2014年6月25日水曜日

杉浦醫院四方山話―347『入れ子・七段重箱』

 土蔵に展示してある欅の重箱は、見学者にも珍しいのか、特に若い方から「これは何ですか」とか「どうやって使うんですか」と尋ねられることの多い一つでした。

重箱の蓋と本体がきっちり納まるよう同様の形状で、大きさの異なる容器などを順に中に入れる構造を「入れ子(いれこ)」と呼ぶそうですが、杉浦家の入れ子重箱は、写真のように七段あり、一般的な入れ子重箱は三段ですから、「重箱とは思わなかった」方も多いのでしょう。

 過日、杉浦家とは長いお付き合いの八百竹美術品店の小林さんが、お仲間3人と見えました。小林さんは、骨董のプロでもありますから、展示品の詳細など教えてもらおうと案内しましたが、「私なんかより、こちらの柳沢さんがお詳しいんです」と紹介された柳沢さんは、宝飾の柳沢商会社長夫人で、「私は、杉浦純子さんの甲府高女の先輩になります」と、91歳とはとても思えない若さと博識で、土蔵に展示してある杉浦コレクションをご覧になりながら、貴重な話や説明をしてくださいました。


 「懐かしいわね。この入れ子のお重は」と言いながら、「昔はね。暮れには正月料理をこのお重に一品ずつ作ったものよ。杉浦さんとこは7段重だから7品作ったんですね。正月も店が開いている現在と違って、冷蔵庫も無かった時代は、こうして正月料理をどっさり作っておいて、それを食べるのがお正月だったんです」とか「どこでも正月にだけ使うものだから、仕舞いやすいように蓋は蓋、お重はお重で、こういう風に重ねて仕舞いましたね」

 また、展示してある矢羽の着物を観て「これは純子さんのものですか?」と聞かれたので「純子さんのお母さんが甲府高女に通った時の着物だそうです」と答えると「私の母も同じような着物を持っていましたから、ひょっとすると純子さんのお母さんと私の母は、女学校で同級だったかもしれませんね」

 「今では、結納も略式になったり、結納なしも多いようですが、私たちの時代では結納に欠かせない袱紗(ふくさ)は、どこの家にもありましたが、こんな立派な袱紗は、矢張り杉浦先生の所は違いますね」等々・・・次話で、「袱紗」をご紹介します。

2014年6月23日月曜日

杉浦醫院四方山話―346『田植え・新着農具』

  昭和町内の田圃は、五月には八割方田植えも終わり、水を張った田んぼに緑の苗が風に揺れる涼しい光景は、肌寒い日には何となく違和感を覚えることもありました。

 先日、ある会合でご一緒したM氏が、「田植えも終わって百姓も当分、水見くらいで暇だから」と云うので、「最近は、田植えの時期が早くなりましたね」と聞くと、「百姓が暇になってやることが無いから、みんな早く田植えをするんだよ。昔なら、今頃は子どもの手も借りてお蚕さんをして、お蚕さんが終わって、田植えの準備にかかるんだから田植えは六月にならなければ出来なかったのにお蚕さんをやらない分、百姓が暇になって、田植えも早いんだよ。」と教えてくれました。


 そう云えば、小学生の頃「農繁休校」という農業の手伝いをする休みが、この時期にもあったのを思い出しました。農業をしてない家の子も農家の手伝いに行きなさいと云う休みで、桑摘みを経験した記憶がありますが、田植えの手伝いは記憶にありませんから戦力外だったのでしょう。高学年にになった頃には、楽しみだった「農繁休校」もなくなりましたから、かえってガキがウロウロは足手まといだったのかも知れません。


 西条二区の若尾先生から、「昔使ったモノですが、よかったら使ってください」と、新たに農具と民具をご寄贈いただきました。


 上の写真は、田植えの際、一直線に揃えて植えるために使われた木製農具で、田面に縦横の印をつけてその交叉点に植えていくための農具で、若尾先生によれば「正条植定規」と呼ばれていたそうです。「これは、地域によっていろいろ違ったモノを使っていたようですが、甲西町の辺でこれが使われていて、前でも後ろでもコロコロ転がせば良いので、重宝しましたよ」と。確かに、右下の写真も同じ用途のモノですが、これで田面に印を付けていくより回転式の方がより効率的だったことでしょう。  

