2012年12月28日金曜日

杉浦醫院四方山話―207 『改修工事の「土蔵」完成』

今年最後の四方山話は、杉浦家の土蔵改修工事が完成し、来春早々から活用可能になると云う嬉しい報告です。写真のように大変手間のかかった漆喰の白壁も輝き、屋根も瓦と土を全てはがして野地板を張替え、又土を盛り瓦を葺いて蘇りました。並行して進められた室内外の木工事も耐震基準に合うよう補強され、左の扉の1、2階は、土蔵ギャラリーとして、ご覧のようにフローリングの床に補強壁が入り、掛け軸など長さのある作品を展示するときには外せる着脱可能な2段の展示台が設けられました。
 また、右の扉の1、2階は、8畳の和室でしたが、当四方山話―203『床框(とこかまち)』 でも紹介しましたが、下記写真のように新たに床の間付きの和室になりました。   
 こんな雰囲気の中で、お茶会や読み聞かせ会、語り部による昔話会、朗読会などから歌留多、百人一首などの伝統遊び等の催し物や和服や茶道具などの展示に活用予定です。また、厚い土壁は、琴や尺八、三味線と云った邦楽の練習会場としても最適な防音環境です。照明器具の変更等若干の手直しがありますが、来春には土蔵のお披露目と共にこれまで当ブログでもご紹介してきました書画骨董をはじめとする「杉浦コレクション」の第一弾を先ずは展示公開していく予定です。
 同時に町民の皆様からご寄贈いただいた農具や民具も季節に合わせて随時、展示公開できるよう図っていきます。最後になりましたが、この一年、当館および当四方山話にお寄せいただいたご支援ご協力に深謝いたし、来年も引き続きよろしくお願いいたします。

2012年12月22日土曜日

杉浦醫院四方山話―206 『フットパス昭和楽校だより-1』

 来年度、山梨県内の市町村を会場に「国民文化祭」が開催されることから、流行りの何でも「ゆるキャラ」はどうかと思いますが、「カルチャー君」なるかぶり物も見かける機会が多くなりました。昭和町では、「子ども太鼓フェスティバル」が予定され、その準備も進んでいるようです。
 通年開催を謳う「山梨国民文化祭」ですから、一年中どこかで関連行事が組まれ開催する訳ですが、その一つの柱になるのが「やまなしフットパス」で、県下全市町村にまち歩き案内人を置いて、毎月1回定期的に「フットパス」を開催していこうと云うものです。
 昭和町のまち歩き案内人も主宰するNPOつなぐが公募してきましたが、なかなか手を挙げてくれる町民がいなかったのですが、「私も越して来て町のことをよく知らないから、この際、案内人をして町のことを勉強してみようと思って」と云う若い女性が現れ、一気に計画が進み出しました。上記写真のように「やまなしフットパスだより」も発刊されますので、昭和町版の「フットパス昭和楽校だより」も随時、四方山話の中でお知らせしていきます。
 この昭和の女性グループ「森さんチーム」は、自分たちが楽しめる企画を出し合って、先ず自分たちが楽しめなければ・・と云った愉快なやる気に満ちているのが売りであり特徴です。既に、「hako テキスタイル」プロジェクトなる企画も具体化して、富士吉田の地場産業の甲斐絹を使ってカラフルで高貴な手作り箱も試作したとか・・・写真のように思わず欲しくなるhakoですが、これも参加者は手にとって見ることもできる特典付きですが、下記ご検討のうえお申し込み下さい。

「フットパス昭和楽校」入校案内
 一年間、昭和町内をくまなく歩いて、昭和町の新たな発見と昭和の歴史を学びながら健康増進を図ろうと云う楽しい学校です。講師の説明を聴きながらと云うより、参加者が知っていることを出し合ったり、出くわした疑問には詳しい参加者が講師になって…と云った感じのみんなで創り上げていく学校です。スタートの1月は、14日(月)の成人の日に開催します。「今日は皆、20歳気分で、正月太り解消!」と、昭和町の象徴「源氏ホタル」コースを歩きます。参加申し込みは、町内外問いませんので、詳細等フットパス昭和楽校275-0151(森)または当館275-1400までどうぞ。

2012年12月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―205 『十一屋コレクションの名品』

 今日から来春にかけて、山梨県立美術館で「十一屋コレクションの名品」特別展が開催されます。当四方山話―60『十一屋酒造・野口忠蔵』でも紹介しましたが、十一屋は、野口忠蔵氏が、江戸中期に志のある同士11人と故郷・近江(滋賀県)と風土が似ていて江戸にも近く交通の便の良い甲州街道柳町宿に造り酒屋を興し、11人の志を記念して「十一屋酒造」と命名した甲府の地酒「君が代」の蔵元でした。代々の当主が文人であったことも著名ですが、幕末から明治期の当主、正忠(号柿邨)は、滋賀県議会議長も勤めた名士で、漢学者の頼山陽や画家の日根対山、富岡鉄斎ら多くの文人たちと交流した文化人で、江戸絵画の収集にも努め、十一屋コレクションを形成していったそうです。その子・正章は、国産のビール醸造を手掛けた人物としても知られた文人で、妻は、女性南画家の野口小蘋(しょうひん)です。
 山梨県立美術館は、開館以来、十一屋・野口家から鉄斎や小蘋など多数の作品寄託を受け、今回、それら以外の絵画や書蹟の一括寄託を受けるにあたり「特別展」を開催することになったそうですから、十一屋・野口家のコレクションの大部分は、山梨県立美術館に収蔵されることになった記念展でもあるようです。
 当館土蔵改修工事の年内終了も見えてきましたので、耐震構造も備わった建物の披露と合わせて「杉浦コレクション展―1」を来春開催いたします。杉浦純子さんから町に寄託されている杉浦コレクションを展示公開していけるよう土蔵のギャラリー化を図って、活用していく計画です。これまで当ブログで、写真で紹介してきた杉浦家の書画骨董や着物等々から風呂敷や手ぬぐい、履物などの生活品までをご覧いただけるよう図っていきます。
 県立美術館に一括寄託される「十一屋コレクション」もそうですが、個人コレクションが、最終的に美術館や資料館に寄託され、公開しながら永久保存されるケースは、洋の東西を問わず大きな流れとして定着しています。県内の事例では、所有権を争って四散してしまった丸畑四国堂の木喰上人微笑仏とその教訓が活かされない木喰仏の現状は、研究家・丸山太一氏が、最も胸を痛めているコトでもあります。
 杉浦家が、お譲りしてきた杉浦コレクションも多く、純子さんの明晰な記憶で、行き先もほぼ県内に集中しているようです。充実した杉浦コレクション展には、期間中の里帰り展示のご協力も欠かせません。現所有者に依頼して、杉浦コレクションのより正確なリスト作成と合わせた展示公開で、十一屋と杉浦家、両コレクションを楽しめるよう努めます。

2012年12月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―204 『増穂町の歴史風土と日本酒』

 前話の「冨水」秋山酒造について、正確を期す為、笹本社長に尋ねると「それなら、俺よりオカッサンの方が詳しいから会社に電話して」と云うので、オカッサンの笹本夫人は、事務局をしていた婦人会の役員としてご活躍いただいた方なので、早速電話してみました。
「秋山酒造とウチは親類なので、あのオッサンと結婚するまで、私は冨水を造っていたの」と・・・「冨水の杜氏も新潟からでしたか?」「違う。信州長野から。眞澄って酒知ってる?」「はい。諏訪の宮坂醸造の」「そう。あの頃、眞澄は、冨水を桶買いしていたんだよ。三増酒だよね」と、専門用語で内部情報まで。「青柳には、目と鼻の先に冨水と春鶯囀があった訳ですね?」「そう、ウチは両方とも親戚だけど・・他にも不知火(しらぬい)を造っていた土屋酒造もあった」「確か大久保酒造っていうのもありましたよね」「あそこは、梅が枝ね。まだ在るんじゃない」と、急な電話にもかかわらず、私が知っていた情報も正確にポンポン出てくる気風の良さに「流石、青柳小町と云われただけのことはありますね」と余計な個人情報まで口にしてしまいましたが、お陰で、増穂町には、かつて少なくとも4軒の造り酒屋があったことが分かりました。
 現在は、合併して富士川町になりましたが、旧鰍沢町と増穂町は、甲府盆地の南端で、富士川流域にあたる河内地方への入口の町でもあり、100隻の舟を有した鰍沢河岸と84隻の舟を有していた青柳河岸は、甲州と信州から集められた年貢米や廻米を富士川で下り駿河から海運で江戸に運び、帰りの舟で、駿河から塩や海産物を積んで川を上り、甲府や信州へ運んだ富士川舟運の港町でした。さらに増穂町青柳は、甲府城下へ至る駿州往還=甲府路と信州方面へ至る駿信往還=信州路の追分け宿として発展した陸路でも要の地だったことから、後に、ボロ電と呼ばれた路面電車も青柳と甲府を結んでいたのでしょう。米が集まり、南アルプスの伏流水が湧き、人が往来する風土に酒が生まれたのでしょう。
 旧秋山銀行の秋山家住宅は、築120年の古民家として、現在、商店街コミュニティ施設として活用され、裏にはギャラリー「蔵」もあります。(写真上)その裏にある「あおやぎ宿活性館」は、往時の富士川舟運の荷積み倉庫として使われていた建物です。(写真下)
 山梨の地酒を代表する増穂町青柳・萬屋酒造店の「春鶯囀」(しゅんのうてん)は、与謝野晶子が泊まりに来た折詠んだ歌、「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒(みき)春鶯囀のかもさるゝ蔵」からだそうですから、日本民族の酒・日本酒は、地理や風土から日本史や日本文化も一体で味わえる奥深さがありますから、もっともっと見直され愛飲されて然るべきでしょうが、「桶買い」「三増酒」の暗い過去が、同病相哀れむの暗い人間にしか向かないのでしょうか。

