2012年11月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―200 『清水章子(あやこ)朗読会で・・』

 11月20日に昭和町立図書館で開催された昭和町タイムリー講座は「清水章子朗読会」でした。十数年前、中央公民館のメイン教室として始めたタイムリー講座が現在も続いていることもうれしく、かつ読書の秋に図書館を会場に県内朗読会の第一人者清水章子先生を迎えての文字どおりタイムリーな企画の上に思いがけない話をうかがっていたので馳せ参じました。と云うのは、図書館長から「清水先生が、朗読作品の一つに杉浦医院四方山話を取り上げたいそうですが、著作権は・・?」との問い合わせがあり、「私はネット上に載っている文章や写真に著作権云々というのはおかしいと思っていますし、ましてや私の駄文に著作権などおこがましいどころか、清水先生のお目に留まっただけでも光栄のイタチですから・・」と笑って答えた経緯があり、「はて?先生はどの話を朗読下さるのか?」と、個人的な興味もありました。
 会場は、先生の朗読を楽しみに集まった方々の「聴こう」と云う熱気で溢れる中、独唱会でもあるスタート作品に195話の「山葉寅楠-2」が朗読され、「四方山話は、私のお勧めブログです。この話の前後もブログでお読みになって下さい」と過分なご紹介もいただきました。
自分が書いた文章が、期せずして清水先生の間を活かした朗読で聴くという光栄に浴しての感想は「音読しての推敲が必要だな」でした。思えば、不特定多数に発信している以上、目に余る誤字脱字や文章の重複等の推敲は同僚にもチェックしてもらうようしてきましたが、声に出して読んでみると云う事は、皆無でした。
「歴史のなかで吟味され生き抜いてきた名文は声に出して読み上げると、そのリズムやテンポのよさが心地よく身体に染み込んでくる」と、著書「声に出して読みたい日本語」で斉藤孝氏が指摘していたことを清水先生が暗唱してくれた「外郎売りの科白(ういろううりのせりふ)」を聴いて実感できました。「外郎売りの科白」から樋口一葉の名作まで、先生の視点の確かさと幅の広さが表出されたプログラム構成も見事でしたが、その末席に私の駄文も仲間入り出来た光栄を重ねて感謝申し上げます。昭和町での朗読会ということで取り入れてくださったのでしょうが、200話の節目に貴重な学習ができましたので、少しでも「音読による推敲」の成果が見られるよう精進していこうと思います。

2012年11月20日火曜日

杉浦醫院四方山話―199 『廢院に向きあふ椅子や暮の秋』

 私事で恐縮ですが、10月の週末に同級生諸氏と『飯田蛇笏・龍太の「山廬(さんろ)」見学会』を開催しました。昭和43年に高校を卒業した面々の多くは首都圏で働き、定年退職で時間的な余裕が出来たのでしょう「よん燦会メールリンク」を立ち上げ、様々な行事をメンバーが企画しては開催しています。
 サントリーのチーフブレンダー輿水精一君の計らいで、昨秋は「山崎」、今春は「白州」と特別試飲のおいしい恩恵にも浴す見学会もありました。その矢先に≪世界的な酒類コンペティション「インターナショナル スピリッツ チャレンジ(ISC)2012」でサントリーは、シングルモルトウィスキー「山崎18年」と「白州25年」の双方にウィスキーカテゴリー最高賞トロフィー授与という、ISC開始以来の初のダブル受賞を達成した。≫と報じられ、トロフィーを抱く渋い輿水君が世界中に配信されました。県のやまなし大使としての活躍も期待される彼は未だ現役バリバリです。
そんな一環として、秋の故郷散策ツアーの企画を任された今回、メインを非公開の「山廬(さんろ)」として、「物見遊山の見学者ではないから」と、飯田秀実氏にお願いしたところ実現した見学会でした。飯田夫妻のご案内で、「後山」と命名されてきた裏山から山廬内部まで約2時間、「雲母」の聖地をくまなく見せていただき、県立文学館で開催中の「飯田蛇笏没後50周年展」の図録も蛇笏の落款印入りで購入することもできました。参加したK君から、メールが届きました。
―――――――(前・中略)――――――
せっかく俳句好き人間の聖地に行ったので、所属している句会にいくつか投句しましたが、選に入ったのは山廬ではなく杉浦医院で作った句でした。
   廢院に向きあふ椅子や暮の秋
                           ――――――――――――――――――――――――――――――――――――
午後は、杉浦醫院を案内した訳ですが、診察室を観て、この句を詠むK君の感性もバリバリ現役で、ボケかましの自分には、同級生諸氏から受ける刺激は、ありがたく効きます。

