2013年7月27日土曜日

 杉浦醫院四方山話―258 『国民文化祭・昭和町主催事業≪子ども太鼓フェスティバル≫』

 今年、山梨県内では、通年開催の国民文化祭が開催されていますが、夏のステージに入り、昭和町地域交流センターを会場に「子ども太鼓フェスティバル」が、来る8月4日(日)に昭和町主催事業として行われます。
当日は、午前9時30分から遠くは、広島県や富山県、岐阜県、愛知県、お隣の長野県、静岡県などから全15団体が日頃の練習の成果を発表し合い、交流を深める「真夏の太鼓の競演」が、午後4時まで繰り広げられます。
隣接する昭和町中央公民館前では、町商工会によるフードや物産などの出店販売コーナーも設けられ、太鼓尽くしの一日が楽しめるよう図られています。

信州・鬼島太鼓のH・Pより
昭和町役場一帯には、多数の駐車場も確保し誘導もありますので、夏休みの貴重な親子体験の機会として、是非昭和町にお越しいただいて、全国トップクラスの鬼島太鼓や昭和町の笑和太鼓などハイレベルな太鼓演奏をお楽しみください。
最後には、日本航空高校太鼓隊も特別主演し、フィナーレを飾ります。

また、「せっかく昭和町に来たんだから、杉浦醫院を見学して、地方病博士になって帰ろう」と、当館も終日開館いたします。
日本では終息したこの病気ですが、東南アジアをはじめ世界では2億人もの人がこの病気で現在も苦しんでいます。夏休みの自由研究にもピッタリのテーマですから、親子でお立ち寄りください。資料等用意してお待ちしています。

2013年7月23日火曜日

杉浦醫院四方山話―257 『三神三朗氏ー5』

 今回、三神三朗氏について、孫にあたる三神柏氏のお話をもとに4回にわたり、勝手を書かせていただきましたが、三神三朗氏が開院していた建物等をご紹介して、最終回とさせていただきます。

 左の文庫蔵と右の土蔵が塀と門を兼ねた入口です。愛猫の解剖で、世界で初めて地方病の虫体を発見した納屋は、正面の大きな木の右側にあったそうで、現在は庭石にプレートを埋め込んだ小さな記念碑があります。正面奥に見える建物が、三神三朗氏が開院していた医院兼住宅です。

 医院兼住宅の南東側からの写真です。屋根はカヤブキ屋根だったそうですが、現在はトタンでおおわれています。手前のサッシ戸の部屋が医院だった部分で、真ん中の玄関から奥が「プライベート」部分で、南面は座敷であり三朗先生の書斎だったそうです。その座敷に面した庭(車の後ろ部分)には、大変珍しい大きな松を中心にした庭園があります。
柏先生は「母が寒がりだったので、祖父の死後、窓をサッシに入れ替えたり、いろいろ手を入れて住んできましたが、それでも寒い家でした」と。
「二階は、看護婦さんやお手伝いさんの部屋で、男性が勝手に上がれないように寝るときは外せるハシゴ階段で、三神医院の階段と云って有名だった」と三神医院に通院経験のあるH氏の補足説明もありましたが、その階段も「母が普通の階段にしました」と変わっていました。

裏も広い庭ですが、丁度お勝手の裏手には、写真のような遺構が残っていました。
「この西側に国母工業団地が出来て、工場が操業し出したらピタッと止まってしまいましたが、それまでは井戸水が噴き出ていました。一番上からきれいな水が出て、最初の枡で米など食べるもの、次の枡で食器など次は土野菜、最後の枡で農具や足を洗うといったように無駄なく水を使っていました」

