2014年1月30日木曜日

 杉浦醫院四方山話―309 『国立国会図書館から科学映像の配信が始まりました』

 ほぼ独力で「科学映像」の保存と活用活動に取り組んできたNPO法人「科学映像館」の久米川先生は、二年以上前から、科学映像を国立国会図書館のデジタル資料に提供する話を進めていたようです。フットワークの良い久米川先生には、役所のシステムや担当者の交代などで、具体化するまでには、ストレス要因にもなりかねない困難な状況も多々あったことでしょうが、今月21日に国立国会図書館のホームページ上でも
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2014年1月21日 その他
科学映像約100点を国立国会図書館デジタルコレクションで新規公開しました
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と、広報され公になりましたので、久米川先生のご尽力に敬意を表し、「久米さんの科学映像便り」に載っている久米川先生の挨拶文を転載させていただきます。

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国立国会図書館から科学映像が1月21日開示されました
私たちは2011年から国立国会図書館に働きかけ、1年後に科学映像館配信作品の納品が認められたのですが、このプロジェクトは、国立国会図書館も初めてのことであり、著作権処理の問題と納品事務処理の打ち合わせ等に、さらに約1年を要しました。そして2013年度と2014年度で206作品とそのメタデータを収めることが出来ました。

この度、その内の102作品が、1月21日(火)から公開されました。すなわち全国4箇所の国立国会図書館施設内での映像閲覧とデータベースの検索が図書館外かも可能となります。今回の納品は、本当に多くの方のご理解とご支援によったものであり、心からお礼申し上げます。

本日開示されたデータベースは、まずウェブサイト国立国会図書館トップページの左カラムの「国立国会図書館デジタル化コレクション」をクリックし、表示された項目から目的の科学映像へ

今回のプロジェクトは、いわば映像の閲覧を従来の図書館と電子配信機能のコラボレートであり、規模は小さいが、うまい仕組みの一モデルかも。

この納品作業によってNPO法人科学映像館も新たな一歩を踏み出すことが出来ました。今後は製作会社の作品以外に、個人が撮影された1950年以前の作品収集など新たな活動も進めたいと考えています。皆様の先代、先々代が9.5mmや16mmフィルムによって撮影された第二次大戦前後の映像が、ご自宅の蔵などに眠っていませんでしょうか。カビなどにより異臭で、退色したフィルムもマイスターにかかれば見事に蘇ります。皆様と一緒に後世への贈り物にしようではありませんか。皆様のご協力をお願いします。

9.5mmフィルム:1922年に発売された個人映画向けのムービーフィルムの規格であり、フランスのパテ社が開発。昭和10年代まで使用されていた。
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 久米川先生は、新たに「個人が撮影された1950年以前の作品収集」と云う取り組みを情熱的に始めています。先ずは、どんどん消えている昭和20年代位までのフィルムを収集して、60年代、70年代へと広げていこうということだと思います。
動画撮影が一般化されてない時代ですので、個人に限らず、役場や会社などで眠っている記録フィルムなどありましたら、是非、科学映像館での再生、配信にご協力ください。

当四方山話には「科学映像館」のラベルがあり、当館と科学映像館の連携・交流を記したブログもありますが、久米川先生の科学映像館ブログにも「伝承館」と云うラベルで、当館のことをご紹介いただいております。当ブログをお読みいただいた方の中で、古いフィルムをお持ちの方は、当館宛でも構いませんので、ご一報くださいますようお願いいたします。                 055-275-1400(杉浦醫院)
 

2014年1月27日月曜日

 杉浦醫院四方山話―308 『泉昌彦「地方病は死なず」3』

前話に続き、泉昌彦著「地方病は死なず」の中で、語られてい健造・三郎父子についてご紹介します。 160ページの「ギャアギャアになった母の章」では、

<”地方病患者に効かない注射を打って、蔵を建てた医者が多い”と、悪名高い医者どもの話は、有病地農民の間に、隠れもない事実として語り継がれている。>と辛口ですが、久さんの証言として、<当時の散髪代は、一人190円なのに、私が毎日医者へ運ぶ注射代は300円。それがまた、いくら打っても治らない、3軒も医者をかえて都合2,300本は打ちました。最後に教えられて行ったのが、今の昭和町で開業していた地方病の名医・杉浦三郎先生ですよ。杉浦先生のところで20本か30本打ってもらい、ようやく治りました>と。
また、この本には<中巨摩郡S町の米作地帯で、・・・>とか<1978年、S町でAさんの葬儀があった日、・・・>のように「S町」がよく登場します。当時の中巨摩郡でS町となるのは、「昭和町」「白根町」「敷島町」ですから、昭和町でのエピソードの可能性も十分あります。

