット』


 昨年一年、玄関受付簿の隣で来館者を出迎えてくれたのが、下の辰のマスコットでした。これは、橋戸工務所現棟梁の恒美夫人の手作り作品ですが、橋戸夫妻には純子さんのサポートと一緒に杉浦醫院にも資料提供をはじめ大変お力添えをいただいております。
 今年も干支の巳のマスコットを創って届けてくださいました。ご覧のように神と崇められ、金運を呼ぶという白蛇ですから、ありがたさも倍増です。

 女の子は小さい時からお人形遊びをしているので、みんな人形好きだと長いこと思っていました。
人形が嫌いな女性もいる事を知ったのは、詩人・吉原幸子の「人形嫌い」を読んでからですが、それからは「市松人形やフランス人形は目が怖い」とか「髪の毛もリアルすぎて・・・」と言う女性にも会いましたから、結構人形嫌いの方も多いと云うのが実感です。ぬいぐるみさえ寄せ付けない子もいましたし、動物のぬいぐるみはOKでも、人間に近い感じのものは一切だめという人まで様々ですが、当館の受付けマスコット・干支の動物人形は別格で、如何でしょうか?

 いささか古い話ばかりで恐縮ですが、人形と云えば弘田三枝子の「人形の家」というヒット曲が学生時代ありました。勢いのある歌唱力で、ジャズを歌っても抜群と勝手に評価していましたが、いつの間にか歌手と云うよりダイエットのカリスマみたいになって、がっかりしたのを覚えています。まあ、あの声量とパンチ力には、体のガサがないことには無理でしょうから、太目になる必然性もあったのでしょうが、すっかり痩せこけてファッショナブルになっても歌を忘れたカナリアでは、裏のお山に捨てられてしまったのでしょうか?ここ数十年?見かけないし、話題にもなりませんね。

2013年1月15日火曜日

杉浦醫院四方山話―211 『杉浦家と橋戸工務所』


 昨年8月に杉浦家の建造物5件が、国の登録文化財に登録されましたが、それぞれの建物は、全て旧田富町東花輪の橋戸工務所の棟梁が、4代に渡って関わってきました。当館のプレオープンに合わせ、現棟梁・橋戸伯夫氏が、橋戸家に保存されていた病院棟新築時の上棟式の写真を届けて下さいました。さっそく大きく伸ばして、玄関正面に展示しましたが、その後も橋戸夫妻は、「勝手におせっかいに来ました」と母屋の純子さんを日常的に訪ね、屋根の点検や神棚の修繕などから掃除、洗濯、料理まで純子さんの心強いサポーター役を買って出てくれています。
 
明治中頃建設の母屋は、初代橋戸修造氏が棟梁として請け負い、その後の土蔵、納屋や病院棟の建設、台所や風呂場の増改築などの全ての大工仕事は、2代目の修一氏、3代目友好氏、現棟梁へと引き継がれてきました。
純子さんも棟梁夫妻と橋戸家歴代の棟梁や杉浦家の建物の話に花を咲かせ、楽しそうに懐かしみます。
「新館(病院棟)は、修いっちゃんの時かしら?」
「昭和4年だからまだ、修造爺さんだね。修いっちゃんは、まだ脇棟梁だったと思うよ。」
「そうですね。修造さんは、確か96歳まで長生きした方だったですからね」
「田富の地主の家も大部分修造爺さんがやって威勢が良かったから、息子の修いっちゃんは影が薄かったようだ。納屋と土蔵も修いっちゃんは修理位だったと思うよ」
「温室を造った昭和31年には、もう友好さんも一緒でしたね」
「俺の親父は婿だったから修造爺さんや修いっちゃんから厳しく鍛えられたようだね。一緒の若い大工も百姓の方がよっぽど楽だって、辞めたって。あの頃は道具箱を担いで現場まで通ったから、ここまでの往復もキツかったし、杉浦医院は普通の家より、1階も2階も天井が高い分屋根が高くて、怖がって辞めた大工もいたようだよ」
「そうそう、伯夫さんには三鷹の妹や弟の家までお願いしましたね」
「健一さんの時は、妹さんの家から通ったなー。大工の仕事は、こうして残るから、修造爺さんの仕事はタイシタもんだと思うね。その点ノコギリもロクに使わん今の大工なんか、大工じゃねーな」と、 伯夫さんは、現代建築の大工仕事は性に合わんと橋戸工務所は息子に任せ、伝統技術が求められる神社仏閣の飾り細工の仕事だけを今はやっているそうです。
「代々の手仕事を町が保存して、こんなにきれいにしてくれて、俺たちもうれしくて見に来るだよー」と土蔵の改修にも目を細めてくれますが、建物を介して数代に渡って親戚以上の親交が現在まで継続され、お茶飲み話に故人の作品と思い出を語り合うという、本当の意味の「供養」が、こうしてまだ生きていることも実感できる純子さんと橋戸夫妻の会話です。