「父は北大でしたから、北海道の急傾斜屋根の民家にあこがれていたようで、父が新しくした医院は、尖った屋根にしましたが、これ以上急にすると瓦が載らないということで、瓦屋根では当時これが限界だったようです」
「父は祖父と一緒に開業する予定で医院を建てましたが、祖父は三神医院は父に任せ、自分は当時山宮にあった県の結核療養所にここから通っていましたから、晩年は勤務医だったことになります」
「祖父が使っていた建物は、ご覧のように現在は物置代わりで、どうしたらいいものか・・・父も私も古家や古蔵を壊す力もありませんから、この先古いだけに困ってしまいます」と。

 NPOつなぐの山本育夫氏は「甲府市に保存を働きかけて、杉浦醫院と合わせた地方病コースに」と具体案も念頭に今回のフットパスを企画したようですが、三神医院三代のスタンスは、「働きかけてまで・・」でしょうから、「日本住血吸虫症」「日本住血吸虫」名、発生地であり、スチブナール改良研究による救った人命の数を思う時、関係機関、関係者の声で保存していこうという機運を宮入貝発見100周年の今年スタートさせていく必要を実感した見学会でした。

2013年7月20日土曜日

杉浦醫院四方山話―256 『三神三朗氏ー4』

 三神三朗氏は、偉人伝記で著名な野口英世と済生学舎(現・日本医大)で同期だったといいます。学生時代から野口英世は名誉欲が強く、その証のように伝記物語の主人公として登場したり、各地には胸像や石碑も多く残り、三朗氏とは対照的です。
 難関の医師開業試験も三朗氏は英世と同じ年にストレートで合格しましたから、学業の優劣は無かったものと思われますが、その後の医者としての生き方、姿勢の違いは、死後一層浮き彫になっていて、我が郷土の先輩が、野口英世でなく三神三朗氏であることを私はうれしく、誇りに思います。

 杉浦健造・三郎父子も「医は仁術である」を体現した医師であったことは、多くの患者さんが証言しています。
この「医は仁術である」は、 江戸時代の学者・貝原益軒の「養生訓」で、医師のあるべき姿を「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て志とすべし」と説いたことから、江戸時代の格言かと思っていましたが、同じような考え方は、平安時代から説かれていて、日本の伝統的な医業の戒めのようです。
 

三神三朗 (1873 - 1957)
要は、医術とは、単に人の体の治療をするだけではない。人徳を施す術である、という哲学的な意味を持っていた訳で、江戸末期の生まれの健造先生や明治初頭生まれの三神三朗氏は、この言葉の精神に惹かれて医業に向かったのでしょう。
 
 
 
 健造先生には、一人息子の健氏がいましたが、健氏が「僕は前世悪いことはしていないので、医者にはならない」と医学部進学を拒否すると「この仕事は、そういう人間には出来ないから好きな道に進め」と寛大だったそうです。
これも「医は仁術である」の精神を良しとする者が医者になるべきだという健造先生の信念からだったのでしょう。
 
 
 
 三神三朗氏によって改良され、駆虫効果があり副作用も抑えたスチブナールは、多くの患者さんの命を救う特効薬になりましたが、大変高価だったため「地方病で苦しみ、治療代で苦しむ」と云う二重苦が、貧農に多かった患者さんの実態だったそうです。杉浦父子と同じく三神三朗氏も「患者は診ても蔵は建てない」と、お金のない患者さんには無料で治療して命を救っていました。その「患者は診ても蔵は建てない」と云う、三神医院の院訓ともいうべき基本姿勢は、代々に引き継がれていますから、「医は算術なり」と皮肉られる現代にあって、この名言といぶし銀のような三神三朗氏の人生は、一条の希望の光です。

2013年7月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―255 『三神三朗氏ー3』

 三神柏現医院長は、祖父三朗氏について控え目な紹介に終始しましたが、「スチブナール」についても「祖父が改良を重ねたスチブナールを三神医院だけの薬にせず、県内のどこの医院でも打てるように広めたのは祖父の業績だと思っています」と静かに語り、客観事実についても語気を強めませんでした。