2012年12月9日日曜日

杉浦醫院四方山話―203 『床框(とこかまち)』

 土蔵の改修工事が進み、全体の概容が見えてくると完成後の活用方法も具体的になってきます。すると当初の図面での設計計画に変更や追加をお願いしたくなり、毎週水曜日に行われる工程会議で、毎回のように薬袋建築士と笹本社長に無理をお願いしてきました。
 その一つが、一階和室への床の間設置です。改修前の状態に復元するのが基本設計ですが、耐震基準をクリアする為の改修でもありますから、北側から南に向けて新たに補強壁が入りました。畳八枚のシンプルな和室でしたが、補強壁が入ったことで二畳分が分かれた構造になりました。「清韻亭茶会」の計画中でもあったことから、折角の和室復元なので、お茶会にも使えると…と云った話もあり、補強壁を活かして「床の間を」と提案しました。
 限られた予算の工事ですから、新たな追加は厳しいことは承知していますが、薬袋建築士も笹本社長も真摯に聞いて、対応してくれるので助かります。
 結果、ご覧のような床の間が付くことになりました。床の間にわたす化粧横木を「床かまち」と云うそうですが、この床かまちは、欅の無垢材で、現在は、傷つけないようにシートで保護されていますが、完成した暁には詳細写真で報告いたします。
「床柱やまく板も見劣りしない木でないと」と、木への笹本社長のこだわりは高く、立派な床の間になりそうです。この欅の床かまちには、私には面白い「物語」が内包されていましたので、ご紹介します。
 
 笹本社長夫妻は増穂町青柳の出身で、増穂の地酒「春鶯囀」の萬屋酒造店とも親戚だそうですが、青柳には、知る人ぞ知る日本の名酒『冨水』がありました。醸造元の秋山酒造は、秋山銀行を開いた秋山源兵衛の分家で、創業は大正3年(1914)です。創業以来、防腐剤を使用しない日本酒造りの技術を開発し、現在では当たり前になった防腐剤・サリチル酸無使用日本酒の元祖でもあります。この蔵元の長男は、岩波新書『日本酒』の著書でも著名な前国税庁醸造試験所長の秋山裕一農学博士です。博士は、泡無し酵母の実用化など画期的な醸造技術を開発した醸造業界のカリスマ的存在で、泡無し酵母の『富水』を10年の歳月を要して商品化しました。この『富水制天下』(冨水天下を制す)と命名された純米酒は、1979年6月に開催された「東京サミット」で、乾杯に使われた日本酒としてあまりにも有名ですが、残念なことに現在は酒造業は廃業し、当時の工場や家屋も取り壊されています。秋山家とも親戚だった縁で笹本社長に引き取られた秋山家の「床かまち」が、今回、杉浦家土蔵に新設された床の間に鎮座したと云う訳です。これは、笹本社長が温めてきた特別な銘木が「所」を得て、材木的価値のみならず、富水や秋山博士と共に「甲州日本酒物語」としても語り継いでいける資料的、歴史的価値もある床框ということで、うれしい限りです。

2012年12月8日土曜日

杉浦醫院四方山話―202 『一升瓶』

 土蔵の改修工事も順調に進んでいますが、階段下にあった隠し倉庫?の床下から一升瓶等のビン類が出てきました。現在よく目にする瓶とは若干違った形で、全て青系の半透明な瓶です。「もう珍しいこんな色の瓶は、捨てるには惜しいと思うから、お茶会の参加者で欲しい人がいたら持って行ってもらったら」と工事関係者も気を使ってくれましたが・・・ご覧のとおり全て残っています。

 土蔵の和室は、住み込みで働いていた男性の住居だったそうですから、瓶の形やキャップから一升瓶とワインボトルだったのではないでしょうか。勝手に推測すれば、部屋に戻った彼の一日の閉めはアルコールだったのでしょう。しっかり飲んでぐっすり眠る生活習慣が彼を支え、明日への活力となっていたのでしょう。しかし、飲酒の常習に後ろめたさを感じていた彼は、空瓶の処置に一計を案じ、倉庫の床下に詰め込む策を重ねてきたのでしょう。今回の耐震化工事で、床下全面に鉄筋コンクリートを打つことから、発見されてしまった訳で、何だか申し訳ない気もしますが・・・

 ガラス瓶は、日本では明治19年頃から、人が瓶を吹いて作る一升入りの瓶が日本酒向けに製造されはじめ、明治32年に卜部兵吉が江井ヶ嶋酒造に併設したガラス工場で一升瓶を生産し、ビン入りの清酒を業界に先駆けて発売したそうです。ガラスは通気性がないので賞味期限を長く保つ保存性や密封性に優れており、空き瓶は洗浄して再利用できることから、大きさや形を規格化することで酒の銘柄が違ってもラベルの交換だけで対処できるよう図って今日まで汎用してきています。こうしてみるとガラス瓶は、日本酒と共に発達し、しょうゆ、酢など多くの食品容器として使用されてきた百年を超える歴史があることが分かります。
瓶の色も用途によって変遷し、日本酒や薬など日光などにより変質し易いものは濃い茶色、食用油などには淡い青の透明瓶が一般的に用いられてきたそうですから、杉浦家の食用油瓶だった可能性もあり、私の推測で、彼を勝手に酒飲みに仕立て上げたのは、酒飲みの邪推で、彼にはおおいに迷惑だったかも知れません。そんな訳で、ご覧のように栓を被せて封をする青い瓶、必要な方は引き取りにどうぞ。

2012年12月1日土曜日

杉浦醫院四方山話―201 『清韻亭茶会』

 11月25日(日)に杉浦家母屋清韻亭と病院棟二階和室の二か所に釜を設け、茶道正傳有楽流山梨県支部の秋の茶会が開催されました。県内各地から着物姿の有楽流社中の方々が、紅葉真っ盛りの庭園を望みながら座敷で、お手前を流儀に則って愉しみました。
 不調法な私も二席を廻りレクチャーを受けましたが、洗練された手順や形式に存在する美しさを目の当たりにして、「様式美」とか「型」と云うことについて再考してみる必要を痛感しました。
有楽流茶道の定まった形式=「型」を身につけることで、日常生活の何気ない動作や口調にも品格のあるふるまいが可能になるのではないか?
蓮っ葉な娘が急増している現代にあって、日本文化の根底にはある「型」の思想は、やはり捨てがたく継承すべき文化であるように感じました。

 また、午前10時から午後3時までの本格的な茶会を観察して感じたのは、参加者には、共通して時間の流れをゆったり楽しむ知恵があることでした。茶席の合間には庭に出て紅葉を愉しみ、樹木を見上げ、石碑を読んだりと、思い思いにゆっくり過ごして、次の席でまた茶を楽しんでいました。茶道の究極は、「落ち着いた心でお茶を楽しむ」ことでしょうから、あくせくした時間からは落ち着いた心も生まれないと云う事でしょう。
 そう云えば、お昼にご馳走になったお弁当が洒落ていたので「これは特注でしょうね。どちらから?」と聞くと「杉浦先生が粋さんに頼んだようです」と・・・「私はお部屋を貸すだけで何も出来ませんから」と云っていた純子さんですが、お釜や屏風から茶碗まで純子さんのお道具が光っていましたし、やはりお弁当の手配までも・・・身に付いた振る舞いなのでしょう。
 勘や動きが鈍く、人の気持ちをうまく読み取れない私のような人間を「野暮」と云い、反対に、気が利いて、活き活きと意気が感じられる純子さんのような人を「粋」と云うのでしょう。今回、茶道は、何だか人間のありようにまで影響する奥の深いものなんだなあ・・と云った程度のことは野暮な私でも分かりましたが、努力もせず、「少しでも粋な人間になってみたいなあ」と思った助平根性も野暮の典型なのでしょうね。

2012年11月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―200 『清水章子(あやこ)朗読会で・・』

