2011年10月29日土曜日

杉浦醫院四方山話―88 『木犀会』と『ことぶき歓学院』

ことぶき勧学院の存続を求める陳情書に
署名する生徒たち=山日新聞=
 昨夜、甲府市総合市民会館の会議室で定期的に開催されている「木犀会」という自主学習サークルで、杉浦醫院や地方病について話す機会をいただきました。本題に入る前に、この「木犀会」の歴史や運営について、興味があったので尋ねたところ、実に27年間続いている学習会であることや参加者が身銭を出し合い運営していることが分かり、この間、山日新聞などで度々話題になっている「ことぶき歓学院」についても意見交換出来ました。「ことぶき歓学院」は、県の事業仕分けの対象になり、仕分け人全員の一致で廃止が決まったことから、在籍者や関係者が、存続を求めて投書や署名活動を活発化させているシルバー世代の社会教育機関です。「木犀会」のメンバーにも「歓学院」でも学んでいる方もいましたが、「歓学院は、木犀会に学ぶべきだ」とする私見を述べました。市町村の教育委員会も毎年、歓学院の入学受け付け窓口になっていましたので、「歓学院」のシステムと内容が既に役割と魅力を失っている実態を十数年前から公言してきましたので、その根拠と理由も挙げて、意見交換の具体化を図りました。

①一年間の開設講義の内容が、県教委作成のカリキュラムとして提示されていること
②受講印による年間多受講生の表彰制度など教育システム的運営であること
③この事業の担当者は、教員の期間出向者で、現場感覚と改革意識が希薄なこと
④県内教職員の退職者の占める割合が多く、教職員OBの同窓会的雰囲気が濃厚なこと
⑤シルバー世代の生涯学習機会だけが、税金で設けられている根拠が曖昧なこと 等々

 学校教育も修了し、社会人として職業生活も終えたシルバー世代が対象なのに①②のように学校教育に準じた制度と類似した運営であるという根本問題や批判、改革要求に③④のような実態から、これまで抜本的な改革が図られて来ませんでした。
年間予算4500万円と云う「税金」で運営さる学習機会が、なぜシルバー世代限定で開設されなければならないのかの明確な根拠はありませんし、故宮坂広作氏が事あるごとに指摘していたように、むしろ、この時代の社会教育は、世代に関係なく就労に繋がる「職業教育」や「資格取得講座」、「防災」や「放射能」等々の現代的課題学習の開設に税金は向けられるべきでしょう。
そういう意味でも何を学ぶかは、学ぶ本人が決め、予算が切られたら学べない、学ばないのではなく、切られてもどう学んで行くかが問われていることを「歓学院」で学んで来た皆さんには自覚いただき、木犀会のノウハウも伝授してやって欲しいと結びました。

2011年10月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―87 『ボランティア』

 昨日、昭和町商工会女性部の役員の方々が、杉浦医院建物の清掃ボランティアに事務局職員共々15名で来て下さいました。3,4人一組のグループに分かれ、一気に館内のガラス窓から柱や鴨居、家具、照明器具までみるみる拭きあげ、後日に予定していた2階まで、内外から磨いていただきました。積年の埃や煤で、持参いただいた雑巾も直ぐ真っ黒になりましたが、約1時間後には、見違える程きれいになり、館内の空気も一変した感じです。「数は力」と云いますが、一人一人の力がゼロなら、何人集まってもゼロでしかありませんが、今回のメンバーは、お一人お一人が物凄いパワーと情熱を持っている方々であることを作業成果と時間が、証明してくれました。危険な高所作業も厭わず、黙々と気持よく活動いただいた皆様、誠にありがとうございました。
 プレオープン後、近くにお住まいのS氏は、庭園の清掃に朝早くから来て、柿の木の消毒までもやっていただいて、一年になります。地元西条新田区の区長さんからも「役員で落ち葉の清掃に行きますから、必要だったら声をかけてください」と心配いただいてきました。また、高校生、中学生のZ姉妹は、純子さんに学校の話題を定期的に話に来て、「今の学校は、昔と違って、驚くことばかりです。若い方の話を聞くと時代の変化が分かって、面白くて勉強になります」と純子さんも心待ちの様子です。もうひと方、竜王のS氏は「気分を害さないでください。私の趣味ですから・・」と開館早々、道具一式を持参して、トイレの便器を真っ白にして下さいました。「これを使えば面白いくらい取れるんです」と秘密兵器と使い方まで伝授してくださいました。そのS氏は、3・11以後、既に10数回岩手と山梨を往復して、復興ボランティアを継続しています。「行けばやることはいくらでもあることが分かっているので、用事を済ませたら、戻らなければ・・と、じっとしていられない」と云います。この活動を通して、彼が考えたことや伝えたいことを「OTOUのブログ」で、発信してくれています。本当の情報と共にS氏の人柄と思考の深さ、視点の確かさが率直な文章に醸しだされ、毎朝のチェックが欠かせません。「がんばろう日本」だの「東北の被災地に向けて・・」と云った空虚な「言葉」が、日本中に氾濫している現在、自分自身を現場に置いて、黙して奮闘している方々の実践と言葉の重みは、そのまま人間が生きるということの価値と品格を教えてくれているようで、恥じ入るばかりです。