 原因不明の奇病、地方病=日本住血吸虫病は、明治42年(1904年)の三神三朗氏と桂田富士郎氏による寄生虫の生体発見に続き、大正2年(1913年)の宮入慶之助氏による宮入貝発見で中間宿主と感染経路の解明へと進みましたが、罹患者への有効な薬や治療法を見出すまでには、まだ時間がかかりました。

 当235話で紹介した「むしのむし出来ないむしの話」の中には、その辺についても詳細が記されていますが、東京帝大伝染病研究所の宮川米次氏が、万有製薬の岩垂亨氏に依頼して酒石酸アンチモンのナトリウム塩を化学合成し、ブドウ糖を添加して毒性を弱めることに成功した注射薬が「スチブナール」と命名され、宮川氏は、そのスチブナールの治療実験を三神三朗氏に依頼しました。三神三朗氏は、この治療結果を大正12年(1923年)に『スチブナールによる日本住血吸虫病患者の治療実験』として報告し、スチブナールが日本住血吸虫に対して駆虫効果があることを証明しました。


 三神柏氏は、「駆虫効果があるスチブナールでしたが、そのままでは副作用が強すぎてとても人間に使える薬ではなかったようです。しかし確実に駆虫効果のある以上、いかに副作用を抑えるかに祖父は取り組み、血液とほぼ同じ生理食塩水でスチブナールを薄め、静脈注射の回数を増やすことで副作用を抑えることを編み出しました。このスチブナールの薄め方や回数などを祖父が秘匿しなかったのが、地方病で命を落とす方を激減させた一因だと思います」
 

 当館来館者も調剤室に展示してあるスチブナールの箱を見ては「このスチブナールは20本打たないと効かなかったんだよなー」とよく回想します。20回分に薄めて打つことを三神医院の専売にしなかった三朗氏は、杉山なかの意思を生かすことを使命に研究治療にあたった、拝金・もうけ主義医療と対極の赤ひげ先生であったことを物語っています。

2013年7月10日水曜日

杉浦醫院四方山話―254 『三神三朗氏ー2』

 「地方病」の学名は「日本住血吸虫病」、原因となる寄生虫は「日本住血吸虫」とそれぞれに「日本」という国名が付いているのは、病原体である寄生虫の生体を世界で最初に日本で発見したことによるものです。
 三神三朗氏が用意した愛猫「姫」の解剖を桂田富士夫氏と共に行い、世界で初めて虫体を発見した場所が、当時の中巨摩郡大鎌田村(現在:山梨県甲府市大里町)の三神三朗氏の納屋だったのです。
人目を忍んで「姫」の解剖が行われた当時の納屋跡には、「日本住血吸虫発見の記念碑」が、三神三朗氏の息子である寿(ひさし)氏により昭和30年に建立されましたが、「祖父は発見者とか言われることや記念碑とかには興味がなく、この碑も生前でしたら許さなかったと思います。死後、私の父が納屋を取り壊すに際し、≪明治37年7月30日 この地に於いて始めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗≫と記した碑をこの石にはめ込んだものです」と孫の柏氏・・・発見者の名前も入れず、あくまでもこの碑は「この地」を記念する碑であることを三神三朗の名前で残した三朗氏の子・寿氏も「この父にしてこの子あり」の見本のような方であったことがこの簡潔な碑文に集約されています。
 
 

 原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から患者の糞便から「虫卵」が発見され、この卵を産む虫体の発見へと進みましたが、明治期の日本では例え死後解剖でも腹を切り開くことへの協力者は皆無だったそうです。そんな中、石和の吉岡順作医師の女性患者・杉山なかが解剖に応じたことが、病原体(日本住血吸虫)の発見へと繋がっていきました。
 とかく強そうなことを云う男でも逃げた解剖を献体と云う形で、生前に申し出たのも女性ですから、ここでも女の方が一枚上であったことを物語っています。

