2013年7月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―255 『三神三朗氏ー3』

 三神柏現医院長は、祖父三朗氏について控え目な紹介に終始しましたが、「スチブナール」についても「祖父が改良を重ねたスチブナールを三神医院だけの薬にせず、県内のどこの医院でも打てるように広めたのは祖父の業績だと思っています」と静かに語り、客観事実についても語気を強めませんでした。

 原因不明の奇病、地方病=日本住血吸虫病は、明治42年(1904年)の三神三朗氏と桂田富士郎氏による寄生虫の生体発見に続き、大正2年(1913年)の宮入慶之助氏による宮入貝発見で中間宿主と感染経路の解明へと進みましたが、罹患者への有効な薬や治療法を見出すまでには、まだ時間がかかりました。

 当235話で紹介した「むしのむし出来ないむしの話」の中には、その辺についても詳細が記されていますが、東京帝大伝染病研究所の宮川米次氏が、万有製薬の岩垂亨氏に依頼して酒石酸アンチモンのナトリウム塩を化学合成し、ブドウ糖を添加して毒性を弱めることに成功した注射薬が「スチブナール」と命名され、宮川氏は、そのスチブナールの治療実験を三神三朗氏に依頼しました。三神三朗氏は、この治療結果を大正12年(1923年)に『スチブナールによる日本住血吸虫病患者の治療実験』として報告し、スチブナールが日本住血吸虫に対して駆虫効果があることを証明しました。


 三神柏氏は、「駆虫効果があるスチブナールでしたが、そのままでは副作用が強すぎてとても人間に使える薬ではなかったようです。しかし確実に駆虫効果のある以上、いかに副作用を抑えるかに祖父は取り組み、血液とほぼ同じ生理食塩水でスチブナールを薄め、静脈注射の回数を増やすことで副作用を抑えることを編み出しました。このスチブナールの薄め方や回数などを祖父が秘匿しなかったのが、地方病で命を落とす方を激減させた一因だと思います」
 

 当館来館者も調剤室に展示してあるスチブナールの箱を見ては「このスチブナールは20本打たないと効かなかったんだよなー」とよく回想します。20回分に薄めて打つことを三神医院の専売にしなかった三朗氏は、杉山なかの意思を生かすことを使命に研究治療にあたった、拝金・もうけ主義医療と対極の赤ひげ先生であったことを物語っています。