 11月20日に昭和町立図書館で開催された昭和町タイムリー講座は「清水章子朗読会」でした。十数年前、中央公民館のメイン教室として始めたタイムリー講座が現在も続いていることもうれしく、かつ読書の秋に図書館を会場に県内朗読会の第一人者清水章子先生を迎えての文字どおりタイムリーな企画の上に思いがけない話をうかがっていたので馳せ参じました。と云うのは、図書館長から「清水先生が、朗読作品の一つに杉浦医院四方山話を取り上げたいそうですが、著作権は・・?」との問い合わせがあり、「私はネット上に載っている文章や写真に著作権云々というのはおかしいと思っていますし、ましてや私の駄文に著作権などおこがましいどころか、清水先生のお目に留まっただけでも光栄のイタチですから・・」と笑って答えた経緯があり、「はて?先生はどの話を朗読下さるのか?」と、個人的な興味もありました。
 会場は、先生の朗読を楽しみに集まった方々の「聴こう」と云う熱気で溢れる中、独唱会でもあるスタート作品に195話の「山葉寅楠-2」が朗読され、「四方山話は、私のお勧めブログです。この話の前後もブログでお読みになって下さい」と過分なご紹介もいただきました。
自分が書いた文章が、期せずして清水先生の間を活かした朗読で聴くという光栄に浴しての感想は「音読しての推敲が必要だな」でした。思えば、不特定多数に発信している以上、目に余る誤字脱字や文章の重複等の推敲は同僚にもチェックしてもらうようしてきましたが、声に出して読んでみると云う事は、皆無でした。
「歴史のなかで吟味され生き抜いてきた名文は声に出して読み上げると、そのリズムやテンポのよさが心地よく身体に染み込んでくる」と、著書「声に出して読みたい日本語」で斉藤孝氏が指摘していたことを清水先生が暗唱してくれた「外郎売りの科白(ういろううりのせりふ)」を聴いて実感できました。「外郎売りの科白」から樋口一葉の名作まで、先生の視点の確かさと幅の広さが表出されたプログラム構成も見事でしたが、その末席に私の駄文も仲間入り出来た光栄を重ねて感謝申し上げます。昭和町での朗読会ということで取り入れてくださったのでしょうが、200話の節目に貴重な学習ができましたので、少しでも「音読による推敲」の成果が見られるよう精進していこうと思います。

2012年11月20日火曜日

杉浦醫院四方山話―199 『廢院に向きあふ椅子や暮の秋』

 私事で恐縮ですが、10月の週末に同級生諸氏と『飯田蛇笏・龍太の「山廬(さんろ)」見学会』を開催しました。昭和43年に高校を卒業した面々の多くは首都圏で働き、定年退職で時間的な余裕が出来たのでしょう「よん燦会メールリンク」を立ち上げ、様々な行事をメンバーが企画しては開催しています。
 サントリーのチーフブレンダー輿水精一君の計らいで、昨秋は「山崎」、今春は「白州」と特別試飲のおいしい恩恵にも浴す見学会もありました。その矢先に≪世界的な酒類コンペティション「インターナショナル スピリッツ チャレンジ(ISC)2012」でサントリーは、シングルモルトウィスキー「山崎18年」と「白州25年」の双方にウィスキーカテゴリー最高賞トロフィー授与という、ISC開始以来の初のダブル受賞を達成した。≫と報じられ、トロフィーを抱く渋い輿水君が世界中に配信されました。県のやまなし大使としての活躍も期待される彼は未だ現役バリバリです。
そんな一環として、秋の故郷散策ツアーの企画を任された今回、メインを非公開の「山廬(さんろ)」として、「物見遊山の見学者ではないから」と、飯田秀実氏にお願いしたところ実現した見学会でした。飯田夫妻のご案内で、「後山」と命名されてきた裏山から山廬内部まで約2時間、「雲母」の聖地をくまなく見せていただき、県立文学館で開催中の「飯田蛇笏没後50周年展」の図録も蛇笏の落款印入りで購入することもできました。参加したK君から、メールが届きました。
―――――――(前・中略)――――――
せっかく俳句好き人間の聖地に行ったので、所属している句会にいくつか投句しましたが、選に入ったのは山廬ではなく杉浦医院で作った句でした。
   廢院に向きあふ椅子や暮の秋
                           ――――――――――――――――――――――――――――――――――――
午後は、杉浦醫院を案内した訳ですが、診察室を観て、この句を詠むK君の感性もバリバリ現役で、ボケかましの自分には、同級生諸氏から受ける刺激は、ありがたく効きます。

2012年11月17日土曜日

杉浦醫院四方山話―198 『生まれる子に罪はないけれど』

 杉浦家には、健造先生や三郎先生が報じられた新聞や雑誌が保存してあり、当時の研究や治療の医療事情から人柄まで分かり貴重な資料として大変助かっていますが、その新聞に載っている他のニュースや広告も面白く、つい一緒に読んでしまいます。
 昭和31年8月31日金曜日の朝日新聞全国版の「人寸評」と云うコラムに「米国から研究奨励金を受ける・杉浦三郎」の見出しで、顔写真入りの三郎先生の寸評が載っています。
 ≪この人の妙な癖は年齢のサバを読むこと。年を聞かれるときまって「58歳」と答える。が実は60歳。「60歳といえば定年でしょう。学者は将来があるようにしておかなければ」というのが弁明だ。≫といった内容の「寸評」が続きますが、評した人が誰なのか署名がありません。「人物評」は、評す人の目を通した評価ですから、その人の視点や価値観で三郎先生の寸評も大きく違ってくるものと思います。当然、署名すべき記事のように思いますが・・・これも時代の違いでしょうか。
同じ紙面に川端康成の連載新聞小説「女であること」の168話があり、最下段には、「週刊朝日」と「アサヒグラフ」の広告が2段抜きでありました。「週刊朝日」と云えば、佐野眞一の「ハシシタ」記事で物議をかもし、朝日側の全面謝罪で落着しましたが、それについては、副島隆彦の学問道場「今日のぼやき1340話―橋下徹大阪市長や一部大阪市特別顧問による「週刊朝日」に対する“言論弾圧”問題について考えるー」の中田安彦氏の論考が現時点ではベストな考察だと私は思いますが・・・    
「週刊朝日昭和31年9月9日号」で、「生まれる子に罪はないけど」と報じているのは、日本の人口問題で、「南から北へ、山だらけの細長い国土に九千万という人口・・・考えただけで頭が痛くなる。しかも1年に約百万人ずつ増えている」と、日本の人口増を危惧する特集記事です。総人口が1億2665万人になった今日、「少子化に歯止めを!」「少子化対策を!」と騒ぎ、多額の税金を投入して少子化を何とかしようとしている日本です。現代も世界規模の「人口問題」は明らかに「人口が増えすぎて困る問題」です。地球規模の「環境問題」もペットボトルのリサイクルより「人口を減らす問題」です。昭和31年に九千万人になろうという日本の人口増に頭を痛めて、減らす必要を特集した「週刊朝日」。「年金体制維持にも少子化対策は必要不可欠」と寝ぼけた目先の一国主義は、グローバル社会では通用しないことなど「本当のこと」は報道されない現代日本。50年前のジャーナリズムの方が・・・と、考えさせられました。

2012年11月14日水曜日

杉浦醫院四方山話―197 『イギリス葺き』

 日本で茅葺(かやぶき)屋根の家屋を見かけると懐かしさと珍しさで足を止めてしまいますが、イギリスはじめヨーロッパでは、茅葺屋根はステータスとして、現在も高級住宅地の新築家屋には使われているそうです。日本でも茅葺屋根をトタンや銅板で覆って、合掌造りや兜造りの家屋、古民家を残している集落の取り組みもありますが、茅葺屋根の葺き替えをする職人さんも日本には数少なくなっているそうです。
 現在進行中の土蔵の整備改修工事には、大工さんはじめ左官さん、屋根屋さん等々の職人さんが入っていますが、先日見えた板金屋さんが、土蔵の隣の旧車庫の屋根を見て、「イギリス葺きと日本葺きが一緒なのも珍しいなー。多分、後から補修したじゃねーの左の日本葺きは。元々は全部イギリス葺きだったと思うよ。イギリス葺きは、雨戸の戸袋にもよく使ったけどねー」と話してくれました。
 早速調べてみると、一口でトタン屋根と言っても葺き方の種類は非常に豊富で、大きく分けると棒葺き、平葺き、横葺き、菱葺き、亀甲葺き、波トタン葺き等に分かれます。
板金屋さんが教えてくれた「イギリス葺き」は、「菱葺き」もしくは「亀甲葺き」の総称のようで、確かに雨戸の戸袋にはありました。
 菱葺きは、菱形のトタンを葺いていく方法で、トタン葺きの屋根としては最高のようです。菱形を更に細工して亀の甲羅形にしたものを亀甲葺きと云い、デザイン的にも見栄えする意匠葺きのようです。そう云えば学生の頃、横浜の裏通りをうろついて「何だ。横浜って洒落た街だと思っていたけど、屋根も壁もトタンの家ばっかりで・・・」とトタンを蔑んだ記憶が蘇りましたが、多分に「日本葺き」の平葺き屋根と波トタンを打ちつけた壁だったように思います。「イギリス葺き」の亀甲葺きや菱葺きは、素材がトタンでもましては銅板だったら確かに見事な板金文化だなー・・・と、途端に相変わらずのトタン蔑視が見え隠れしてしまい、トタンにはホント申し訳ありません。

2012年11月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―196 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-3』

 「やっとできた。認められた!伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうぞ使ってください」と山葉寅楠は、このオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所に寄贈しました。これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを「国産オルガン製造成功!」と東京芸術大学学長のお墨付きとして語り、そのニュースは口コミで広がって「山葉風琴製造所」は、本格的にオルガン製造にとりかかることになります。そして、1年後、風琴製造所の従業員は100名を超え、ロンドンに輸出するまでに急成長しました。
 