2013年1月12日土曜日

杉浦醫院四方山話―210 『田植え節句』


 前話で、1月11日の「鏡開き」「蔵開き」にまつわる杉浦家の「庫開き福引き」と西条新田地区の昭和初期の正月行事を紹介したところ、昭和町河東中島のおいっつき(甲州弁でしょうね。数代にわたりその地を在所にしている人のこと。ちなみに対語でしょうか、新たな転入者を「来たりもん」と呼んで区別?差別?した、された話も聞きますが・・・)山本哲氏(64歳)から、「田植え節句」について、さっそく電話をいただきました。

「俺が子どものころの記憶だけど1月11日の鏡開きの行事として、商家は蔵開きだけど、この辺の農家では、田植え節句と云うのがあったのを思い出した」
「11日の朝、お供えの鏡餅を降ろし、しめ飾りと松もはがして、一緒に酒と米を持って、田んぼに行くんだけどその田んぼは、田植えの苗をつくる田んぼだった」
「田んぼの真ん中に畝(うね)をさくって(溝を切るように高くして)、中心に鏡餅としめ飾りを供え、両脇に松を刺して、そこに米と酒をまいて、神事の二礼二拍手一礼をした」
「今の昭和では、見かけないから何時頃までやっていたのか、俺より年上のおいっつきの人に聞いてみると分かると思うよ」と。         
 小学生の頃の経験を山本さんは、よく細かく覚えているなあーと感心しながら聞きましたが、電話の後、ネットで「田植え節句」を検索してみましたら、山梨県北杜市の方のホームページ『お百姓日記 ーよめのえにっきー』に写真入りの「お田植え節句」があり、山本さんの情報が、明野では続いていることも分かりました。
 山梨県に暮らす二世代農家の長男のお嫁さんが、毎日変化する畑や地域(明野町)の状況や家族の話などを2010年から綴っていますから、当ブログとほぼ重なります。
 自然な感情と思いが、気負いのない文章から伝わるとても質の高いブログに惹き込まれましたが、快くコピー許可もいただきましたので「お田植え節句」の前半部分と写真を貼り付けて、ご紹介させていただきます。

 昨日11日は鏡開き。おろした鏡餅を割って食べると一年健康でいられると言われていますが、このあたりでは「お田植え節句」という小さな行事があります。田んぼで行う小さなお供え(?)です。お正月飾りの松の枝を数本持ってきて、苗を植えるように乾いた田んぼの土にさしていきます。その前にお米と、割った鏡餅をお供えして、今年のお米の豊作をお願いします。まわりの田んぼを見渡せば、同じように小さな松がささっているのが見えます。この辺りで代々暮らしてきた人たちは、節句やお祭りなど、節目節目の行事を大切にしている印象を受けます。農家という仕事が、出来の大部分を天候に左右されたりして、自分の力ではどうにもならなく祈るほかない、というところによるからなのかな、と思います。それでも近年、どんどん簡略化されているそうです。以前は毎年順番に一件の家に集まって食事出したりしていたお祭りなんかも、今はお札くばるだけになったりとか。絶やしてはならない! と声高に言うつもりはまったくないのですが、何かが「無くなっていく」というのは単純に心細くさみしい気持ちになります。