 杉山なかは、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名と共に提出し、6日後の6月5日に亡くなりました。
翌日の6日午後2時から、菩提寺の盛岩寺(せいがんじ、現:甲府市向町)で、屋外解剖が遺言通り行われましたが、山梨県下初の病理解剖とあって、甲府近隣か57名もの医師、開業医が参加したそうですが、その中に若き三神三朗氏も居ました。
三朗氏は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった、杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に無言のまま長時間頭を下げていたといいます。

 また、岡山医専の桂田富士夫氏とは、杉山なかの解剖結果を踏まえて甲府で開催された寄生虫研究会の打ち上げの席で、意気投合したことによるそうですから、世界初の病原体の生体発見には、杉山なか女史の勇気と決断に負うところ大ですから、三神三朗氏ともども杉山なか女史も、もっともっと周知されて然るべき存在であることを痛感しました。

2013年7月8日月曜日

杉浦醫院四方山話―253 『三神三朗氏ー1』

 先日、「日本住血吸虫を発見した三神医院を訪ね、農地解放の地大里を歩く」と云うフットパスが、NPOつなぐの主催でありました。杉浦健造・三郎父子を顕彰していく杉浦醫院ですが、地方病終息の歴史を伝えていく地方病資料館でもありますから、県内外の先駆者や取り組み、映像資料や関連施設、企画展なども紹介してきました。
 前から、「一度お伺いして・・」と気になっていたのが、今回の三神医院と三神三朗氏でした。三神脳外科内科医院として現在も開院中ですから、こちらの都合でお邪魔することに二の足を踏んでいた所でしたが、つなぐの山本育夫氏の計らいで実現しました。

  • 現医院長・三神柏先生
   この日、診察の間をぬって、三神柏医院長が案内と解説をしてくださいましたが、名医の誉れ高い先生のお話は、孫から観た三朗氏の全貌を的確かつ大変控え目に教えていただき、三神家および先生の在り様やお人柄にも触れる機会ともなり感動しました。
  • 「祖父は、さろうでなくさろうと称していました」
  • 「生まれは、石和町でしたが、明治の大洪水で家屋敷が流され、兄弟全員が婿に出ましたが、医者になっていた三朗がここに婿入りして開業しました。ですから医院は祖父と父、私で3代目になります」             
  • 「三神家はこの辺の大地主と云うより、いわゆる親分・子分の関係のあった時代の親分さんという程度の家でした」 
  • 「日本住血吸虫の虫体を祖父が発見したと云われていますが、岡山医専の桂田富士郎先生のお手伝いをした程度だと申していましたし、当時24歳ですから私も助手としてかかわったのだと思います」
  • 「桂田先生は、人体の解剖を望んで来ましたが、あの時代ですから、なかなか人間の腹を開けてと云う訳にいかず、祖父が飼っていた姫と云う名の猫が、昼はその辺の田んぼで遊んでいましたから地方病になっているだろうと、これを解剖することになり、病院や自宅では人目もあり、当時この辺にあった納屋で、隠れるように解剖したそうです」
  • 「それでも生きていた猫を解剖したということで、周りでは必ずタタリがあると噂され、三朗の長男、次男が相次いで結核でなくなると猫のタタリだともっぱらの噂だったようです」
  • 「杉浦さんの所のように公的施設ではありませんし、代々、患者は診ても蔵は建てるなと云った家風で、このように荒れ放題の家屋敷です」・・・等々

敷地内を案内いただきながら、貴重なお話の連続でしたので、この日の三神先生のお話に即して、三神三朗氏について、詳細を連載していきます。

2013年7月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―252 『今年のゴーヤ』

5月15日撮影

5月15日付け238話「薔薇とゴーヤ」で右の写真とともに2年目の緑のカーテンに挑み、ゴーヤを植えた旨報告しましたが、その後順調に成長し、約1か月後の6月11日には、真ん中の写真のように伸びました。   「バケツいっぱいの水をそのままひっくり返すくらい朝夕たっぷりの水やり」を杉浦精さんから指南されましたから、その成果でしょうが、「省エネ」策の緑のカーテンとしては、日々の水やりに必要な「水資源」や「人資源」を考えると「省エネ」だけでは、矢張り「ヨシズ」の方が・・・とも思います。       


