2011年12月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―103 『地方病流行終息の碑』

 昨年度、昭和町押越から移設した「地方病流行終息の碑」は、旧杉浦医院を見守るかのようにすっかり庭園の一構成石碑として定着しました。先の地震で説明碑が若干傾きましたが、過日の造園整備で修復され新年を迎えます。  
 1881年の旧春日居村の嘆願に始まった地方病終息に向けての山梨県旧25市町村の取り組みは、平成8年の終息宣言まで実に115年目の歳月を要した訳ですが、本年は、終息活動開始からちょうど130年を迎えたことになります。
 長く県民を苦しめてきた「地方病」だからでしょうか、恩賜林下賜100周年を盛大な記念行事で祝したのとは対照的に山梨県と地方病の歴史について、振り返る行事も報道もここ数年皆無に等しく、この「碑」の建立で、忘れ去りたいかのような印象もぬぐえません。
しかし、「山梨ブランドの確立」と喧伝されるブドウやワインをはじめとする果樹王国・山梨は、ミヤイリガイの棲息場所を無くす地方病克服の一環として、先祖代々の水田を果樹園に変え、稲作から果樹へと転換をしてきた結果でもあり、住血吸虫症対策が、今日の山梨の風土形成の一側面でもあり、山梨の近現代史は「地方病」を抜きに語れません。
 地方病=日本住血吸虫症は、「日本」という名前がついているために、日本固有の病気だと思われているのも特徴ですが、杉浦父子をはじめ多くの日本の研究者により、この病気の原因や感染経路と治療法の確立が日本で解明されたことから、「日本住血吸虫症」という学名になったものです。日本住血吸虫症は、マラリア、フィラリアと共に現在も患者数では世界の三大病として、世界全体、特に中国、フィリピンなど東南アジアに広く存在する国際的な病気で、終息宣言に至ったのも日本だけと云う事実も周知していく必要を感じます。そんな「地方病」の背景や風土に思いを馳せながら、この「終息の碑」の前に立つと、この地で地方病と向き合い格闘してきた杉浦父子の実存と日本の飛躍的に改善された公衆衛生など時々の先駆者が、その限られた時間と条件の中で果たしてきた仕事の積み重ねに思い至り、素直にコウベが垂れます。

2011年12月21日水曜日

杉浦醫院四方山話―102 『保健文化賞』

 純子さんから「父は、叙勲には全く興味がなく、勲章はいらんとよく言っていましたが、この賞は嬉しかったのか、大切にしていた賞状がありましたから・・・」と、筒に「保健文化賞  厚生省」と書かれた大きな賞状を持参してくれました。健造先生、三郎先生は、数多くの表彰を受けてきましたが、病院にも母屋にも一枚として表彰状が掛けられていなかったのも杉浦家の奥ゆかしさあるいは医者の矜持と云ったものを感じました。客観的な資料ですから、展示コーナーには掲示しましたが・・
 この「保健文化賞」は、衛生環境が悪化していた戦後まもなく、日本の保健衛生の向上に取り組んで顕著な業績を残した人々に感謝と敬意を捧げる賞として、第一生命と厚生省がタイアップして1950年に創設された賞です。その後も毎年実施され、2011年で63回目を迎え、受賞者は天皇・皇后両陛下に拝謁を賜っているという賞です。
 1950年( 昭和25年)創設と云う事は、敗戦の5年後になりますが、三郎先生の表彰状は、昭和26年12月2日付けで、厚生大臣 橋本龍伍とありますから、第二回保健文化賞の受賞だったことが分かります。
「団体や研究機関に贈られる賞なので、田舎の一開業医で、この賞をもらったのは光栄だ」と三郎先生も素直に喜んだそうですが、表彰状の文面も三郎先生の業績を的確にまとめ、その業績に対する評価であるという内容で、「できあいの通り一遍」の文面でないのも好感が持てたのでしょう。
 20年後の昭和46年に勲五等 双光旭日章を授与されましたが、文面はご覧のとおり「上から目線」で・・・作家の故城山三郎さんのエッセイ「勲章について」という名文を思い出します。
 ≪「勲章を授けたい」と役所が言ってくる。受けたくない。断るつもりだ。妻に理由を説明すると、「あなたの言い分だと、もらった方に失礼じゃないの?」と妻が言い、あわてて言いなおす。「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」 と≫  
75歳だった三郎先生が、勲章に興味がなかったのは、城山三郎氏と同様の思いだったのでしょうか。期せずして同名の「三郎」ですが、「気骨」の医者と作家という共通点も。

2011年12月17日土曜日

杉浦醫院四方山話―101 『地域ボランティア』

 「都合のつく方で、という自主参加なので、何人になるか分からないけど・・」と区長さんからは聞いていましたが、先週の土曜日の朝、親子での参加も含めて20人以上の西条新田地区の方々が、落ち葉の清掃ボランティアに参集くださいました。
 杉浦医院の庭園は、代々「もみじ」「椿」「竹」などの落葉樹の庭園を造園してきましたので、この季節、落ち葉は絶えません。毎朝、8時過ぎには近所のSさんが池や庭園の清掃に来て、地域の話など聞かせていただきながら作業するのが日課になっていますが、日ごろ手が回らない植え込みの中や裏まで皆さんの手慣れた作業で、あっという間にきれいにしていただきました。作業中「これから年3回くらい季節ごと来るようにするといいね」とか「日曜日だともっと集まるよ」「みんなでやれば、速くていいじゃん」「こういう無理のないやりかたで続けていくのが一番」とありがたい提案や感想もいただきました。

 今日は、中国安徽省から「日本住血吸虫症撲滅研修団」22名が、東京医科歯科大学の太田先生の案内で来館されました。事前の連絡では中国語の通訳も同行すると云うことでしたが、都合で同行が無く太田先生も県のMさんも「困った」感じでした。純子さんを日常的に支えてきたマヨさんは中国が母国ですから、中国からの来館者が今日あることを事前に話しておいたので、時間に合わせて来てくれました。急きょ、通訳をお願いすると「日本語より中国語なら大丈夫」と、とっさのお願いにも快く応じていただき、ジョークも入れながらの説明と何より中国美人の登場にみなさんとても楽しそうでした。太田先生からも「まさか、通訳がいるとは・・」と・・本当に地域の方々の助けに感謝する日々です。

2011年12月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―100 『岩手は半歩歩き出す』

 当四方山話も今回で、100話になりました。鈍感なせいか、20歳の成人を迎えた時も何の感慨や決意もなく、大人としての自覚を高めたという記憶もありません。環暦を迎えた2年前も同様で、この先の生活設計だの年金だのにも真剣に向き合うこともなく、ただただ流れに身を任せてきただけでした。まあ、非力で無能な男があくせく足掻いてみたところで、大した成果や違いもないだろうと云う思いは、高校時代に自覚したのは確かです。結果、大学や職業選びも「自己実現」などと云う観念はさらさら働かず、「とりあえず」の連続で今日に至っています。それでも死語と化した70年安保だの高度成長だのバブル経済だの・・・と、今となっては結構面白い時代の波や友人の死から3・11まで避けたくも否応なく押し寄せてきた時々の波にもただただ身を任せ、何かあっても「山羊にひかれて」など愛唱し、「吹く風まかせ」を座右の銘のように思ってきました。
寝ぼけたような戯言を書いてきたのは、「四方山話、次は100回ですね」と同僚Wさんから言われ、「そうか、100回か」なんて話していたら、科学映像館の久米川先生から、永久保存版DVD「岩手は半歩歩き出す」のメール便が届きました。「100話は、何にしようか」なんて力まなくてもちゃんとしかるべき「波」が・・・と云う実感から、つい前置きが長くなり失礼いたしました。
 この「岩手は半歩歩き出す」は、衝撃の津波映像のみならず困難に立ち向い、立ち上がろうとする岩手人をおさめた「DVD」と「震災解説書」と「岩手のうまいもの・逸品お取り寄せカタログ」の3点セットです。
 90分のDVDは、震災の実態を伝える歴史的映像としても貴重ですが、加えて「負けないで立ち上がる人間の強さ」とも言うべき復活にかける岩手県人が登場するヒューマン・ドキュメンタリー構成になっていて、観た者に岩手産の商品を一品でも購入して、困難に立ち向かう岩手人を応援しようと云う気持ちにさせる「映像の力」があります。久米川先生が、当館にこのセットを送ってくれたのも「より多くの方にこの映像を観てもらって下さい」と云うメッセージでしょう。     この大震災で、杉浦醫院と同じように三陸海岸沿いで、その地の歴史を刻んできた貴重な文化財や建造物も多数消失しました。津波にのまれた陸前高田市の「酔仙酒造」は国の登録有形文化財でしたが、近く登録を抹消されると聞きました。「有形」文化財の健造物が消失して「無形」になってしまったから抹消すると云う事でしょうが、桜の名所でもあった酔仙酒造の「映像」は、多数残っているでしょうから、消失した酔仙酒造の「映像」は、そのまま大震災の有形でもある訳ですから、「抹消」する事なく、大震災を語り継ぐ一つとして、活かせないものでしょうか。

2011年12月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―99 『アサヒ・ペンタックスK』

 純子さんから「こんなカメラが出てきました。確か父が昭和28年にマニラの太平洋学術会議に行く時、購入したものだと思いますが」と箱に入った一眼レフカメラを持参下さいました。
 本当かどうか定かではありませんが、「カメラは、暗い箱という意味だ」と中学生の時に聞きました。当時からむやみに明るいのが苦手だった私は、「暗い箱」や「暗室」に親しみを覚え、写真部に入りました。そんな訳で、カメラについては、ちょっと思い入れもあり、うん蓄も・・・・で、中学生だった昭和30年代の末は、「キヤノネット」と云う35ミリカメラが発売され、当時としては明るいF1,9のレンズが付いて、2万円を切った価格だったことから爆発的に売れた時代でした。間もなく「オリンパスペン」や「キャノンデミ」と云った、ハーフサイズカメラが登場した時代でもありました。当時はフィルムが高く、このハーフサイズカメラは、36枚撮りのフィルムで72枚撮れるということで、中高校生には人気でした。しかし、現象や焼付け、引き伸ばしなどのプリント代も高かった訳ですから、たいしたメリットがないことが分かり、人気も失速していったように思います。この後、「ペンEE」など、完全自動露出のシャッタースピード優先式EE機構が開発され、更にピント合わせの焦点まで何もかも全てカメラにお任せの「バカチョンカメラ」とも呼ばれたオートフォーカスカメラが誕生し、「ピンボケ写真」はぐっと減りました。この「バカチョン」については、差別用語だと社会問題にもなりましたが、「バカみたいにシャッターをチョンと押せば撮影できるカメラ」という意味で、特に問題ないと云ったいい加減な形で落ち着いたように覚えています。要は「バカチョンカメラ」以前のカメラでは、 露出(シャッター速度と絞り)、焦点(ピント=フォーカス)の各要素を適切に操作する必要があり、カメラに関して専門知識や研究心のない人にはハードルが高く、まともな写真は「写真館」で撮る時代が長く続きました。「父は新しい物好きで、すぐ飛び付きましたが、フィリピンで撮った写真もピンボケが多く、興味をなくしたようで、そのまま箱にしまってしまいました」と云うアサヒペンタックスKは、キングのKを冠にした1眼レフの王様でもありました。人間の目の明るさと同じF1,8のレンズにオート絞り機構がつき、レンズ交換も可能な当時4、50万の大変高価なカメラで、箱にはボデイー番号、レンズ番号まで記載されています。
 三郎先生が「日本住血吸虫症」について発表した太平洋学術会議は昭和28年、ペンタックスKは昭和33年発売で間違いありませんから、三郎先生の名誉の為にも「フィリッピンのピンボケ写真は、ペンタックスK以前のオート絞りのないカメラだった」ことになります。正確無比な純子さんの記憶ですから、その辺の行き違いを想像すると「思い出のマニラの写真が思いのほか出来が悪かった為、三郎先生は、最新式のオート絞り機構の付いたペンタックスKの発売を知り、即購入したカメラ」が真相ではないでしょうか。あっという間に「デジタルカメラ」が席巻し、ついこの間まで重宝していた「写るんです」の使い捨てカメラさえ忘れ去られそうですが、ニコンFの兄貴格である「アサヒペンタックスK」、シンプルなデザインながらどっしり重く風格あるボディーには、惚れ惚れします。