 正六角形で現在も使用可能なしっかりした造りなので「先生が作ったのですか?」と聞くと「いえいえ、これは大工さんに作ってもらった」そうですが、広い泥田の中を転がされて活躍してきたのにどこも壊れていない「コピッとした造り」に感心します。

 

 田植えに使ったもう一品は、「苗かご」です。苗束を田んぼに運び、早乙女(さおとめ)と呼ばれた田植え実戦部隊の女性陣に苗を投げ入れるのが男の仕事でした。材質は竹で、苗束が落ちない程度にかつ水切りが良いように粗く編まれていたのが苗かごの特徴です。

 

 そう云えば、「地方病」に罹った患者に女性が多かったのは、田植えで長時間水の中に入り、比較的足の動きが少なかったからだという指摘もありました。現在では、田植えも機械化され、昔のように大勢の人が集まった賑やかな田植え風景は、子どものお田植え体験教室でしか見られなくなりました。農業の機械化もM氏の言う「百姓が暇になった」大きな要因でもあるのでしょう。

2014年6月19日木曜日

杉浦醫院四方山話―345『元気の秘訣! 何でも見てやろう』

 作家の小田実(おだ・まこと)が亡くなってもう何年になるのでしょう。代表作「何でも見てやろう」を愛読し、その気になってヨーロッパへアフリカへアメリカへ・・・・と休学して出ていった同級生もいました。N君は、そのままアメリカから帰ってきませんし、S君はアフリカ学の第一人者として現在も頻繁に往来しています。一番長く放浪してきたS君は、すっかり甲州弁に戻って、居酒屋のオヤジとして、たまり場を提供しながら傾けるウンチクに「何でも見てきた」片鱗が伺える程度でしょうか。

 個人的には、中核派(すっかり死語ですねー)が小田実の講演を売りに杉並公会堂で開いた集会に聴きに行った程度ですが、小田実の北朝鮮本は引っ張り出しては楽しんでいますから、人が見てきた話を読んだり聞いたりで追体験するという無精さは、若い時から変わりません。

 昨日、富士吉田の老人クラブの方々が来館されました。事前に事務局の方からはDVDの観賞は無しでと連絡を受けていましたが、昼食休みに良かったらどうぞと放映すると全員が画面に向かい食い入るように見入って、最後には拍手まで起こりました。

  

 老人クラブの皆さんと云うことで、母家では、88歳になる三郎先生の長女純子さんがお一人で生活していることを話すと「俺が今年89で同級だから、後でその人に会っていく」と云う男性や「こちらは91歳です」と云うご婦人まで、皆さんかなりのご高齢であることが分かりましたが、一人として「2階は無理です」と云う方もなく、急な階段を上り下りして、館内くまなく見て回り、「月光寺の角田醫院もこんな感じでよく似ています」と教えてくれました。

 「この病院は昭和4年に建てたと説明してくれたけど俺の予想では5寸柱で、檜主体だから当時の金で5千円前後かかっていると思うな」と自信に満ちた質問なのか確認なのか・・・さっそく純子さんから預かった「新館新築工事」書類で調べると合計4637円79銭とあり、「俺の予想どおり」でした。

 

 更に、裏の土蔵や納屋も「もう二度と来れないと思うから」と、時間をかけて観て行かれました。特に土蔵の二階への階段は、梯子状の階段ですから無理をしない方がと思いましたが、「手をついて上がれば大丈夫さ」と皆さん2階まで上がり「いいモノを見せてもらった。楽しみに来たんだからみんな見せてもらわないとね」と「何でも見てやろう」の精神そのものです。この好奇心や行動力が元気の源なんだと実感させられました。


 最後に集合写真を撮影して帰路につきましたが、帰りがけ白髪のご婦人から声を掛けられました。「私は佃島の生まれで、疎開で筑波に行き、燃料にする松の伐採作業をしました。その後、秋田に疎開して、戦争が終わって父の実家のあった御坂に寄せてもらい、吉田に嫁に来ました。戦争は際限なく広がることを身を持って体験しましたから、九条は譲れません。あなたはどうお考えですか?」と。


