2015年10月26日月曜日

杉浦醫院四方山話―449 『大村智博士・甘利山スキー場』

 大村博士のノーベル賞受賞決定で、大村氏の現在と過去がマスコミのニュースや特集番組でどんどん公になっていますが、大村氏自らもどんな内容のインタビューにも応えている感じで、飾らない人柄が浮き彫りになり、庶民的な明るい話題を提供し続けているのも「脛に傷」一つ持たない人生を送って来た自信でもあるのでしょう。



 その中で、5人兄弟の長男として生まれた大村氏ですが、姉が語った弟の少年期の話で「家畜の世話など農業の手伝いはしたが勉強は全然しないで、ベルトを外してビュンビュン振り回すガキ大将だった」と云った話に親近感を覚えました。

 今でこそ、ベルトビュンビュンは見かけなくなりましたが、昭和30年代後半の中学校でもケンカになるとベルトビュンビュンでしたし、高じて腰にベルト以外にクサリも巻いてケンカに備えていたツワモノもいましたから、大村氏はケンカでも負けず嫌いな少年だったのでしょう。



 もう一つは、韮崎高校でスキー部主将を務め、国体の山梨県代表として活躍したスポーツマンだったと云うエピソードです。

私より15年近く前の世代で、部活にスキーを選択出来た大村少年は、とても恵まれた家庭に育ったんだと思いました。

 それは、昭和40年代になっても高校スポーツで競技スキーをしていたのは、高価なスキー道具や長野県のスキー場に通う交通費や宿泊費等々から、ごく限られた裕福な家庭の子女だったからです。



 そんな折、韮崎市出身の高校の同級生Y君が、大村博士の少年時代を自分の少年時代と重ねた感想をメールリンクに載せて、韮崎の風土について教えてくれました。

甘利山.JPG

レンゲツツジ咲く現在の甘利山山頂

 

 韮崎市では大村少年のころからY少年の時代位まで、市内の甘利山でスキー大会が開催されていて、その大会目指して、甘利山でスキーの練習をするのが一般的な少年の冬のスポーツであり楽しみでもあったそうです。


 

 当然、リフトなど無かったそうですから滑り降りたらスキー板を担いで登るの連続で、Y君も「あれで足腰が鍛えられた」そうですから、大会で優勝したと云う大村氏ですから誰よりも多く練習に明け暮れたのでしょう。



 現在の甘利山は、日本百名山にもなっていますが、自動車が入る道路整備や折々の花が楽しめる植栽等で、登山と云うよりハイキング向けの山と云った感じですが、山頂にあったと云うスキー場まで登る前に市内各所から甘利山までも歩いたり、自転車で行ったのでしょうから、韮崎の昔の少年は皆、健脚揃いだったことでしょう。



 人工降雪機の発達で、現在は県内にも複数のスキー場がありますが、「甘利山と雪」はピンと来ません。

しかし、韮崎市史にも「1956年(昭和31年)第一回県下甘利山スキー大会開催」とありますから、大村氏が高校生になった1950年以前から、「韮崎市中高校生甘利山スキー大会」が開催されていたのでしょう。

 スキー場が頂上だったのも確実な積雪を確保する必要からだったのでしょうが、数十年に一度の大雪はあっても近年ではスキーが出来る程の積雪は無いでしょうから、矢張り「地球は温暖化」しているのでしょうか?

2015年10月24日土曜日

杉浦醫院四方山話―448 『大村智博士・故郷』

 大村智博士がノーベル賞受賞決定後、初めて故郷韮崎市神山町の自宅に帰り、地元の方々から祝福を受けていることを今日もマスコミ各社が大きく報じています。(10月18日)

 大村博士は、「韮崎に帰って故郷の自然に包まれ鋭気を養い、東京に戻って研究に取り組む。この繰り返しが今回の受賞に繋がった」と語っているように韮崎と東京を行き来してきた中で、韮崎の自宅を取り囲むように美術館・そば店舗・温泉施設も造り、地元の人々にも喜ばれてきたのでしょう。



 韮崎市内は、大村博士の受賞祝賀ムードで活気づいていますが、これまで韮崎市が誇る偉人は、小林一三氏でした。

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  もう十年位前でしょうか、「小林一三出身の街・韮崎」として、市内の全ての学校に宝塚のシンボル・スミレの花を植樹して、子どもに小林一三の偉業を教え、街をスミレでいっぱいにする「町おこし」を市が始めたと云ったニュースを聞いた記憶があります。

 

 小林一三は、関西を舞台に阪急電鉄や宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などを次々創業した日本の私鉄経営のモデルを作り上げた実業家として有名ですが、政治家でもありました。

 甲府の中心街にあった「甲宝シネマ」は、戦前、小林一三が私財を投じて甲府市太田町に「甲府宝塚劇場」として開館した老舗映画館でしたから、「宝塚劇場がある甲府」も小林一三のプレゼントだったのですが、 若尾逸平や根津嘉一郎のように東京で成功した甲州財閥に比べ、小林一三の名は甲州人には浸透性には欠ける嫌いもあります。

  

 それは、小林氏の誇張された形容でしょうが「故郷に一度も帰らなかった男」から来ているのかも知れません。

 

 同じ韮崎生まれの小林氏と大村氏ですが、故郷・韮崎へのスタンスは180度違っていたようですから、今回の大村氏のような祝賀行事は、生前の小林氏には無かったのだろうと思います。


 小林氏が1873年(明治6年)、大村氏は、1935年(昭和10年)と生まれた時代は違いますが、同郷で名を成した二人の故郷へのスタンスの違いは、どこから来たのでしょう?