2011年12月4日日曜日

杉浦醫院四方山話―98 『水腫脹満病薬』

先週の土曜日、東京葛飾区にお住まいの男性から電話があり、これから甲府に向かい訪問したいが、甲府駅からのバス便は?と問われました。公共交通機関の整っている東京では、日常の足として自動車も必要ないので「甲府駅からのバスは?」は、もっともな問い合わせでした。結局、身延線国母駅からタクシーで見えましたが、お一人で、ここだけを目的に訪れるには、それなりの理由と情熱があってのことでした。館内を見学しDVDも鑑賞した後、「いくつかお尋ねしたいことがある」というので、唯一暖房可能な旧看護婦室の事務室に案内しました。
 自己紹介から東洋医学の研究に携わっているというW氏は、日本住血吸虫症が、武田家の滅亡を伝える『甲陽軍鑑』にも記載されていたことから興味を持って調べ出したそうです。W氏は、「戦国時代からこの地方には、患者がいたようなので江戸時代の漢方薬の開発からすれば、近代医学以前の地方病患者にも治療や投薬が施されてきたはずなので、それを調べているんですが・・・目黒寄生虫館にも行きましたが、その辺の資料はないと云うことで、学芸員から甲府盆地の杉浦医院に行けば、何かあるかもしれない」とアドバイスされての来訪でした。
 「杉浦家は、江戸初期から医業を営んできましたから、当然、漢方医で漢方薬を扱ってきたものと思いますが、その具体的な資料やモノは見つかっていません。ご指摘のとおり、患者がいた以上何らかの治療や投薬はしていたはずですから、西洋医学での原因究明と治療法の確立だけでは、片手落ちですね」と応え、「これを機に県の機関等にもあたり、資料等あったら連絡します」とこの件は「宿題」とさせていただきました。

当館所蔵のスチブナールパッケージ
 寄生虫の大御所、カイチュウ博士の藤田紘一郎氏には、昭和町の文化講演会でも講演いただきましたが、医学博士・永倉 貢一氏=「むし」が書いているブログ「むしの無視出来ない虫の話」も大変面白く、分かりやすい「寄生虫」の話が満載です。その中で、長倉氏は「江戸時代初期にも、中巨摩郡竜王村(甲斐市竜王町)付近で、水腫脹満病薬というものが盛んに販売されていたとされるので、古くからこの病気が甲府一帯に蔓延していたことは確かです」と書いています。展示資料収集過程でも「盛んに販売されていた」と云う「水腫脹満病薬」の実物を入手して、展示出来たらと県立博物館等にも問い合わせて探しましたが、近代医学の「スチブナール」以前のものはありませんでした。
杉浦家土蔵には江戸時代のモノや資料類も残っていましたから、もう一度、探してみようと思いますが、当ブログを読まれた方で、奇病とされていた時代の地方病とその治療や薬についてご存知の方は、「加持祈祷」も含め、ご教示くださいますようお願いいたします。

2011年12月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―97 『杉浦家12月のお軸』

 「12月のお軸は難しいですね」と声をかけられ、「そうか、今日から12月だ」と気がつくお粗末ぶりですが、10月から11月にかけ、杉浦家の床の間は、週単位、日単位で掛け軸が交換され、紹介が追い付きませんでした。「12月は、やはりこれでしょうか」と用意されたお軸は、高浜虚子の俳句です。虚子は、85年の生涯で20万句近い句を残したといわれていますが、その代表作の一つがこの「遠山に日の当たりたる枯野かな」です。明治33年作ですから、虚子26歳の時の作品であることに驚きます。
 正岡子規に師事し、若くして台頭した虚子は、子規が提唱した「写生」を発展させるべく、主観句の流行に対して、小主観を超える「客観写生」を主張しました。これは、写生の対象を客観である花鳥に限定して詠むことの必要性を説いたもので、「客観写生」という言葉も虚子自らが造りました。
 「客観写生が俳句修業の第一歩である。それは花なり鳥を向こうにおいて、それを写し取るというだけのことである。しかし、それを繰り返しているうちに、その花や鳥が心の中に溶け込んできて、心の動き、感じのままに花や鳥も動き、感じられるようになる。花や鳥が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、滲んで写ったり、濃淡陰影すべて自由になってくる。そうなってくるとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる」として、「客観写生」による発句を生涯実践しました。
 虚子作品でも客観写生の傑作と言われている「遠山に日の当たりたる枯野かな」。寒々とした枯野、その向こう側には冬の弱い日を浴びた遠山。枯野と遠山以外には何も詠み込まれていない写生句ですが、読む人には静寂枯淡の境地を味あわせ、どこか象徴的な感じを与え、結果として、虚子の心境も吐露しているものと言われています。
虚子は、「心を空にしてどんな観念の介入も許さず、どんな句を詠もうかも考えず、ただ素直に自然に立ち向かえば、自然は必ず何か強烈な感動を与えてくれる。そうした自然の断片だけを正確に写生すればよいのである。」と繰り返し、「これを花鳥諷詠といい、俳句は、花鳥諷詠以外に目的を持たない」とまで断言しました。
 「家の周りは全て田畑でしたから、南には身延線も見えましたし、北はずっと南アルプスまで平坦な感じで、四方の山がよく見えました」という杉浦家にとって、12月は田畑も枯れ、時間ごと日の射す山も変わり、「遠山に日の当たりたる枯野かな」は、冬を実感でき、ここで詠んだようにも思える句だったことから代々引き継がれてきたのでしょう。

2011年11月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―96 『プレ・オープン1周年-5』

 昨年11月のプレ・オープンから1年が経過した今月、昨年の整備前と後を写真で紹介してきましたが、最終回の2組の写真は、母屋西側からの現駐車場と逆から母屋西側を望んだものです。この現駐車場は、以前は竹林でした。雪や風で左側のお宅に竹が当るのを防ぐため鉄骨の防竹柵が高くそびえていました。この柵の上3段は切って、「下2段は掲示案内板に使えるので残す」と云う活用案でしたが、雷が落ちたこともあり撤去して欲しいと云う近隣の要望で、全て撤去しました。竹も数年前、杉浦家で全て切たそうですが、根が残っていたので、新たな竹が伸び出していたり、切った竹が山積みされていました。欅の株や竹の根を文字どおり根こそぎ掘り起こし整地され、ご覧の駐車場になりました。
 下の組写真中央の白い建物は、母屋に付属している屋敷蔵ですが、繁茂する木々で外観も定かではありませんでした。文化庁の調査官から「この屋敷蔵は、木造の母屋と一体ですが、土蔵造りですから、別の建造物として登録文化財に指定すべき建物です」との指摘を受け、裏のL字型の納屋と二階建ての土蔵へと続く「土蔵造りの建造物」を見て歩けるよう外周道に整備しました。これで、南の庭園から座敷を囲む苔庭を見ながら北へ抜ける周回コースになりました。
昨年度整備された主なものだけを紹介してきましたが、合わせて資料整理や映像資料の制作、収集等々。「今年は、空白の一年じゃん」と的を射た声々には、むべなるかなの感強し。

2011年11月25日金曜日

杉浦醫院四方山話―95 『プレ・オープン1周年-4』

 昨春まで「森の病院」と云われた杉浦医院の名残は、敷地内の至る所にあった「切り株」が留めていましたが、上下水道の配管や造園の必要から全て抜根しました。「大好きだった欅の木を切るのは本当に切なく、つらい思いをしました」と純子さんが哀しそうに述懐するのを何度か聞きましたが、半端ではない大きさの切り株に欅の大きさが偲ばれました。建物を囲むように残っていた株は、防風や暑さ避けとして家屋を守ると同時に春の芽吹きや冬空に凛と伸びた裸木など四季折々の表情で杉浦家代々の家族を見守ってきたことでしょう。
 


 内海隆一郎原作・谷口ジロー画 のコミック「欅の木」は、杉浦家や新田地区の人々と杉浦医院の欅の木を描いたかのような上質なコミックですが、東京競馬場の第3コーナー内側にも大きな欅があり、「欅ステークス」という特別競走まで開催されています。昔から日本の風土に合い、日本人の気質にも合う樹木の代表が欅であったことは、国の天然記念物に何十本と指定されている樹齢1000年クラスの欅が物語っています。

2011年11月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―94 『山梨県科学映像館を支える会』

科学映像館の久米川理事長との電話連絡が続いたせいか、この10月から当館に勤務しているWさんから「科学映像館はどこにあるんですか?」と聞かれました。「埼玉県の川越だよ」と答えると「一度行ってみたくって」と云うので「そうか、映像館と云うから映画館があると思うのが普通だよね。川越にあるのは久米川先生の自宅だから、行っても先生の顔が見られる位かな」と笑いましたが、前93話で、インターネットの普及と可能性の拡大に伴い博物館などの展示施設の必要性の有無についても触れたのは、まさしくこの科学映像館が施設を持たず、貴重な映像をインターネットで配信している見本のような存在だからでもありました。この科学映像館の先駆性や運営を一人で切り盛りする久米川理事長の見識、お人柄については、既に何回か当ブログでも紹介してきましたが、過日、プレオープン1周年記念に合わせたかのようにフルハイビジョン化された「よみがえる金色堂」の限定DVDを当館映像資料に寄贈下さいました。
 このDVD映像は、これまでの映像をより高画質にデジタル復元したもので、その差異にも驚きましたが、DVDのパッケジにも映像の頭にも左のように久米川氏は、「山梨県科学映像館を支える会」の支援について、テロップを入れ紹介くださいました。
 「地方病」関係の映像資料収集過程で、科学映像館の存在と充実した取り組みを知り、連絡したのをきっかけに久米川氏からその運営の詳細とご苦労、アドバイスまで頂戴してきました。特に、県にも保存されていないという幻の映画「人類の名のもとに」は、久米川氏のご尽力で取引のある制作会社の倉庫の隅で埃を被っていたフィルムを発見、デジタル化することができました。今回、「よみがえる金色堂」のフルハイビジョン化の費用捻出に「山梨県内でご支援いただける企業や個人がいたら・・」との要請に、たった一度ですが、昭和で開催した講演会に参加され、鋭い質問と意見を述べられた県の教育委員でスーパーやまと社長の小林久氏の存在が浮かびました。思い切って手紙を書き、10万円の資金提供をお願いしたところ即応いただいたことから、これを機に科学映像館の取り組みを広く県内にも周知し、支援の輪も広げていこうと「山梨県科学映像館を支える会」を立ち上げ、小林氏に代表をお願いいたしました。「予算がないから出来ないでは情けない」と資金調達も先頭に立って奮闘する久米川氏と「出過ぎた杭は打てないだろう」と笑いながら、県教委改革から甲府銀座の街活性化にまで奮闘する小林氏の「実存」は、気持よく重なります。