 静かな気品ある語り口で「あなたはどうお考えですか?」としっかり問う大先輩にまさか「難しい問題ですね」とお茶を濁す無礼もないでしょうから「アベ君同様私も戦争を知らない世代ですが、アホノミクスの終着駅が戦争のできる国ですから、しっかり見ていかなければと思っています」と応えると「同じ思いの方でよかったです」と一礼され、日本女性の美しい歳の重ね方についても教えられました。

 

 事務室に戻りながら、ふと晩年の小田実がテレビで語っていた話しを思い出しました。

「私は護憲の論理を貫いてきたので護憲の市民運集会にもよく呼ばれましたが、舞台上の看板に<憲法は今でも旬>というフレーズが定番になっていたんで、こんな認識ではダメで、<憲法は今こそ旬>なのだと怒った」と云った内容の話でした・・・が、<憲法は今こそ旬>死しても生きる小田実の洞察力です。

しっかり見る人は、体もオツムも元気なんだなー

 

2014年6月16日月曜日

杉浦醫院四方山話―344『早くも来年の・・・・』

 今月の初めに開催した「ホタル夜会」の報告を前々話でしましたが、旧車庫の「源氏館」では、早くも来年3月放流予定の幼虫を孵化させるべく、NPO楽空との共同飼育が始まりました。

 
 この六水槽には、カワニナの稚貝が入っています。水槽上部に白いカゴ状のモノが浮いて?いますが、これにメスボタルが産卵したホタルの卵を入れて、約半月後から始まるの孵化を待ちます。卵は、自然界では水辺の苔や葉に産み付けられますが、種ホタルはガーゼを敷き詰めた虫かごで産卵しますから、ガーゼが水面と接するように四角いカゴにガーゼを並べます。
水槽の水は蒸発して水位が下がりますから、常時濡れているよう点検しておくことで、孵化した幼虫はそのまま水槽に落ち、カワニナの稚貝をエサに成長していくと云うシステムです。
 

 
 白いガーゼに黒ずんだ黄ばみが、卵です。日増しに黒くなりやがて孵化して水槽内で約8ヶ月を過ごし、町内の河川や池に放流されます。孵化したばかりの幼虫は点と云った感じの小ささですから、エサのカワニナも小さな稚貝でないと食べれません。9月頃までこの稚貝採集を続け、与えていけば確実に大きくなり、その後は大きな成貝を食べ3センチ前後に成長します。
 
 
 こうして、手塩にかけて育てた幼虫も河川に放流するとフナやコイ、ザリガニなどの絶好の餌食となり食べられてしまうので、放流した幼虫数の一割が成虫になれるかどうかと云う厳しさです。
杉浦醫院の池のザリガニの繁殖力には目を見張るものがありますから、定期的にザリガニ釣り大会でも開いて、来年の放流までにはザリガニを減らすのも課題ですが、自然界で自生しているホタルは、それに負けない数の卵と幼虫を残して短い成虫の命を終えていることを思うと矢張り飼育ホタルは、打たれ弱く繁殖力も劣るのかなあ~、と・・・・

2014年6月9日月曜日

 杉浦醫院四方山話―343『山梨放送開局60周年記念番組』

 YBS=山梨放送が開局60周年を迎え、記念番組を作製中ですが、Aデュレクターの構想の中には、昭和町の源氏ホタルが国の天然記念物に指定され、地方病終息に向けたミヤイリガイ殺貝活動の中でホタルも消え、昭和51年に天然記念物の指定も解除されるまでの歴史も番組の柱の一つになるようで、このところ昭和町内での撮影が続いています。


館内撮影のテストをするスタッフ

 当館についても地方病終息に係る杉浦健造・三郎父子の功績や源氏ホタル復活を願う愛護会の取り組みを追う必要から、2回目の撮影が入りましたので、地域で、長く語り部としてご協力いただいてきた塚原省三さんに杉浦父子の実像を語っていただくようお願いしました。


 Aデュレクターによると「単に過去60年の回顧映像ではなく、60年の歴史を踏まえて、この先に向けての活動を紹介する番組にしたい」と云うことで「養蚕を始めた若い農業後継者や国産ホップの栽培に取り組む北杜市のメンバー等々同様、ホタル復活にかける昭和町の活動を取り上げたい」とのことでした。


