2013年9月28日土曜日

 杉浦醫院四方山話―277 『医業・医者ー3』

 御殿医や藩医は、代々同じ家が務めてきたことを前話でご紹介しましたが、杉浦家も江戸時代初期から昭和52年まで9代に渡って、この地で医業、医者をしてきましたから、御殿医や藩医と同じで、俄か町医者とは別格だったことを物語っています。
 また、江戸時代までは何代か続いた医者の家でも明治になって、医者になる資格や試験制度が整えられていくと途絶えてしまった家も多いそうですから、健一先生を含め10代医者が続いた杉浦家は、やはり特筆すべき家系でしょう。

 さて、江戸時代に医者を志す理由の一つは、武士でないのに医者には名字帯刀が許されたからだと云います。また、犯罪で捕まっても町人が入る牢屋ではなく、武士や神官などが入る揚屋(あがりや)と云う特別な牢に入れたそうです。これらは、漢文で書かれていた医学書を学ぶ必要から漢文を学ぶ過程で四書五経を修めた者が多かった為、与えられた特権だったようです。
 名字帯刀等の特権目当てに医者になる者もいたことからも江戸時代の医療はそれほど信頼されていなかったとも言われ、病を払う加持祈祷も盛んでした。

小石川療養所の井戸

「医者坊主(いしゃぼうず)」と云う言葉があるように、江戸時代の医者は髪を剃っているのが一般的だったようです。また、現代の病院や医院のように患者が来院するのではなく、もっぱら往診が主だったことも開業しやすい一因だったようです。
 
 保険制度のない江戸時代の医療費は、たいへん高額で医者に掛ることが出来なかった貧乏人も多く、目安箱で有名な八代将軍徳川吉宗が、目安箱に投じられた「貧しい人にも医療を」に応えて、無料の「小石川養生所」を設立したといわれています。
同じように「赤ひげ」に代表される献身的な町医者の存在も語り継がれていますから、保険制度に代わる「医は仁術である」の教訓で救われた人も多かったからこそ「江戸人情話」にも町医者はよく登場したのでしょう。

 

 杉浦醫院四方山話―276 『医業・医者ー2』

 雑談の中での純子さんの話には、ウエットに富んだ面白いエピソードが多いのも特徴です。先日も「父は、家には竹藪があるから、正真正銘の藪医者だ、とよく言ってました」と三郎先生の冗談話を紹介してくれました。
 適切な診療や治療ができない医者を揶揄する「藪医者」は、現代でも慣用語として使われていますが、江戸時代は、「医者でもやろうか」と思えば、誰でも簡単に医業が開業できたそうですから、藪医者が多かったのも当然でしょう。
 

 「藪医者」の語源は、諸説あってどれも的を射ていて感心しますが、一般的には「藪をつついて蛇を出す」ように「医者に掛って、余計な治療をされてかえって体調が悪くなってしまう」ことに由来するのでしょうが、こんな説も有力です。
「藪は風で動く」ことから、「風邪をひくと、医者も動ける」の意で、いい換えると「風邪くらいなら呼ばれるけれど、難しい病気では、声が掛からない」という見下された医者が藪医者だと。また、単に野暮医者が、なまって藪医者になったとも言われていますが、どの道「藪」か否かは、世間が評価することで、医者本人が決めることではありませんから、自ら「正真正銘の藪医者だ」と笑い飛ばしていたと云う三郎先生は、その辺にも自信と余裕があったのでしょう。
 患者が来るかどうかは別ですが、資格も国家試験もない訳ですから、簡単に医者になれた分、藪医者かどうかの品定めや風評は現代以上に厳しく査定されていたのでしょう。
 
 また、士農工商の江戸時代ですから、医者も看る患者で、幕府や大名に召しかかえられていた御殿医=御典医(ごてんい)、藩に仕えた藩医、民間の町医者の3段階に分けられていました。誰でも開業できたのは、町医者で、御殿医、藩医は、現代から観てもかなり高度な医学知識と治療術を身に着けた専門職だったそうです。
 