小林氏は韮崎市中心街の商家の生まれ、大村氏は市内を見おろす農家の生まれの違い?

小林氏は幼くして市外の縁者の家で育ったのに対し、大村氏は大学卒業まで韮崎で農業を手伝いながら成長した成育歴の違い?

小林氏は慶應義塾卒、大村氏は山梨大卒と最終学校の違い?

 小林氏は山梨の峡北地区から関西一円へと拡大した商圏での実業世界で、大村氏は化学という学問研究世界でと、思考、活躍の場の違い?


 等々が凡人が思い当たる推測ですが、まあ、凡人同士の場合は、「妻」のスタンスの違いが決定的でしたから、あながち偉人にも共通するのかも知れません。



 杉浦父子のように外で学んだ後は、故郷で全うした人生、大村氏のように故郷を大切に往復する人生、小林氏のように故郷を振り向かない人生と違いますが、共通して「故郷がホオッテおかない」ところに偉業を為した偉人たるゆえんがあるのでしょう。

2015年10月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―447『大村智博士・地方病』

 「一億円宝くじに当たると急に親戚が増える」と同じで現象でしょうか、大村智博士のノーベル賞受賞で、当館にも問い合わせが舞い込むようになりました。


 それは、受賞決定後の超多忙な博士には取材できないマスコミが、安直な方法として当館に問い合わせてきたのでしょうが、「韮崎の農村生活での成育歴が、学問や研究への基本姿勢を形成した」と云う博士の話が繰り返し報道されていることから、「韮崎にも地方病の患者はいたのか?」と云った問い合わせから「博士が寄生虫病の薬の開発に向かったのは地方病が影響したのか?」と云った、本人に取材してもらわなければ分からないことまで多種です。

 そんな訳で、大村智博士の研究と山梨の風土病「地方病」との関係を整理してみるのも無駄ではないでしょうから、客観的な年代に即して推測してみたいと思います。

 

 大村博士の本格的研究生活のスタートを1963年に山梨大学工学部発酵生産学科に文部教官として赴任した年とすると昭和38年からになります。

 地方病は、昭和30年代になると住民の感染調査、診断も定期的に行われ、検便による虫卵検査からより正確な皮内反応検査が主流になるなど治療の徹底と予防が浸透し、県内での新規感染者数は激減していった時代と重なります。

 特に特徴的な腹水がたまる重症患者は稀になり、昭和40年代になると患者に感染したセルカリア数も少く、便中に虫卵を見つけることも困難になったそうですから、昭和30年代以降は、地方病の流行は終末期を迎えたと云えます。


           山梨県による地方病予防宣伝カー。1955年(昭和30年)頃

 ですから、大村博士が故郷の風土病・地方病撲滅を念頭に研究を始めたと云うことは無かったのでしょうが、地方病の有病地を名指しで謡った哀歌にも「 中割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶」と謡われた韮崎市中割は、大村博士が育った韮崎市神山地区に隣接していますから、大村博士もこの病に罹った農民を目の当たりにして育ったことは想像に難くありません。



更に、山梨県内では終息に向かったこの病も昭和3、40年代の東南アジアでは、猛威を振るっていましたから、甲府市立病院の林正高先生がフィリッピンの患者救済に起ちあがったように山梨大学から北里大学へと研究拠点も移した大村博士が、世界を視野にアフリカの風土病を研究対象に薬の開発を始めても不思議ではありません。




 また、大村博士は現在もブラジルの研究機関と連携して、現地の住血吸虫症患者に有効な薬の研究開発をしているそうですから、一つの国から一つの病を終息させた故郷・山梨の地方病=日本住血吸虫症根絶の取り組みや歴史は、故郷思いの博士の中に脈々と息づいているのでしょう。

2015年10月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―446 『大村智博士・科学映像館』

 今年のノーベル医学・生理学賞を韮崎市出身の大村智氏が受賞され、山梨県人初のこの快挙を山梨日日新聞は連日大きく伝え、県内は大村フィーバー現象で、県民の士気も上がっているように感じますが、物理学賞も日本人・梶田隆章氏ですから、山梨県に限らず日本全体が元気になっている感もします。



 これは、大村博士=日本人=山梨県人=韮崎高校=山梨大学等から、自分は「日本人=山梨県人=韮崎高校=山梨大学と4つもダブってる」とか云って、共通項を競っても何の意味もないのは承知でしょうが、目に余る劣化で発信力も統治力も無きに等しい日本の政治家と政治のテイタラクに厭世気味の日本人には、学問分野での世界的活躍で溜飲を下げたと云うことでしょう。