 ホタルの成虫が舞う季節となり、今月はテレビ山梨、甲府CATVに続き、山梨放送と撮影ラッシュでした。身延町の下部や韮崎など自生ホタルの名所もある中、昭和のホタルが取り上げられるのは、単に撮影の物理的便利さからだけではなく、都市化の進む昭和町で、ホタル自生に向けての継続的な活動を官民一体になって進めていると云う「物語」があるからだろうと思います。 更に、地方病終息活動の結果、ホタルも消滅したと云う「歴史物語」も加わることで、重層的な物語が構築できるのも魅力なのでしょう。


 そんなわけで、7月13日(日)午後3時から放送予定の「山梨放送開局60周年記念番組」は、90分の特別番組だそうで、町内での撮影も意欲的に進めていますが、断片的に撮影した映像をAデュレクターが、どんな「物語」に構成して放映するのか、楽しみたいと思います。

 

2014年6月5日木曜日

 杉浦醫院四方山話―342『昭和町ホタル夜会』



  昨夜、当館庭園を会場に「第三回 昭和町ホタル夜会」が開催されました。「ホタル合戦」が名物だったかつてのようなホタルの乱舞は無理としても、ホタル観賞をメインに明治25年建設の母屋の重厚な玄関口を舞台にして、さまざまな出し物が続き、新緑の中、夜風に吹かれながら集まった200人以上の方々が夜会を楽しみました。 


夜会の幕開けは「オカリナの演奏」でした。最前列4名が清水新居のオカリナ・グループ。後方は、同じ講師の門下生の方々です。屋外での演奏ですから、この位の人数による合奏でないと聴き取れないということで、友情出演をいただき、ホタルにちなんだ曲目を演奏してくださいました。


次に「ホタル夜会開会式」を主催者・昭和町源氏ボタル愛護会の浅川武男副会長の司会で行い、若尾敏夫会長の挨拶に続き、角野幹男町長から祝辞をいただきました。

続いて、押越子ども造形教室の紙芝居「帰ってきたホタル」の上演です。毎回、新作紙芝居ですから、子どもたちには人気で、前に陣取って見ていました。
 



トリは、文化協会「マンドリン部」の演奏です。屋外でのマンドリンで、矢張り音が散ってしまうと言うか,マイクスタンドでの集音が課題であることも分かりました。夏にふさわしい曲をご用意いただき、アンコールにもリズミカルな曲で応えていただきました。
 
 

尚、この「昭和町ホタル夜会」については、6月5日(木)に甲府CATV(11チャンネル)の PM5:45~ 7:45~ 9:45~ 放映されます。


2014年6月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―341 『山梨巡幸の詳細』

 石原よ志子さんにお借りした写真から「昭和天皇の全国巡幸」にまつわる話を続けてきましたが、知りたいことを調べていくと知らなかったことの多さにも気づきます。


例えば、天皇の「行幸(ぎょうこう)」と「巡幸(じゅんこう)」の違いも知りませんでした。

行幸(ぎょうこう)は、天皇が練兵や軍艦の天覧など1ヶ所又は1目的のために行って帰る場合だそうです。鮎漁をして競馬や兎狩りなどを楽しむ場合は2,3か所になりますが、やはり「行幸」です。

巡幸(じゅんこう)は、天皇が違った目的を達成するために数箇所めぐって戻ってくることを指すそうです。

 

 常盤ホテルが、なぜ天皇の宿泊所に選定されたのかを調べていたら、明治天皇が山梨に行幸した時は、甲州台ヶ原の造り酒屋「七賢」の山梨銘醸が行在所(あんざいしょ)だったことが分かりました。

同時に、天皇の宿泊所は、「行在所(あんざいしょ)」と称することも知り、「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が外出したときの仮の御所と云う意味だそうで、事前に推薦があった建造物を県が調べ、決定していたようです。山形県の行在所である山形市出羽の半沢家住宅は、10年の歳月をかけ、多大の財により最高の資材、最高の技術で建てられた木造建造物で、内部には、皇室・皇族から拝領した御品々も展示され、一層品格を高めているそうです。

台ヶ原に現在もある「七賢」の山梨銘醸:利き酒も出来、行在所も見学できます。

 さて、昭和22年10月14~15日の昭和天皇山梨巡幸のルートや目的の詳細が、「日本の心を育むネットワーク」の ■昭和天皇の全国ご巡幸《山梨県》(34)にありましたので、そのまま貼り付けてご紹介いたします。