2013年1月9日水曜日

杉浦醫院四方山話―209 『鏡開き・吉例之庫開福引き』

 現在は1月11日に行うのが一般的な正月の鏡餅を下げて食べる儀式が「鏡開き」です。剣道や柔道で寒稽古(かんげいこ)を行い、鏡餅でお汁粉をつくって食べるニュースが、鏡開きの定番でしょうか。鏡餅は、刃物で切ることを忌み、手で欠いたり槌(つち)でたたいたりして割って食べるのも「開く」というめでたい言葉を使って縁起を担いだ結果でしょう。この鏡開きの日とされている11日は、元は商家の仕事始めにあたる「蔵開き」の日でした。                                  
杉浦家に残る数多い歴史資料の中の一つに昭和11年と12年の1月11日付け「吉例之庫開福引き」の手書きの和綴じ書き物があります。
純子さんも「西条新田は長いこと40軒でしたから、1月11日には村の方々をお呼びして、お汁粉を食べながら福引をしました」「若い看護婦さんが並んで皆さんをお迎えしましたが、嫌な顔せず何でもしましたから若かったのにあの頃の方は偉かったですね」と懐かしそうに話してくれます。杉浦家は商家ではありませんから「蔵開き」とは表現せず「庫開き」と「くら」の字を変えての福引き大会だったようです。納屋には、現在も酒樽がいくつも残っていますが、健造先生も三郎先生もお酒は飲まなかったと云いますから、この庫開きで振る舞った名残でしょう。
 40軒の村内で杉浦家が用意した福引景品は、昭和11年が115品、昭和12年が117品ですから、杉浦家の鏡開き「吉例之庫開福引き」は、村内老若男女の正月行事でもあったのでしょう。
この日の為に「杉浦家執事」も毎年、知恵を絞って品選びをし、その景品とコントを残しています。
福引で「新婚旅行」の札を引いた人には「キャラメルと足袋」が当たり、その心は「甘い旅」と紹介して、場を盛り上げる粋な計らいです。これを百以上考えるのは大変だったと思いますが、トンチやダジャレを駆使して、いかに面白く目出度く演出するかを仕掛ける訳で、ノドカでもありヤリがいもあって恒例となったのでしょう。ビンゴゲームに取って代わった今日、当時の執事に敬意を表しつつ勝手に選んだベスト5をご紹介して、約75年前の正月行事と風土に思いを馳せてみるのも一興でしょう。
<目出度記ベスト5>
1.「西条村」には「封筒」、その心は「中に新田(親展)もあるよ」。
2.「三郎先生」には「猿股」、その心は「博士(はかせ)ろ」。
3.「躍進日本」には「赤塗丸盆」、その心は「日の出の勢い」。
4.「甲府の銀座」には「密柑と燐寸」、その心は「三日町(みっかまち)」。
5.「好い女房」には「薬缶」、その心は「妬かん」。 
で、<めでたし、めでたし>

2013年1月5日土曜日

杉浦醫院四方山話―208 『杉浦家と蛇』

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


今年は、巳年ですから、巳・ヘビについての話でスタートします。

 一般的には、ヘビは嫌われ者ですが、特に白蛇は昔から神として崇められてきたように実際は、頭も良くとても繊細でナーバスな生物のようです。確かにヘビにばったり出くわすとびっくりもしますが、「蛇は家の守り神」と言い伝えられてきたのには、それなりの根拠もあったのでしょう。杉浦家は、江戸時代の初期からこの地で医業を営み、樹木も多く、池や様々な建物があり、「家、一軒一軒に必ず一匹蛇がいる」と云う言い伝えもありますからヘビの数も多かったのでしょう。私も庭で何度かヘビに出会ってきましたので、最近は特に驚くこともなくなりましたが、純子さんは極自然に「昨日は階段の手すりをヘビがスルスルっと上がって行きましたよ」と杉浦家のヘビのことも話題にします。
 「よく天井裏をヘビがズルズル音を立てて動きますが、ヘビはネズミを捕るので大事にしなさいって祖父から言われていましたので、ネズミを追いかけてるなって・・・」
 「納屋の漬物小屋に玉子を取りに行ったら、丁度ヘビが玉子を飲み込む所でした。ヘビは玉子を丸ごと飲み込んで、高い所から飛び降りて、お腹の中で殻を割るんだから頭は良いですね」
 「病院の廊下にもよくヘビが出ましたが、患者さんはヘビの生き血が欲しいからと持って帰りましたね。結核にはヘビの生き血が良いなんて言われた時代でしたから・・」
 「裏のバラの木にヘビの抜け殻が真っ直ぐ下がっていたこともありますが、お財布に入れておくとお金が入るからと持って行く人がいました。<巳年の女は小銭に困らない>って言いますもんね」
 「犬とヘビの喧嘩もよく見ましたが、犬がいくら吠えてもヘビはピッピッって舌で威嚇してドウジませんからヘビの方が強かったですね」
 「飼い犬のメリの尻尾に白ヘビがからみついている夢を見たことがありますが、そう云う時は、直ぐ宝くじを買わなければって、後から知りましたが、一度っきりで・・・」等々、ヘビと仲良く共生してきた杉浦家。純子さんの結論も「何度見てもヘビを見るのは気持ちいいものじゃありませんね。でも、人間が踏んづけたり、攻撃したりしない限り、ヘビから攻撃してくることはありませんから、ヘビは姿形で損して、ホント気の毒ですよね」