2012年11月17日土曜日

杉浦醫院四方山話―198 『生まれる子に罪はないけれど』

 杉浦家には、健造先生や三郎先生が報じられた新聞や雑誌が保存してあり、当時の研究や治療の医療事情から人柄まで分かり貴重な資料として大変助かっていますが、その新聞に載っている他のニュースや広告も面白く、つい一緒に読んでしまいます。
 昭和31年8月31日金曜日の朝日新聞全国版の「人寸評」と云うコラムに「米国から研究奨励金を受ける・杉浦三郎」の見出しで、顔写真入りの三郎先生の寸評が載っています。
 ≪この人の妙な癖は年齢のサバを読むこと。年を聞かれるときまって「58歳」と答える。が実は60歳。「60歳といえば定年でしょう。学者は将来があるようにしておかなければ」というのが弁明だ。≫といった内容の「寸評」が続きますが、評した人が誰なのか署名がありません。「人物評」は、評す人の目を通した評価ですから、その人の視点や価値観で三郎先生の寸評も大きく違ってくるものと思います。当然、署名すべき記事のように思いますが・・・これも時代の違いでしょうか。
同じ紙面に川端康成の連載新聞小説「女であること」の168話があり、最下段には、「週刊朝日」と「アサヒグラフ」の広告が2段抜きでありました。「週刊朝日」と云えば、佐野眞一の「ハシシタ」記事で物議をかもし、朝日側の全面謝罪で落着しましたが、それについては、副島隆彦の学問道場「今日のぼやき1340話―橋下徹大阪市長や一部大阪市特別顧問による「週刊朝日」に対する“言論弾圧”問題について考えるー」の中田安彦氏の論考が現時点ではベストな考察だと私は思いますが・・・    
「週刊朝日昭和31年9月9日号」で、「生まれる子に罪はないけど」と報じているのは、日本の人口問題で、「南から北へ、山だらけの細長い国土に九千万という人口・・・考えただけで頭が痛くなる。しかも1年に約百万人ずつ増えている」と、日本の人口増を危惧する特集記事です。総人口が1億2665万人になった今日、「少子化に歯止めを!」「少子化対策を!」と騒ぎ、多額の税金を投入して少子化を何とかしようとしている日本です。現代も世界規模の「人口問題」は明らかに「人口が増えすぎて困る問題」です。地球規模の「環境問題」もペットボトルのリサイクルより「人口を減らす問題」です。昭和31年に九千万人になろうという日本の人口増に頭を痛めて、減らす必要を特集した「週刊朝日」。「年金体制維持にも少子化対策は必要不可欠」と寝ぼけた目先の一国主義は、グローバル社会では通用しないことなど「本当のこと」は報道されない現代日本。50年前のジャーナリズムの方が・・・と、考えさせられました。

2012年11月14日水曜日

杉浦醫院四方山話―197 『イギリス葺き』

 日本で茅葺(かやぶき)屋根の家屋を見かけると懐かしさと珍しさで足を止めてしまいますが、イギリスはじめヨーロッパでは、茅葺屋根はステータスとして、現在も高級住宅地の新築家屋には使われているそうです。日本でも茅葺屋根をトタンや銅板で覆って、合掌造りや兜造りの家屋、古民家を残している集落の取り組みもありますが、茅葺屋根の葺き替えをする職人さんも日本には数少なくなっているそうです。
 現在進行中の土蔵の整備改修工事には、大工さんはじめ左官さん、屋根屋さん等々の職人さんが入っていますが、先日見えた板金屋さんが、土蔵の隣の旧車庫の屋根を見て、「イギリス葺きと日本葺きが一緒なのも珍しいなー。多分、後から補修したじゃねーの左の日本葺きは。元々は全部イギリス葺きだったと思うよ。イギリス葺きは、雨戸の戸袋にもよく使ったけどねー」と話してくれました。
 早速調べてみると、一口でトタン屋根と言っても葺き方の種類は非常に豊富で、大きく分けると棒葺き、平葺き、横葺き、菱葺き、亀甲葺き、波トタン葺き等に分かれます。
板金屋さんが教えてくれた「イギリス葺き」は、「菱葺き」もしくは「亀甲葺き」の総称のようで、確かに雨戸の戸袋にはありました。
 菱葺きは、菱形のトタンを葺いていく方法で、トタン葺きの屋根としては最高のようです。菱形を更に細工して亀の甲羅形にしたものを亀甲葺きと云い、デザイン的にも見栄えする意匠葺きのようです。そう云えば学生の頃、横浜の裏通りをうろついて「何だ。横浜って洒落た街だと思っていたけど、屋根も壁もトタンの家ばっかりで・・・」とトタンを蔑んだ記憶が蘇りましたが、多分に「日本葺き」の平葺き屋根と波トタンを打ちつけた壁だったように思います。「イギリス葺き」の亀甲葺きや菱葺きは、素材がトタンでもましては銅板だったら確かに見事な板金文化だなー・・・と、途端に相変わらずのトタン蔑視が見え隠れしてしまい、トタンにはホント申し訳ありません。