 

《山梨県》 (昭和22年10月14~15日)

【克服された風土病に御安堵】
   (―農民の健康を気づかわれて―)


 御視察第八日目の14日、天皇陛下は長野県下の巡幸をつつがなく終えられ午後零時50分上諏訪駅発、同2時22分韮崎につかれて御勅使橋から砂防治水工事を望見された。明治以来三度水害に勅使を差遣わされたところである。陛下は新潟で蚕虫病の研究を御聞になったが、山梨県の地方病吸血病の発生地玉幡村にも行かれた。ここで地方病研究所長から吸血病の話を聞かれたが、この病原体は巻貝に寄生し、水田に入る農民を犠牲にするが最近では、ワクチンが完成して死亡はほとんどないとの説明に陛下も御安堵の御様子であった。

 

 【荒ムシロ敷きの部屋に入って御激励】              


 翌10月15日は早朝7時30分に御泊所を出られ、国立甲府病院に御成りになり、各病室を廻って戦傷者、戦病者を御慰めになった。次いで、隣接する旧63部隊に収容されている戦災者を激励された。そこは畳などない荒ムシロ敷きの部屋であった。
「苦しいでしょうが、どうか明るい生活を送ってね」
陛下の御言葉に、戦争犠牲者たちは泣き伏すのみであった。
次にオープンカーに御乗換えになり、沿道の歓呼に応えられつつ 春日小学校を経て市外へ出られ、酒折、山梨の各村を通り、県内で水害の一番ひどかった日川村に入られた。ここは村内の二分の一に近い田畑が土砂に洗われ、青田変じて砂原と化したところである。御下車して村長の説明を堤防上で聴取されたが、今回の水害は明治40年から4回目であると奏上。集まった郡民を激励された。
 午後は県立工業試験場、山梨染工を御視察になり大月町着、ここで同地方1万3千人の奉迎を受けられ、万歳の嵐の中を午後4時10分、御召列車は東京へ向けて発車したのであった。この時、列車の中で召上る御夕食として甲府駅の駅弁を御持参になられた。

杉浦醫院四方山話―340 『全国巡幸四方山話-山梨巡幸3-』

  昭和20年8月の敗戦、昭和21年1月の「天皇の人間宣言」に引き続いて行われた全国巡幸は、昭和21年の神奈川県川崎市を皮切りに昭和29年の北海道まで、八年半におよび、全行程は三万三千キロ、総日数は165日にも及ぶものだった。
 

 

 敗戦当時、大部分の国民は、天皇の姿を拝するどころか肉声を聞いた人もいなかったことから、有名な玉本放送も「本当に天皇の声なのか」と疑心暗義の声もあったそうです。

 そんな状況下で始まった全国巡幸は、結果的には、天皇が一人の「人間」として国民の中に歩み寄り、親しみを交わすことで、「大衆天皇」というイメージを全国民に定着させた画期的なものとなりましたが、天皇の戦争責任を問う声から「夫を、子どもを返せ」と云った素朴な声もある中、危険に満ちた全国巡幸を覚悟でもあったようです。


 また、日本の軍国主義や天皇個人崇拝の復活を警戒していたマッカ-サー進駐軍は、日本政府に神道に対して国家補助のすべてを打ち切るよう指令し、「石の一つも投げられればいい」と公言していた者や、進駐軍ナンバ-2のホイットニ-准将は、「天皇が、猫背のその貧弱な姿を国民にさらせば、天皇が「カミ」などと云った虚妄は完全に打ち砕かれる」とこの全国巡幸を別な視点で許可し、注視していたそうです。


 かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装で、人々に気軽に声をかけ、「あっ、そう」を連発しながら聞き歩く、独特のしぐさで、天皇裕仁は天皇としての地位をもっとも堅固に確立し、ホイットニ-准将らの意図を完全に打ち砕いてしまったと云うのが、全国巡幸の歴史的評価でしょう。


 しかし、昭和22年の山梨巡幸では、警備にあたった石原よ志子さんが述懐していたように「ウソのように静かな巡幸」が、回を重ねるごとに歓迎する側がフィーバーし、関西巡幸では、当時軍国主義の象徴として禁止されていた日の丸を掲げる者がでてきたこともあって、外国人特派員から批判が起こり、天皇の政治権力復活を危惧したGHQは、巡幸の1年間中止を命令するまでになりました。