 167ページの「昇仙峡に残る二枚の絵」の章には、杉浦醫院に通院した甲府の老婆の証言として、
 
<「一日おきに通院しましたが、乗り物のない時代のことで、朝暗いうちに出かけて昭和まで片道2里半(10キロ)の道を往復するのは、大変で苦しみでした」 この老婆が通院したころの杉浦医院の記憶では、朝暗いうちから150人から200人もの地方病患者が押しかけ、番号札をもらって治療の順番を待ったという。>とあります。
 
 上の写真が、現在も医院入り口に展示してある順番待ちの「番号札」です。既に数字が消えかかっているものもあり、「壱」は、使用頻度も多かったからか、消えた字をなぞって書き加えたようです。
純子さんも「多い日には300人近い患者さんがあり、病院の前庭には近所の農家が、米や野菜の店を出して、患者さんに売るほどでした。先生、場所代を払うように俺が言ってやる。なんて云う威勢のいい患者さんもいて、父は笑っていましたが、庭は、病院だか青空市場だか分からないようでした」と。
 
 このように、泉氏がこの本を書いたのは昭和50年代ですから、昭和52年に亡くなった三郎先生の記述が多いのですが、112ページ「小さな魂の供養」の章には、健造先生の名前が残っています。
 
<1924(大正13)年5月17日、中巨摩郡昭和村西条にある正覚寺において、ひそやかな供養が行われた。杉浦健造医師はじめ多くの医師たちが、人間の繁栄のために死んでいった、無数の実験動物の霊を慰めるための塚を建てたのである。この塚こそ、地方病撲滅に昼夜を厭わずに打ち込んだ当時の医師たちの、深い情の片鱗を伝えるものである。>と。
 大正13年5月17日と建立の日時まで残っている慰霊塚ですが、現在の正覚寺境内にはありません。この塚撤去も「地方病は終わった。地方病のことは隠せ」と云った風潮の中での出来事なのでしょうか?

2014年1月25日土曜日

 杉浦醫院四方山話―307 『泉昌彦「地方病は死なず」2』

 前話で紹介した泉昌彦著「地方病は死なず」は、その題名に全てが集約されています。昭和50年代後半の山梨県内は、官民問わず「地方病は既に終息した」という流れで、「終息だ終息だ」と云う声と雰囲気の中、ミヤイリガイ生息地の土地を安く買う先行投資が始まったり、かつての有病地では、地方病のことは隠すことが暗黙の了解事項となり、学校教育でも触れないのが一般化したそうです。そう云う状況を座視できない泉氏が、異議申し立て、警告の意味を込めて書いたのがこの「地方病は死なず」ですから、たいへん辛口の表記が本書の特徴でもあり、歴史経過の中で淘汰されるべき異論もありますが、伝えるべき正論も多く、貴重な資料であることは間違いありません。

 本書でも杉浦健造・三郎父子は取り上げられ、三神三朗氏と共に総じて客観的評価の証言なども随所に見られますので、ご紹介します。                                                   25ページからの「セルカニアの脅威」の中では、                                         

<セルカニアの脅威については、農民文学の作家、山田多賀市の主宰した「文化山梨」が、既に1950(昭和25年)に、驚異の実験データを特集している。実験者は、故杉浦三郎医師で、有病地では「地方病の神様」とされ、生涯を地方病の研究に打ち込んだ医師である。この実験は、セルカリアの侵入を阻止する予防薬と着衣の研究のために行われたもので、その方法は、まず・・・>で始まり、三郎先生の研究方法と結果が3ページに渡って紹介され、                                   <以上の実験で、出された二種類の薬品と、オリーブ色素を混ぜた薬品のみが、セルカリアの侵入を予防しうるとされた結果により、現在でも農作業をする際の予防油薬として使用されている。>と、結ばれています。

上記の内容を報じた昭和25年6月21日付けの山梨日々新聞

 69ページからの「ある医師と地方病」の中では、韮崎市の開業医・矢崎医師を取り上げ、取材した内容が記述されていますが、地方病患者を発見する名人と評判だった矢崎医師が自分の恩師は、杉浦三郎先生だと語っていたと次のように書かれています。                                  