2011年11月18日金曜日

杉浦醫院四方山話―93 『プレ・オープン1周年-3』

 母屋と医院を結ぶ廊下北側は、右の写真のように杉浦家の寝具類が詰まった押入れでした。押入れ上段には、来客用の蒲団や毛布が何組もありましたが、「昔のように泊りがけの客もありませんので、これを機に知り合いの施設に寄贈しようと思います」と純子さんが手際よく手配して空けてくれました。保存整備活用検討委員会では、昭和4年から昭和52年まで医院として使われていた内部が、そのまま残っている貴重な建物だから、出来るだけ手を入れないで、当時のままを基本に保存していくことが確認されていましたが、この押入れは、展示コーナーとして活用する旨を諮り了承され、整備した現在が下の写真です。
 ここに杉浦健造先生と三郎先生の年譜やお二人と杉浦医院にまつわる資料を展示し、下段は、展示交換用の資料の収納庫にしました。下の収納庫の襖も元の押入れの襖を加工して使うことにし、漆塗りの黒い建具や取っ手は元のもので、襖紙だけが新しくなっています。
 杉浦医院には、専門書や医学雑誌なども多数残っていますから、医学関係者には貴重な資料として展示すべきとなることでしょうが、限られた展示スペースに何を展示するかは悩む所です。
資料館や博物館の始まりは、貴族や資産家が収集した骨董品や美術品を並べたり、学者が標本として収集した自然物を分類して見せたように「ただの見せ物」が原点だったようです。18世紀に入って、現在の博物館の基となる大英博物館が誕生し、日本にも明治維新の文明開化で、博物館や美術館が誕生してきました。その中で、ただ物を見せるだけから情報伝達としての「展示」へと変化してきましたが、要は「展示物」で、どんな「物語り」が伝えられるかではないでしょうか。「ほぼ無限な画像・動画・文字情報を扱えるインターネットがあれば、博物館や美術館といった展示施設は要らないのでは・・」と云った議論もある現在、一般的な展示の在り方を踏襲するだけでなく、これからの展示の在り方やホームページを使った展示や発信など施設独自の展示を考えていくことが求められているのでしょう。 まあ、この「四方山話」もその具体的試みの一つと考えて、書いてはいるのですが・・・

2011年11月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―92 『プレ・オープン1周年-2』


杉浦家母屋玄関には、大きな鉢植えの観葉植物、主にシュロ竹の鉢植えがずらっと並んでいる写真が多数残っています。また、三郎先生愛用の机の中には、「観音竹と朱呂竹=品種・栽培・繁殖=」という本もあり、研究しながら育てていた様子もうかがえます。
 このシュロ竹を冬の間の寒さから守るために造られたのが、写真右上のムロ=温室です。寒くなるとムロへ、温かくなると玄関先へと重い鉢植えの植物を移動しなければならないことから、三郎先生亡き後、アピオに貸し出し、ロビーやエントランスを飾っていたそうです。 「アピオのA社長さんが辞める時、シュロ竹はどうしましょうかと聞かれましたが、返していただいても管理できませんから、そのままにしました。現在もアピオには、幾鉢かあると聞いていますが・・」 「男の方が十人いても鉢ですから持てるのはせいぜい三人で、裏まで運ぶのが大変でした」 「祖父健造が横浜から一鉢買って来たのものが、竹ですから株分けしないと鉢が割れる程どんどん伸びて、増えていったようです。確か、最初は瓦屋根の部分だけの温室でしたが、鉢が増えたことから、左側に継ぎ足して今の形になったと記憶しています」
「特に夏は、水をたっぷりかけるよう言われましたが、そのせいか蚊が多く、刺されるのが嫌だったこともあり、私はあまり好きになれませんでした」と純子さん。
このムロは、温室としての機能を優先したのでしょう、建物は南西向きで日当たりが良い上に、下から上まで三段の全面ガラス戸で、陽が中まで射すようになっていました。さらに鉢の土の部分に陽が当たるようコンクリートの床には長方形の小プールのような穴が2か所並列に掘られ、重い鉢をこの穴に納めたり、出す為に穴の上には太い梁が通り、滑車がかかっていました。写真の稲藁がかかっているのがその梁です。
建築基準法の耐震強度をクリアするよう両端を筋かい入りの壁に変更した以外、この構造と骨組、形、大きさはそのままに整備したのが右下の写真です。Aボーリングの社長さんが「これが、あのムロけぇー」と驚いたように、現在は休憩室を兼ねた交流施設として、古民家カフェのような趣もあります。元温室ですから流石によく陽が入り、5月頃から「暑つ過ぎて・・・」で、日除けに寒冷紗を張り、凌ぎましたが、これからの季節には暖房無しでも温かく利用できるものと思います。寄贈された書籍や新聞を備え、小企画展なども開催していますので、ご自由にご活用下さい。

2011年11月13日日曜日

杉浦醫院四方山話―91 『プレ・オープン1周年-1』

 昨年4月から、公開に向けて庭園や建造物の整備を行い、昭和町風土伝承館・杉浦醫院として、プレ・オープンしたのが1年前の11月でした。
先日、十数年前北側のマンション建築時に杉浦家からの依頼で井戸を掘ったと云うAボーリングの社長さんが来館され、「見違えるようにきれいになって、びっくりした。ここやあそこにあったでっかい切り株は抜いたのけ」「これが、あのムロけ」「あの碑はどうしたでぇ」「竹藪は・・・」と、たたみかけられました。
「そうですね。ビフォー・アフターも分かるようにしたほうがいいですね」と対応しましたので、プレ・オープン1周年を機に整備前と整備後を写真で紹介し、残しておきます。整備前の写真は、一番地道で大変な作業を請け負ったA建設の斉藤専務さんからの写真です。上の写真は、東側の正覚寺沿いの南側庭園を北から望んだビフォー・アフターです。
山梨県の地方病の歴史を医院と一体で語り継いでいこうと平成8年に建立され、昭和町のホタル公園内にあった「地方病終息の碑」を移設して整備した現在です。木々も手が入り、低木が移植され、終息の碑も昔からここに立っていたかのように存在感と落ち着きを見せています。
また、通路部分には、県内公共施設の庭には初めてと云う「川上砂利」が敷かれました。この砂利は、雨が降るとしっとりした茶色になり、日本庭園全体が一層落ち着いた趣を醸し、「雨もまた良し」といった雰囲気にさせてくれます。9月の台風で傾いた、えん樹の木を使ってのベンチも加わり、木々の間には、山本忠告の墓のMさん宅で株分けしてくださった水仙や鈴蘭も植え付けてありますので、また変わっていくことでしょう。「庭仕事は瞑想である」と説いたヘルマン・ヘッセは、名著「庭仕事の愉しみ」で、草花や樹木に惚れることで、草木が教えてくれる生命の秘密について語っています。ヘッセの瞑想の境地には程遠いものがありますが、造園や芸術のみならず「惚れて取り組むことは大事」と、惚れまくってはいるのですが・・・

2011年11月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―90 『清韻亭コンサート』

 昨日、杉浦邸母屋座敷で「清韻亭コンサート」が開催されました。杉浦医院6代目大輔先生は、医業もさることながら、清韻の号で、歌を詠み、書をしたためた文人でした。   明治中頃の建築と云われる母屋も清韻先生が建てたのでしょう、座敷には「清韻亭」の額があることは、四方山話―77『清韻亭(せいいんてい)』で紹介したとおりです。
 「清韻亭」の額が見下ろすこの座敷で、杉浦家では代々多彩な催しが開催されてきました。大輔先生の時代には、歌人が集まっては、季節ごとや歳時に合わせ歌会が開かれ、花鳥風月を詠みあったことでしょう。健造先生の時代には、毎年、ホタルの舞う時期に若松町の芸者を交えての「ホタル見会」が催されていたそうです。マルヤマ器械店の丸山太一氏の父・文造氏も毎年招かれ、「父は、杉浦さんのホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者は、みんな西条に行って、空っぽだったそうです」と話してくれました。また、当時の山梨時事新聞には、杉浦家のホタル見会に合わせ、昼は座敷に面した庭園で、野点が開かれたことが写真入りで報じられています。明るいうちは茶を愉しみ、夕方からホタルを待ちながら酒をかたむけ、ホタルが舞いだすと庭園の池から鎌田川へと散策しながら昭和の源氏ホタルを愛で、座敷に戻って本宴会と時間もゆったり、内容も豊かな「ホタル見会」だったようです。昭和4年の医院新築の上棟式でもこの座敷で大宴会が開かれた様子が写真に残っています。「祖父は、お酒はだめでしたが宴会好きで、飲んだふりして陽気に振る舞っていました」と純子さん。その後もこの座敷では、親族の結婚式や有楽流の茶会が定期的に開かれ、師匠の純子さんが、日常的に後進に茶の道を教えたりして、現在に至っています。
 加齢による視力の衰えを理由に茶会やコンサートへ出向くことを断っている純子さんに長く懇意にしてきたNさんが、「オンリーワン・コンサート」を企画してくれたのが、今回のコンサートです。 Nさんの友人で、薩摩琵琶奏者清水えみこさんが、純子さんの為に出向いて演奏してくれることになり、純子さんから「私一人が聴くのではもったいないので、急ですが、聴きたい方には来ていただいて・・」と広がりました。先月から、この「清韻亭」での茶会も復活しました。歴史的建造物を会場に伝統文化を純子さん共々愉しみながら継承していこうという多彩な方々の取り組みは、杉浦家代々が「清韻亭」で、綿々と続けてきた文化蓄積でもあることを今回のコンサートが、静かにしっかりと物語っていました。

2011年11月2日水曜日

杉浦醫院四方山話―89 『菊と土』

 太平洋戦争も末期に入ると日本では、本土決戦に備え「竹槍訓練」などに取り組んでいたのと対照的にアメリカは、然るべき人物が冷徹な目で、敗戦後の日本の占領政策と日本統治に生かす研究をあらゆる分野で進めていたことは、歴史家・色川大吉氏が詳細に指摘していますが、日本人をトータルに把握した「菊と刀」も研究成果の一つでしょう。著者は、アメリカ政府が日本研究を委託したルース・ベネデクトという女性人類学者ですが、日本での現地調査が不可能のため、日本に関する書物、日本の映画、在米日本人との面談等を材料に研究を進め、日本文化の基調を<義理><恩><恥>から探究し執筆しました。「菊」は天皇制、「刀」は武士道の象徴でしょうが、「菊」には、日本人が幼い頃から厳しい「しつけ」を受けることで、レール上を着実に進み、上からの理不尽な統制にも従順に従い、集団として乱れない様を手間暇かけて体裁を整えられ、日本人が好んで鑑賞する「菊」に例えたものでもありました。
 「菊と刀」の解釈はさておき、「菊と土」について、貴重のお話を伺いましたので報告いたします。ご覧のように杉浦医院玄関を西条一区の堀之内一郎さんが丹精込めて育てた菊で飾っていただきました。これは、堀之内さんが毎年西条一区の文化祭に出品している菊を今回、樋口・三井両議員の橋渡しで、杉浦医院に届けていただいたものです。今月は、団体の予約見学も数多いことから「菊香る玄関」になり、ありがたく拝借することとなりました。「菊づくりは土づくり」と云った言葉から、このように立派な大菊をつくる第1の要素は「土」であること位の知識しかありませんので、昨日、堀之内さんから、管理の仕方など直接ご指導いただきました。その折、堀之内さんの菊づくりについて、興味深い話を伺いました。堀之内さんが菊作りを始めたきっかけは、「茄子苗づくり」だったそうです。茄子の苗は、雑菌に弱く、良い苗を作るには、「土」が重要だったとことから、土づくりを試行錯誤した結果、川底の泥土を引き上げ、乾燥させた「土」が有効であることを発見したそうです。一見すると、雑菌の塊のような川底の泥土で見事な茄子苗が育ち、たくさん出荷できるようになったことから、菊にもこの土は生かせるのではないかと、菊作りを始めたそうです。茄子に有効な「土」は、菊にもご覧のとおりで、確かに鉢の土は、水の浸透も速く、色合いも川砂のような感じです。
 ベネデクト女史は、各自が善悪の絶対基準をもつキリスト教の西洋的「罪の文化」に対し、日本の文化を内面の確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準に行動が律されている「恥の文化」と大胆に類型化しましたが、菊の出来栄え一つとっても他者からの評価を潔く受けることを前提に研究を重ねる日本人の内面について、今回の堀之内さんの「菊と土」のような現地取材ができなかった状況下での類型化には、無理と洞察不足の感は否めません。

