2018年2月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―535『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-1

 前話「東京銀座・江木写真館」について調べていく中で、広島県の県立高校・福山誠之館同窓会サイトに行きつきました。

 

  1880年(明治13年)に江木写真館を創設した江木保男・松四郎兄弟は、福山藩の医者であり儒学者の江木鰐水(えぎ・がくすい)の5・6男で、すぐ上の兄は明治初期の外交官・江木高遠です。二人は、福山誠之館高校の前身・藩校「福山誠之館」の卒業生であることからこの同窓会サイトに江木保男・松四郎兄弟の江木写真館も紹介されていました。


 江戸時代の藩校「福山誠之館」が明治に「広島県福山中学校」となり、現在が福山誠之館高校です。山梨県で云うと江戸時代、甲府城南の地に設置された「官学・徽典館」を経て「山梨県立甲府中学」が現在の「甲府一高」ですから、同じような歴史、伝統の学校といえましょう。


 そこで、甲府一高同窓会のサイトも開いてみました。感じ方や感想は十人十色ですから是非、上記赤字のリンクをクリックして両高同窓会サイトをご覧いただき、普段思いも馳せない(であろう)「同窓会」について、時間をとってみるのも一興でしょう。


 同じような文化や卒業生を輩出してきた両校の同窓会なのにこのホームページの違いは何なんだろう?が、私の初発の驚きでした。

 

 私事で恐縮ですが、同窓会総会の当番幹事になった20年弱前、記念誌担当を仰せつかった私は卒業以来初めて母校に行き、同窓会担当職員や図書館司書から学校にある学芸資料や歴史資料を見せてもらい、それを基に記念誌を作りました。

ですから、福山誠之館同窓会サイト上で紹介されている数々の歴史資料や人物資料、収蔵している学芸資料などを観て「井伏鱒二も卒業生か」とか「一高にあった石橋湛山の書の方が・・」と思ったりで、伝統校が蓄積し内包する文化の共通性を確認した程度でした。

「成る程、インターネットの時代では足を運ばなくても、こうして母校の歴史や秀でた卒業生について調べることも出来るのだな」と、一高のサイトも観てみようと思ったのでした。



 その結果が、前述の「初発の驚き」で、幾晩か酒など飲みながら無い頭で考えてみましたが、私に出せた結論は「同窓会に対する風土の違いだろう」程度でした。


 山梨県の地方新聞は現在「山梨日日新聞」一紙だけです。この新聞には、毎年県内の高校の同窓会総会の広告が載りますが、どこの学校も総会とアトラクション入りの懇親会がセットです。また、山日新聞には、同級会やクラス会など写真入り記事が、投稿記事として毎月掲載されていますし、同級生による「無尽」と云う飲み会も甲州名物です。

このように山梨では、「同窓会」は懇親を深め交流を図ることを第一の目的として定着しているのでしょう。それは、健康寿命日本一にも貢献しているとの評価もありますから、良しとしましょう。


 その上で、私の中には「勿体無いよなー」の思いが募るばかりでした。それは、福山誠之館同窓会がきめ細かく関係資料を整理して、公開していることで、江木写真館創設者の生い立ちまで語り継いでいることの意味と必要性を痛感するからです。


 例えば、今日の山日新聞が「山梨の先人13」で、『首席で卒業した甲府中学(現甲府一高)では教員から「数千人に一人の秀才」と評されるほどだった』と紹介されている「映画監督・増村保造」についてもどれだけの卒業生が同窓生であることを知っているか?等々・・・

矢張り「同窓会」が存在して果たすべき本来の任務について、少なくとももっと議論があってしかるべきではないのか?もう少し考えていこうと思います。

2018年2月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―534『東京銀座・江木写真館』


 杉浦醫院には、診察室を見守るように大きな額に入った健造先生の写真が掲示されています。当時としては大きく引き伸ばされた写真ですが、粒子も粗くなく健造先生のキマッタ顔と背広姿が、この写真撮影にのぞんだ先生の意気込みまで感じさせます。

 

 孫の杉浦純子さんは「祖父と父は性格や趣味が180度違っていましたね。祖父はあの時代に自分の写真を東京銀座の江木写真館まで行って撮ったんです。父はそういったことには全く興味がなく、ピンボケ写真ばっかりで困ったのを覚えてます」と話していました。

 

 確かに健造先生の写真はたくさん残っていて、「甲府・内田写真館」とか撮影した写真館の名前入りのもあります。県の近代人物館はじめ副読本などに使われている健造先生の写真は、全て「東京銀座・江木写真館」で撮影された診察室にある写真です。

江木写真店(明治24年)

 

 この「東京銀座・江木写真館」は、現在もあるのか?