2011年10月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―86 『北方文化博物館と伊藤辰治氏』

 「豪農の館・北方文化博物館」は、越後の国・新潟県の観光コースにもなっていますので、行かれた方も多いことと思いますが、その広さと豪荘な趣きは目を見張るものがあります。米どころ酒どころ新潟の豪農のスケールの大きさは、かつての日本の基盤産業が、第一次産業と云われる農業だったことを実感させてくれるに十分です。 
 国の登録有形文化財にも指定され、北方文化博物館として公開されている豪農の館は、江戸時代から続く伊藤家の家屋敷ですが、屋敷面積約9000坪(30,000㎡)、建坪も約1200坪(4,000㎡)にも及び、茶室だけでも5ヶ所あり、母屋には、60室以上の部屋がある桁外れの大きさです。越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、戦後の農地解放で、広大な農地は伊藤家の所有を離れ、この家屋敷も存続の危機を迎えました。慶応大学卒業後、アメリカの大学にも留学していたと云う伊藤家の7代目は、この家屋敷を保存、活用していく道を選択し、財団法人「北方文化博物館」を設立し、この財団に伊藤家の家屋敷を寄付した結果、当時のままの家屋敷が、保守管理されながら公開されている訳で、7代目の「先見の明」にも感心します。
 純子さんが、「父は新潟の医科で、伊藤辰治さんと同級で、親しくしていただいたようです。」「伊藤さんは、後に新潟大学の学長さんになられた方ですが、伊藤家は、現在、確か北方博物館になっている凄いお宅で、家中が宝物の山だったとよく話してくれました。」
「伊藤先生とはこちらに帰ってからも懇意にしていましたが、学生時代にお宝を少し分けてもらえばよかったと笑って話していたのを覚えています。」「家も山梨では見たこともない立派な家で、当時から外国の貴重なものもたくさんあって、とにかく凄かった。」と・・
城のように土塁を築いて濠をめぐらせた敷地の内には、素材と手間を惜しまずに造られた家屋や土蔵等々が軒を連ね、当時最高の木材を大工が技を競って作ったといいますから、三郎先生が「驚いた」と言うのも頷けます。
 三郎先生の学友伊藤辰治氏は、伊藤家6代目の弟の娘さんの婿として、伊藤家に入ったそうですが、「伊藤家の嫁とり・婿とり」は、『五代文吉は、謙次郎の嫁とりに力を注ぎます。将来の伊藤の家にふさわしい家柄の娘を探し、新潟県全域にわたり56の家を調査しますが、この志なかばに五代文吉は明治24年(1891年)2月29日に逝去し、・・』とホームページで紹介されている位ですから、厳しい「調査」の結果、辰治氏は選ばれて、婿入りしたのでしょう。当然、「ご学友」に荒くれ者がいたらはじかれるのが常ですから、親友の三郎先生の品行も調査され、辰治氏の評価を上げた結果の婿入りだったのでしょう。