2011年10月29日土曜日

杉浦醫院四方山話―88 『木犀会』と『ことぶき歓学院』

ことぶき勧学院の存続を求める陳情書に
署名する生徒たち=山日新聞=
 昨夜、甲府市総合市民会館の会議室で定期的に開催されている「木犀会」という自主学習サークルで、杉浦醫院や地方病について話す機会をいただきました。本題に入る前に、この「木犀会」の歴史や運営について、興味があったので尋ねたところ、実に27年間続いている学習会であることや参加者が身銭を出し合い運営していることが分かり、この間、山日新聞などで度々話題になっている「ことぶき歓学院」についても意見交換出来ました。「ことぶき歓学院」は、県の事業仕分けの対象になり、仕分け人全員の一致で廃止が決まったことから、在籍者や関係者が、存続を求めて投書や署名活動を活発化させているシルバー世代の社会教育機関です。「木犀会」のメンバーにも「歓学院」でも学んでいる方もいましたが、「歓学院は、木犀会に学ぶべきだ」とする私見を述べました。市町村の教育委員会も毎年、歓学院の入学受け付け窓口になっていましたので、「歓学院」のシステムと内容が既に役割と魅力を失っている実態を十数年前から公言してきましたので、その根拠と理由も挙げて、意見交換の具体化を図りました。

①一年間の開設講義の内容が、県教委作成のカリキュラムとして提示されていること
②受講印による年間多受講生の表彰制度など教育システム的運営であること
③この事業の担当者は、教員の期間出向者で、現場感覚と改革意識が希薄なこと
④県内教職員の退職者の占める割合が多く、教職員OBの同窓会的雰囲気が濃厚なこと
⑤シルバー世代の生涯学習機会だけが、税金で設けられている根拠が曖昧なこと 等々

 学校教育も修了し、社会人として職業生活も終えたシルバー世代が対象なのに①②のように学校教育に準じた制度と類似した運営であるという根本問題や批判、改革要求に③④のような実態から、これまで抜本的な改革が図られて来ませんでした。
年間予算4500万円と云う「税金」で運営さる学習機会が、なぜシルバー世代限定で開設されなければならないのかの明確な根拠はありませんし、故宮坂広作氏が事あるごとに指摘していたように、むしろ、この時代の社会教育は、世代に関係なく就労に繋がる「職業教育」や「資格取得講座」、「防災」や「放射能」等々の現代的課題学習の開設に税金は向けられるべきでしょう。
そういう意味でも何を学ぶかは、学ぶ本人が決め、予算が切られたら学べない、学ばないのではなく、切られてもどう学んで行くかが問われていることを「歓学院」で学んで来た皆さんには自覚いただき、木犀会のノウハウも伝授してやって欲しいと結びました。

2011年10月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―87 『ボランティア』

 昨日、昭和町商工会女性部の役員の方々が、杉浦医院建物の清掃ボランティアに事務局職員共々15名で来て下さいました。3,4人一組のグループに分かれ、一気に館内のガラス窓から柱や鴨居、家具、照明器具までみるみる拭きあげ、後日に予定していた2階まで、内外から磨いていただきました。積年の埃や煤で、持参いただいた雑巾も直ぐ真っ黒になりましたが、約1時間後には、見違える程きれいになり、館内の空気も一変した感じです。「数は力」と云いますが、一人一人の力がゼロなら、何人集まってもゼロでしかありませんが、今回のメンバーは、お一人お一人が物凄いパワーと情熱を持っている方々であることを作業成果と時間が、証明してくれました。危険な高所作業も厭わず、黙々と気持よく活動いただいた皆様、誠にありがとうございました。
 プレオープン後、近くにお住まいのS氏は、庭園の清掃に朝早くから来て、柿の木の消毒までもやっていただいて、一年になります。地元西条新田区の区長さんからも「役員で落ち葉の清掃に行きますから、必要だったら声をかけてください」と心配いただいてきました。また、高校生、中学生のZ姉妹は、純子さんに学校の話題を定期的に話に来て、「今の学校は、昔と違って、驚くことばかりです。若い方の話を聞くと時代の変化が分かって、面白くて勉強になります」と純子さんも心待ちの様子です。もうひと方、竜王のS氏は「気分を害さないでください。私の趣味ですから・・」と開館早々、道具一式を持参して、トイレの便器を真っ白にして下さいました。「これを使えば面白いくらい取れるんです」と秘密兵器と使い方まで伝授してくださいました。そのS氏は、3・11以後、既に10数回岩手と山梨を往復して、復興ボランティアを継続しています。「行けばやることはいくらでもあることが分かっているので、用事を済ませたら、戻らなければ・・と、じっとしていられない」と云います。この活動を通して、彼が考えたことや伝えたいことを「OTOUのブログ」で、発信してくれています。本当の情報と共にS氏の人柄と思考の深さ、視点の確かさが率直な文章に醸しだされ、毎朝のチェックが欠かせません。「がんばろう日本」だの「東北の被災地に向けて・・」と云った空虚な「言葉」が、日本中に氾濫している現在、自分自身を現場に置いて、黙して奮闘している方々の実践と言葉の重みは、そのまま人間が生きるということの価値と品格を教えてくれているようで、恥じ入るばかりです。

2011年10月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―86 『北方文化博物館と伊藤辰治氏』

 「豪農の館・北方文化博物館」は、越後の国・新潟県の観光コースにもなっていますので、行かれた方も多いことと思いますが、その広さと豪荘な趣きは目を見張るものがあります。米どころ酒どころ新潟の豪農のスケールの大きさは、かつての日本の基盤産業が、第一次産業と云われる農業だったことを実感させてくれるに十分です。 
 国の登録有形文化財にも指定され、北方文化博物館として公開されている豪農の館は、江戸時代から続く伊藤家の家屋敷ですが、屋敷面積約9000坪(30,000㎡)、建坪も約1200坪(4,000㎡)にも及び、茶室だけでも5ヶ所あり、母屋には、60室以上の部屋がある桁外れの大きさです。越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、戦後の農地解放で、広大な農地は伊藤家の所有を離れ、この家屋敷も存続の危機を迎えました。慶応大学卒業後、アメリカの大学にも留学していたと云う伊藤家の7代目は、この家屋敷を保存、活用していく道を選択し、財団法人「北方文化博物館」を設立し、この財団に伊藤家の家屋敷を寄付した結果、当時のままの家屋敷が、保守管理されながら公開されている訳で、7代目の「先見の明」にも感心します。
 純子さんが、「父は新潟の医科で、伊藤辰治さんと同級で、親しくしていただいたようです。」「伊藤さんは、後に新潟大学の学長さんになられた方ですが、伊藤家は、現在、確か北方博物館になっている凄いお宅で、家中が宝物の山だったとよく話してくれました。」
「伊藤先生とはこちらに帰ってからも懇意にしていましたが、学生時代にお宝を少し分けてもらえばよかったと笑って話していたのを覚えています。」「家も山梨では見たこともない立派な家で、当時から外国の貴重なものもたくさんあって、とにかく凄かった。」と・・
城のように土塁を築いて濠をめぐらせた敷地の内には、素材と手間を惜しまずに造られた家屋や土蔵等々が軒を連ね、当時最高の木材を大工が技を競って作ったといいますから、三郎先生が「驚いた」と言うのも頷けます。
 三郎先生の学友伊藤辰治氏は、伊藤家6代目の弟の娘さんの婿として、伊藤家に入ったそうですが、「伊藤家の嫁とり・婿とり」は、『五代文吉は、謙次郎の嫁とりに力を注ぎます。将来の伊藤の家にふさわしい家柄の娘を探し、新潟県全域にわたり56の家を調査しますが、この志なかばに五代文吉は明治24年(1891年)2月29日に逝去し、・・』とホームページで紹介されている位ですから、厳しい「調査」の結果、辰治氏は選ばれて、婿入りしたのでしょう。当然、「ご学友」に荒くれ者がいたらはじかれるのが常ですから、親友の三郎先生の品行も調査され、辰治氏の評価を上げた結果の婿入りだったのでしょう。

2011年10月20日木曜日

杉浦醫院四方山話―85 『絶滅危惧種』

 「宮入慶之助記念館だより 第15号」が届きました。今回の記事の中に自治医科大学の石井明氏が「里山のミヤイリガイ」と題して、里山と種の多様性について、ビオトープでの可能性にも言及しながら、ミヤイリガイの保護、増殖について論じています。
 確かに、日本住血吸虫症の撲滅のために吸虫の中間宿主となるミヤイリガイの殺貝を徹底して、この病気の終息を世界で初めて成しえた日本ですが、里から土水路と共にホタルをはじめとする多種多様な生物が消えました。
 宮入教授が鈴木講師と九州・築後川で発見したミヤイリガイですが、既に築後川では全く見られなくなり、別名「片山貝」とも呼ばれた広島片山地方の河川にもいなくなって久しいことから、現在は、唯一甲府盆地一帯にしか生息していない貴重な貝となり、絶滅危惧種として、保護されるべき段階に来ているのではという提言でもあります。
 これを受けて、宮入記念館館長の宮入源太郎氏は、編集後記の中で「展示室には24種の貝の標本が展示されていますが、展示の迫力を増すために生きた貝を展示したいと考えています。しかし、住血吸虫症を制圧する歴史においてこの貝は危険生物として駆除の対象とされてきました。もし、当館が貝を飼育して生きた貝を展示したらどのような事態になるか、原発事故にからむ放射能の風評被害の事例も参考に充分な分析・考察が必要であります」と慎重な見解を記しています。
 ミヤイリガイそのものに毒性や感染源がある訳でなく、たまたま住血吸虫が勝手に入り込み、この貝の中で成長したという、ある意味大変な被害者でもあるミヤイリガイです。 「現在生息しているミヤイリガイの再感染の危険性は、99,9パーセント無い」と梶原徳昭氏は言いますから、日本での衛生状況からすると昭和町で、ホタル同様「ミヤイリガイ愛護会」を立ち上げ、ミヤイリガイを絶滅の危機から守る活動も検討の余地があります。幸い、昭和町内の河川等には、カワニナの生息数も増えてきていますので、石井先生の提言を活かすには、ミヤイリガイが、どの位、どんな分布で町内に生息しているのかは、調査しておく必要を感じました。
また、日本のミヤイリガイと中国の中間宿主の貝やフィリピンの貝では、それぞれ微妙に種が違い、日本でミヤイリガイが絶滅してしまうと世界から消え去る種だそうですから、長い間、殺してきた供養も含め、真剣に考えなければいけない課題であると思います。
町内の3つの小学校には、全てビオトープが完備していますので、元々この地にたくさんいたミヤイリガイが、昭和の学校のビオトープで生息しているのも理にかなっています。