先日、東京から来館されたご年配の方々に伺いました。

「今の静岡新聞社ビルが、昔は江木写真館だったようだね」「塔のある高い建物で、待ち合わせ場所としても有名だったそうだけど今は銀座ではやってないと思うよ」と教えてくれました。

 

  早速、ネットで調べてみると中央区文化財調査指導員の野口孝一氏が「江木塔の写真師たち」と云う文章の中で、江木写真館の創設から往年の写真技師の話まで詳細がありました。

それによると、一万円札の福沢諭吉の肖像写真も江木写真館の成田写真師の撮影だということですから、健造先生が上京してまで撮りたくなったのは江木写真館の写真師の腕や技術の高さを情報としてキャッチしていたからでしょう。

 

 確かに現在のようにカメラが自動的にピントを合わせるオートフォーカス機能等が一般化したのは、昭和も50年代に入って「ミノルタα-7000」の登場以降だったと思いますから、明治・大正・昭和と永く写真は、撮影する写真師の腕による違いが大きかったのでしょう。


 同時に、野口孝一氏の「江木塔の写真師たち」から、明治時代に写真館を始めた江木兄弟の向学心や進取の精神は、奇病解明に取り組んだ健造先生と相通じますから、健造先生はその辺の情報も知っての江木写真館選択だったのかも知れません。

*野口孝一著「江木塔の写真師たち」と写真は中央区ホームページから拝借しました。     

2018年2月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―533『松医会報85号』

 北里大学の寄生虫学の辻教授から「研究室の学生と杉浦醫院で研修会を持ちたいが、学生は来春から臨床に入るので、1月31日しか日時がとれない」旨の連絡があり「午後1時から4時までの3時間を杉浦醫院のプログラムでお願いします」との依頼がありました。

 これまでも麻布大学の「さくらサイエス」の研修会を毎年受けてきましたので「寒い館内ですが是非ご利用ください」と引き受けました。

3時間を内容あるモノにすべく辻教授からも「プログラムの中に実際に日本住血吸虫症の患者さんを診たお医者さんが居たら、その方のお話もお願いしたい」との注文もありましたから早速、巨摩共立病院名誉院長の加茂悦爾先生にお願いしました。


 加茂先生は、三郎先生が「地方病の事は加茂先生がいるから大丈夫」と、太鼓判を押した後輩で、当館も開館準備段階からご指導いただいたり、貴重な資料をご寄贈いただいたりしてきました。今回も加茂先生から「松医会報85号」をお土産に頂戴しました。


 「松医会報85号」は、平成19年秋に信州大学医学部松医会が発行した会報ですが、約150ページの会報と云うより書籍です。この85号では「日本住血吸虫症」を特集として取り上げ、信州大学医学部を卒業後、日本住血吸虫症の研究や臨床に携わった6名の医師と研究者のエッセーで構成されています。


 それぞれの先生方が自分と日本住血吸虫の「かかわり」についての随筆ですから、専門の医学用語が飛び交う学術誌と違って、私にも興味深く読めたのが特徴です。


 山梨大学医学部の前身山梨医大が開校したのは昭和53年ですから、山梨の地方病の研究、治療は、信州大学医学部出身の医師が中心でした。今回の執筆者6名は、甲府市立病院の故・井内正彦先生、市立病院の後輩で故・林正高先生、巨摩共立病院の加茂悦爾先生、後輩で後に横浜市立大学に転じた天野晧昭先生、東京医科歯科大学の太田伸生先生と綿々と現役の太田先生まで繋がっています。


 松医会は、「会報」を定期発行するでけでなく、現在の医学部学生も視野に入れての支援活動もしているようですから、信州大学医学部の鉄の結束の要になっているのでしょう。

上記6名の先生方も日本住血吸虫症の個々の研究分野は違っていてもお互い横の連絡も密で、信州大学の教授や先輩後輩が助け合っての研究活動であったことが分かります。

 

 そして、何よりも信州松本の地で青春を過ごした者同士の共通した価値観あるいは人生観のようなものが醸し出されていることです。それは、北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」の世界とも重なる大らかさが飾らぬ表現と確かな文章力で表出されています。

森鴎外から北杜夫や南木佳士まで、医者に作家が多いのも頷ける「松医会報」です。当館2階の座学スペースで自由に読めますので、お楽しみください。