<韮崎市では、地方病の研究は欠かせない医師の仕事であった。矢崎医師は、当時、既に地方病研究の第一人者とされていた杉浦三郎医師について猛研究をはじめた。「私の恩師は杉浦先生ですよ。私はこの先生について、検診から治療および地方病の生態実験とすべてにわたって教えを受けました。そのころのミヤイリガイは、100個すりつぶしてルーペで見ると、20個から30個の感染貝がみつかるほどです」と、その猛烈な蔓延ぶりを語ってくれた。話しは杉浦三郎医師の人となりに移り、「杉浦先生はきわめて無口でしたが、こと地方病のこととなると、急に熱を帯び、駆け出しに過ぎない私に、貴重な研究成果は何でも教えてくれました。」話しが熱してくると、来診患者の時間を気にしている矢崎医師をいつまでも帰さないほど多弁になったという。>と。


 三郎先生のもとには、敗戦間もない昭和20年8月27日に、進駐軍の将校がジープで東京から乗り付け、アメリカ人軍医に日本住血吸虫病の治療方法の伝授を要請し、以後一年近く入れ替わりで一人の軍医が10日前後、医院二階に滞在して研修を受け、フィリッピンに戻り治療にあたったそうですから、県内の若手医師にも同じように地方病の治療方法を熱く伝授していた三郎先生の姿が彷彿します。    

三郎先生は、「国境なき医師団」の先駆者であったことは、帰国したアメリカの軍医から山のように届いている礼状や質問などのエアメールが静かに物語っています。

2014年1月22日水曜日

 杉浦醫院四方山話―306 『泉 昌彦著「地方病は死なず」』

 書籍資料収集の過程で、泉昌彦著『地方病は死なずー山梨県「日本住血吸虫病」の実態ー』という本が1980年に新泉社から出ていることは前から知っていましたが、ひょんなことから郷土資料が充実している富士河口湖図書館の郷土資料室で、泉昌彦著「よばい星」(柳正堂出版刊)と云う本が目に留まりました。                              
  「あれ、泉昌彦は地方病は死なずの著者だよな」と思い、ページをめくると興味深い話が・・・・
赤松啓介氏の山梨版と云った感じで、足で取材した民俗学者の面白さと凄さが伝わり、さっそく借りました。
 
 泉昌彦氏は、他にも写真のような「伝説と怪談」シリーズや「現地取材 領海なき島・竹島 : 独島秘史」など多彩な文筆活動もされた甲州人ですが、「つぶて」の中澤厚氏同様実績の割に周知されていないように思います。
 1980年に出版された 『現地取材・領海なき島・竹島 独島秘史』は、「竹島は韓国の領土である」と云う明確な主張を日本の古文書だけではなく、朝鮮の古文書にも当たり、論じているのが特徴のようなので、時節柄一読したいのですが、島根県立図書館と島根大学図書館にしか無いようです。聞き取り調査や古文書解読など地道な作業を継続していく中で、権威やアカデニズムとは無縁な自由な発想と結論が、山梨でも陽の目を見ない異端研究者として扱われてきたように思います。

 たとえば、泉昌彦氏の「地方病は死なず」も「よばい星」や「現地取材 領海なき島・竹島 : 独島秘史」とジャンルこそ違うものの泉氏のスタンスや視点は共通しているのが特徴です。      昭和町立図書館にも収蔵されていますので、詳細は読んでいただくとして、地方病が山梨県に蔓延した実態として、「私が受けた種々の仕打ちには農民に対する悪感情のみ残されてしまった。他人に迷惑もかけず生活している私たちにさえ、居たたまれないような嫌がらせをする冷酷な排他性と愚民性こそ、地方病を蔓延させてきた要因であると、私は確信する」と結んでいるように「来たりモノ=新参者」に対する「おいっつき=先住者」の嫌がらせと村八分の実態を自らの体験を通した言葉で書き、閉鎖的な県民性が、自然環境や生活環境、医学的研究にも及んで、この病気の終息を遅らせてきたという視点で一貫し、考えさせられます。
 