2011年10月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―84 『明治四十年大水害実記-2』

 明治43年にも再び甲府盆地一帯は大水害に見舞われました。引き続く大水害は、明治になって県内林野の約7割にあたる35万町歩が国に官収され、その後、皇室の御料に編入されたことから、林野の乱伐や盗伐、放火や失火などが多発し、山林が荒廃し、山の保水力が著しく劣化していたことが、一番の原因でした。その為、明治44年(1911年)に皇室御料山林は県に下賜され、恩賜県有財産(恩賜林)として県が管理することになりました。
 この天皇家の山林が、県民の財産として県に移管された、その「ご恩」に「感謝」して建てたのが、甲府城の「謝恩塔」であり、城内に今もある「恩賜林記念館」です。
それにしても史実に無いものを勝手に再現できないとする現代の文化財保護法からすると甲府城内のそれも本丸に天皇の恩に謝する塔を建てというのが、いかにも「明治」を象徴していると思いますが、水害と山林の関係は、先の和歌山県紀伊半島で起こった土砂崩れ、深層崩壊でも同様でした。戦後、急峻な崖にまでスギやヒノキを植林して、人工林を造ってきたのが山林行政でした。このような人工林では根が1m~1.5mほどしか育たず、地盤を強化することはできないと言われています。落ち葉や潅木による保水作用も衰え、雨が長期に大量降り続けると雨水は山肌の地中深く岩盤まで浸み込んで、深層崩壊にまで至ると指摘されています。同時に、外国の安い木材によって日本の林業は成り立たなくなり、間伐や伐採後の植林も行われない放置山林が多くなりました。手を入れなければ人工林はあっという間に荒廃し、地表のわずかな保水力も失われ、さらなる地盤の弱体化につながります。こういう、斜面崩壊が起こる条件は、日本中の山林で指摘されていますから、山梨県下でもまたいつ起こっても不思議ではない状況です。
「公共工事」の見直し、縮小が「改革」だとする国民的洗脳が進み、必要不可欠な公共工事も事業仕分けされてきた結果が、今回の水害の要因だと言う指摘もあります。失った「命」は、復旧、復興は出来ませんから、かけがいがあるかないかは別に「命」に関わる「公共工事」は、きちんとやっていくという政治、行政の必要性を「謝恩塔」が指し示していると解すべきでしょう。
 今日の新聞に、11月14・15日に天皇夫妻が、「恩賜林下賜100周年記念大会」出席の為、来県するとの報道がありました。3月11日の東北地方を襲った大地震、大津波についても過去の歴史に学ぶ必要があった旨の指摘も多く、あらためて「災害は忘れたころやってくる」と云う諺の重みも実感します。「明治四十年大水害実記」未読の方は、昭和の図書館にもありますので、この機に「過去の水害史」を知る意味でも是非どうぞ。

2011年10月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―83 『明治四十年大水害実記-1』

 舞鶴城の整備や北口再開発で、甲府駅周辺が様変わりしていますが、舞鶴城と呼ばれる甲府城のシンボルは、城跡にそびえ立つ石碑「謝恩塔」に変わりありません。
この甲府城に天守閣が実在していたのか否かは、議論のある所ですが、本来天守閣がそびえていてもよさそうな本丸に場違いな天を突きさす石塔。石垣とのミスマッチも見方によれば、現代美術風でもありますが、復元された稲荷櫓や山手御門を入っての本丸がこの「謝恩塔」では、「観光立県やまなし」も・・・ですね。
 現在、杉浦醫院では小企画展として「マルヤマ器械店と丸山太一氏」を開催していますが、丸山太一氏の著書・編著は、木喰上人関係のみならず「明治四十年大水害実記」もあります。甲府城の「謝恩塔」は、明治40年、43年と続いた甲府盆地一帯の大水害の記念碑でもあることもこの「明治四十年大水害実記」が教えてくれます。      
 明治40年(1907年)8月26日から27日にかけて、甲府盆地東部及び峡東地区一帯は、台風の記録的大雨で大水害に見舞われました。現在の石和町、御坂町一帯では、河川が乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などで、家屋も全半壊し集落が孤立しました。耕地の流出や埋没、交通の寸断など多大な被害を出し、死者233人、流出家屋5000戸という、近代では、山梨県最大規模の災害でした。この「明治四十年大水害実記」は、当時の山梨県知事武田千代三郎氏が、郡内地方への視察の途中、御坂峠でこの大雨に合い、道路が寸断され、山中を一昼夜歩いて石和までたどり着き、そのまま陣頭指揮にあたったという体験の実録です。武田知事が、格調高い漢文で記したものが、石和の佛陀寺に保管されていたそうです。
 丸山太一氏と甲府中学の同級生で、昭和町河西在住の五味省吾氏が、石和郵便局長時代に佛陀寺のこの文章を丸山氏に持ち込み、解読を依頼したことから、この本が陽の目を見ることになったそうです。丸山氏の言葉を借りると「家業を家人に任せ、辞書片手に漢文と格闘して解読した」そうですが、武田知事の実況中継のような迫力ある体験が、面白くもあり夢中になって、現代語に訳したそうです。この大水害で、笛吹川の流路も大きく変わり、家を失った罹災者の北海道移住計画で、羊蹄山の麓に3000人余りが移住したそうです。移住した方々は、羊蹄山を「蝦夷富士」と呼び、故郷山梨を偲んだそうですが、この大水害によって、甲府城に「謝恩塔」が建立され、現在に至っていることを知らない観光客には、「お城にあの異物は、なに?」となるのも自然でしょう。

2011年10月12日水曜日

杉浦醫院四方山話―82 『一店逸品片手に杉浦醫院へ』

 先々週から、「一店逸品」を片手に当館を訪れる方が続き、あらためてこう云う企画をきっかけに町内を歩いてみようと思い、実際に足を運ばれた方々に接し、「自分が住んでいる町をもっと知りたい」という昭和町に越してきた方々の共通した思いを知りました。
この「一店逸品」は、大型店の出店が相次ぐ昭和町にあって、町内に店舗や事務所を構える自営商工業者が、それぞれの逸品を企画、発信しているカタログです。昭和町商工会が、毎年アイディアを出し合ってユニークなポスターやカタログを制作し、全戸配布されていますが、今年のカタログには、町の施設として杉浦醫院に割り当てがありました。
当初は、半ページの割り当てでしたが、担当の事務局F氏から「今年はA4版にしましたから、1ページ分どうぞ」と気合いの入った連絡を受け、フルページ提供の気前に応えて≪春夏秋冬!杉浦醫院へ≫のコピーも≪「一店逸品」片手に杉浦醫院へ!≫と替えました。
出来上がった今年のカタログを観ると昭和町商工会が総力をあげて、このカタログを制作したのが良く分かります。 
それぞれの店を紹介する1枚の写真にもこだわりと工夫が見られ、写真の出来の良さと垢ぬけたレイアウト、デザインも見やすく「行ってみよう」と云う気になるカタログです。 
平成19年から制作して5年目となる今回、「顔が見える商い」と云う原点と「町全体を一つの商店街に」というコンセプトが紙面に溢れ、クーポンやスタンプラリーという出資と手間をかけることで、大型店との共存を図っていこうとする自助努力も伝わり、親しみやすく応援したくなるカタログになっています。
「A4版は大き過ぎないか?」とも思いましたが、紙質とページ数が程良いせいか、杉浦醫院来館者は、黄色いバトンのように軽く丸めて、文字通り「片手」に握って来ますので、目的のコースを回るバトンランナー気分も味わえ、迎える方にも直ぐ分かるというメリットに感心しました。
まち歩きには最適な季節を迎え、杉浦醫院の庭園も色づき始めました。「一店逸品」片手に町内のお店や町の文化財を結んで歩くのは、町を知る上でも有効かつ健康的なウォーキングでしょう。今回、杉浦醫院もスタンプラリーの一箇所として入れていただいたことで、来年度版には、町に点在する文化財も地図上に載せると休憩にもなり、相互活用されるより豊かな「一店逸品」になるようにも思いましたが、事業責任者F氏と事務局Fさんの柔軟にして賢察なF・Fコンビ! 如何でしょう?

2011年9月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―81 『槐(えんじゅ)ベンチ』

  台風15号で倒れた「えんじゅ」の木が、昨日、ベンチ三台になって新たな役割を担うことになりました。鈴木造園の親方の指示のもと若いタンちゃんとアンちゃんが、終日二台のチェンソーをフル回転して加工し、設置されました。
*根本から切断された約10mの幹の部分から3台のベンチを作る計画で、根本に近い太い方からベンチ部分3本を取り、細くなる上の部分から台座になる6本を切り分けました。
太さに合わせてベンチ部分または台座部分にホゾを切って、設置後の安定化も図られています。

*旧病院建物横に設置したベンチは長さ2,2mで、5,6人掛けです。来館者が病院と母屋、清韻先生寿碑をバックに記念写真撮影用にも使えることを想定しました。直ぐ後ろに立つと12,3人前後が、丘状に起伏がある3列目に立つと20人前後の集合写真がこのベンチで撮影できます。高さも48センチと座りやすいベンチです。

*東の正覚寺側板塀に沿って設置されたベンチは、長さ1,8mで、ご覧ように大人3,4人が掛けられます。このベンチからは、東西に長い庭園の全体が楽しめます。午前中は木蔭で涼しく、午後は西陽があたりますから「日向ぼっこベンチ」です。写真にはなかなか応じてくれない純子さんですが、「えんじゅ」の再スタートを祝しての貴重な2枚です。
 *このベンチの真下にえんじゅ切り株がありましたので、根本に一番近い部分で作ったベンチは、えんじゅの木がそびえていた定位置に納めました。病院から母屋までを正面から見渡せます。芯の部分がえんじ色のえんじゅの特徴も写真でもお分かりかと思いますが、実物でお確かめ下さい。

2011年9月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―80 『槐(えんじゅ)』

 台風15号の風で倒された杉浦醫院庭園の「大木」については、当H・Pの「ニュース&お知らせ」コーナーで報告したとおりですが、翌朝、純子さんから、淡々と、かつ含蓄のある言葉をかけられました。「昨日はご苦労様でした。私も夜しみじみ思いましたが、たくさんの方々の手で、多くの人に見守られ、最後には町長さんにまで見届けていただいた訳ですから、あの木の最後は本当に幸せでした。これまでも沢山の木を切りましたが、こんな幸せな最後を迎えた木は初めてです。」と。「池の横にあった大きな欅を切ったのは、もう30年位前になりますが、名古屋の材木屋さんが来て200万円で買っていきました。お金になったのはそれが最後で、その後は、いくら大きな欅でも伐採費用を払うようになりました」「欅は、冬の裸木も見事で、春の芽吹きは目映いばかりにきれいで大好きでした。周りが田畑だったころは、落ち葉の苦情もなく季節ごと表情を変える欅を楽しめました」と杉浦家の大木伐採の歴史も話していただきました。

 暗い中での伐採作業で、高さが同じくらいの樫の木が、東側に何本かあったことから、消防や建設関係者も一様に「樫の木」という共通認識で作業を進めました。「樫は堅いから大変だ・・」と。朝、葉っぱや幹が、樫の木と明らかに違うことに気付き、純子さんに「石碑の横にあったあの木は、樫ではないようですが」と聞くと「あの辺には、えんじゅとかエンジとか言っていた木がありましたから、樫でなければ、えんじゅだと思います」とのこと。えんじゅについて調べていると、杉浦医院を建設した橋戸棟梁が見え、「あの木は栴檀(せんだん)だよ」と教えてくれました。材木を扱う棟梁が云うんだから間違いないか?と思いましたが、純子さんに聞いてみると「栴檀は、以前裏の柿の木の横に1本ありましたが、大きくなると言うので切りました。表にはなかったと思います」「樹齢が6~70年の木ですから、純子さんが知らない訳ありませんよね」で、栴檀説もあやしくなると造園科卒のI君は「葉や幹からすると小楢ならではないか?」と・・結局、土曜日にこの庭の剪定等に入っている鈴木緑化土木の親方が来て、開口一番「えんじゅが倒れたのか。建築材料にもなるいい木だよ」で、純子さんの記憶通り「えんじゅ」でした。
 えんじゅは漢字で「槐」と書き、中国原産の落葉高木で、7月ごろに開花する白い花は、蜂などが蜜を集める重要な蜜源植物だそうです。開花直前のえんじゅのつぼみを採取して日干したものが生薬の槐花(かいか)で、止血作用がある漢方薬だそうです。屋敷の北東に植えると厄除けになると言われたり、仏像にも使われる由緒正しい木のようです。確かに、伐採された後も「樫の木」「栴檀」「コナラ」等々の話題を集めた「槐」ですから、親方の手でベンチに加工され、この先も存在感を放ってくれることでしょう。

