2012年3月23日金曜日

杉浦醫院四方山話―129 『宮崎家長屋門』

杉浦醫院前の道路は、つい6,70年前までは西条新田往還として、この道路沿いに全世帯約40戸が集中していたそうです。現在の西条新田地区は人口1453人、世帯数537戸ですから13倍以上になっています。建物も大部分新しく建て替えられ建築様式も様々ですが、一戸当たりの敷地面積は広く、家屋も大きいのがこの道沿いの特徴で、旧村時代の面影がうかがえます。こういった「景観」は、都市では道路や歩道、街路樹などで計画的に作られるようになってきましたが、村落では各戸の家屋や屋敷森、庭などが醸す景色として語られるのが一般的です。町内12地区には、西条新田同様、道沿いにかつての面影を残す集落を観ることが出来ます。このように人間が生活していく中で形成された景観を「自然景観」に対し「文化景観」と云われていますが、建て替えられた洋風RC住宅も含め西条新田の景観は、この道を抜きには語れません。

 杉浦医院から西に下って4軒目に宮崎家があります。大きな欅の木を背にした住宅と庭、道沿いに長屋門が残っています。現在、この屋敷は空き家状態ですが、神奈川県にお住まいの宮崎氏が長屋門保存の修理工事を依頼して8割方完成しました。朽ち落ちた土壁や傾きかけた建物を正面入口の木の柱や扉、腰板はそのまま活かし、現代の工法や材料での修複ですが、母屋も含め解体せず修理して残そうと云う姿勢に、宮崎氏の故郷・西条新田の文化景観への思いを感じます。

2012年3月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―128 『杉浦家3月のお軸』

 書画の掛け軸は、軸先(一番下の軸棒の両端に取り付ける装飾品)の材質で種類分けされ、「牙軸」の軸先は象牙で最優等品とされているそうです。
杉浦家3月のお軸は、鹿の角を軸先に使っている「春日軸」です。これは春日山の鹿からの命名でしょうか。動物の骨を材料にしたものは「角軸」、銅や真鍮などの金属に模様を付けた軸先は「金軸」、「水晶軸」「竹軸」「桜軸」「紫檀軸」等々、材料がそのまま分かるものなど多種類に及んでいます。
掛け軸は、「本紙」と呼ばれる書画を引き立たせる為に表具として「裂地(きれじ)」と呼ばれる布が重要ですが、裂地 に次いで重きを置かれるのが軸先で、「裂地 」が「着物」であるならば、「軸先」は「履物」にあたると云われています。








 さて、3月のお軸の本紙は、古筆家・覚家の書で、古今集の歌3題です。「歌たてまつれとおほせられし時、よみて奉れる」と醍醐天皇の命によって詠んだものと題して、紀貫之が「春日野の 若菜摘むみにや 白妙の 袖ふりはへて 人のゆくらむ」と詠み。
在平行平朝臣は、「春のきる 霞のころも ぬきをうすみ 山風にこそ 乱るべらなし」と、霞の衣は、横糸が弱いので、山風に吹かれて今にも乱れそうだと艶っぽく春の情景を詠んでいます。
源宗干朝臣は、常緑樹の松の緑も決して無表情なものではなく春になるといっそう鮮やかで溌剌としていると、「常磐なる 松の緑も 春来れば いまひとしほの 色まさりけり」と松の緑に春を見つけています。
 純子さんが「3月のお軸は、これですね」と迷うことなく用意された書軸は、敢えて軸先に象牙を使わず、歌に合わせて鹿の角の軸先「春日軸」で表装するというこの世界の奥深さに、ふと「しつらえ」という死語が蘇りました。

2012年3月16日金曜日

杉浦醫院四方山話―127 『吉本隆明死去』

60年安保で新左翼のカリスマ的存在となるなど、戦後思想界に大きな影響を与えた詩人で評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが16日未明、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。87歳だった。(時事通信)