6月11日撮影
 今年はゴーヤでリベンジですが、どうもゴーヤの実は人気薄で、声をかけても持ち帰る方はあまりいませんから、「全てゴーヤと云うのも芸がないなあー」と思い至り、トマトはどうか?キュウリは?朝顔も?場所によってはメロンのグリーンカーテンもあるようですから、来期はグリーン・コラボに挑戦してみるのも面白いかな・・・と。

 そうは言っても旧温室の日除けが主目的ですから、ゴーヤに勝る日除け効果のあるグリーンは無いのでしょうし、多分ド素人の私たちにも一定の生育が可能なことからここまでゴーヤ人気が広がっているのでしょう。

7月に入り実も収穫できるようになりました。この勢いで伸びって行って、テラスの上までグリーンが覆うと私のゴーヤ評価もぐっとアップするのですが・・・


7月3日撮影

2013年7月2日火曜日

  杉浦醫院四方山話―251 カンゾウー2』

 塩山にある甘草屋敷と呼ばれる高野家住宅で栽培されていた薬草・甘草(カンゾウ)は、右の写真のように淡紫色の花で、葉も卵円形です。
 マメ科の多年草で、シベリアから中国西部に分布し、生薬として古くから日本に渡来し、正倉院にも収蔵されているそうです。   
 漢方処方の7割に配合され、幅広く使われていた極めて重要な生薬で、現在でも醤油や味噌など食品の甘味づけとしても使われているそうです。
まだ科学的にも解明されない作用もあることから、[不思議な生薬]とも呼ばれていますが、使われるのは赤褐色の根で、根が甘いことから甘草の名前になったようです。


 一方、杉浦醫院の庭園に咲くカンゾウは、こちらですから、花も葉も全く異なり、甘草屋敷の甘草とは明らかに違います。精韻先生が「諸州の山野を歩き薬草を採取して回り」造った薬園に咲いてきたカンゾウですから、この違いは看過できません。
 調べてみると、こちらのカンゾウを「甘草」と紹介しているサイトがいくつもありますからネット情報向上のためにも分類しておく必要もあります。

 杉浦醫院のカンゾウは、漢字表記では「萱草(かんぞう)」で、「萱草」には「野萱草(のかんぞう))」と「藪萱草(やぶかんぞう)」の種類があり、花が八重かどうか分かれます。
萱草は、ユリ科の植物ですから、マメ科の甘草とは全く別種のカンゾウですが、「カンゾウ」と云う読みが同じことから混乱しているのが実態です。
 
 例えば、春先に出回る高級野菜「芽甘草(メカンゾウ)」(写真右)は、「甘草」の芽ではなく「萱草」の芽ですが、一般的には「芽甘草」で流通しているようで、明らかに間違いですが、萱草より甘草の方がおいしそうだから・・・の確信犯かもしれません。
また、萱草は、ユリ科のワスレグサ属の植物であることから、「ワスレ草」とも呼ばれているそうですが、これを「わすれなぐさ」と混同している事例も多いようです。

 漢方薬のカンゾウは、「甘草」が主流のようで、「萱草」は、中国では<萱草根(カンゾウコン)と称し、利尿、止血、消炎薬とする。花は、金針菜(キンシンサイ)と呼び、消炎、止血薬とする>とありますから、薬草としても使われたようですが、日本では、マメ科の「甘草」ほどメジャーではないようです。
 しかし、九代引き継がれた杉浦醫院にあって、進取の気取りの開拓者精神と創作意欲に抜きん出ていた精韻先生ですから、既に幕府の専売となっていた「甘草」では飽き足らず、こちらの「萱草」にスポットを当てようと塩山の甘草屋敷と一線を画した薬園創造の結果と云う推論も十分可能性ありの感もしますが、これを典型的な「我田引水」と云うのでしょうか。