2011年9月24日土曜日

杉浦醫院四方山話―79 『ケビント』

 先日、甲府の「マルヤマ器械店」の丸山太一氏から、「医療棚」三台と「医療機器類」を杉浦醫院にご寄贈いただきました。
写真の医療棚は、杉浦医院の診察にあるものですが、医療カタログでは「器械棚」と命名されているそうです。近年、歴史を刻んだ古い器械棚がアンティーク家具として人気で、ネットオークションなどの相場では、安い物でも数万円、質の良い物だと十数万円もするそうです。
 この棚のファンには、女性が多いことも特徴で、旅行に行った際に購入した置物を並べたりするコレクションケースに使ったり、お気に入りの香水や化粧品を並べたり、食器棚として愛用したりと、個性的に使うのがオシャレだとか。
帰り際、丸山太一氏から「私たちは、ケビント、ケビントと呼んでいましたが、一つ一つ注文のサイズに合わせて、家具職人に造ってもらって納入しました。何度か色を塗り直して使ってきたものですが、杉浦さんの所でお役に立てれば、うれし限りです」と言葉をかけていただきました。三台を休憩室に並べてみると横幅や高さ、棚の材質などみんな微妙に違っていて、お話の通りそれぞれが一点物であることが分かりました。
 今朝、丸山さんから、「先日のケビントは、業界用語でしたので、お医者さんはケビントとは言わなかったと思います。全国の医療機器関係者の共通語でしたから、ケビントの語源を調べてみました」と電話をいただきました。木喰上人と微笑仏の代表的な研究者でもある丸山氏は、九三歳になられても明確でない言葉やモノについて曖昧にせず、直ぐ調べる探究心と情熱が習慣になっているようで、頭が下がると同時に若さの秘訣と感じました。
 「医療棚は、英語ではドクター・キャビネットと言います。キャビネットはドイツ語ではケビントですから、多分業界用語のケビントもキャビネットのドイツ語からだと思います」と教えてくれました。なるほど、カルテもドイツ語で書かれていたように日本の医療技術や医学は、ドイツからの西洋医学ともいえますから、丸山氏のご指摘どおりでしょう。
 早速、パソコンで「ケビント」を入力すると「アンティークケビント」の情報やブログがいっぱいで、その人気の高さを知りました。
ちなみに診察にある四面ガラスのケビントが最も高価で、背面が木製の三面ガラス、前面だけがガラス扉の一面ケビントと価値も違ってくることや同じ三面ガラスでも棚がガラスか木製かでまた違い、ガラスの質によっても・・・と、マニアックな世界は微細な差異を競うようです。更に「納入業者のステッカー付きかどうかも大きい」と・・戴いた三台には全て「マルヤマ器械店」の金属ステッカーがきっちりですから、「お宝を三台も!」と本当に無知を恥じました。

2011年9月21日水曜日

杉浦醫院四方山話―78 『十五夜』

 8月末から、つなぎのお軸として、清韻先生の墨絵が掛けられましたが、先の台風が過ぎ去ったと同時に松本楓湖の「養老の瀧」の軸になり、純子さんから「今年の十五夜はいつでしょうか」と聞かれ、「はて?」と困りました。花鳥風月を愛でる素養もない私は、毎年の十五夜を事前にチェックする習慣はありませんでした。
 ここ数年、甲府の印伝屋が「きょうは、十五夜です。」の全面広告をシリーズ化して、全国紙にも載せていましたので、その年の写真やコピーの出来栄えを楽しみながら「今日が十五夜か」と知る程度の習慣でした。そういう意味では、私の十五夜は、印伝屋のPR紙面を肴に、月を覗きながら酒を楽しむ位で、月見だんごにもお目にかかっていないことに気が付きました。
 十五夜とは本来は満月のことですから、年に12、13回めぐってきますが、旧暦の8月(新暦ではほぼ9月)の満月が、1年の中で空が最も澄みわたり、月が明るく美しくみえることから、この月の満月が「十五夜」と呼ばれ、年に一度の「仲秋の名月」となりました。しかし、十五夜に月見を楽しむ風習は、日本古来のものではなく、中国の唐から遣唐使によって日本に持ち込まれ、日本の風土に合わせて定着してきました。中国では、月餅(げっぺい)を作ってお供えしたのに対し日本では団子や里芋をお供えして、五穀豊穣を神に感謝する日へと発展したようです。要は、「満月を鑑賞するだけでなく、美味しい農作物に感謝して、満月の夜を過ごしなさい」という日ですから、今年の酒米の出来に思いを馳せ、おいしく酒を飲むのも十五夜の過ごし方として十分理に適っていることも分かり、安心しました。
 「芋名月」とも云われる十五夜に対して、約一カ月後の十三夜は、「豆名月」「栗名月」と呼ばれ、収穫物の時期に合わせた名前があるのも日本独自ですが、この十三夜は、日本で生まれた風習で、起源は江戸の遊郭文化だそうです。
 十五夜に有力な客を誘い酒宴をあげることで、一カ月後の十三夜にも足を運ばせる「営業」として、「十五夜と十三夜の両方を共に祝うのが出来る男の嗜み」とし、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見客」「片見月客」と呼んで、縁起が悪い客だと遊女らに嫌われたそうです。確実な二度通いを定着させる有効な「風習」まで創造した訳で、いつの時代もこの世界が産みだすアイディアと知恵には敬服します。また、文芸の世界、俳諧では、旧暦の8月14日を「待宵(まつよい)」、16日の夜を「十六夜(いざよい)」と称して、15日の名月の前後の月を愛でることも「風習」としていますから、全ての「風習」にお付き合いするのも大変ですが、今年の月は本当に綺麗でしたね。

2011年9月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―77 『清韻亭(せいいんてい)』

杉浦家母屋の座敷南側の障子の上の壁には写真の額が、純子さんが物心ついた時からあったそうです。 文豪谷崎潤一郎が、代表作「細雪」を執筆したのは神戸の「倚松庵」、その後湯河原に新築した住まいを「湘碧山房」と名付けたり、永井荷風の日記文学「断腸亭日乗」は、文字通り「断腸亭」での日常が書かれています。このように文人や茶人は、自分の住まいや別荘、茶室に「○○亭」「××房」「△△庵」等の名前を付けていました。
現代では、小ジャレタ飲み屋や料理屋が、こぞって付けている感もしますが、特別小ジャレテいなくても長坂町大八田には、うどん屋「長八房」もありますが・・・
この額が杉浦家の母屋座敷に昔からあったのは、この住まい、もしくは座敷を「清韻亭」と命名していたからでしょう。この「清韻」は、8代目健造先生の祖父、6代目杉浦大輔氏の「号」でもあります。昭和4年に杉浦医院を新築された健造先生は、同時に医院正面の庭に「清韻先生寿碑」も建立しました。
「杉浦健造先生頌徳誌」によると、大輔氏は、「5代目道輔氏の生存中に医業を継ぎたるも早世し、慶応3年正月父に先んして没す」とあり、7代目は、大輔氏の末弟嘉七郎氏が継ぎました。8代目の健造先生は、大輔氏の二男ですから、正確には大輔氏は健造氏の父でありますが、7代目がいることから、「祖父」としているようです。 
    
早世した大輔氏は、医業と共に書画にも秀で、歌を詠む文人で、清韻という号で、作品を残しています。健造先生は、早世した父大輔氏の文人としての業績を後世に伝えるべく、明治中頃に建てた母屋を「清韻亭」と命名し、「清韻先生寿碑」も建立したのでしょう。杉浦家には、清韻先生の書画も掛け軸で保存され、季節の合間のお軸として床の間に飾られます。台風で雨続きの先週、「清韻のお軸をつなぎにお願いします」と替えましたが、秋風が爽やかな今朝、「今日、清韻から養老の滝のお軸に変えたいのですが・・」と、純子さんのお軸の交換は、機会的に月ごとではなく、湿度や陽射しなど純子さんの感性がとらえた「季節」を基本にしています。

2011年9月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―76 『郡中十錦・余話』

  還暦を過ぎて、初めて知った言葉「郡中十錦(ぐんちゅうじっきん)」。調べながら、ふと中島みゆきの歌が頭をよぎりました。いつ、どこで、誰と聴いたのかもはっきり覚えていて、有線放送で流れてきた曲に思わず「これ誰の作詞?」とマスターに聞いたことまで覚えています。芸能ウオッチャーのマスターの言を信用すれば、「中島みゆきの作詞、作曲だ」ですが、「曲名は分からん」でしたので、正確でない場合はお許し願うとして、こんなフレーズで始まった曲でした。 『知らない言葉を 覚えるたびに 僕らは大人になっていく けれど最後まで 知らない言葉も きっとある・・』



 医者をしている友人と飲んでいて、彼が「医者なんて病名を告げるのが仕事。たとえ、誤診でも自信を持ってはっきり病名を告げる医者が名医。でも良く分からないことの方が多いんだから、断定できないで誠実に対応しようものならヤブだと・・」という話をきっかけに、「名前がないと存在もない」という抽象的な話に進み、「要は名前を付けて、分類することが文化、文明だという刷り込みが、文化国家の日本人には常識となり、病名を知って、どのランクの病気か推測して安心する為に医者に行く。病名もあいまい、分からないでは不安が増すということだね」「だから、あやふやな時は、風邪です!が無難になる。結果、あんなにたくさんの風邪薬が市販されているんだ」と云った話の時に『知らない言葉を 覚えるたびに 僕らは大人になっていく ・・』と流れてきたのでした。
しばし休憩と云った感じで聴き入って、「そうだよな。病名も言葉だから、その病名を知らない時は、そんな病気も存在しなのに、医者に診てもらって、知ることは不幸でもあるね」「そう、俺が言うのもおかしいけど、自覚症状もないのに健康診断まで受けて病気探しをしているのは、個人の幸、不幸とは別な意図の結果だよな」「知らない言葉をたくさん知っている大人が、知識人には相違ないけど知らないままの少年オヤジの方がいいかもな」「まあ、どんなに博学といっても俺の名前まで知っている訳ではないから、最後まで知らない言葉って、ホントたくさんあるんだろうなー」・・・と。中島みゆきに素直に従えば、この歳で「郡中十錦」の言葉と存在を知ったのは、僕は未だ大人になっていく途中であると・・・でも、知っていた言葉が出なくなった健忘症も顕著なので、僕は大人になる前に老人になっているということだろうか・・結論は、中島みゆきは哲学的で困るなーですかね?