 御殿医や藩医のような格の高い医者にはおいそれとなれなかった大きな理由は、処方する薬と医療技術にあったそうです。薬や病気に対する高度な知識や技術は、門外不出にして、代々「家」によって受け継がれるよう医者の家元制度が敷かれていたそうです。
その代り、殿様の病気を看る御殿医や藩医の家では、実子が跡取りになれなかったケースが大部分だったといいます。実子を含めた弟子の中から医療技術も人格も最も優れた者に家督を譲る必要から、実子より優秀な弟子を養子にして、「お家」存続と医術の高度化を最優先するのが当たり前だったのでしょう。
 医者であり作家の森鴎外も江戸末期に現島根県津和野で、津和野藩主、亀井家の代々御典医をつとめる森家の長男として生まれましたが、祖父と父は共に養子だったと言いますから、実子と云えども実力がなければ継げない厳しい世界だったことも分かります。

2013年9月25日水曜日

 杉浦醫院四方山話―275 『医業・医者ー1』

 「医師法」が制定されたのが、明治三九年五月二日ですから、それ以前の健造先生の時代では、医師になる為に大学の医学部で専門教育を受け、国家試験に合格するという現代のようなシステムはありませんでした。
健造先生が師事した小澤良済氏肖像画

 館内に掲示してある健造先生のプロフィールでも「1889年(明治22年)微典館(現・甲府一高)卒業後、西洋医学習得のため横浜市野毛の小沢良済医師に師事し、医業開業免許状を受ける」とありますから、西洋医学の開業医のもとで修業を積んで、その師から医業開業免許状が与えられたようです。     余談になりますが、右の肖像画は、杉浦醫院二階和室に健造先生の写真と一緒に飾られている小澤良済氏です。歌舞伎役者のような・・・はたまた吉行淳之介ばりの優男で、明治初頭の横浜野毛で開業医、さぞオモテになられたことでしょう。この小澤氏の長女たか子が健造先生の妻ですから、修業時代の資性温良高潔な健造先生が小澤良済氏に認められたということでしょう。
               ー閑話休題ー
 この医業開業免許状の交付条件も各都道府県で異なっていたそうですし、杉浦家のように代々医業を営んできた子息とそうでないケースでも違っていたようです。

 明治三九年制定の「医師法」で、医師となるには一定の資格を有し内務大臣の免許を受けなければならないとされ、初めて国で統一した資格による医師免許が規定され、幾多の改変を経て現代に至っているようです。

 「杉浦健造先生頌徳誌」にある家系紹介によると「杉浦家初代杉浦覚道は、宝暦年間(1750年~1764年)医業を創め、安永6年(1777年)没せられる」とあり、以後代々この地で医業を営む素封家として、「其の名古く四隣に聞こえ」たそうです。                                                        
  池波正太郎の「仕掛人・藤枝梅安」の主人公梅安は、表の顔は鍼灸医、裏の顔が仕掛人(殺し屋)という設定で人気を博しましたが、同じ江戸時代、代々医業を続けてきた杉浦家。では、江戸時代の医者とはどのようなものだったのか?数ある資料からまとめてみます。            

 藤枝梅安も裏の顔として殺し屋と云う「副業」を持っていましたが、江戸時代の医者の代表的な副業は「仲人」だったそうです。 それは、往診が基本の江戸時代ですから、医者はあちこちの家に赴き、家族構成や家庭の事情について詳しく知ることが出来たからでしょう。「仲人」もすっかり死語になりましたが、健造先生、三郎先生も数多くの仲人をしたそうですが、両先生は、これを副業にしていた訳ではなく、名士として所謂「頼まれ仲人」が重なったのでしょう。

2013年9月21日土曜日

杉浦醫院四方山話―274 『新渡戸稲造と山梨ー2』


     ↑最前列の方   ↑新渡戸稲造

 上記の写真が、植松氏持参資料のコピーを転写した身延山中での記念写真です。
中央の二人の紳士と御付の面々に案内役の僧侶が両脇に、その更に前にいる方が健造先生ではないか?と云うのが植松氏の推論でした。
 