 明治22(1889)年、寅楠は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を「日本楽器製造株式会社」に改組し、今度は国産ピアノの製造を目指しました。
伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡りピアノ工場を見学し、部品を買い付け、会社の総力をあげて、国産ピアノ第1号の製造にとりかかります。
アメリカで買い付けた部品を基に、ピアノの生命といわれるアクション=響板には、日本で開発したものを使おうと、河合の親戚の河合小市と云う当時11歳にその響坂制作を委ねたそうです。天才少年河合小市は、後に「河合楽器」を創業した人物ですから、ヤマハとカワイは、国産オルガン製造からピアノに至るまで、二人三脚で築き上げてきた訳です。「男は男に惚れられなければ事業に成功できない」と云う寅楠の名言は、協力者・河合の存在なくしては生まれなかった実感だったのでしょう。
   以上、国産ピアノ誕生までの「物語」の概要を「日本のピアノ100年」を基に紹介してきましたが、「いのちの授業」とか「安心安全な○○づくり」が、全国至る所で取り組まれている現在、「先ず惚れること」とか「惚れられると・・」と云った個々の感情とか思いの大切さや多様性による人生の面白さについて、学校も社会も触れません。それどころか、安直な不案操作のように何年か周期で、学校でのいじめ問題をマスコミは話題にします。個々のケースや原因は様々なのに決まって、「自殺」を引き金に「学校や教育委員会の対応」を軸に、いじめた側、いじめられた側双方の家庭状況まで、のぞき見的に取材して臨場感を出す手法まで同じです。
 学校と云う閉鎖社会の中で、近年特に強まっている「同質性圧力」が、いじめの原因として根底にあることは間違いないのにその辺の本質的な報道では面白くない?のか、ただただ不安を煽る子育て環境醸成報道になっています。「学校で通用している価値観などたかがしれている。もっともっと世界は広いぞ!」と、寅楠と河合の人生物語は教えているようで、こう云った魂を揺さぶる「物語」も、同質性圧力から逃れる一つのバネとして、有効もしくは効果ありの教育的指導のように思う今日この頃ですが、如何でしょうか?

2012年11月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―195 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-2』


 山本さんからの電話で「ヤマハ トラクス」と聴いた時「ハーフなのか?」と思いましたが、寅楠という漢字と紀州藩士の家に生まれたことを知って、同郷の植物学・民俗学者の南方熊楠(みなかた くまくす)が浮かび、ふと、江戸末期の紀州藩では、名字帯刀を許された男子には、「馬楠」「猿楠」と云った「動物名+楠」が、流行ったのかな? と・・余談はさておき、本題に・・
 
 寅楠は、来る日も来る日も修理を頼まれたオルガンの内部を調べ、全ての部分を細かく図面に書き写し、約一ヵ月でオルガンの構造や必要な部品について、何十枚もの図面に書き落とし、壊れたネジも治金術で造り、元通りに修復してしまいました。
 書き写した図面を基に寅楠は、一からオルガンづくりにかかるため資金を求め、あちこち尋ねては協力を求めますが、多くの人は「気でも狂ったか」という中、一人だけ飾り職人で小杉屋を営む河合喜三郎が寅楠の熱意と腕にかけてみようと協力し、小杉屋の仕事場で、朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でオルガンづくりに没頭し、約2ヵ月かかって第一号オルガンを完成させます。真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらうと「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われ、静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)でも同じ結果でした。ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代で、「調律」と云った言葉も知る人がいない地方でしたから、何がどうおかしいのか、河合と寅楠にも、肝心なところがわかりません。何をどうすればいいのか・・・もっと偉い先生に聞いてみなければと二人は、作ったオルガンを音楽取調所(現東京芸術大学)に持ち込むことにしました。二人は、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運んだと云います。100k近い重量のあるオルガンを箱根の山越えもある東海道を約270kmです。いったい何日かかったのでしょうか・・・・
ようやく音楽取調所に着いた二人に教授たちは驚きました。先ず「素人の個人がオルガンを造ってしまったことに」驚き、「そのオルガンをかついで運んで来たこと」に驚き、「音が全く外れていること」にも驚いたそうです。
   西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が出来ていないが、あと一歩です。君たち音楽を学んでいきなさい」と二人のために、宿舎を提供し、音楽取調所の聴講生となることを許可してくれます。寅楠は、調律、音楽理論を必死で学び、浜松に帰って、すぐ2台目の製造にとりかかり2ヵ月で第二号のオルガンを完成させ、天秤棒で再び270kmの道のりをかついで音楽取調所に向かいました。そこで、伊沢教授の「すばらしい!よくやりましたね。外国製に負けない見事なオルガンです」の賞賛に、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。そうです。

2012年11月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―194 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-1』

 190話「山葉ピアノ」の文中で「確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には・・・」の件に関して、山本哲氏が、YAMAHAの創業者は、山葉寅楠であることと杉浦医院内にピアノがある必然性について、教えてくれました。調べていくと「山葉何某」では、失礼の極みであることと和製オルガン誕生の隠された歴史は、「日本人のモノづくり」について考えさせられる「物語」を内包していますので、寅楠氏とその人生についてご紹介してみます。
山葉寅楠は、江戸幕末期の嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた武士ですが、明治維新で家が没落し、寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。ところが肝心の仕事がなく、技術者として職を求めて、全国各地を転々とした結果、明治17(1884)年、寅楠35歳のとき静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらい、浜松に赴きます。要するに寅楠は、県立病院の医療機器修理を専門に請け負う技術者だったのです。
 当時、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられ、浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入したそうです。オルガンは外国製で、とてつもなく高価なものでしたから、このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学に訪れたそうです。
ところが、このオルガンがすぐ故障してしまい、外国製で、部品もなければ修理工もいないことで困った学校は、浜松県立病院に医療精密機器の修理工・山葉寅楠がいるという話を頼りにオルガン修理を寅楠に依頼したのだそうです。寅楠にとっても、見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安だったでしょうが、まわりの人が心配そうに見守る中、オルガンを点検し、内部のバネが二本壊れているだけだと寅楠はすぐに見抜いたそうです。同時に「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」「アメリカ製のオルガンは45円(現4500万円)もする。自分なら3円(現30万円)ぐらいでつくることができるだろう!」と、また「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」と国産オルガンの製造を決心し、個人商店「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」を立ち上げたのだそうです。
風琴(ふうきん)は、風を送って音を出す琴といった意味で、オルガンの和名でしょう。ここから国産オルガン第一号が製造されるまでの「物語」に続きますが、オルガンからピアノへと進んだ原点は、「医療機器」にあったことを三郎先生は知っていたのでしょうか・・・

2012年11月3日土曜日

杉浦醫院四方山話―193 『四方山話も2年・・・』

 当館ホームページ開設に合わせて書き出した「杉浦醫院四方山話」も2年になりました。「ホームページの命は、更新だよ」とIT会社経営者でもある当時の昭和町教育委員長油川勝司先輩は、一言にこやかに放ちましたが、ご記憶でしょうか?
 前後して、敬愛する池田清彦先生がオフィシャルブログを開設したと聞き、拝読を楽しみにしてきましたが、今年1月の「寒いですね」以来、猛暑の夏でも「寒いですね」のままで、これも「先生流のジョークだな」と笑ってしまいましたが、確かに更新されないサイトは、開設している意味がありません。 まあ、常々IT社会や電脳文化に興味も期待もないことを公言し、「虫捕る子だけが生き残る~「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか~」の著者でもある池田氏ですから、「オフィシャルブログ」開設自体が不自然でしたし、書籍への執筆依頼は絶えないでしょうから、「ネット上で無料サービスする程、おバカじゃありませんよ。しっかり本を買って読みなさい」と、無更新サイトで、警告を発しているように思います。
 油川先輩のアドバイスに「ホームページなんて興味もありませんから」と池田氏のように突っ張れる強さも才能も持ち合わせていない私にとって、「更新が命」は、数日頭から離れませんでした。
 当時は、11月のプレオープンに向けて、庭園や裏庭、病院や土蔵、納屋の片付け作業が続き、杉浦家所有物の廃棄など一存では出来ないことから、純子さんの了解とりに一日に何回も尋ねました。その都度、純子さんからは、「お任せしますから・・」と拘らない返事と共に、その品々にまつわる含蓄ある話を伺うことができました。そんな話を肴に酒を飲んでいた夜「面白い話をこうして俺だけが愉しんでいたら申し訳ない」と「これで更新だ!」と閃きました。思えば、次のテーマも酒を飲みながらふと思いつくことも多く、ホント「酒」には感謝です。医者によっては、「典型的なアルチュウ症状です」と診断されかねませんが、「飲むことに後ろめたさはありませんから」と、ここは、しっかりツッパルしかありません。
 そんな訳で、2年間で約200話の「四方山話」を書いてきましたが、思いがけない方々から「愛読しています」と声をかけられることが重なったりして、「書くこと」や「ネット」にちょっと怖さも感じますが、東京在住の純子さんの妹さん方始め、ご親戚の方々から「インターネットで、私や家のことは行かなくてもみんな分かっているから安心・・・って、電話がありました。」と純子さんも喜んで報告してくれるので救われますが、「杉浦醫院四方山話」は、純子さんあっての「話」ですから、勝手を書いたりでさぞご迷惑でしょうが、お見逃し下さい。
 また、科学映像館の久米川先生からは「もっと短文で、行変えを多くすると読みやすくなる」と的確なアドバイスをいただいてきましたが、田舎者故に流行りのスタイルへの変換が出来ず、・・・・です。
今朝も山本哲先輩が、190話を読んでの貴重な「話」を電話で教えてくれました。さっそく調べて、次話で報告いたしますが、このコーナーも諸先輩はじめ皆々様の御蔭だな~と、遅い感謝です。