 終戦後、粗製乱造された私たちは「団塊の世代」と云われ、好き勝手に暴れた後はすんなり体制に順応し、そこそこ年金も享受できる時代に定年を迎えたことから、若い世代からは「取り逃げ世代」と嫌われるお荷物世代でもあります。そうは簡単にくくれない個人も居ますが、おしなべての象徴的存在が糸井重里でしょうか。(今回、敬称略で)
糸井の本職、コピーライターとしての隠れた名作に「思想界の吉田拓郎・吉本隆明」がありますが、確かに私たちの世代にとって、吉本リュウメイは大きな存在でした。私も吉本個人編集の自立誌「試行」の巻頭文「情況への発言」を毎号バイブルのように読んでいましたから、政治家の小泉純一郎や橋下徹の説法は、「状況への発言」での吉本流メッタ切りの二番、三番煎じで、違いは説得力のある吉本の根拠や内容と比べ、ご両人の人気に反比例して内容は乏しく、至って古い内容を声高に連呼しているだけかなというのが実感です。
 
 20年前、昭和町でも吉本が理想としていた遊民生活を送っていた山本哲が中心になって、「規約なし・会費なし・去る者は追わず、来るものは拒まずの入、退会自由」の自主サークル「昭和町カルチャーデザイン倶楽部」を立ち上げ、様々な活動をしてきました。この「会則なし」にも吉本の影響―規約を決めて組織をつくって、仲間を増やすようなやり方の文化活動はダメだ。それは結局、誰かが権力を握って人の自由を縛り、人を駒のように扱うスターリン主義になるだけだ―が、共通認識としてあってのことでした。
 「市井に生まれ、育ち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人間は、千年に一度しかこの世に現れないという人間の価値とまったく同じである。」と語ったマルクス。吉本も「結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう普通の生活者の人生、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ」と云い、自らもそのような視点で、ブレルことなく書き、生活してきた87年の詩的人生だったと訃報を聞いて思いました。
 80過ぎて書いた「超恋愛論」。例えば・・・20代までは何とか「恋愛の永続性」は信じられても、30代以降の恋愛心理というのは微妙な変化を蒙る。社会的・職業的役割が固定化されやすい中年期以降においては、「相互に責任を負わない恋愛(距離のあるパートナーシップ)」か「不義な恋愛(不倫など生活基盤を別枠に置いた男女関係)」でなければ、エロスと感情遊戯を中核に置く恋愛関係を続けることは困難である。・・・と。まあ、吉本の「不義な恋愛・不倫」を「婚外恋愛」と改称して薦める?上野千鶴子も団塊の世代の輝ける旗手ですから、吉本思想の進化継承者でしょうが、「恋愛」も思想として語るから思想家でしょうが、「好きだからしょうがない」の恋愛家志望です。