2011年10月20日木曜日

杉浦醫院四方山話―85 『絶滅危惧種』

 「宮入慶之助記念館だより 第15号」が届きました。今回の記事の中に自治医科大学の石井明氏が「里山のミヤイリガイ」と題して、里山と種の多様性について、ビオトープでの可能性にも言及しながら、ミヤイリガイの保護、増殖について論じています。
 確かに、日本住血吸虫症の撲滅のために吸虫の中間宿主となるミヤイリガイの殺貝を徹底して、この病気の終息を世界で初めて成しえた日本ですが、里から土水路と共にホタルをはじめとする多種多様な生物が消えました。
 宮入教授が鈴木講師と九州・築後川で発見したミヤイリガイですが、既に築後川では全く見られなくなり、別名「片山貝」とも呼ばれた広島片山地方の河川にもいなくなって久しいことから、現在は、唯一甲府盆地一帯にしか生息していない貴重な貝となり、絶滅危惧種として、保護されるべき段階に来ているのではという提言でもあります。
 これを受けて、宮入記念館館長の宮入源太郎氏は、編集後記の中で「展示室には24種の貝の標本が展示されていますが、展示の迫力を増すために生きた貝を展示したいと考えています。しかし、住血吸虫症を制圧する歴史においてこの貝は危険生物として駆除の対象とされてきました。もし、当館が貝を飼育して生きた貝を展示したらどのような事態になるか、原発事故にからむ放射能の風評被害の事例も参考に充分な分析・考察が必要であります」と慎重な見解を記しています。
 ミヤイリガイそのものに毒性や感染源がある訳でなく、たまたま住血吸虫が勝手に入り込み、この貝の中で成長したという、ある意味大変な被害者でもあるミヤイリガイです。 「現在生息しているミヤイリガイの再感染の危険性は、99,9パーセント無い」と梶原徳昭氏は言いますから、日本での衛生状況からすると昭和町で、ホタル同様「ミヤイリガイ愛護会」を立ち上げ、ミヤイリガイを絶滅の危機から守る活動も検討の余地があります。幸い、昭和町内の河川等には、カワニナの生息数も増えてきていますので、石井先生の提言を活かすには、ミヤイリガイが、どの位、どんな分布で町内に生息しているのかは、調査しておく必要を感じました。
また、日本のミヤイリガイと中国の中間宿主の貝やフィリピンの貝では、それぞれ微妙に種が違い、日本でミヤイリガイが絶滅してしまうと世界から消え去る種だそうですから、長い間、殺してきた供養も含め、真剣に考えなければいけない課題であると思います。
町内の3つの小学校には、全てビオトープが完備していますので、元々この地にたくさんいたミヤイリガイが、昭和の学校のビオトープで生息しているのも理にかなっています。

2011年10月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―84 『明治四十年大水害実記-2』

 明治43年にも再び甲府盆地一帯は大水害に見舞われました。引き続く大水害は、明治になって県内林野の約7割にあたる35万町歩が国に官収され、その後、皇室の御料に編入されたことから、林野の乱伐や盗伐、放火や失火などが多発し、山林が荒廃し、山の保水力が著しく劣化していたことが、一番の原因でした。その為、明治44年(1911年)に皇室御料山林は県に下賜され、恩賜県有財産(恩賜林)として県が管理することになりました。
 この天皇家の山林が、県民の財産として県に移管された、その「ご恩」に「感謝」して建てたのが、甲府城の「謝恩塔」であり、城内に今もある「恩賜林記念館」です。
それにしても史実に無いものを勝手に再現できないとする現代の文化財保護法からすると甲府城内のそれも本丸に天皇の恩に謝する塔を建てというのが、いかにも「明治」を象徴していると思いますが、水害と山林の関係は、先の和歌山県紀伊半島で起こった土砂崩れ、深層崩壊でも同様でした。戦後、急峻な崖にまでスギやヒノキを植林して、人工林を造ってきたのが山林行政でした。このような人工林では根が1m~1.5mほどしか育たず、地盤を強化することはできないと言われています。落ち葉や潅木による保水作用も衰え、雨が長期に大量降り続けると雨水は山肌の地中深く岩盤まで浸み込んで、深層崩壊にまで至ると指摘されています。同時に、外国の安い木材によって日本の林業は成り立たなくなり、間伐や伐採後の植林も行われない放置山林が多くなりました。手を入れなければ人工林はあっという間に荒廃し、地表のわずかな保水力も失われ、さらなる地盤の弱体化につながります。こういう、斜面崩壊が起こる条件は、日本中の山林で指摘されていますから、山梨県下でもまたいつ起こっても不思議ではない状況です。
「公共工事」の見直し、縮小が「改革」だとする国民的洗脳が進み、必要不可欠な公共工事も事業仕分けされてきた結果が、今回の水害の要因だと言う指摘もあります。失った「命」は、復旧、復興は出来ませんから、かけがいがあるかないかは別に「命」に関わる「公共工事」は、きちんとやっていくという政治、行政の必要性を「謝恩塔」が指し示していると解すべきでしょう。
 今日の新聞に、11月14・15日に天皇夫妻が、「恩賜林下賜100周年記念大会」出席の為、来県するとの報道がありました。3月11日の東北地方を襲った大地震、大津波についても過去の歴史に学ぶ必要があった旨の指摘も多く、あらためて「災害は忘れたころやってくる」と云う諺の重みも実感します。「明治四十年大水害実記」未読の方は、昭和の図書館にもありますので、この機に「過去の水害史」を知る意味でも是非どうぞ。