2012年11月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―192 『玄関を彩る花々』



 本オープンに向け現在、裏の土蔵の改修工事が進められていますが、杉浦醫院がプレオープンして、今月で2年目を迎えます。プレオープン中は、整備改修が終わった庭園と病院棟、旧温室建物の公開ですが、旧杉浦医院の玄関は、1年目から西条一区の堀之内一郎さんが定期的に届けてくださる花々で年中、彩られています。9月にご紹介した181話「丸菊」も、花言葉から「赤色中心に咲かせたいものです」と願った4鉢が、ご覧のように全て赤く咲き始め、「念じた甲斐あり」でパチパチしてしまいました。
 先日、今度は寒さの中でも冴えて色づく「ハボタン」の鉢が、紅白各2鉢届いていました。「届いていました」は、堀之内さんのお人柄でしょう、丸菊も私たちが気付かないうちにそっと玄関に置いて帰られ、今回も休館日の日曜に届いていたからです。「花を愛する人は、心広き人」と云った歌や「花を愛する人に悪い人はいない」と云った言葉が、堀之内さんからは自然に彷彿します。また、昭和町商工会婦人部の方々も先日、3回目の清掃作業に汗を流して下さいましたし、近所の杉浦精さんは毎朝のように庭掃除に馳せ参じていただくなど、高校生から老若男女を問わず、多くの方々の当館へのお力添えに支えられての2年だったなーと、そんな善意が結実した象徴が、玄関を彩る花々であるようにも感じ、この場をお借りして、あらためて「ありがとうございます」と御礼申し上げます。

2012年10月27日土曜日

杉浦醫院四方山話―191 『三木ピアノ』

 昭和8年に昭和天皇に皇太子が誕生した記念に発売され、山梨県では1台、三郎先生が購入したと云う「山葉ピアノ」の販売カタログについて、前話で紹介しましたが、同じ袋には「三木ピアノ」の販売カタログも保管されていました。
「皇太子殿下御降誕!国民歓喜の極み!」と謳い、5つの理由を箇条書きに示し、「三木ピアノが最適かつ理想的記念品となる」と記されています。
「1.子女の情操教育上是非備付の必要になること」「1.家庭にありては音楽は明朗と愉悦の源泉となること」あたりが、三郎先生が購入に至ったキャッチポイントだったのでしょうか? 何故か、山葉ピアノと同じくグランドピアノは「平台ピアノ記念型」とあり、価格も1200円で同じですが、この平台ピアノは学校用とし、竪型ピアノを家庭用と分けています。家庭用竪型ピアノ(アップライト型)は、予約特価520円(正価600円)と平台ピアノの半額ですから、三木ピアノは、家庭用竪型ピアノを販売しない山葉ピアノのスキマを狙ったのでしょうか?
三木ピアノのカタログには、甲府市橘町「功刀楽器運動具店」の印がありますから、三郎先生は、内藤楽器と功刀楽器から予約販売カタログを取り寄せ検討した結果、杉浦家には医院棟があり、その応接室には平台ピアノも置けるスペースがあったことで、敢えて学校用の高額な山葉平台ピアノ記念型が選ばれたのでしょう。
 三木ピアノは、大阪東区に本社があり、支店は神戸市本町通とありますから、主に関西以西エリアで、山葉は静岡県浜松市が本社ですから、東海以北と販売エリアも両社ですみ分けていたのでしょうか?そこで、「カワイピアノは?」と、調べてみると創業者河合小市が「河合楽器研究所」を創立したのが昭和2年、昭和4年に「河合楽器製作所」と改称し、主にハーモニカを製造していたようですから、昭和8年当時はピアノの本格製造には至っていなかったことが会社沿革で推測できます。その点、三木楽器は、明治21年に楽器部創設とあり、書籍業の創業は江戸時代ですから、私が知らなかっただけで、ヤマハと並ぶ老舗でした。
 杉浦家の物品購入は、ピアノに限らず「よいモノを長く大事に使う」姿勢で一貫していますが、今回のカタログも含め付随する木箱や説明書から包装紙まで、きちんと保管されていることにも驚きます。純子さんの話の中に「家訓」と云ったフレーズは、一度も出てきたことはありませんから、大層に家訓として保管されてきたことではなく、当たり前のこととして定着した生活習慣だったのでしょう。強いて言えば、英国人や白州正子に学ぶまでもなく、建物や調度品、収集品から日用品まで、ほんものの生活をきっちり楽しむことが「家風」となって、代々引き継がれてきた結果なのでしょう。ゴミの様なモノが溢れる現代にあって、杉浦家の家風は、大切な教訓を静かに語っているように思います。

2012年10月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―190 『山葉ピアノ』

 2年前の今頃、当四方山7話『ピアノ』8話『ピアノ余話』で紹介した、杉浦醫院応接室にある今上天皇生誕記念のグランドピアノの予約販売用カタログが応接室書架の封筒に保管されていました。ハンドメイドの特注生産であることから予約販売先を募る文面には「今や国を挙げての慶賀記念すべき時に際会しピアノの備付が諸学校に於ける絶好の記念たるべき事を確信致します」とあり、主たる販売先は、諸学校に的を絞っていたようです。それは、このピアノの販売価格が、学校特価で1200円、正価は1450円とありますから、個人購入には無理のある高額商品だったからでしょう。そう云えば、昭和も30年代までは、学校は家庭には無いピアノ・オルガン・テレビ・ステレオ・楽器等々の最先端文化備品を誇っていた場所でもありました。
昭和8年当時の物価は、天丼40銭、封書3銭と円の下に「銭(せん)」の単位があった時代で、高級官僚の初任給が75円、小学校教諭初任給が50円だったそうですから、それで換算すると、当時の学校特価1200円は、現代の500万円前後、正価1450円は、600万円前後になります。杉浦家は、学校ではありませんから、正価の1450円で購入したと考えるべきでしょうか?・・・

 確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には、既に社名は日本楽器製造株式会社で商標はYAMAHAになっていました。ピアノにもYAMAHAとしっかり入っていますが、「皇太子殿下御誕生記念」として売り出す関係上、ピアノは漢字に置き替えられないものの「YAMAHA」は「山葉」と漢字表記して、日本の国体に沿う表現が用いられたのでしょう。ピアノもアップライト型を「竪型ピアノ記念型」、グランド型を「平台ピアノ記念型」と苦心の漢字転換がうかがえます。カタログとは云え、文部省謹作「皇太子殿下御誕生 奉祝歌」の歌詞も3番まで載り、「予約限定台数 全国百台限り」と、あくまでも皇太子誕生を祝しての記念販売であることが強調されています。
「父が甲府の内藤楽器店に注文して購入しました」と云う純子さんのお話のとおり「甲府市富士川町12 内藤楽器店」と押印された専用封筒に納まっていましたから、山梨県の日本楽器代理店が当時も内藤楽器店であったことも分かります。

2012年10月22日月曜日

杉浦醫院四方山話―189 『科学映像館の久米川夫妻来館』

 先日、埼玉県川越市から科学映像館を主宰している久米川正好夫妻が来館されました。定期的にウエイトトレーニングで鍛えている久米川先生は、9月に78歳になられたそうですが、自ら運転して圏央道から中央道経由でお越しいただきました。メールと電話では、十分面識はあったのですが、実際お会いするのは、今回がお互い初めてでした。大学退官後、ライフワークとして消えゆく科学映像の保存に立ち上がり、デジタル保存した映像をインターネットで無料配信する必要からパソコンも70歳から始め、今では科学映像館のホームページの更新から久米さんの科学映像便りと云うブログまで全てをこなしています。ブログには「伝承館」というカテゴリーまで設けていただき、当館の詳細についても発信していただいてきました。現在も国立国会図書館での映像保存体制の確立に向け尽力するなど孤軍奮闘の日々で、「やることは次から次にある」と云う忙しい中を「秋の山梨へドライブがてら・・・」と、良い歳を重ねあったナイスな熟年夫妻は、写真の納まりにも「違い」が表出されています。
 館内見学中も展示の方法や改善策を具体的にご教示いただきましたが、翌日も電話で感想と共に幾つかの貴重な提言とご指導をいただきました。特に醫院の廊下と各部屋への段差については、「つまずいてケガ人が出てからでは遅いので、早急に手立てを打つように」と、口頭での注意は呼び掛けてきましたが「物理的改善が先だったなあ」と反省しました。
これまでも当館のことについて親身なアドバイスを惜しまなかった久米川先生ですから、実際に見学された上でのご指摘は「全てごもっとも」で、感謝感激です。「日記代わりに書いている」というブログにも早速、当館見学と山梨来訪報告が載るなど「迅速さ」も若さの秘訣でしょう。最新のブログ「You Tubeでは日本住血吸虫が・・・」の中でも、「この地方病の原因解明と治療に当たられた杉浦健造、三郎博士親子の診療室が山梨県昭和町の昭和町風土伝承館になっています。行楽のシーズン、ここを訪ねるプランはいかがでしょうか」と発信していただいております。久米川先生これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2012年10月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―188 『中村不折の軸』