2011年9月6日火曜日

杉浦醫院四方山話―75 『郡中十錦(ぐんちゅうじっきん)』

 純子さんから「お暇な時で結構ですから、(ぐんちゅうじっきん)について、調べていただけますか」と丁寧な声掛けをいただきました。「陶器」を持参いただきながらですから、焼き物に関する言葉だろうと予想はつきましたが、(ぐんちゅうじっきん)は初耳で、どんな漢字表記なのかも分かりませんでした。
 「八百竹さんに視ていただいた時、これは、(ぐんちゅうじっきん)だとおっしゃって、こう書いてくれました」と陶器の中から「郡中十錦」と書かれた紙片を見せてくれました。「十錦でじっきんと読むんですね」「その時、八百竹さんが詳しく説明してくださったと思うのですが、忘れてしまい申し訳ありません」「これは、鉢ですか?これが郡中十錦というお宝なんですね」「こんな田舎家にあるものですからたいしたものじゃないと思いますが・・・箱に揃いで五つありますから、どう云うモノなのか?」ということで、さっそく「郡中十錦」について調べ学習しました。
 関西より西の萩焼や備前焼は、比較的知られていますが、四国愛媛県には、砥部(とべ)焼があります。この砥部焼きはその名の通り、愛媛県伊予郡砥部町で、200年以上もの歴史をもつ伝統陶芸です。白磁に透き通った藍で絵付けされ、厚く頑固な実用的作品が一般によく見る砥部焼きで、讃岐うどんの器としてもこの砥部焼はよく用いられています。
 「伊予鉄道郡中線」という鉄道マニアでなければ知らない鉄道路線が、愛媛県には現在もあり、郡中港という港もありますから、「郡中十錦」の「郡中」は、砥部焼の地元伊予郡にある郡中という地名です。幕末から明治初年にかけて、伊予市郡中の小谷屋友九郎という作陶家が、清朝磁器を模して、砥部焼の素地に上絵付けを施したやきものを作り始めたそうです。友九郎が模したという中国清朝のやきものは、赤、緑、黄色などの釉薬を掛けた「十錦手」と呼ばれる焼き物で、「十錦手」とは中国清時代に流行した「多くの色を使用し塗り埋め方式で装飾」した焼き物の総称だそうです。
「九谷焼」に代表されるカラフルな磁器がもてはやされ江戸時代、この「十錦手」を日本で最初に模したのは、伊万里焼きで、江戸の富裕層に流行したことから、砥部焼にも友九郎がとり入れ、砥部焼と一線を画して「郡中十錦」と命名し、伊豫稲荷神社に奉納したことから「郡中十錦」は、砥部焼との差別化に成功し、現在では、美術館や博物館でしか観ることが出来ない貴重な陶芸作品となっています。確かに、砥部焼とは、まったく違う色鮮やかな「郡中十錦」は、模した中国の十錦手を上回る出来ばえと云われ、濃青、エメラルド、黄緑、赤など鮮やかな色彩が高い評価となっています。「横浜から嫁いだ祖母が持ってきたものだと思います」

2011年9月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―74 『べっ甲』

 甲府市は、水晶細工の技術を伝統的に蓄積し、「水晶の町・甲府」として、駅前ロータリーにも水晶の噴水をシンボル的に設置していました。昭和61年の駅前整備でこの噴水は姿を消し、現在ある信玄の座像に変わり、「水晶の町・甲府」より「信玄のお膝元・甲府」といった感じで、水晶の影が薄くなったように思いますが、如何でしょう。甲府の水晶細工のようにべっ甲細工を伝統工芸、地場産業としてきた都市は、九州の長崎市です。
 「べっ甲」と聞いてもピンとこない若い世代も多くなりましたが、べっ甲は、玳瑁(タイマイ)と言う、南方の海やカリブ海、インド洋などに生息している海亀の一種で、そのタイマイの甲羅や爪、腹甲を加工して作ったものを「べっ甲細工」と呼び、古くから長崎で生産されていました。平成5年のワシントン条約でタイマイの輸入が禁止され、べっ甲産業も衰退の道をたどっているという現状は、甲府の水晶と重なります。そんなことからべっ甲細工は、年寄り趣味と言うイメージが強く、若者にはギターなど楽器のピックとしてのべっ甲といった程度の認識が一般的だそうです。材料が貴重で、限られている上に今も職人の技に頼る量産できないべっ甲製品は、高価なことから、若者には手が出せないという現実もあるようです。
 健造先生が愛用していたべっ甲のステッキも展示コーナーにありますが、純子さんが、「祖母や母が使っていたものですが・・・」と和紙で包まれたべっ甲細工の数々を持参してくれました。この全てが、べっ甲の「髪留め」「くし」「かんざし」で、日本髪に欠かせない実用の具ですが、職人の手で1本1本たくさんの工程を経て作られた製品は、色褪せするどころか、素材の色合いを活かしたシンプルなデザインに細工が施された見事な工芸品、美術品としての気品を醸しています。

2011年8月31日水曜日

杉浦醫院四方山話―73 『病と差別-2』

 かつての日本では、「家の畳の上で死」は、日常生活の一部でしたし、日本住血吸虫から回虫・蟯虫まで、ほとんどの日本人は体内で寄生虫を、毛髪でもシラミを養い、ノミが飛び交う風景も日常的でした。無菌志向社会は、これらを一掃し、疾病も世俗から排除し、死もまた日常生活から隠蔽されてきました。しかし、そうした一見クリーンで快適な生活は、年間3万人を超すとい自殺者数が減らないように、見方を変えれば、〈癒し〉が忘れられ、〈癒し〉への回路が絶たれた世界とも言えます。戦争は、戦力外の人間を排除しましたから、「病人や病気の差別の温床は、戦争だ」は世界史の定説ですが、徴兵を忌避したい者にとって〈病い〉こそが〈癒し〉だったという証言は、〈病い〉も有効な〈癒し〉であることを物語っています。極端な清潔社会と無菌志向が、「バイ菌」「クサい」などと云った新たな「いじめ」や「差別」を生んでいる日本社会ですが、世界の三大病「マラリア」「フィラリア」「日本住血吸虫症」は、かつての日本よりもっと深刻な日常生活の地域で占められています。
 健造・三郎父子が治療・研究に生涯をかけた「地方病=日本住血吸虫症」をとりまく、県内での「病気差別」は、どうだったのでしょうか?1978年に山梨地方病撲滅協力会が企画し、東京文映が製作した16ミリ映画「地方病との闘い」は、県内で歌われてきたこんな悲しい歌詞の民謡で始まります。 ≪嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲む辛さよ≫  ≪竜地、団子へ嫁行くなら棺桶背負って行け≫  ≪中の割に嫁行くなら、買ってやるぞえ経かたびらに棺桶≫
「地方病との闘い」1部・2部合わせて46分の映像は、当H・Pのリンクにバナーのある「科学映像館」の「医学・医療 カテゴリー」で、無料配信されていますので、この民謡と映像も確認できます。
結核と斗う(1956年)
人類の名のもとに(1959年)
地方病との斗い 第一部(1978年)
地方病との斗い 第二部(1978年)
日本住血吸虫(1978年)
昭和町風土伝承館 杉浦医院(2010年)
 
要は、「地方病が流行っている地域に嫁に行くな。行くなら、棺桶背負っていけ」という民謡が、実地名を挙げて歌われていたということは、患者が特定の地域に集中していたことから、罹患者のない地域の人からの「娘を嫁に出して、地方病にさせたくない」といった親心の本音が歌になったもので、やはり一つの地域蔑視、地域差別と云えましょう。同時に有病地域でも歌われていたという背景には、地方病は日常化し、〈癒し〉としての側面を感じるのですが・・・純子さんも「地方病の患者さんが病名を隠したり、家族から隔離されたりと云った話は聞きませんでしたね。患者さんも俺は地方病だと威張っている方もいた位ですから」と云うように「昭和へ嫁に行くなら水杯で・・・」と云われていたという話も聞きますが、子どもから高齢者まで、家族に一人は、地方病と云う罹患率でしたから、町内では、特に「地方病の差別」は感じなかったというのが、一般的です。患者数が多ければ差別しきれないといった一面もあったのでしょうが、「篤農家がかかる病気」として「働き者の証し」でもあったことなど、罹患者のない地域の人は有病地を恐れても当事者には、日常の一つとして受け止められていたようです。同時に、人は困難な<状況>や<病い>に立ち向かうことが、目標や生きがいになることもあり、そういう意味でも「病い」と「癒し」は、表裏一体の一面もあると言えましょう。

杉浦醫院四方山話―72 『病と差別-1』

 先日、埼玉県熊谷市から熊谷市人権教育推進協議会の委員と教育委員会事務局職員計40名が、春日居郷土資料館と当館に来館されました。この研修会担当の福島静枝委員は、事前に資料づくりの為、ご主人共々来館され、「人権教育(主に同和教育)」の課題や熊谷市での現状など貴重なお話を聞かせていただきました。「人権教育」に資する研修と云うことで、研修先も選定されたということから、「地方病と差別」について、私もあらためて資料を作っておく必要に思い至りました。
 
 春日居町郷土資料館には、特別展示室として「小川正子記念館」があります。肺結核を罹って43歳で亡くなった正子の遺品は、多くが焼却処分されたため、展示品は、年譜や胸像、短歌などに限られています。死因が「結核」であると、衣服や日用品まで遺品は死後、焼却するよう命じられていたことも「病」に対する偏見や差別を増幅させた結果にもなったことでしょう。「人権教育」同様、「病気差別」も困難な問題を抱えて現在に至っていることを小川正子記念館は、ある意味象徴しています。
 春日居町で生まれた小川正子は、甲府高女を卒業後、東京女子医大に進み医者となり、昭和7年に希望してハンセン病(らい病)施設「長島愛生園」に勤務しました。そこでのハンセン病患者の治療と在宅患者の施設収容に傾注した実体験を『小島の春』と題して出版しました。この作品は、文学的にも高く評価され、ベストセラーとなり「小島の春現象」という社会現象にまでなり、小川正子は、ハンセン病のナイチンゲールとして脚光を浴びました。しかし、同時に映画化もされた『小島の春』は、ハンセン病は怖い病気だという意識を国民に印象付け、患者は隔離すべきという国策に協力する作品との批判も起こり、小川正子は、「無らい県運動 -Wikipedia」に加担した医師という評価も挙がりました。
 1996年(平成8年)4月1日施行の「らい予防法の廃止に関する法律」で、「らい予防法」は廃止され、ハンセン病患者は、一般の病院や診療所で健康保険で診療できるようになり、長く続いた患者の隔離政策の誤りを国が認め、謝罪に転じた訳ですが、小川正子記念館には、その辺の公開質問状や評価を巡る抗議などもある旨、前館長末利光氏が語っていました。            
 死亡原因や患者数で、日本の三大病とか世界の三大病という区分けがあります。 現在の日本では、「ガン」、「心臓病」、「脳卒中」と云ういわゆる成人病で占められていますが、病名を隠すこともなく、特段の差別云々は聞きません。あえて言えば、これらの元凶は「全てタバコ」とされ、喫煙者が差別されていると私は思うのですが・・・死亡原因や患者数の多い病気は、身近に必ず一人や二人患者もいて免疫や慣れがあることが大きいのでしょうが、多すぎて「差別しきれない」から「差別がない」のでは?とも思えてきます。

2011年8月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―71 『うちわ-2』

 杉浦家には、歴史的なうちわも数多く保存されています。全く未使用の「東京日本橋團扇榛原直次郎」と記された袋入りのうちわは、同じ作家の異なる絵柄で3本あります。この会社は江戸時代に創業し、ウィーン万国博覧会(1873年)、パリ万国博覧会(1878年)に日本で初めて和紙を出品し、現在も株式会社榛原として続いている和紙を扱う老舗です。ヨーロッパに渡った榛原製の和紙は、イギリスのビクトリア・アルバート美術館、グラスゴー美術館、フランスのパリ装飾美術館などに、現在も保存されているそうです。こういった美術工芸作品のうちわから岡島呉服店や柳町梅林堂等々のうちわまで、実物をご覧いただくのが一番ですから、「杉浦家うちわ展」の検討が必要ですが、今日は、杉浦家に全て揃っている「日本3大うちわ」について講釈してみます。「日本3大うちは」とは、うちわの3大生産地でもあります。


 左の写真は、「房州うちわ」と呼ばれる千葉県南房総市、館山市にかけての特産うちわです。この地方に古くから自生する女竹という細い篠竹を原料に作ることから、細く割いた骨と一体となった丸い柄が特徴です。実際手に持つと細い骨のせいもあり軽く感じ、丸い柄は優雅でもあり、女性向きと云った印象です。 
                           