  翌日、塚原省三さん宅を訪ね、写真を観ていただきましたが、塚原さんは開口一番「この人?健造先生とは全然違う人だね。」と即断されました。
 
 植松氏の説明では、新渡戸稲造はクリスチャンであったこともあり、身延山久遠寺としては仏教徒の僧侶がクリスチャンを案内している写真はよろしくないということで、この写真の面々についての名前を公にしていないそうです。
 東京女子大初代学長やベストセラー「武士道」の著書もある新渡戸稲造は、1984年(昭和59年)に発行された5千円札の肖像にも採用された著名人ですから、たくさん残っている写真を照合して、上記写真の中央右の紳士は、新渡戸稲造だと植松氏が解明したそうです。新渡戸以外の人物が誰かは判明していないことから、植松氏の探求が続いているようです。
 
 そんな訳で、当ブログをご覧になった方で写真上の人物が特定できる方は、お手数でも当館までお知らせください。
 
 また、植松氏の研究では、新渡戸稲造は、札幌農学校(現・北海道大学)で、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なクラーク博士の影響を強く受け、後に甲府中学(現・甲府一高)校長となって赴任した一級先輩の大島正健を慕っていたことから、甲府中学にも講演に来たり、クリスチャンだった関係で山梨英和学院にも何度か来ているそうですが、両校には新渡戸稲造の書は残っていないそうです。

 杉浦醫院四方山話―273 『新渡戸稲造と山梨-1』


 先日、新渡戸稲造や後藤新平について研究している甲府市在住の植松永雄氏が来館されました。植松氏の来館は、杉浦醫院の館内見学ではなく、杉浦家の新渡戸稲造の軸にありました。
174話「新渡戸稲造の書」でも紹介しましたが、座敷のお軸を季節ごとに掛け替えている純子さんは、中秋の名月前後は、この新渡戸稲造の軸を掛けていますから、植松氏の訪問にも座敷に案内して観てもらうことができました。
新渡戸稲造が残した掛け軸
植松氏は、収集した資料も持参して、現在解明したい課題についても説明してくれました。
 
 説明によると、山梨県内にある新渡戸稲造の書は、三点だけだそうです。その一点が杉浦家の軸の書で、「間違いなく新渡戸先生の書ですね」と感激の対面をしました。
 
 もう二点は、下部ホテルのロビーに現在も飾られている「ようこそ旅人よ この地が疲れた足を癒す格好の場所です」の英語の書(写真上)と身延聖人茶屋玉屋旅館のギャラリーにある矢張り英語の書(写真下)です。
 

 植松氏によると、この二点の英字書は、昭和4年に新渡戸稲造が身延山に来たとき投宿した際、宿の要請で書いたものだそうです。クリスチャンだった新渡戸稲造は、カナダ人女性と結婚しましたから、乞われて書いた書には英字の物が多く残っているのも特徴です。

 植松氏は、杉浦家に残る「秋の月」を詠んだ書の真贋といかなる経路で杉浦家にあるのかを確認するのが目的の訪問でしたから、経路について、純子さんに聞くと「祖父の代の物であることは聞いていますが、祖父が購入したのか書いていただいたのかは分かりません」とのことでした。

 そこで、植松氏は、資料を広げ「この写真のこの方が健造先生であれば、昭和四年に身延山に来た折、杉浦先生が地元の名士として新渡戸先生一行を案内し、そのお礼にこの書が贈られたことで、ぴったり一致するのですが」と自論を語りました。
 身延山中での記念写真の先頭にいる人物が健造先生ではないかと云うのですが、私の直感では「違うな」でしたが、純子さにも観てもらいました。「目が弱ってちょっとよく見えませんから、省三さんならしっかりしていて分かると思いますよ」と塚原省三さんに委ねられました。

  その後、館内を見学した際も植松氏は展示してある写真を覗き、「この方は?」と健造先生の写真を指差すので「真ん中は健造先生です」と答えると「じゃぁーさっきの写真の方とそっくりじゃないですか」と再度、記念写真を取出し「晩年の健造先生だと思います。顔の骨格が同じですよ」と指摘されましたが、結局「近くにお住いの塚原さんに観てもらい結果を報告しますから、連絡先をお願いします」で、写真の人物の特定は持越しになりました。
 それでも「今日は大変な収穫がありました。明日は、身延山に行きます。今度、新渡戸稲造の研究者で有名な拓殖大学の〇〇先生と一緒に来ますから・・・」と帰路につかれましたが、高校教員を退職後、ライフワークとして、明治・大正期の著名人と山梨のかかわりを研究されていると云う植松氏の後ろ姿は、とても活き活きとしているのが印象的でした。

