2013年7月10日水曜日

杉浦醫院四方山話―254 『三神三朗氏ー2』

 「地方病」の学名は「日本住血吸虫病」、原因となる寄生虫は「日本住血吸虫」とそれぞれに「日本」という国名が付いているのは、病原体である寄生虫の生体を世界で最初に日本で発見したことによるものです。
 三神三朗氏が用意した愛猫「姫」の解剖を桂田富士夫氏と共に行い、世界で初めて虫体を発見した場所が、当時の中巨摩郡大鎌田村(現在:山梨県甲府市大里町)の三神三朗氏の納屋だったのです。
人目を忍んで「姫」の解剖が行われた当時の納屋跡には、「日本住血吸虫発見の記念碑」が、三神三朗氏の息子である寿(ひさし)氏により昭和30年に建立されましたが、「祖父は発見者とか言われることや記念碑とかには興味がなく、この碑も生前でしたら許さなかったと思います。死後、私の父が納屋を取り壊すに際し、≪明治37年7月30日 この地に於いて始めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗≫と記した碑をこの石にはめ込んだものです」と孫の柏氏・・・発見者の名前も入れず、あくまでもこの碑は「この地」を記念する碑であることを三神三朗の名前で残した三朗氏の子・寿氏も「この父にしてこの子あり」の見本のような方であったことがこの簡潔な碑文に集約されています。
 
 

 原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から患者の糞便から「虫卵」が発見され、この卵を産む虫体の発見へと進みましたが、明治期の日本では例え死後解剖でも腹を切り開くことへの協力者は皆無だったそうです。そんな中、石和の吉岡順作医師の女性患者・杉山なかが解剖に応じたことが、病原体(日本住血吸虫)の発見へと繋がっていきました。
 とかく強そうなことを云う男でも逃げた解剖を献体と云う形で、生前に申し出たのも女性ですから、ここでも女の方が一枚上であったことを物語っています。

 杉山なかは、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名と共に提出し、6日後の6月5日に亡くなりました。
翌日の6日午後2時から、菩提寺の盛岩寺(せいがんじ、現:甲府市向町)で、屋外解剖が遺言通り行われましたが、山梨県下初の病理解剖とあって、甲府近隣か57名もの医師、開業医が参加したそうですが、その中に若き三神三朗氏も居ました。
三朗氏は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった、杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に無言のまま長時間頭を下げていたといいます。

 また、岡山医専の桂田富士夫氏とは、杉山なかの解剖結果を踏まえて甲府で開催された寄生虫研究会の打ち上げの席で、意気投合したことによるそうですから、世界初の病原体の生体発見には、杉山なか女史の勇気と決断に負うところ大ですから、三神三朗氏ともども杉山なか女史も、もっともっと周知されて然るべき存在であることを痛感しました。