 9月末に掛け替えられた母屋座敷のお軸は、将軍綱宗公御染筆の書画であることを『10月のお軸または遊興放蕩三昧』でお伝えしましたが、所用で母屋に行くと、軸が掛け替えてありました。初めて観る軸なので、カメラを持って再度お邪魔しました。
 見慣れた「不折」の文字が飛び込んできたので「中村不折の南画ですね。不折もあったんですか」と尋ねると「不折をご存知でしたか。祖父が買ったものだと思いますが、私にはよく分かりませんが・・・」と純子さん。中村不折については、当四方山話―61『二葉屋酒造・奥野肇』 でも触れましたが、市川大門にも滞在していましたから、健造先生と交流があった可能性も考えられます。何せ二人とも「慶応2年」の生まれでもありますから。
中村不折は、パリで学んだ洋画家ですが、中国文化にも造詣が深く書も多く残したことで知られています。 
 現在でも「月餅」の新宿中村屋のロゴマークは、不折書の文字ロゴですから、見覚えがあることでしょう。
信州諏訪の宮坂醸造の清酒「真澄」も不折書です。
「栴檀」同様主張しない味わい深い書体は飽きない名筆で、書家としての作品が著名ですが、画家としても夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵は、不折の代表作品にもなっています。
 東京台東区にある区立書道博物館は、不折がその半生をかけて独力で蒐集した、中国および日本の書道コレクションを展示する専門博物館で、開館以来60年にわたって中村家により維持・保存されてきましたが、平成7年(1995)12月に台東区に寄贈され、本館と新たに建設された中村不折記念館で構成されています。ここでは、多くの不折の作品を鑑賞することが出来ますが、「書」と「洋画」が中心です。また、山梨県立美術館で、以前開催された玄遠書道会作品展でも県内にある不折の作品を一堂に集めた特別展を企画した折、見学しましたが、書作品だけでしたから、杉浦家の「南画」は非常に貴重な作品だと思います。その上、大変丁寧に細かく描きこまれた作品が、きれいに保存されていますから、書道博物館でも欲しい名品だと思いますが、これも健造先生の趣味の良さ、高さを物語る杉浦コレクションとして母屋に掛けられるのが一番なのでしょう。

2012年10月17日水曜日

杉浦醫院四方山話―187 『書架は語る』

 前話と前々話で、「東郷平八郎の書」は、8代目健造先生が求め、「朱呂竹(棕櫚竹)」は9代目三郎先生が育てていたことをご紹介しました。
健造先生が収集した数多くの書画骨董は、東郷平八郎に限らず「一家を成した」著名人や歴史上の人物になっている方の物が多いのも特徴です。だからといって健造先生が、時の有名人や成功者、権力者を好んだ事大主義的な人間だったのかと言うとむしろ「自分も同等な大きい人間だ」と思う自大野郎的発想とは無縁な趣味人だったと私は感じています。
 例えば、先生の書庫には「東郷平八郎全集全3巻」が医学書や文学書と一緒に納まっています。健造先生は、この全集で東郷平八郎の生い立ちから元帥海軍大将となった過程を学び、その職に対する責任や覚悟を読み、尊敬の念が高じての自筆書の購入であって、時の大将の書だから求めた訳でないことを裏付けています。      
 また、自分でも歌を詠み、書画を書いた健造先生だからこそ、その道の先人や大家の書画にも興味と審眼を備え、鑑賞することの愉しみも心得ていたのでしょう。山梨西条村の開業医が、医学研究と合わせてこのような高度な文化的趣味にお金を投じていた事実も思えば愉快で、誇りとして伝承していく必要があるように思います
 三郎先生も医院長室の机に「入門 観音竹と棕櫚竹」を置き、「品種・栽培・繁殖」について、研究しながら育てていたようです。純子さんは、「父は、俺は朴念仁だからと云って、祖父のように書画には興味を示しませんでした。開業医でも学会には毎年参加して、よく植物をお土産に買って来ました。朱呂竹は、確か横浜で買ってきたようですし、北海道に行った時はスズ蘭を買ってきて、池の周りに植え、たくさん増えましたが、除草剤をまいた時全滅してしまいました」と、三郎先生の趣味は煙草と園芸だったようです。
 「一般教養」と云った言葉も死語になりつつありますが、杉浦家の書架は、複数の美術全集や文学全集から歴史書、教育書、クラッシック音楽のレコード等々まで、「朴念仁」故に幅広い文化を愉しんだ「一般教養の深さ」を物語っています。

2012年10月14日日曜日

杉浦醫院四方山話―186 『朱呂竹』

 アピオのロビーで見かけた方もいらっしゃるかと思いますが、杉浦家の母家玄関先に並んでいた朱呂竹が、長い間アピオの館内を飾っていましたが、2鉢戻ってきました。アピオでは、常時室内の観葉植物でしたから、枯れてしまった鉢もあり大きな空鉢も同時に3鉢戻ってきました。
 三郎先生は、この朱呂竹の越冬用に裏に温室小屋を造り、冬の寒さで枯れないよう育て、株分けして多い時は10鉢位が、玄関先に一列に置かれていました。男4人でやっと持てる重さですから、三郎先生亡き後は、管理も大変になりアピオにお任せしたそうです。純子さんを訪ねてきた方も「懐かしい朱呂竹が戻って、昔の玄関を思い出しました」「やっぱり、この竹はここが一番ね」と喜んで話題にしてくれます。
昔のように母屋の玄関先に2鉢並べてと思いましたが、純子さんは「折角ですからお客さまも多い病院の方でお使い下さい」と譲りませんので、それぞれの玄関を一鉢ずつが飾るよう置きました。
「定期的に株分けしないと根の勢いで鉢が割れてしまうこともありました」
「父は、所詮竹だから水さえやっていれば枯れることはないと水をよく掛けていましたが、そのせいで、あの頃は玄関先には大きな蚊が多くてよく刺されましたから、いい思い出ではありませんので、どうぞそちらで」と、純子さんの気遣いは大変奥深いので額面通り受け取っては…と思いつつも自然な感じで落ち着くところに納まるのが常です。
 純子さんの広く温かい交流から杉浦家のコレクションは、アピオに限らず何箇所かに所蔵されていますので、これを機に行き先のリストづくりも必要かなと・・・

2012年10月12日金曜日

杉浦醫院四方山話―185 『東郷平八郎の書』

 三郎先生が懇意にしていたアピオの秋山社長(当時)からの要請で、杉浦家所蔵の朱呂竹や屏風などがアピオのオープンを飾りました。アピオの経営母体が代わったことから、この度、何点かの貸与品が純子さんのもとに20数年ぶりに戻ってきました。純子さんは「私はもうよく見えませんから、病院でお使い下さい」と、預かった額は、ご覧の東郷平八郎の書「心水の如し」です。純子さんは「父は、よくウチにあるものは偽物ばっかりだと言っていましたから、これも本当に東郷平八郎のものか?偽物でしょう」とおおらかな謙遜は、文字通り心水の如しです。
 東郷平八郎の書は、書家や収集家の間では高い評価と値段が付いていることでも有名ですが、「忠勇」とか「義烈」といった、元帥海軍大将にふさわしい文字の書が多い中、「心如水」と云った心境を記した書は貴重でしょう。この書は健造先生が求めたものだそうですが、医者の求めに応じて選ばれた「言葉」かも知れません。
 ネット上に、「明治40年5月、当時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓のお供をされた東郷平八郎が、殿下のご宿舎となった建物を「仁風閣」と命名して書かれた直筆の書」が、ありました。鳥取市の「仁風閣」の額です。
ド素人の私でも書体や文字配置、東郷書サインと落款印代りのマーク?は同一で、「偽物」どころか、「仁風閣」より気合と心が感じられる「書」だと「鑑定」出来るのですが・・・これも然るべき鑑定を受けると、数百万の値が付く、杉浦コレクションの一つでしょう。純子さんから預かって、医院応接室に置いたところに書家でもある若尾敏夫先生が来館され、この額に目が留りました。「この字は凄い。特に水の字の勢いとバランスは見事だねー」と驚嘆され、「アピオにあった東郷平八郎の書だそうです」と伝えると「一家を成した人の書は迫力が違うから」と若尾先生も控え目ですが、今年の昭和町文化祭に出品されていた若尾先生の作品も「一家を成した人の書」だと私は感服しましたが・・・早速、直射日光が当たらない医院2階の座敷に掛けましたので、ご鑑賞下さい。