2013年9月14日土曜日

杉浦醫院四方山話―272 『葬式ー3』

「近親者は黒衣、礼服で<送り>をする。料理は油揚げ、豆腐、野菜物等の<精進料理>であるが、式が済むと<精進落し>と云い、魚類を出す。式の済んだ翌日、施主が<ご苦労呼び>と云い取持の人達を招く、葬式は寺で行うが、当家で告別式を済ませるのもある」。                    
 「精進料理」は、現代ではヘルシーなお座敷料理と云った感もしますが、「精進」は「相撲道に精進します」で定番のように「物事に精魂を込め、一心に進む」ことを意味していますから、「仏さまの教えを一生懸命守ります」という意味の料理だったのでしょう。
 精進料理で、肉や魚を使わない理由の一つは、包丁で野菜を切っても野菜が暴れることはないのに対し、動物や魚は「死」をはっきりと感じさせるからだとも云われています。食事前の「いただきます」も「お命いただきますの短縮形だ」と小学校で習いましたが、精進料理だから殺生をしてないと考えるのではなく、野菜にもいのちがあることに気づくことが大切なのでしょう。

 まあ、美食や食べ歩きが豊かな生活の象徴のように一般化し、結果メタボだとか騒がれる現代では、人間が他のいのちを奪わないと生きていけない存在であることを悟り、それが苦痛になった「よだかの星」の宮澤賢冶は、「かわいそうな人間」として片づけられそうですが、せめて「これ以上ムダな栄養はとらない」と云ったストイックな価値観は、増加が止められない地球人口ですから、グローバルな価値観として広がる必要があるように思います。そうは言っても陽が傾けば「今宵、タコぶつと焼き鳥で・・・」と云った煩悩は、凡人には如何ともし難く・・・「こまった困ったこまどり姉妹」です。

「七日目に<初七日>と云い、近隣へおはぎを配り、墓参りをする。七日間曼荼羅を座敷へ吊るして供養する。四十九日目に<四十九日>と云い、一升餅をつき、四十九片に剪って寺へ贈り供養する。一年目に一周忌、三年忌、七年忌一三年忌なぞ塔婆を立てお供養する。」
 上記のように13年忌までの一連の供養も大分簡略化された現在、葬儀社主導で、あまりにスムーズでパターン化した葬式では、引導を渡す僧侶の影も薄くなり、葬式関係にしか必要とされない日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるに至っています。これも葬式に多くの時間と人手を掛けられなくなった社会構造の変化に起因するのでしょうが、なるべくサッと終わらせたいという多くの人間の本根の需要もあってのことですから、方向性としては確実に「葬式など一切不要」に向かっているのでしょう。

「お産が重くて死んだ仏のために<川施餓鬼>と云い、二一日の間川端に経文を書いた白布を四本棒につり、杓を備えておく。道行く人がこれに水をあげることにより仏は浮かばれると云われている。」
「川施餓鬼」は、昔多かった水の事故で亡くなった人を供養する仏事だと思っていましたが、昭和では、いわゆる「水子供養」を「川施餓鬼」で丁重に行っていたことが分かります。この供養方法が消えて、お墓に「水子地蔵」が建つようになったのでしょうか?

 葬式関係は、深入りしていくと宗教問題ともかかわり、それぞれの宗派や価値観、信心深さととも重なりますから、私のような者があまり多言を弄すと「しまったシマッタ島倉千代子」になるのがオチですからこの辺で。

2013年9月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―271 『葬式ー2』

  昭和33年発行の「昭和村史」から、昭和町の昭和30年以前の葬式の風習について順次紹介していますが、付随する件で、例えば前話の「せとじゅう」についての情報などお寄せいただけると助かります。