2014年1月17日金曜日

 杉浦醫院四方山話―305 『ホタル幼虫放流・第一弾』

 
 都市化の進む昭和町にあって、杉浦醫院庭園の池は、源氏ホタルの生息には屈指の環境であることが、放流した幼虫の羽化数からはっきりしましたので、去年の六月からNPO楽空(らく)と協働で、旧車庫に水槽五基を置いて源氏ホタルの幼虫を飼育してきました。       毎週金曜日に西条地区の水路で、エサのカワニナを採集して水槽や池に入れてきましたが、ここにきて冬枯れの水路には水がなく、カワニナ採集も難しくなってきました。池には放流してきたカワニナが多数定着していることもあり、今年は幼虫を今月から順次放流してみようと第一弾の水槽一基を今日、放流しました。
  水槽の水を抜いて、目につく幼虫をピンセットで移したのが、上の写真で40匹程いました。
一般的には、この時期になると幼虫はエサを食べなくなると言われていますが、カワニナの減り具合が激しいので、未だ食べてるなと思っていましたが、下の写真のようにカワニナに頭を突っ込んで、食事中の幼虫も複数いました。
また、幼虫の大きさも様々ですから、まだまだこの先エサを必要とする幼虫もあり、新鮮な池のカワニナで大きく育つことを祈らずにはいられません。

 水を抜いた水槽を池に運び、下に敷いていた小石や砂利の中の幼虫を拾い出したのが、右下の写真です。50匹以上ゆうにいましたし、石に紛れた幼虫は、悲しいかな老眼では拾いきれませんから、今回の第一弾水槽は、独断で幼虫120匹としました。       
 

 例年3月に一斉に放流している幼虫を今年は今日から順次放流していくのは、昭和町源氏ホタル愛護会の目標でもあるホタルの自生に向けた取り組みの試行でもあります。   以前からあった「幼虫飼育と放流を繰り返すだけでは、本当の意味のホタル愛護ではない」とする批判は、愛護会でも協議し、自生に向けた環境づくりにも取り組んできましたが、町内にあっては「光」害問題が、安全安心の町づくりからも難問でした。
 杉浦醫院庭園の池は、放流したカワニナが一年目から自生したことから、「ホタルの自生も可能ではないか」と云う期待が、膨らんできました。そこで、今年なるべく沢山の成虫を発生させ、この池で産まれた卵が孵化して幼虫になり、池のカワニナを食べて成長し、蛹化し、羽化して初夏に舞う、源氏ホタル自生のサイクルを定着させたいとの思いです。その為に、放流する幼虫の数もなるべく正確に数え、成虫になる割合も測ってみようと思います。
 

 そうは言っても水槽から池へと移された幼虫は果たして喜んでいるのでしょうか?「水」に慣れるには人間でも時間がかかります。ましてや鯉や鮒こそいませんが、ザリガニはいますので、餌食にされる幼虫も多いかと・・・・事務室に戻ってカレンダーを見ると今日は「仏滅」でした。人間の勝手な計画や思いに翻弄される幼虫も物言わぬが故に不憫でもありますから第二弾からは、せめて「大安」に合わせる位のオモテナシはしようと思います。

2014年1月16日木曜日

 杉浦醫院四方山話―304 『田植え節句ー2』

この田圃が、井上家の「ねーま」だった田圃です。「ねーま」は「苗代」と同義語の「苗間(なえま)」が変じたものでしょう。
「今じゃあ、どこも苗は農協だけど昔は自分とこで作ってたから、ここが、ウチのねーまだったさ」                「親父が早く逝ったから、親父の後もう30年以上、田植え節句も俺がやってきた」        「時代で、ウチだって、若いしが俺が死んだらどうするか分からんけど、俺が生きているうちは俺のやり方で続けていくしかねーじゃん」             
「よく、一夜飾りは良くねーって30日に飾るけど、ウチじゃあ商売もしてるし、そこらで買ってきたモンじゃなくて、ちゃんと自分で作るから毎年31日になっちもうさ」
「ウチのやり方を覚えておかないと困ると思ったのか、若いしも写真に撮っていたから、正式かどうか分からんけどウチの正月飾りの写真も貸してやるよ」
「この時期、朝は特に寒いから昨日のうちに全部用意して、その一輪車に載せておいたさ」

「鏡餅を飾って南天を刺してお神酒(おみっき)をあげて、今年の五穀豊穣をお願いするだけの祭りだけどこれをしないと正月は終わらんだよ」

「これから、この鏡餅を砕いて雑煮を作って家じゅうの神さんにお供えするのがお田植節句だから、固くなった鏡餅を砕くのが大変さ、包丁なんかじゃ割れないよ」
「家じゅうの神さんって?」
「屋敷神さんとか家によっても違うけど7つ8つはあるもんだよ」と云うことで、山本家の神さんを教えてもらいました。

「ウチは、神棚の歳神(としがみ)さん、台所のお火神(こうじん)さん、お水神(すいじん)さん、大黒さん、蔵神(くらかみ)さん、屋敷神さん、お天神さんとか全部で九か所かな」
「大黒さんはお金の神さんですか?お天神(てんじん)さんは何の神様ですか?」
「学問の神さんだね」
「ほう、家の中に金から学問まで、神さんを祀っているから、金持ちで学問にも長けてるんだ」と、納得。