2012年3月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―126 『坂下嘉和氏』

 昨年の10月27日木曜日付、杉浦醫院四方山話―87 『ボランティア』 の中で、坂下嘉和氏について、イニシャルS氏で、以下のように紹介しました。――――――(前段略)もうひと方、竜王のS氏は「気分を害さないでください。私の趣味ですから・・」と開館早々、道具一式を持参して、トイレの便器を真っ白にして下さいました。「これを使えば面白いくらい取れるんです」と秘密兵器と使い方まで伝授してくださいました。そのS氏は、3・11以後、既に10数回宮城と山梨を往復して、復興ボランティアを継続しています。「行けばやることはいくらでもあることが分かっているので、用事を済ませたら、戻らなければ・・と、じっとしていられない」と云います。この活動を通して、彼が考えたことや伝えたいことを「OTOUのブログ」で、発信してくれています。本当の情報と共にS氏の人柄と思考の深さ、視点の確かさが率直な文章に醸しだされ、毎朝のチェックが欠かせません。「がんばろう日本」だの「東北の被災地に向けて・・」と云った空虚な「言葉」が、日本中に氾濫している現在、自分自身を現場に置いて、黙して奮闘している方々の実践と言葉の重みは、そのまま人間が生きるということの価値と品格を教えてくれているようで、恥じ入るばかりです。――――――――
このS氏、坂下嘉和氏が本日(8日)の山日新聞一面で大きく報じられていますので、あらためて本名で雑感を記しておきたいと思います。
 もう十数年前になりますが、町の文化講演会に生物学者・池田清彦氏を招聘しました。講演の中で「最近、ジョギングやウォーキングを欠さない人が多いけど、あれは走らないと頭がむずむずして気持ち悪いから走ってるだけです。走ることで脳がドーパミンを分泌して気持よくなる一種の中毒ですから、タバコや麻薬が悪と云うならこれもほめられたものじゃないんです」と池田氏流の歯切れで一笑に付しました。その時、立ち上がって拍手の賛意を示したのが坂下氏でした。当時の坂下氏は竜王走ろう会の中心メンバーで、旅先でも毎朝のランニングは欠かさないのを知っていましたから「我が意を得たり」と拍手する姿に驚きました。終了後「いやあ面白かった。スッキリしないから走っていることは自覚していたから、ああ云う風に本当のことをズバッと話してくれると」以来、坂下氏とは何かにつけて、ご一緒してきました。
 先月の山日新聞でも脳科学者中野信子(縁者なので呼び捨て)が、「人を助ける利他行為は、脳に良い刺激と快感をもたらす」旨、指摘していました。この一面を坂下氏自身は自覚しての20回以上に及ぶ東北行きでしょう。「自分のモチベーションも上がり気持ち良いから行くだけで、特別立派なことをしているとは思わない」というスタンスが彼の言動からはうかがえます。これこそ彼の優しさと凄さだと思いながら「OTOUのブログ」を愛読してきましたが、今日の雨宮記者の的確かつ絵物語のような文章と広瀬カメラマンがとらえた笑顔、「山日ヤルジャン」です。

2012年3月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―125 『芽立ちの雨』

この国には、年中行事や四季折々の季節の言葉と心を集約した「歳時記」と云われる書物があります。日本人の季節のバイブルでもあり、「歳時記」によって日本の美しい四季のうつろいを確かめ、豊かな感情で生活する源にもなります。純子さんは、この歳時記を生活の中に定着させてきた人生といった感じで、今日も「きのうの雨は、本当に芽立ちの雨でしたね」と声をかけてくれました。
 「目も悪い、耳も悪い、頭も顔も悪いで、本当にしょうがないですね」と謙遜が常の純子さんですが、季節を楽しむ術を心得て、四季折々を洒脱に暮らしながら、伝統文化や粋なふるまいを含めた歳時記をさりげなく教えてくれる爪を隠したありようは、古風でもあり新鮮です。
「芽立ちの雨」の実景は、杉浦醫院庭園のあちこちで散見出来ます。寒さの冬を越した命の芽吹きをそっとうながす春雨を「芽立ちの雨」と形容した先人の感受性と表現力にも感服します。

2012年3月6日火曜日

杉浦醫院四方山話―124 『杉浦醫院石景-4』

苔庭の反対側母屋玄関前から東側の庭と医院玄関側から西側を撮った2枚です。
 この石の台座は、上に笹野恵三氏作のブロンズ胸像があった「頌徳碑」です。昭和9年9月10日に押原小学校校庭で盛大な除幕式が行われ、押原小学校旧講堂前に設置されていましたが、戦争中の金属供出令で胸像を供出したことや個人崇拝を廃した戦後の教育改革もあり台座が杉浦家に戻されたものです。二段の基礎石の上に更に二段で碑文が刻まれた台座は、全て岡山県産の龍王石を用いて、「其ノ経験豊富ニシテ技術ニ秀デタル本縣甲府市新青沼町望月光治氏ニ契約セリ」と頌徳誌に記録があります。
 右の石碑は、昭和4年に建立された「清韻先生寿碑」と台座となる天然石です。頌徳碑とこの寿碑の間にも石塔があります。写真では分かりにくいのですが、杉浦邸庭園の中の石塔では一番古いものと思われます。加工も荒削りですが、傾き加減も含め味わい深さがあります。地方病流行終息碑も含め、庭園内の石塔や石碑、石組などを観て回るのも面白い散歩になろうかと・・・どうぞ、ご自由に散策下さい。