 天皇の歓迎では、私が小学生低学年の頃、現在の山の手通り「一高前」辺りで、日の丸の小旗を手に並ばされ、暑い中長時間待機させられた記憶があります。調べてみると天皇・皇后が、1957年(昭和32年)7月8日から10日まで「県内事情御視察」で、来県していますので、その折に全校生徒が沿道に並び小旗を振ったのでしょう。1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーが「日の丸掲揚許可宣言」を出し、実質的な占領解放となり、以後、皇室の歓迎には、日の丸の小旗が定番となったようです。

 さらに、前話の「常盤ホテルの歴史」をクリックしてみたら、「昭和32年7月 天皇陛下、皇后陛下 恩賜林林業民情御視察」で宿泊していますから、どうやら、常盤ホテルに向かう道路での旗振り小僧だったようです。


参考資料: 西川 秀和 () 「昭和天皇の全国巡幸[単行本]

 

尚、「かつて日本は美しかった」サイト 上には、添付画像として、「昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。(PD)として、杉浦三郎先生が昭和天皇にミヤイリガイを説明している写真が掲載されていますので、クリックしてご覧ください。

 


          
  

2014年6月1日日曜日

杉浦醫院四方山話―339 『常盤ホテル-山梨巡幸2-』

 「甲府の迎賓館」がキャッチフレーズの湯村の常盤ホテルには、同級生の次男坊と高校の水泳部で二年先輩の長男(現社長)がいたこともあって、「天皇家の宿」と云うより質実剛健のSさんの家といったイメージが強く、「ハテ、昭和22年当時からそんな宿だったのか?」と、先ず知りたくなりました。


 小学生の頃、S君の家でもあるホテルのプールで泳ぐのが楽しみでしたが、プールには特別高貴な客が泳いでいた記憶もありませんでしたから、昭和30年代は、湯村温泉街入り口のホテル位に思っていました。それは、やはり同級生の造り酒屋の息子O君が、「常盤ホテルは、昔からずっとウチの酒を使っていたから知っているんだけど、あそこは元々山交が馬車の時代、馬返し場所だった所で、褒められた所じゃないよ」とコケにしていたのも一因です。


 そんな訳で、初めて「常盤ホテル」のホームページも見て、常磐ホテルの歴史を正確に知りました。そこには、「昭和天皇御巡幸 ご宿泊(昭和22年10月)」の写真もしっかり残っていました。 また、田んぼや畑の中の昭和35年当時の航空写真「ホテル全景」もあり、懐かしく拝見しましたが、確かに当時、「甲府の奥座敷」として栄えた湯村温泉郷は、右折した通り一帯が中心でしたから、常盤ホテルの場所は、0君指摘のとおり、駅からの折り返しスペースだったこともうかがえます。

昭和天皇御巡幸

                    

 そこには、「皇室御宿泊御記録」もあり、「昭和19年の梨本宮殿下、陸大関係」に始まった皇室関係者の宿泊が記録されています。その下の「常盤ホテルのあゆみ」をみると、「新館」や「離れ」の新築・増築が続き、現在の常盤ホテルに至っていることが分かります。創業が昭和4年ですから、期せずして杉浦家の新館である病院棟新築と同じ年だったことになります。

 

 一昔前は、宮内庁に品物を納入していた業者に与えられた名称「宮内庁御用達」と云う単語も一般的に使われていましたが、どういう経過で廃止されたのかは知りませんが、いわゆるロイヤル・ブランドとして、常盤ホテルもお墨付きを得てきましたが、皇室関係の来館、宿泊には畳替えや特別料理などさぞ氣もお金も使われてきたことでしょう。

 

 そうそうロイヤル・ブランドと云えば、同級生の常盤ホテル次男坊S君は、車のロイヤル・ブランド・ポルシェやフェラーリの所有者として世界的に著名です。「笹本健次的ブログ生活」と云うサイトでもその辺のカーライフを語っていますから、S君でなくてもいいのですが、彼が率いて、宿泊は常盤ホテルで甲斐路をクラッシック・カーが走るイベントも定着しています。