2011年10月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―83 『明治四十年大水害実記-1』

 舞鶴城の整備や北口再開発で、甲府駅周辺が様変わりしていますが、舞鶴城と呼ばれる甲府城のシンボルは、城跡にそびえ立つ石碑「謝恩塔」に変わりありません。
この甲府城に天守閣が実在していたのか否かは、議論のある所ですが、本来天守閣がそびえていてもよさそうな本丸に場違いな天を突きさす石塔。石垣とのミスマッチも見方によれば、現代美術風でもありますが、復元された稲荷櫓や山手御門を入っての本丸がこの「謝恩塔」では、「観光立県やまなし」も・・・ですね。
 現在、杉浦醫院では小企画展として「マルヤマ器械店と丸山太一氏」を開催していますが、丸山太一氏の著書・編著は、木喰上人関係のみならず「明治四十年大水害実記」もあります。甲府城の「謝恩塔」は、明治40年、43年と続いた甲府盆地一帯の大水害の記念碑でもあることもこの「明治四十年大水害実記」が教えてくれます。      
 明治40年(1907年)8月26日から27日にかけて、甲府盆地東部及び峡東地区一帯は、台風の記録的大雨で大水害に見舞われました。現在の石和町、御坂町一帯では、河川が乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などで、家屋も全半壊し集落が孤立しました。耕地の流出や埋没、交通の寸断など多大な被害を出し、死者233人、流出家屋5000戸という、近代では、山梨県最大規模の災害でした。この「明治四十年大水害実記」は、当時の山梨県知事武田千代三郎氏が、郡内地方への視察の途中、御坂峠でこの大雨に合い、道路が寸断され、山中を一昼夜歩いて石和までたどり着き、そのまま陣頭指揮にあたったという体験の実録です。武田知事が、格調高い漢文で記したものが、石和の佛陀寺に保管されていたそうです。
 丸山太一氏と甲府中学の同級生で、昭和町河西在住の五味省吾氏が、石和郵便局長時代に佛陀寺のこの文章を丸山氏に持ち込み、解読を依頼したことから、この本が陽の目を見ることになったそうです。丸山氏の言葉を借りると「家業を家人に任せ、辞書片手に漢文と格闘して解読した」そうですが、武田知事の実況中継のような迫力ある体験が、面白くもあり夢中になって、現代語に訳したそうです。この大水害で、笛吹川の流路も大きく変わり、家を失った罹災者の北海道移住計画で、羊蹄山の麓に3000人余りが移住したそうです。移住した方々は、羊蹄山を「蝦夷富士」と呼び、故郷山梨を偲んだそうですが、この大水害によって、甲府城に「謝恩塔」が建立され、現在に至っていることを知らない観光客には、「お城にあの異物は、なに?」となるのも自然でしょう。

2011年10月12日水曜日

杉浦醫院四方山話―82 『一店逸品片手に杉浦醫院へ』

 先々週から、「一店逸品」を片手に当館を訪れる方が続き、あらためてこう云う企画をきっかけに町内を歩いてみようと思い、実際に足を運ばれた方々に接し、「自分が住んでいる町をもっと知りたい」という昭和町に越してきた方々の共通した思いを知りました。
この「一店逸品」は、大型店の出店が相次ぐ昭和町にあって、町内に店舗や事務所を構える自営商工業者が、それぞれの逸品を企画、発信しているカタログです。昭和町商工会が、毎年アイディアを出し合ってユニークなポスターやカタログを制作し、全戸配布されていますが、今年のカタログには、町の施設として杉浦醫院に割り当てがありました。
当初は、半ページの割り当てでしたが、担当の事務局F氏から「今年はA4版にしましたから、1ページ分どうぞ」と気合いの入った連絡を受け、フルページ提供の気前に応えて≪春夏秋冬!杉浦醫院へ≫のコピーも≪「一店逸品」片手に杉浦醫院へ!≫と替えました。
出来上がった今年のカタログを観ると昭和町商工会が総力をあげて、このカタログを制作したのが良く分かります。 
それぞれの店を紹介する1枚の写真にもこだわりと工夫が見られ、写真の出来の良さと垢ぬけたレイアウト、デザインも見やすく「行ってみよう」と云う気になるカタログです。 
平成19年から制作して5年目となる今回、「顔が見える商い」と云う原点と「町全体を一つの商店街に」というコンセプトが紙面に溢れ、クーポンやスタンプラリーという出資と手間をかけることで、大型店との共存を図っていこうとする自助努力も伝わり、親しみやすく応援したくなるカタログになっています。
「A4版は大き過ぎないか?」とも思いましたが、紙質とページ数が程良いせいか、杉浦醫院来館者は、黄色いバトンのように軽く丸めて、文字通り「片手」に握って来ますので、目的のコースを回るバトンランナー気分も味わえ、迎える方にも直ぐ分かるというメリットに感心しました。
まち歩きには最適な季節を迎え、杉浦醫院の庭園も色づき始めました。「一店逸品」片手に町内のお店や町の文化財を結んで歩くのは、町を知る上でも有効かつ健康的なウォーキングでしょう。今回、杉浦醫院もスタンプラリーの一箇所として入れていただいたことで、来年度版には、町に点在する文化財も地図上に載せると休憩にもなり、相互活用されるより豊かな「一店逸品」になるようにも思いましたが、事業責任者F氏と事務局Fさんの柔軟にして賢察なF・Fコンビ! 如何でしょう?