 井上さんが畝を切った農具「万能(まんのう)の柄にも一枚の紙垂(しで)が貼られていました。紙垂(しで)は、山梨では「おしんめー」と呼んでいますが、どうやら方言のようです。
しめ縄に付けることから「しめ」や神の前に祀ることから神=しんの前(めえ)などが合わさって「おしんめー」になったのか?定かではありませんので、どなたかご教示ください。この「おしんめー」も前話の山本さんと井上さんのおしんめーは形状が違いますから、神事や仏事の由来や違いなど調べだすと知らないことだらけであることが分かりました。矢張り、井上さんや山本さんのように神にひざまずく敬虔な生活習慣が身に着かないと神様のご利益もいただけないようですが、どうせやるなら井上さんのように農具にもおしんめーを貼るなど、万事手抜きなくやることは気持ち良いことだなあ~と、朝陽が早朝の澄んだ空気を突き抜ける田圃で、濁った心も洗われました。

2014年1月15日水曜日

杉浦醫院四方山話―303 『田植え節句-1』

 昨年の1月12日付けの当話で、昭和町の農家で行われていた正月行事「田植え節句」をご紹介しましたが、情報元の山本哲さんから10日(金)に「明日は11日だから、田植え節句をするから・・」と電話をいただきました。とっさに浮かんだのは「新年の飲み会か?」で、「何時から、何処ですか?」と聞くと「朝6時から田んぼで」で、我に返りました。ことほど左様に一年前自分で書いた「田植え節句」も「新年会・・酒」と云った目先の要求や期待に勝手に置き換えて聞いてしまうことが多く、間違いなくしっかり付いてきた老人力と云うことで、山本さんにはお許し願って「写真を撮りに行きますから」と昭和の田植え節句を目の当たりに出来ることになりました。









 山本さんが小学生の頃、およそ55年前位前まで、毎年1月11日には、お父さんに連れられて田植え節句をしていたそうです。
「俺の記憶だと大体こんな感じだった」と苗を育てた田んぼの取水口近くに神棚の正月飾りを祀って、供え餅を真ん中に周りには米をまき、最後に酒をふるまって五穀豊穣を祈願する農家の正月行事です。
 
 山本さんは、何事もきっちり正確に究める脳のクセがあり、自分に欠けている良いクセだと常々思っていましたが、「きのうの晩、同級生の無尽で、田植え節句の話をしたら、上河東の井上武さんが今でも毎年やっていると野中議員が教えてくれたから、正式なやり方は井上さんに聞くといいよ」と教えてくれました。更に「常永駅の辺の田んぼで、今頃やっているかもしれないよ」と。

 井上武さんは、「一坪農園」や県指定文化財妙福寺の「鰐口」の管理などでお世話になってきましたから、知らない方ではないことも手伝って、その足で常永駅に行ってみました。駅前の喫茶ピクニックの駐車場に車を止めようとすると山本さんの軽トラが現れ、「こっち」と先導してくれました。
ラッキーなことに右手の田んぼに、田植え節句の準備をしている井上さんがいました。山本さんの再現版「田植え節句」に続き、正式「田植え節句」の一部始終も井上さんの説明を聞きながら撮影出来ましたので、次話でご紹介致します。

2014年1月11日土曜日

 杉浦醫院四方山話―302 『儲けすぎた男 作家・渡辺房男氏』

 「新春ですから話だけでも景気の良い方が」と、「儲けすぎた男」と銘打って、作家・渡辺房男氏をご紹介します。
 当話242「一紅会歴史部会来館」でも触れましたが、渡辺氏は、1944年(昭和19年)に甲府市で生まれ、甲府一高から東京大学文学部仏文科に進み、NHK在職中に書いた「桜田門外十万坪」で第23回歴史文学賞、「指」で第18回世田谷文学賞、「ゲルマン紙幣一億円」で第15回中村星湖文学賞を受賞した実力派小説家です。
 
  昨年、11月には、指紋鑑定の歴史と刑事裁判の証拠主義への流れなど犯罪捜査の定番「指紋」をテーマに興味深い新刊「指の紋章」が発刊されました。この本は、山日新聞でも取り上げられていましたが、作家・渡辺房男の名前は、山梨の郷土作家として林真理子ほど周知されていないのが不思議です。それは多分に両者のメンタリティーの違いから生じたものと思いますが、個人的には渡辺氏のスタンスが好きです。

