2011年9月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―77 『清韻亭(せいいんてい)』

杉浦家母屋の座敷南側の障子の上の壁には写真の額が、純子さんが物心ついた時からあったそうです。 文豪谷崎潤一郎が、代表作「細雪」を執筆したのは神戸の「倚松庵」、その後湯河原に新築した住まいを「湘碧山房」と名付けたり、永井荷風の日記文学「断腸亭日乗」は、文字通り「断腸亭」での日常が書かれています。このように文人や茶人は、自分の住まいや別荘、茶室に「○○亭」「××房」「△△庵」等の名前を付けていました。
現代では、小ジャレタ飲み屋や料理屋が、こぞって付けている感もしますが、特別小ジャレテいなくても長坂町大八田には、うどん屋「長八房」もありますが・・・
この額が杉浦家の母屋座敷に昔からあったのは、この住まい、もしくは座敷を「清韻亭」と命名していたからでしょう。この「清韻」は、8代目健造先生の祖父、6代目杉浦大輔氏の「号」でもあります。昭和4年に杉浦医院を新築された健造先生は、同時に医院正面の庭に「清韻先生寿碑」も建立しました。
「杉浦健造先生頌徳誌」によると、大輔氏は、「5代目道輔氏の生存中に医業を継ぎたるも早世し、慶応3年正月父に先んして没す」とあり、7代目は、大輔氏の末弟嘉七郎氏が継ぎました。8代目の健造先生は、大輔氏の二男ですから、正確には大輔氏は健造氏の父でありますが、7代目がいることから、「祖父」としているようです。 
    
早世した大輔氏は、医業と共に書画にも秀で、歌を詠む文人で、清韻という号で、作品を残しています。健造先生は、早世した父大輔氏の文人としての業績を後世に伝えるべく、明治中頃に建てた母屋を「清韻亭」と命名し、「清韻先生寿碑」も建立したのでしょう。杉浦家には、清韻先生の書画も掛け軸で保存され、季節の合間のお軸として床の間に飾られます。台風で雨続きの先週、「清韻のお軸をつなぎにお願いします」と替えましたが、秋風が爽やかな今朝、「今日、清韻から養老の滝のお軸に変えたいのですが・・」と、純子さんのお軸の交換は、機会的に月ごとではなく、湿度や陽射しなど純子さんの感性がとらえた「季節」を基本にしています。