2012年11月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―196 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-3』

 「やっとできた。認められた!伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうぞ使ってください」と山葉寅楠は、このオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所に寄贈しました。これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを「国産オルガン製造成功!」と東京芸術大学学長のお墨付きとして語り、そのニュースは口コミで広がって「山葉風琴製造所」は、本格的にオルガン製造にとりかかることになります。そして、1年後、風琴製造所の従業員は100名を超え、ロンドンに輸出するまでに急成長しました。
 
 明治22(1889)年、寅楠は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を「日本楽器製造株式会社」に改組し、今度は国産ピアノの製造を目指しました。
伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡りピアノ工場を見学し、部品を買い付け、会社の総力をあげて、国産ピアノ第1号の製造にとりかかります。
アメリカで買い付けた部品を基に、ピアノの生命といわれるアクション=響板には、日本で開発したものを使おうと、河合の親戚の河合小市と云う当時11歳にその響坂制作を委ねたそうです。天才少年河合小市は、後に「河合楽器」を創業した人物ですから、ヤマハとカワイは、国産オルガン製造からピアノに至るまで、二人三脚で築き上げてきた訳です。「男は男に惚れられなければ事業に成功できない」と云う寅楠の名言は、協力者・河合の存在なくしては生まれなかった実感だったのでしょう。
   以上、国産ピアノ誕生までの「物語」の概要を「日本のピアノ100年」を基に紹介してきましたが、「いのちの授業」とか「安心安全な○○づくり」が、全国至る所で取り組まれている現在、「先ず惚れること」とか「惚れられると・・」と云った個々の感情とか思いの大切さや多様性による人生の面白さについて、学校も社会も触れません。それどころか、安直な不案操作のように何年か周期で、学校でのいじめ問題をマスコミは話題にします。個々のケースや原因は様々なのに決まって、「自殺」を引き金に「学校や教育委員会の対応」を軸に、いじめた側、いじめられた側双方の家庭状況まで、のぞき見的に取材して臨場感を出す手法まで同じです。
 学校と云う閉鎖社会の中で、近年特に強まっている「同質性圧力」が、いじめの原因として根底にあることは間違いないのにその辺の本質的な報道では面白くない?のか、ただただ不安を煽る子育て環境醸成報道になっています。「学校で通用している価値観などたかがしれている。もっともっと世界は広いぞ!」と、寅楠と河合の人生物語は教えているようで、こう云った魂を揺さぶる「物語」も、同質性圧力から逃れる一つのバネとして、有効もしくは効果ありの教育的指導のように思う今日この頃ですが、如何でしょうか?

2012年11月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―195 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-2』


 山本さんからの電話で「ヤマハ トラクス」と聴いた時「ハーフなのか?」と思いましたが、寅楠という漢字と紀州藩士の家に生まれたことを知って、同郷の植物学・民俗学者の南方熊楠(みなかた くまくす)が浮かび、ふと、江戸末期の紀州藩では、名字帯刀を許された男子には、「馬楠」「猿楠」と云った「動物名+楠」が、流行ったのかな? と・・余談はさておき、本題に・・
 