2012年10月6日土曜日

杉浦醫院四方山話―184 『10月のお軸または遊興放蕩三昧』

 昨年の9月末から10月にかけては「養老の滝」の軸が座敷に掛けられましたが、今年は「将軍綱宗公御染筆」と木箱に書かれた茶軸です。
 筆で書く書画を染筆(せんぴつ)と云いますから、それに「御」をつけて丁寧に持ち上げているのは、将軍綱宗の書いた書画だからでしょう。この将軍綱宗は、山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』にもなった江戸時代前期、仙台藩伊達家のお家騒動「伊達騒動」の中心人物で、歴史的評価は至って低い感もしますが、個人的には好きな歴史上の人物です。
仙台伊達家のお家騒動は、仙台藩3代藩主・伊達綱宗の遊興放蕩三昧を許せない叔父の伊達宗勝が策動して、幕府を動かし21歳の綱宗に隠居を命じ、2歳の息子を藩主にさせ、叔父宗勝が実質権限を握ったと云うのが大筋で、諸悪の根源は綱宗のご乱行だというのが定説になっているようです。
 前話で触れた天野祐吉のラジオ深夜便「隠居大学」は、毎回多彩なゲストを迎えての対談が人気で「隠居のススメ」を説いている現役老人ですが、21歳で隠居生活に入った綱宗の前では、ヒヨッコでしょう。『武士は食わねど高楊枝』に代表される精神論や正論は、いつの時代でも形や対象を変えてまかり通ってきましたが、江戸時代と言う封建の世にあって、オノレの道を通した綱宗と正論で綱宗排斥に暗躍した?宗勝では、綱宗に惹かれます。どうも「遊興放蕩三昧」という六文字熟語は、「アイツは遊んでばっかりでどうしようもねーじゃん」と否定的評価に使われるのが一般的ですが、京都祇園のお茶屋遊びを江戸の「粋(いき)な客」と上方の「粋(すい)な客」が支え、単に金持ちの遊興放蕩としてではなく、舞や芸を愛で、酒宴をたしなみ人間同士の繋がりを大切にする独自の「おもてなし文化」を形成してきたことは京都の雅として定着しています。娯楽時代劇で正義の黄門さまの敵役と言えば田沼意次か柳沢吉保が定番で、甲府藩主としての柳沢吉保の評価も「遊び人」で芳しくありませんが、吉保は和歌に親しみ数々の詩歌を甲府でも残し、名園・六義園は、吉保自らが設計したと云う和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。文化的素養は、遊び心や放蕩で一層磨きがかかるのも確かで、現象的なありようで裁断され、真実が歪められてしまうのも世の常でしょうか。21歳で隠居を余儀なくされた将軍綱宗の書画は、秋の月を奥深く詠み、見事な書体に一筆で滲ませた月の画も味わい深く、遊興放蕩三昧の授業料なくしては醸せないものでしょう。

2012年10月5日金曜日

杉浦醫院四方山話―183 『今年の十五夜シリーズ』

 今年の十五夜は、9月30日(日)で、台風の県内通過と重なりましたが、通過後急速に晴れた夜空の満月は見事でしたね。昨年も9月21日の四方山話―78話『十五夜』で、印傳屋の全面広告を話題にしましたが、著作権の関係でしょうか、今年の作品はネット上では見ることが出来ませんが、山梨広告協会 第40回山梨広告賞のサイトにモノクロ部門で優秀賞に輝いた昨年度の作品がありました。
 3・11から半年後の「15夜」に合わせ、大震災を忘れないメッセージコピーを付けた「15夜シリーズ・印傳屋」の全面広告は、甲府盆地の夜景と満月の合成写真を含め全国発信するにふさわしいセンスで、山梨広告賞も当然でしょう。山梨広告賞の作品は、県内の制作者によるものに限られているそうですから、甲府の夜景の良さも熟知しているから出来る合成写真のように思いました。
 今年の「15夜シリーズ」は、猛暑をやり過ごす日本人の知恵についてのコピーでしたが、合成写真にやや不満が残りました。それは、下駄が置かれた沓脱石の写真が、いま一つコピーの雰囲気を伝えきれていない、沓脱石の撮影場所が良くないのだと感じたからです。県内の制作者ならば、沓脱石の置かれた玄関や座敷の撮影場所として、杉浦医院主屋が浮かばなかったのか・・・こちらのPR不足もあるのでしょうが、杉浦醫院を知らないというカメラマンやプランナーは、是非見学して、活用を図っていただきたいものです。
また、沓脱石に置かれた下駄も写真用に用意した新品の2足で、リアリズムに欠けました。手前味噌になりますが、当ブログ154話『草履・下駄-2』でご紹介したように「もってこいの下駄」もありましたから残念です。
広告文化の批評家として『広告批評』を主宰する天野祐吉は、ウエットに富んだ含蓄あるコラムニストとしてご活躍ですが、最近の話題はテレビコマーシャルが中心で、ここにも紙媒体の衰退を感じていましたが、9月30日付けの新聞がありましたら、今年の15夜シリーズと昨年の作品を比較して紙媒体の良さもお楽しみください。

2012年10月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―182 『西高放送部』

 現在の甲府西高は、私の高校時代には、甲府二高という女子高でした。二高の学園祭に水泳部仲間と行った記憶があるのは、そこで、当時3年生で巨人に入団が噂されていた甲府商業の堀内恒夫が、野球部仲間と連れ立って来ていて、「何だ堀内も人の子だなー」と皆で笑った思い出と詰襟の学生服でもトレードマークの首のホクロを拝観できたという収穫があったからでしょう。二高の前身は、甲府高女ですから、純子さんの母校で、「私は榎からボロ電で通いましたが、母も甲府高女でしたが、母はここから寿町(現文化ホール)まで歩いて通ったそうです」と話してくれました。
 甲府西高放送部のメンバーが今回は制服で、腕に放送部の青腕章を巻いて取材に来ました。 前回は、「高校生でこんなに熱心な子達も珍しいな」と思うほど興味を示しながら見学し、DVD鑑賞後も新聞資料に目を通しているので「何か質問は?」と聞くと「実は、西高の放送部で、地方病と杉浦医院をテーマに番組を作り、今年のコンクールに応募しようと思って来ました」と、「最初にそれを言えば、そう云う視点で案内したのに」と言うと「すいません」と素直な反応が新鮮で、資料の貸し出しや取材に協力する旨、話した結果の再訪でした。
 「今日もよろしくお願いします」と礼儀正しく「さすが純子さんの後輩だね」と褒めると「今日は、純子さんにもインタビューをお願いしたいんですが、大丈夫でしょうか?」と今回は一日の予定を最初に告げ、撮影や資料の確認などにとりかかりました。
 「子どもに誤魔化しはききませんから、子どもにこそ本物を見せたり、本当のことを教えないと」と常々云っている純子さんは、「こんな家でも若い方が入ると生き返ると父も若い方を歓迎していましたから、こちらへどうぞ」と母屋にテーブルやお茶まで用意して高校生のインタビューに応じてくれました。
高校生も最初のうちは正座していましたが「足がしびれたので」と・・・「足は伸ばしてください。しびれを我慢すると貧血を起こすこともありますから」と純子さんの話は、医学的説得力での優しさも特徴です。高校生のとっさの質問にも「流石純子さん」と言った応答の一時間でしたが、日本家屋の座敷で、きっちり正座して、きれいな言葉で丁寧に対応する大先輩を目の当たりにした事は、コンクールでの結果以上に貴重な体験となり、私のお粗末な堀内目撃記憶とは異次元な高校時代の良い思い出として残ることでしょう。

2012年9月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―181 『丸菊』

 当四方山話89話「菊と土」159話「堀之内さんのサフィニア」でご紹介した西条一区の堀之内一郎さんが、丸菊4鉢を持参下さいました。いつも綺麗に花が咲き揃った状態でしたが、今回は未だ蕾も出ない状態ですから、「花が咲くまで自分たちで育ててみなさい」と学習の機会を与えてくれたものと思います。まあ、基本の土づくりは終わり、丸型に形も出来上がっていますから、「あとは水やり位で大丈夫」状態にまで仕上げていただいた訳で、美味しい所だけいただいたようで、誠にありがたく恐縮至極です。
 7月17日にサフィニアを届けていただき、2カ月以上次から次に咲き、今日現在もまだ十分観賞に耐える紅白のサフィニアが咲き続けています。今年の猛暑にも力尽きず、厳しい残暑も乗り切って咲くサフィニアを見るにつけプランタでも中に入っている土でこうも花持ちが違うことを実感できました。菊の育て方指南書には「鉢の置き場所は、半日陰で、やや湿り気のある場所」とありますが、医院玄関先は東南西全ての日が当たり、よく乾く場所です。
「水やりは、土の表面が乾き始めたら、鉢底から水がしみだすまで、たっぷりと」OKです。「用土は、水もちのよい肥沃な土に。赤玉土小粒7、腐葉土3の混合土に、緩効性肥料を適量、混ぜて」は、堀之内さんが長い経験からこんなマニュアル以上の用土に仕立てあるので大きなお世話です。
「植え替えは、花後の10月~11月に、植え替えと株分けを一緒に」とありますから、水をあげて花を咲かせるだけではなく、花後の植え替えと株分けまでやって初めて菊づくりの4分の1位をしたこ とになることを知りました。
 ちなみに菊の花言葉は、「高貴」「高潔」と云った高尚なイメージですが、黄色は「わずかな愛」、赤色は「あなたを愛します」、秋明菊は「うすれゆく愛」だとか。秋花故に「女心と秋の空」の影響でしょうか、何だか身につまされますが、「薄れゆく僅かな愛でもあなたを愛します」となるよう赤色中心に咲かせてみたいものです。