「近親者が到着するまでは葬式は出さない。当村内押越では昭和の初めに定めた時間を励行することを申し合わせ、いかなる事情があっても厳格に時間を守るようになり、見舞人その他大勢の人が時間を空費することがなくなって、一般から喜ばれている。」
   「近親者が到着するまで葬式は始めない」と云う了解事項が長く続き、内押越地区がその慣例を刷新し、現代に至っていることが分かります。
「時間を空費しない」と云う価値観はドンドン進み、セレモニーホールでの葬式では、案内係が弔問者数により「焼香は一回でお願いします」と当たり前のように指示し、皆、大人しく従っているのも「時間を空費しない」と云う金科玉条があってのことでしょうが、「何か違うなー」は、私一人ではないでしょう。
  すっかり話題性が無くなった感もしますが、ミヒェエル・エンデの「モモ」は、その辺の価値観を揺さぶってくれたファンタジーでした。読み取り方も様々でしょうが、私には「一番の贅沢は、時間の空費だ」と云うことをエンデは主張していたように思います。
 まあ、高度経済成長を通してのグローバル社会では、効率的な生産性の向上こそが世界と伍していく上でも当たり前になりましたから、「時間の空費」は罪悪でもあり、勤勉な日本人には受け入れやすい価値観でしたが、個人的には、かつての日本には沢山いた「朝寝・朝酒・朝湯が大好き」な庄助さんの方に魅力を感じます。
 
 
「穴掘りの人達には「穴掘酒」を出し、この人達が棺を運ぶ。式の状況により僧侶は三人、五人、七人等で、昔は「野飾り」に五色の布旗、花籠、竜頭、又は「門へい」を立て饅頭など供えたが、今は弔旗、ちょうちん位で、家により親戚、知人から花輪が贈られる。

野辺の送りーちょうちん棒や弔旗、布旗等がー
旧田富町東花輪地区では、穴掘りの担当を「おもやく」と呼んでいたそうです。多分肉体的にも精神的にも「重い役」だったからでしょう。昭和町など甲府盆地の南は、地下水が高いところでしたから、土葬のための穴を掘っていくと水が湧いてきて、棺を水底に入れるようになったそうです。   純子さんも「健一が、葬儀に出て、あんなに水がいっぱいの中に入れたんじゃ、冷えっちゃってかわいそうだと云ってたのを思い出します」と弟さんを偲ぶように話してくれました。
 
 土葬の場合は、一族で不幸が続くと穴掘りは、前葬した位置と重ならないように掘らなくてはならないので一層難しかったそうです。一升瓶の飲み残しの穴掘酒も一緒に入れたそうで、前回の穴掘酒が出て来ると「骨酒になって旨くなっている」と喜んで飲んだ穴掘人もいたそうで、「砂糖」同様「酒」が貴重な時代でもあったことを物語っています。
 

杉浦醫院四方山話―270 『葬式ー1』

 杉浦醫院の東隣は、水路を挟んで法華山正覚寺です。純子さんは時折「ここから真っ直ぐお隣に行きたいと思っています」と笑いながら言いますが、杉浦家の菩提寺もこの正覚寺で、地方病の原因解明や感染経路究明に使われた実験動物を供養するため、健造先生が建立した「犬塚」もかつては境内にあったそうです。この正覚寺で、昨日、葬儀が営まれました。町の施設になって4年目になりますが、正覚寺での葬儀を目の当たりにするのは初めてです。セレモニーホールの出現で、家や寺での葬式はすっかり影をひそめましたが、葬式は風習、風土として地域ごと特徴や違いもありましたから、昭和町での昭和30年以前の葬式について「昭和村史」からたどってみます。
 
 「部落の費用や寺の費用で弔旗、ちょうちん棒、霊柩車などを備え、貧乏な家でも最低の葬儀が行われるように仕組まれている、<お取持ち>と云い隣組程度の人達が寄り、一人か二人の<帳場>責任者を定め、会計を司り、その家相応の葬儀計画を立てて取り運ぶ。」
 「弔旗」「ちょうちん棒」なども消えゆく昨今ですから、残っているものを収集しておく必要を感じますが、確か河東中島区の棺桶が、教育委員会で保管してあった記憶がありますから、納屋の工事が終わったら、かつての葬式道具も展示しようと思います。
 
 また、村八分にあっても葬式と火事の二分は、村落共同体で行っていたことが分かります。


「親戚へ死亡を知らせるには二人の<飛脚>をたてたものだが、今は簡素になり、一人で間に合わせ、時には電報で知らせる」
 飛脚の任を甲州弁で「おとぼれーあかし」と云っていた記憶もあります。
 