 寅楠は、来る日も来る日も修理を頼まれたオルガンの内部を調べ、全ての部分を細かく図面に書き写し、約一ヵ月でオルガンの構造や必要な部品について、何十枚もの図面に書き落とし、壊れたネジも治金術で造り、元通りに修復してしまいました。
 書き写した図面を基に寅楠は、一からオルガンづくりにかかるため資金を求め、あちこち尋ねては協力を求めますが、多くの人は「気でも狂ったか」という中、一人だけ飾り職人で小杉屋を営む河合喜三郎が寅楠の熱意と腕にかけてみようと協力し、小杉屋の仕事場で、朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でオルガンづくりに没頭し、約2ヵ月かかって第一号オルガンを完成させます。真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらうと「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われ、静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)でも同じ結果でした。ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代で、「調律」と云った言葉も知る人がいない地方でしたから、何がどうおかしいのか、河合と寅楠にも、肝心なところがわかりません。何をどうすればいいのか・・・もっと偉い先生に聞いてみなければと二人は、作ったオルガンを音楽取調所(現東京芸術大学)に持ち込むことにしました。二人は、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運んだと云います。100k近い重量のあるオルガンを箱根の山越えもある東海道を約270kmです。いったい何日かかったのでしょうか・・・・
ようやく音楽取調所に着いた二人に教授たちは驚きました。先ず「素人の個人がオルガンを造ってしまったことに」驚き、「そのオルガンをかついで運んで来たこと」に驚き、「音が全く外れていること」にも驚いたそうです。
   西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が出来ていないが、あと一歩です。君たち音楽を学んでいきなさい」と二人のために、宿舎を提供し、音楽取調所の聴講生となることを許可してくれます。寅楠は、調律、音楽理論を必死で学び、浜松に帰って、すぐ2台目の製造にとりかかり2ヵ月で第二号のオルガンを完成させ、天秤棒で再び270kmの道のりをかついで音楽取調所に向かいました。そこで、伊沢教授の「すばらしい!よくやりましたね。外国製に負けない見事なオルガンです」の賞賛に、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。そうです。

2012年11月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―194 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-1』

 190話「山葉ピアノ」の文中で「確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には・・・」の件に関して、山本哲氏が、YAMAHAの創業者は、山葉寅楠であることと杉浦医院内にピアノがある必然性について、教えてくれました。調べていくと「山葉何某」では、失礼の極みであることと和製オルガン誕生の隠された歴史は、「日本人のモノづくり」について考えさせられる「物語」を内包していますので、寅楠氏とその人生についてご紹介してみます。
山葉寅楠は、江戸幕末期の嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた武士ですが、明治維新で家が没落し、寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。ところが肝心の仕事がなく、技術者として職を求めて、全国各地を転々とした結果、明治17(1884)年、寅楠35歳のとき静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらい、浜松に赴きます。要するに寅楠は、県立病院の医療機器修理を専門に請け負う技術者だったのです。
 当時、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられ、浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入したそうです。オルガンは外国製で、とてつもなく高価なものでしたから、このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学に訪れたそうです。
ところが、このオルガンがすぐ故障してしまい、外国製で、部品もなければ修理工もいないことで困った学校は、浜松県立病院に医療精密機器の修理工・山葉寅楠がいるという話を頼りにオルガン修理を寅楠に依頼したのだそうです。寅楠にとっても、見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安だったでしょうが、まわりの人が心配そうに見守る中、オルガンを点検し、内部のバネが二本壊れているだけだと寅楠はすぐに見抜いたそうです。同時に「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」「アメリカ製のオルガンは45円(現4500万円)もする。自分なら3円(現30万円)ぐらいでつくることができるだろう!」と、また「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」と国産オルガンの製造を決心し、個人商店「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」を立ち上げたのだそうです。
風琴(ふうきん)は、風を送って音を出す琴といった意味で、オルガンの和名でしょう。ここから国産オルガン第一号が製造されるまでの「物語」に続きますが、オルガンからピアノへと進んだ原点は、「医療機器」にあったことを三郎先生は知っていたのでしょうか・・・