 さて、「儲けすぎた男 作家・渡辺房男氏」の表題は、たいへん犯罪的ですね。素直に読めば「渡辺房男=儲けすぎた男」になってしまい、誤解を招きかねません。

  昨年の一紅会の来館を機に渡辺氏から新刊の案内や賀状もいただき恐縮していた折、郵便小包で文春文庫になった「儲けすぎた男 小説 安田善次郎」を送付くださいました。これで、渡辺氏の明治経済小説三冊が文庫化され、入手しやすくなりました。明治経済小説トリオとは、右の三冊です。

 「儲けすぎた男 小説 安田善次郎」は、コピーに「富山の最下級藩士の家に生まれながら、一代で大財閥を築き上げた安田善次郎。幕末明治の激動期、貨幣価値の変化の機を捉え、莫大な巨利を手中に収めて、日本一の大銀行家へと昇りつめた男がみせた、ここ一番の勝負勘とは? 東大安田講堂を寄付し、近代日本金融界の礎を作った傑物の生涯を活写した歴史経済小説。」とあります。

 「円を創った男 小説 大隈重信」は、「日本の通貨「円」はいかにして生まれたのか。旧幕時代の複雑な貨幣制度を廃し、統一通貨を「円」と命名する-。若き日の大隈重信の苦闘を通して、近代国家誕生のドラマを描く歴史小説」です。

 新刊「指の紋章」もそうですが、渡辺作品は、丹念に膨大な資料にあたって書かれているのが共通していますから、経済にはあまり興味が無かった私にも楽しめたのは、資料に裏打ちされた正確な歴史小説だからだと思います。
学校で学んだ古代から始まった日本史では、中学でも高校でも近現代史は尻切れトンボで終わっていましたから、明治、大正、戦前のその時代と格闘した日本人の実像や現在まで続く制度の源流を知ることも出来、あらためて日本の歴史教育は、近現代史から始めた方が、興味が持てて良いのになあ~を実感しました。
 
 「資料」で思い出すのは、同じ渡辺姓で昭和町河西にお住まいの小説家・渡辺清氏です。20年近く前、お宅で渡辺さんの小説作法を聞く機会があり、新聞、雑誌等の記事を小まめに整理してある資料ファイルを拝見し、資料収集は小説を書いていく上で欠かせない旨の話を聞きました。渡辺清氏の新作情報を聞かなくなりましたが、ご健筆でしょうか?
 
 
 渡辺房男氏は、新たに「甲州金」をテーマに新作に取り掛かっているそうですから、郷土作家が描く甲州と謎の多い甲州金の解明に期待が膨らみます。

2014年1月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―301 『午年のスタート』

 
あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします
 
 今年は午年で、子年からはじまる十二支の12年では、ちょうど折り返しの年に当たります。これは、陽から陰へと変わる転換期でもあり重要な年とされているようです。
 また、午の刻は,午前11時~午後1時を指し、その中間である12時を正午といい、一日のなかで最も気が抜けやすい時間帯だともされています。「牛」の角が抜けて「午」という字になったという説もありますから、間抜けな私は、これ以上「抜けない」よう気をつけなければいけない年なんだなと思い直しています。

 「正午」で思い出すのは、「汚れちまった悲しみに. 今日も小雪の降りかかる 汚れちまった悲しみに. 今日も・・・」のリフレンや有名なオノマトペ 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」 の詩人・中原中也です。
 

正午

丸ビル風景

 



あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな



 サイレンだサイレンだ  出てくるわ出てくるわ  小ッちやな小ッちやな   ・ ・ ・ ・  等々、リフレインを巧みに使い丸ビルから気が抜けて出てくるサラリーマンの様子をユーモアかつ効果的に描いたこの詩も中也の代表作でしょう。




 この詩が好きなのは、「ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな」のフレーズが、サラリーマンの気抜けした午休(ひるやす)を一層空しく表象し、江戸時代の有名な川柳「酒なくて なんの己が 桜かな」の頭の5字「酒なくて」が自然に彷彿されるからです。何のことはない「中也も丸ビルから排出されるサラリーマンを見て、率直に<酒なくて なんの己が 桜かな>と思ったんだ」と、勝手な解釈を喜んでいるだけですが・・・

 正月をいいことに酒に浸った余韻の戯言で失礼しましたが、お口直しに杉浦家の艶やかな博多人形の舞いと福助の招福写真で、皆様に幸多かれとお祈りいたします。