 大村博士と同世代で「カテプシンK」の発見者でもある久米川正好氏は、大村氏同様「世間のお役にたつ仕事」をライフワークに大学退官後は『科学映像館』を主宰している研究者です。

『科学映像館』の映像は、インターネットで「いつでも・どこでも・だれでも」無料で観賞できる画期的な「映画館」ですが、久米川先生からも山梨県人である私に「この度はおめでとうございます」と大村氏の受賞を祝福する電話をいただきましたので、間違いなく山梨県にとって大村氏の受賞は、計り知れない効果をもたらしていることが実感できます。



 同時に久米川先生から『科学映像館』の映像の中にも大村智氏の関連映像があることを教えていただきました。

「科学映像館」トップページ左のジャンル検索の「科学映画制作会社検索」にある「ヨネ・プロダクション」をクリックすると「命を守る 北里研究所ー伝統と未来ー」があります。

この映像は、北里研究所が創立80周年を迎えた1990年に「大村智監修」で制作されたもので、ヨネ・プロダクションH・P上の最新YONE Productionの日記でも大村博士のノーベル賞受賞に合わせ、この作品の英語デジタル版化を進めていることを報じています。 この英語版も科学映像館から配信されますので、科学映像館へのアクセスもこれまで以上に国際化することでしょう。

「ノーベル映像賞」があれば、遠からず久米川先生もノミネートでしょうが、貴重な科学映像を中心にこれだけの映像をお一人で収集、配信している業績は、既存のジャンルでは「ノーベル平和賞」でしょうか。


  また、久米川先生からの情報では、来週中には大村智関連映像として「愛犬の命を守るために」が、科学映像館から配信されるそうです。

 

 ご存知のように大村博士の開発した「イベルメクチン」は、多くの人間の命を救ってきましたが、犬の肺動脈に寄生するフィラリアが原因で、1980年まで平均寿命が3歳にも届かなかった犬の命も10年近く伸びましたから、大村博士の「イベルメクチン」は、私のミックス犬14歳の命も守ってきた訳で、感謝に堪えず14歳の痴呆犬になり代わり御礼申し上げ、映画 「愛犬の命を守るために」を心待ちに一緒に拝観したいと思います。

 

 

2015年10月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―445 『放送ライブラリー』

 横浜の「日本新聞博物館」は、定期的なPRもあり知っていましたが、同じビル内に「放送ライブラリー」と云う施設のあることを初めて知りました。

ここでは、過去のテレビ、ラジオ番組からCMまで約3万本を無料で公開しているそうですから、「時間だけはある」年金生活者になったら入り浸ってみたい誘惑に駆られます。

 

 ホームページを開いてみると収蔵されている番組やCMも検索出来るようになっていました。早速「サントリーホワイト」と入力すると1971年から1998年までの5本のCMが登録されていて、お目当てのサミー・デイビス・ジュニア出演の「Get with it」と菅原文太出演の「ホワイト 文太・夜桜」もあることが分かり、近々行ってみたくなりました。

 それは、「科学映像館」のように観たい映像をインターネットで観れるのではなく、収蔵作品とそのデータを確認して、放送ライブラリー館内で観賞するシステムであることが地方在住者には残念でもありました。



 そうは云ってもあのサミー・デイビス・ジュニアの絶妙なアドリブの「Get with it」が1972年の作品、菅原文太の名セリフ「あんたも発展途上人」の「ホワイト 文太・夜桜」が1982年の作品であったことなども確認でき、懐かしいだけでなく現代のCMにない質の高さをじっくり鑑賞したくなりましたから、足を運ぶ価値は十分あるように思います。http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7b/ba/kk12120928/folder/275707/img_275707_3145374_0?20061013232011.jpg

 余談が長くなりましたが、この放送ライブラリーから「ご出演ラジオ番組の放送ライブラリー公開について」の封書が届きました。

 

 これは、去年4月に放送されたYBSラジオスペシャル「水腫張満茶碗のかけら 地方病100年の闘い」が、この放送ライブラリーで保存され、公開することになったことから放送ライブラリーのチラシと共に丁重な依頼文書と承諾書が同封されていました。

 山梨でも「水腫張満茶碗のかけら」と云うフレーズもすっかり聞かなくなり、若い方にはその意味も説明が必要になりました。

地方病が原因不明の奇病とされていた時代は、この病は「腹張り(はらっぱり)」とか「水腫張満(すいしゅちょうまん)」と呼ばれてきました。この病気に罹ると茶碗のかけらと同じで使い物にならない、あるいは治らないと云ったあきらめの意味や嘆きが込められた慣用句でした。 

 

 山梨放送の石川部長自らが取材したこの番組は、その後東日本グランプリ等に輝いたことは、石川氏からも報告があり知っていましたが、めでたく放送ライブラリー収蔵作品にも選定されたようです。

 ローカル放送局の番組は、その地域内でしか視聴できませんから「水腫張満茶碗のかけら 地方病100年の闘い」も県内の限られた方しか聴いていないと思いますが、公開されれば横浜でいつでも聴くことが可能になりますので、出演者が言うのも無粋ですが「石川部長渾身の作品は一聴に値します」です。