 骨と柄が一体で、柄の部分が平らなうちわは「丸亀うちわ」で、香川県丸亀市とその周辺地域で作られています。丸亀うちわは平たく削った男竹と呼ばれる真竹が材料ですから、柄も太く男性向きの感もします。街頭などで無料配布される骨も柄もプラスチック製の現代うちわは、この丸亀うちわの形状が主流でしょう。

 京都市一帯でつくられる「京うちわ」は、別名「みやこうちわ」とも呼ばれ、細い竹ひごに紙を張った骨部分と柄は別々で、柄をさし込んでいるのが特徴です。浴衣の帯に差し込みやすいように長い柄のものなど骨と柄が一体でない利点を生かした種類の多さと涼をとる実用品としてのうちわから鑑賞用のものまで、バリエーションに富んでいるのも特徴です。

 京うちわに限らず、うちわの価値や値段は、骨部分の細い竹ひごの本数で決まるようです。手元にあるプラスチック製の現代うちわのプラスチック骨は27本ですが、岡島呉服店のうちわは67本、日本橋團扇榛原のうちわは88本の骨があります。百万円という京うちわは、100立てと云われる100本以上の細い竹ひごに両面から高級和紙を貼り、有名画家の手描き絵にサインと落款も配され、額のような「うちわたて」とセットですから、観て涼しむ「うちわ」という名の立派な美術工芸品です。

杉浦醫院四方山話―70 『うちわ-1』

 「うちわの風もやさしくていいですね」と純子さんが「こんな古いものですが、手放せません」と杉浦家で愛用してきた「うちわ」と「うちわ置き」を持参してくれました。
「これは、望仙閣のうちわで、こちらが開峡楼のうちわだと思います」と<望仙閣(ぼうせんかく)><開峡楼(かいこうろう)>と云った今はなき甲府の老舗料亭の思い出も話してくれました。
 昭和20年7月の甲府空襲で、甲府市中心部は全焼し、城下町甲府の面影を残す歴史的建造物も大部分焼失し、その建物で営業していた数多くの料亭や旅館、温泉などは、廃業もしくは転業を余儀なくされ、戦後も既に60年以上を経過した現在、<望仙閣(ぼうせんかく)><開峡楼(かいこうろう)>の名前も知る人の方が少なくなってしまいました。同じように、再開された<甲府桜座>がある桜町から相生町、錦町一帯にかけては、料亭<三省楼>や<海洲温泉>があり、敷地300坪、本館総建坪80坪の集会場<舞鶴館>や戦後も甲府松菱として営業していた<松林軒百貨店>、温泉旅館<東洋館>など消えてしまったかつての甲府の象徴的な建物と老舗は、枚挙にいとまありません。
 その辺の古い資料を丹念に収集し、現在地とも対照しながら 山梨県に関わる興味深い近代史のあれこれを残す作業を継続している「峡陽文庫」のホームページは貴重です。当H・Pのリンクにもバナーがありますので、是非一度ご覧ください。
峡陽文庫にあるかつての甲府中心街の写真や資料を観るにつけ、戦争とはいえ甲府市内の建造物が焼きつくされた損失の大きさは、はかり知れません。それは、現在の松本市が松本城と歴史的建造物を活かしながら城下町として、品格ある街並みを形成し、魅力と活力のある地方都市として定着している現実が、甲府市の現状と対照的であることにも因ります。
 純子さんが、現在も愛用している「うちわ」と「うちわ置き」は、ご覧のとおりです。両老舗料亭のうちわが納まっているうちわ置きは、民芸品の域を超えた美術工芸品の趣があります。「祖母の代から使っていたそうですから、明治のものだと思います」という竹を編んだ見事な意匠のうちわ置きは、これだけでも一つの作品ですが、そこに白を基調にしたさりげない形とデザインのうちわが納まると風を通す網目も涼しげで何とも言えない風情が漂い、「日本の夏」と「日本人の感性」にあらためて思い至ります。

2011年8月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―69 『杉浦家8月のお軸』

 8月は、盆に合わせての掛け軸掛け替えが杉浦家の習慣で、8月初旬から、座敷の床の間には岸浪柳渓作の観音像のお軸が盆の近いことを告げます。岸浪柳渓は、日本画特に南宗画の大家として知られ、明治から大正期に活躍した画家です。南宗画は、南画とも呼ばれ中国絵画を起源として江戸時代以降、日本で独自の様式を追求した新興の画派として現在に至っています。与謝蕪村の山水画が有名ですが、水墨による柔らかい描線と自然な感興が特色で、岸浪柳渓の観音像もふくよかで静かな佇まいが醸しだされています。
 盆の入りを前に座敷には盆飾りが用意されます。ご近所の純子さんの同級生SさんやNさんなど恒例のメンバーが3段飾りを組み立て、床の間の観音像は、曼荼羅に換わります。この杉浦家の曼荼羅は、昭和5年に健造先生が新たに設えたもので、純子さんの話では「当時の遠光寺の住職さんが書いたものだと聞いています」という大きな書曼荼羅です。「物心ついた時からお盆の曼荼羅は、これでしたが、その前の曼荼羅は怖い絵の入ったもので、2階にあると思いますから今度探しておきます」と。
盆送りと共に床の間は、茶軸に掛け替わります。純子さんが「これは、山梨の塩山あたりで詠んだ歌だと聞いています」と云うとおり「しほの山さしでの磯に住む千鳥君が御代をば八千代にとぞ鳴く」と詠まれた古今集の賀歌の書です。この「しほの山」は甲州市の「塩山」で、「さしでの磯」は山梨市にある「差出の磯」という説もありますが、真偽は不明というのが定説のようです。「さしでの磯に住む千鳥」に合わせ近隣の池も「ちどり湖」と命名したようですが、「山梨の塩山あたりを詠んだ歌」と見事に一致するのは、ロマンとしては上等だと思います。このように、8月は盆の曼荼羅を含めて杉浦家のお軸は3幅が入れ替わり、手を抜くことなく行われているご先祖様の供養を実感しました。

2011年8月9日火曜日

杉浦醫院四方山話―68 『幻の競馬場』

 杉浦三郎先生には、純子さん達3姉妹と末っ子の長男健一さんの4人のお子さんがいました。健一さんは、定年まで自衛隊中央病院の勤務医として、三島由紀夫の割腹自殺や御巣鷹山での日航機墜落事故の際、自衛隊のヘリで次々運び込まれた乗客を医長として迎え、厳しくつらい思いをしたそうです。退職後、千葉の病院長に招聘され、現役院長で亡くなり、杉浦医院は9代目三郎先生で閉院となりました。        
純子さんから近くにあった競馬場と健一さんの話を聞きました。「健一が、3,4歳の頃、住み込みの運転手さんが、健一を自転車に乗せて、よく競馬場に行っていました。」「運転手さんは、健一に競馬場に行ったことは内緒にするよう言いきかせたようですが、夕飯の時など健一が、お馬パッカパカ、お馬パッカパカと競馬場での馬と騎手のマネをするので、今日行ったのは競馬場だと直ぐ分かりました。三つや四つの子に口止めしてもお馬パッカパカで直ぐバレますよね」と。 
この運転手さんが、健一さんを連れて通った?競馬場は、玉幡飛行場の前身で、昭和3年に中巨摩郡畜産組合の管轄のもと開設された「甲府競馬場」です。昭和8年に運営が山梨県競馬会に移管され、昭和12年まで年2回開催の地方競馬場でしたが、昭和13年に山梨愛国飛行場(玉幡飛行場)の拡張で、競馬場用地は買収され、一度消滅しました。
昭和6年生まれの健一さんが3,4歳の頃は昭和10年前後ですから、甲府競馬場の全盛期でしょうし、開催も年2回では、これを楽しみにしていた運転手さんの気持ちも分かります。終戦で飛行場が閉鎖された昭和21年に地方競馬法が公布されたことから、再度「玉幡競馬場」として施行許可を受けましたが、甲府空襲で伊勢校舎が全焼した山梨県立農林学校(後の県立農林高等学校)の移転先になり、競馬は開催されることなくそのまま廃止となった「幻の競馬場」です。また、現在「廃棄道」呼ばれている道路は、当時、通称「ボロ電」と呼ばれた路面電車が走っていました。
甲府駅前から市内中心部を抜け、荒川橋で荒川を越え、増穂町の甲斐青柳駅までの約20kmを約55分で走り、30分間隔で運行していたことから、最盛期には年間に2、300万の利用客があったそうです。ボロ電は、甲府競馬開催期間中は「玉幡仮停留場」という臨時駅を開設し、後に「競馬場前」名で正式駅となりました。この駅名も競馬場が飛行場に替わると「飛行場前」となり、軍施設が明らかになる駅名は回避せよの令で「釜無川」駅となり、昭和26年に「農林高校前」と改称され、路線が廃止になる昭和37年まで高校生の足となっていました。

2011年8月7日日曜日

杉浦醫院四方山話―67 『飛行機格納庫』

 このブログで以前にもご紹介した木喰上人研究家の丸山太一氏から、先日、電話をいただきました。「杉浦さんの関係で、大事な話をし忘れていました。甲府空襲はご存知ですね?」「はい、20年7月7日の七夕空襲ですね」「そうです。その空襲で甲府の中心地は全焼し、私の家も丸焼けになりました。終戦になって直ぐ、三郎先生から杉浦さんの敷地にあった陸軍の飛行機格納庫をいただいたんです」「檜の材質でしっかりしたものでしたから、中を改造して10年住みました」「戦後の物資のない時代、どこもトタンやあり合わせの木材で雨露をしのぐバラック建てでしたから、格納庫とはいえ陸軍の物でしたから、太い柱や梁で、本当に助かりました」「玉幡飛行場が近い杉浦さんの敷地は、広くて大きな木に覆われていましたから陸軍が目を付けたのでしょう」「父の文造は健造先生に、私は三郎先生に・・杉浦さんには代々お世話になました」と。「純子さんは、うちは丸山さんにお世話になって・・とよく話してくれますが」「私の妹も私と東芝に同期に入社した東大の浜野君と縁あって結婚しましたが、三郎先生に仲人をしていただきました」「純子さんの弟さんの健一さんの結婚式にも呼んでいただきましたが、亡くなられて本当に残念です」「涼しくなって、出歩けるようになったら一度伺いますので、くれぐれもよろしくお伝えください」と要件を的確に綺麗な言葉で伝える94歳の丸山氏の電話に、ただただ「はい、はい」が精一杯といった「格の違い」が際立ちました。
株)北川組が陸軍各務原航空隊に
大正9年に施工した格納庫(現存)
玉幡飛行場は、現在の農林高校や警察学校、釜無工業団地の一帯にあった「幻の飛行場」ですが、旧玉幡村にあったことから「玉幡飛行場」の名称が一般的ですが、正式には「愛国山梨飛行場」として、1936年に完成した飛行士を養成する民間飛行場でした。健造先生、三郎先生は、西条村のみならず玉幡村や竜王村の村医や学校医に選任されていましたし、杉浦家の田畑は、両村にも広がっていましたから、泣く子も黙る陸軍が、後に、玉幡飛行場を軍民共用飛行場にして、周辺民間人の敷地に格納庫を建設しても不思議ではありません。純子さんも「現在のアルプス通りの辺に大きな建物がありました。裏のマンションより大きかったように思います」「丸山さんにお譲りしたという話は初めて知りました」と。名古屋にある(株)北川組のH・Pに大正から昭和初期にかけて、北川組が施工し現存している格納庫の写真があります。飛行機を入れる建物ですからご覧のように全て大きなものです。写真転載を快諾いただいた上に格納庫や戦争遺産について、会長さんから丁寧に教えていただきました。