「部落の人や知人は、死亡を知った夜<お仁義>に行き、葬式の時<見舞>に行って<香奠>の金を贈る。」
 故深作欣二監督の「仁義なき戦い」の見過ぎでしょうか、「仁義」は真っ当な人には無縁だと思っていましたが、山梨では「お」を付けて「世間付き合い」「義理」と云ったイメージで使っているようで、「おとこしの仁義」とか「おんなしの仁義」と云った言葉も聞き覚えがあります。この「おとこし」「おんなし」も方言でしょうが、漢字表記は「男子」なのか「男衆」なのか「男師」なのかもしっかり知りたいところです。
 文化人類学者嶋田義仁先生の甲州学序説によれば、北風吹きすさぶ甲州は「ヤクザで非情な風土」に尽きるそうですから、「親分・子分」関係やヤクザ用語が日常語として使われているのも違和感がないのでしょう。そう云えば、嶋田先生の名前も「仁義」をひっくり返した「義仁」ですから、無頼の徒がアフリカ学の先頭を走らせているのかも知れません。
 
見舞人に酒食を出し、箱入れの饅頭又は砂糖などを香奠返しとして引いたが、今はあまり行われない。」
 私が子どもの頃、箱に入った砂糖が積まれていましたが、現代は差し詰め「お茶」でしょうか。葬式の酒食で思い出すのが、何処で聞いたのか葬式と云えば必ず現れた「せとじゅうやん」の話です。
 純子さんも「父や母の葬儀の時は来ませんでしたが、祖父の葬式に来たのを覚えています。いい声でお経を読んでくれましたが、あの人は頭のいい人だとみんなが話していたのも覚えています」「ごーけごーけごっとことん」と云いながらカエルのように跳ね歩くのが面白かったのか、男の子たちは、せとうじゅうやんの後をついて歩きましたね」「ごーけごーけごっとことんの後にも確か続く言葉があったのに、歳ですね思い出せません。省三さんなら覚えていると思いますよ」と。せとじゅうは、昭和20年代位まで葬式の酒食を求めて中巨摩一帯の葬式に風呂敷を背負って現れた名物オジサンだったようですが、石もて追われることなく「せとじゅうやん」と愛され、親しまれたからこそ、半世紀が過ぎても語り継がれ話題に上るのでしょう。

2013年9月3日火曜日

杉浦醫院四方山話―269『浮世絵師・中澤年章-4』

 「最後の浮世絵師」と云われた中澤年章が、故郷山梨に戻って描いた肉筆画の特徴と魅力は「卓越した人物の描写力にある」と云われています。

画面中央に人物を大胆に置き、テーマに合わせた表情、体型、顔つきから指の動きまで緻密さと大胆さが混然一体となって、観る者に迫る人物画を豊かな色彩で描いた作品は、一目見て年章作であることが分かります。

 「俺は地方病博士だ」の挿絵もご覧のように物語に合わせて年章が強調したいカットを登場人物の大胆な構図で描写しています。

 こういう意図と構想で描いた挿絵が、初版では統一しているのに対し、再版で差し替えられたことにより、ボカされた感は否めませんが、臨機応変に対応して描ける年章の筆力は。こうして比較することで一層際立ちます。

 無類の酒好きだったという年章は「酔ふて筆を揮(ふる)えば雲湧き龍踊る」と歌っていますが、韮崎の若宮神社神主の藤原茂男氏は「年章さんは祖父がよく面倒を見ていました。明治34年から7年まで滞在したようですし、その後も大正に入ってからも来たようです。よく酒を飲む人で画料を絵の具を多少買う以外殆んど酒代につぎ込んでいました。春画も酒代欲しさに何点か描いたようです」と述懐しています。

 
 中澤年章研究にあたっている樋泉明氏も「何処で死んだのか?墓が何処にあるのか?全く杳として不明です」と「実家跡は、優美堂書店の隣辺りかと?今でも屋敷神さんの名残が優美堂の隣に残っています」と、謎に包まれた中澤年章の掘り起こしを現在も続けています。

 杉浦醫院版「俺は地方病博士だ」が新聞報道され、挿絵を描いた中澤年章と云う郷土画家を紹介してきましたが、これを機に印刷技術の進歩で浮世絵師としての道を絶たれた中澤年章を供養する意味でも現代の印刷技術で、全ての挿絵を大型パネル化して、館内で展示していきたいものと思いました。