2012年9月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―180 『ウィキペディア ライター』

 元アスキー社長の西和彦氏は「ウィキペディアはネットの肥溜」と酷評していますが、「ウィキペディア」は非営利団体ウィキメディア財団が主催している、利用者が自由に執筆できるインターネットフリー百科事典として定着しています。広告など一切無く、運営に必要な資金は寄付によってまかない、執筆や編集は世界中の無償のボランティアの手によって行われています。ウィキペディアの掲載内容は、オープンで誰でも無償で自由に利用することができます。インターネットの発達と共に著作権問題がクローズアップされ厳しくなる中、ウィキペディア掲載記事は複製や改変だけでなく頒布や販売も自由という、ネット社会にふさわしい風通しの良さです。当然「安かろう悪かろう」とか「タダより高いもの・・・」と云った類の記載もあるでしょうが、これは利用者の学習能力や知力も問われている訳で、何事も「鵜呑み」にすることの危険性は、これまでの「百科辞典」やマスコミ報道も同様でしょう。
 超が付くアナログ人間の私ですからウィキペディアの詳細や全体も見ていませんが、こと「地方病(日本住血吸虫症)」のウィキペディアは、凄い濃さで医学史関係者もしくは寄生虫学者の執筆かと思う性格さと小林照幸著「死の貝」をも凌ぐ見事な構成です。
この記事を書いているOさんは、当館にも何度か足を運んで取材や写真撮影をしてきましたが、今日もカメラ片手に「国の登録有形文化財になったので、写真を撮らせて下さい」と来館されました。撮影後の事務所での話しで「甲府で生まれ育ちましたが、私の世代は地方病については全く知らない世代なのか、何にも知らなかったので、知らないことを調べていくのが面白くって・・」あの記事になったそうです。
「あれだけ正確に全てを網羅したウィキペディアもそんなに無いと思いますし、評価も高いですよ」「そう云っていただけるとうれしいですね」と。「ところで、あれだけの記事を書いても全くのボランティアでしょう。生活の方はどうされているんですか」と立ち入ると「私は、旅行会社をしています」と名刺を頂戴しました。Oさん、小野渉氏は、(有)日観トラベルサービスのイッツモア山梨営業所の所長さんで、普段はカウンターで旅行手続きや相談業務にあたっている事を知りました。「他にも県内のことを調べて書いていますが、自分でも地方病の記事が一番かな・・」と控えめですが、巻末に明示してある引用した注釈と出典が、小野氏の地方病についての学習量とウィキペディアに書くことの姿勢を物語っています。

2012年9月20日木曜日

杉浦醫院四方山話―179 『カブトムシの幼虫100匹』

 当四方山話126話『坂下嘉和氏』でご紹介した坂下さんは、自宅の庭でありとあらゆる野菜や果樹、花をつくっていますが、落ち葉や樹木のチップでたい肥をつくり、土づくりにも励んでいます。そのたい肥の中に今年は、カブトムシの幼虫が大量発生したので、「昆虫にも環境の良い杉浦醫院にどうか」と幼虫約100匹を持参下さいました。
 庭園東側の樫の木3本には、今年もクワガタやカナブンが樹液を吸っていましたから、さっそく樫の木の根元を掘って放虫しました。
写真のように白く大きな幼虫は、みるみる土の中に潜って行きましたから、杉浦醫院の土や環境が気に入ったのでしょう。
 坂下さんの生き方やありよう(実存)は、その土産に集約されています。外で飲んで深夜に坂下邸にお邪魔した帰り際、スコップ片手に真っ暗な庭のあちこちに行って、「これは落花生」「こっちはニンニク」と根こそぎ掘っては、ゴミ袋に入れて「はい、お土産」とさりげなく渡されました。前にも「庭があるならモロヘイヤを植えておくといいよ」とたくさんのモロヘイヤをいただき植えましたが、案の定・・・です。
 今回の幼虫も庭の産物ですから、坂下さんのプレゼントは本当の意味の「土産」で、そこらの銘菓や銘酒を「つまらないものですが」と差し出すことしかできない自分を「本当につまらん人間だな~」と劣等感を抱きます。
地中活動に入った幼虫に枯れ葉を掛けて「6月のホタルの後、夏休みにカブトが出ると面白いね」と云って「これから7時間程運転して、七が浜で今週いっぱい復興作業だから」と愛車のピックアップトラックで東北に向かいました。「風の又三郎のようだな~」と見送りましたが、確かな実存が醸すオーラは爽やかです。

2012年9月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―178 『落葉をまく庭―庭園清掃雑感1―』

 自分は全くしないのですが、散歩や山登りをする人の話で興味深かったのは、歩きながら昇り降りしながら「考え事をしながらが多い」という話でした。「考え事」は、傍からは分かりませんから自由に勝手な自分の世界で遊べる想像遊戯でもあり、それを聞いてから歩いている人を見ると「今、新たな恋愛についてどうしようか考えているんだな」「今の男からどうしたら自由になれるか考察中だな」と、こちらも勝手に「考える」ことが出来て、人生が少し面白くなりました。(大袈裟か?)             
 同じように私も能動的な訳ではありませんが「考え事」をしている自分に気付くことがあります。それは、毎朝の庭掃除の時、箒を動かしながら、雑草を抜きながら、水撒きをしながらふと思い出したり、急に詳細を調べたくなったり、会ってみたくなったり・・・様々な「思い」程度の「考え事」が彷彿します。
今週は、やはり秋なのか落葉が多くなってきて、落葉掃きに励みましたが、ふと「落葉をまく庭」を思い出し、「そうだ満遍無く掃く必要もないな」の結論に達しました。「落葉をまく庭」は、日本のプロレタリア小説の最高峰と私が勝手に評価している手塚英孝の小説です。「落葉をまく庭」は、皇居の落葉清掃に全国から動員された愛国婦人会(勤労奉仕団だったか)の方々が一枚残らずきれいに清掃し終わると宮内庁職員が出て来て、その中から綺麗な落葉を選ぶよう命じ、天皇の好みに合うように綺麗な葉っぱをもう一度「自然な感じ」に庭にまき直すという話です。まあ、天皇に限らず、ハラハラと好い感じに落葉が散在しているのも秋の庭の風情ですから、最初から「綺麗な落葉は残して掃いて下さい」が真っ当だと、比較的汚い葉っぱを掃く省エネ清掃に思い至った訳です。
 手塚英孝は山口県の代々続く医師の長男として生まれましたが作家となり、日本のプロレタリア文学の興隆活動に専念しました。特に小林多喜二研究に打ち込むとともに、宮本顕治・百合子夫妻に全面協力し、自分たちの運動の仲間や家族を蔭から支える活動を続けた寡作の作家でしたが、この『落葉をまく庭』で第5回多喜二・百合子賞を受賞しました。
山口県文化振興課のホームページ上に「ふるさとの文学者63人のプロフィール」があり、顔写真と生家を初めて知りました。「仲間や家族を蔭から支える活動を続けた」というプロフィールにふさわしい顔つきと杉浦医院と重なる生家に未読の「父の上京」を今晩読んでみたくなりました。要するに、散歩とか山登りとか清掃作業は、単純動作の繰り返しですから、私のような小さな脳でもそれに耐えきれず、自然にその人なりの「考え事」を脳が始めるのか?と・・・

2012年9月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』

 純子さんからお預かりした数多くの段ボール箱を順次整理していますが、今回の段ボールは岩井徹氏関係の学会誌や研究資料、手紙等で、純子さんが「横浜を引き上げた時まとめたもの」だそうです。岩井氏は、当ブロク36話『純子さんの被爆追体験』の中でもご紹介しましたが、純子さんのご主人だった方で、東京大学医学部の産婦人科の医局に籍を置く研究者であり医師でした。戦争中の情報管理下で、放射能の危険性や放射線についての知識は医者や大学にも知らされず、二次被爆者を多数出しましたが、救援医師として広島に入った岩井氏も3年後に発病し、35歳の若さで他界されました。
 5年間だったと云う純子さんの結婚生活は、横浜の六角橋で始まり、岩井氏は本郷まで通っていたそうです。六角橋で借りた家の大家さん一家と純子さんは現在もお付き合いが継続されていて、先日子どもだったお嬢さんが純子さんを訪ねてみえて「純子おばさん、私も60過ぎたんですよと云われ、目が不自由になったりする訳だとつくづく思いました」と懐かしそうに話してくれました。
 段ボールの中に「ノートブック№1」と上段に、下段に岩井と記載されたノートが6冊ありました。№2から№6までは、「岩井」が「イワイトホル」で統一されています。
 「日本の産科医学をしょって立つ男だった」と評されていた方のノートを目の当たりにして驚きました。内容は分かりませんが、その約7割は英語で書かれ、几帳面な文字でびっしり医学専門用語や実験結果等が書き込まれています。方眼紙を必要な大きさに切りグラフにして貼ってあったり、割り算等の計算も全て自分で計算した跡が残り、エクセルだの電卓などない時代に「学問する」ことの緻密さと姿勢が充満していて、広島日赤病院での長期の献身的な救援医療に奔走したことを物語るに十分なイワイトホル氏のノートブック6冊です。