2012年3月3日土曜日

杉浦醫院四方山話―123 『杉浦醫院石景-3』

 母家の座敷を囲む苔庭を東側から撮った写真が上で、西北側からが下の写真です。
苔の生育保護の飛び石かと思いますが、飛び石も、茶の湯と共に生まれたようです。京都に茶室をつつむ苔庭が生まれてから、履物の裏がしめるので飛石がよいとされ、苔庭に飛び石が定着したそうで、杉浦家の苔庭に配された飛び石も座敷でのお茶会を想定しての打ち方になっています。  客人は玄関横から飛び石に沿って苔庭に入ると西側から座敷に上がれるよう大きな履脱ぎ石があり、帰りもここから西北側へ飛び石に沿って抜けられるようになっています。
 この苔庭の中にも三角形の頂点に置かれたように三塔の石燈が建ち、大小、高低のみならず山石、川石、海石と様々な種類の庭石が置かれています。日本庭園の特徴は、この石組がもたらす抽象的な表現が、苔や庭木と一体になって文化、宗教、哲学などの思想を背景にした意匠を生み、高度な独自空間を造りだしている所にあります。写真をクリックすると拡大しますので、その辺もじっくりご覧ください。間もなく苔も青々してきますのでご来館しての苔庭もお楽しみください。

2012年3月2日金曜日

杉浦醫院四方山話―122 『杉浦醫院石景-2』


前話で、庭園内の雪をかぶる石塔や石碑を個々に紹介し始めましたが、造園の過程でそれぞれの景観の中に「石」が効果的に配されていることを考えると一つずつアップで紹介しても意味がないことに気付きました。また、雪で石塔の全体像が分からない不具合もあり、「雪景」を「石景」に変えての紹介です。前話の「苔むす石つくばい」「地蔵のような石塔」「石橋」「石積み」等々、池を中心に構成されたこの一角に配置されている「石」の全体像が、この2枚でよりお分かりいただけるかと思います。左右と真ん中の石塔や何気なく配された数々の石。是非実物をご覧ください。


2012年3月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―121 『杉浦醫院雪景2012-1』

   「確か去年も杉浦醫院雪景を撮ったな」と去年のページを開いたら、2011年2月18日付27話で、雪の庭園を紹介していましたので、今年は、雪を頭に乗せたり、雪中に佇む杉浦醫院庭園内にある石燈をご紹介いたします。「この庭の石碑、石燈や飛び石は見事だね。石が全然違うし、全て手彫りだ」とS造園の親方が感服していましたので、機会をみてご紹介しなくては・・・と思っていたところに雪。「美しき笑顔に遇ひし雪の朝」とご機嫌に一句詠み、日本庭園の雪石撮影へと、すっかり和人気取りでの写真です。その辺がイカンなく醸しだされるといいのですが・・・

先ずは、万葉仮名で「古(こ)れより 野仏の美知(みち)」と彫られている道標です。現在は、アルプス通りで切断されていますが杉浦医院から竜王の榎方面にかけて、野仏が点在した畑道があったようです。正確な場所や距離など特定されていませんので、どなたか確かな情報をお持ちの方は、ご教示くださいますようお願いします。脇の大木が雪から守るようにたたずむこの石道標は、正面入って直ぐ右側の松の木の横にあります。



                                                                                                      
苔むす石のつくばいに竹のかけどいから井戸水が渡り、小さな滝となって落ちる水音に心が和む、こういう空間が日本庭園の芸でしょう。滝壷となる池の中には足踏みにもなる丸石が点在し、水は回遊して大きな池へと続きます。ホタルの幼虫もこの池に放ちますので、コケや草など自然のままに保っています。→







頭と肩に雪をかぶって池を見守るお地蔵さんのようにも見えるこの石塔は、その先の石橋や池の石積みと一体になり水をひきたて、向こう岸のモミジ、土盛りされた斜面の竹、その先の板塀へと池を中心に構成されたこの一画の起点となっています。