2012年11月3日土曜日

杉浦醫院四方山話―193 『四方山話も2年・・・』

 当館ホームページ開設に合わせて書き出した「杉浦醫院四方山話」も2年になりました。「ホームページの命は、更新だよ」とIT会社経営者でもある当時の昭和町教育委員長油川勝司先輩は、一言にこやかに放ちましたが、ご記憶でしょうか?
 前後して、敬愛する池田清彦先生がオフィシャルブログを開設したと聞き、拝読を楽しみにしてきましたが、今年1月の「寒いですね」以来、猛暑の夏でも「寒いですね」のままで、これも「先生流のジョークだな」と笑ってしまいましたが、確かに更新されないサイトは、開設している意味がありません。 まあ、常々IT社会や電脳文化に興味も期待もないことを公言し、「虫捕る子だけが生き残る~「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか~」の著者でもある池田氏ですから、「オフィシャルブログ」開設自体が不自然でしたし、書籍への執筆依頼は絶えないでしょうから、「ネット上で無料サービスする程、おバカじゃありませんよ。しっかり本を買って読みなさい」と、無更新サイトで、警告を発しているように思います。
 油川先輩のアドバイスに「ホームページなんて興味もありませんから」と池田氏のように突っ張れる強さも才能も持ち合わせていない私にとって、「更新が命」は、数日頭から離れませんでした。
 当時は、11月のプレオープンに向けて、庭園や裏庭、病院や土蔵、納屋の片付け作業が続き、杉浦家所有物の廃棄など一存では出来ないことから、純子さんの了解とりに一日に何回も尋ねました。その都度、純子さんからは、「お任せしますから・・」と拘らない返事と共に、その品々にまつわる含蓄ある話を伺うことができました。そんな話を肴に酒を飲んでいた夜「面白い話をこうして俺だけが愉しんでいたら申し訳ない」と「これで更新だ!」と閃きました。思えば、次のテーマも酒を飲みながらふと思いつくことも多く、ホント「酒」には感謝です。医者によっては、「典型的なアルチュウ症状です」と診断されかねませんが、「飲むことに後ろめたさはありませんから」と、ここは、しっかりツッパルしかありません。
 そんな訳で、2年間で約200話の「四方山話」を書いてきましたが、思いがけない方々から「愛読しています」と声をかけられることが重なったりして、「書くこと」や「ネット」にちょっと怖さも感じますが、東京在住の純子さんの妹さん方始め、ご親戚の方々から「インターネットで、私や家のことは行かなくてもみんな分かっているから安心・・・って、電話がありました。」と純子さんも喜んで報告してくれるので救われますが、「杉浦醫院四方山話」は、純子さんあっての「話」ですから、勝手を書いたりでさぞご迷惑でしょうが、お見逃し下さい。
 また、科学映像館の久米川先生からは「もっと短文で、行変えを多くすると読みやすくなる」と的確なアドバイスをいただいてきましたが、田舎者故に流行りのスタイルへの変換が出来ず、・・・・です。
今朝も山本哲先輩が、190話を読んでの貴重な「話」を電話で教えてくれました。さっそく調べて、次話で報告いたしますが、このコーナーも諸先輩はじめ皆々様の御蔭だな~と、遅い感謝です。

2012年11月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―192 『玄関を彩る花々』



 本オープンに向け現在、裏の土蔵の改修工事が進められていますが、杉浦醫院がプレオープンして、今月で2年目を迎えます。プレオープン中は、整備改修が終わった庭園と病院棟、旧温室建物の公開ですが、旧杉浦医院の玄関は、1年目から西条一区の堀之内一郎さんが定期的に届けてくださる花々で年中、彩られています。9月にご紹介した181話「丸菊」も、花言葉から「赤色中心に咲かせたいものです」と願った4鉢が、ご覧のように全て赤く咲き始め、「念じた甲斐あり」でパチパチしてしまいました。
 先日、今度は寒さの中でも冴えて色づく「ハボタン」の鉢が、紅白各2鉢届いていました。「届いていました」は、堀之内さんのお人柄でしょう、丸菊も私たちが気付かないうちにそっと玄関に置いて帰られ、今回も休館日の日曜に届いていたからです。「花を愛する人は、心広き人」と云った歌や「花を愛する人に悪い人はいない」と云った言葉が、堀之内さんからは自然に彷彿します。また、昭和町商工会婦人部の方々も先日、3回目の清掃作業に汗を流して下さいましたし、近所の杉浦精さんは毎朝のように庭掃除に馳せ参じていただくなど、高校生から老若男女を問わず、多くの方々の当館へのお力添えに支えられての2年だったなーと、そんな善意が結実した象徴が、玄関を彩る花々であるようにも感じ、この場をお借りして、あらためて「ありがとうございます」と御礼申し上げます。