2018年11月25日日曜日
2018年11月19日月曜日
杉浦醫院四方山話―561『三郎先生の軍刀ー2 登録証』
前話のGHQによる昭和の刀狩りに付随して、日本人が刀を自由に保有する事を規制する意味もあったのでしょう、美術品の日本刀を所持するには、日本刀1本1本に「登録証」が必要となり、この登録証の無い日本刀を持っていると不法所持として、懲役や罰金が科せられるようになりました。ですから、現在日本にある日本刀は全てお上に登録されていることになります。
そのお上は、都道府県の教育委員会ですから、登録済みの日本刀は全て有形文化財と云うことにもなります。
では、今回の三郎先生の軍刀は登録済みだったのでしょうか?登録してあれば刀と一緒に発行された「登録証」が残っているはずですが、純子さんも「父や私が登録した記憶はありません」と云っていましたからから、探しても出てこないものと思われます。
井上さんは「杉浦先生のように代々続く旧家などでは、整理していたら「登録証」の無い刀が見つかったということはよくあるんです。そういう場合は、刀を持って南甲府警察署の保安課へ発見届けを提出しなければならない。刀が必要なければ警察に置いて帰ればいいんだけど、これは何時どういう状態で誰が見つけたの発見届を出して、登録証をもらって保存すべき刀だから、直ぐにでも発見届を出すことだね」と教えてくれました。
このように新たに「登録証」を得るには先ず警察署に「発見届」を出すことから始まります。この手続きが済むと、警察は届け出済み書と刀を返してくれます。
この届け出済み書に記載されている日時に、山梨県教育委員会に刀と届け出済み書を持参し、「登録証」発行の審査を受けます。
この審査は日本刀の専門家によって行われ、伝統的な鍛錬を行い、焼き入れを施した日本刀であることが第一条件で、価値のあるものにのみ発行されます。表面的な錆(さび)であれば井上さんの研ぎによって本来の姿を取り戻せますが、芯まで錆びているような状態では登録証は発行されません。粗製乱造された鉄をただ打ち延ばして刃を付けただけの刀や、車のスプリングに使われていた板バネを加工したいわゆるスプリング刀や、一部の軍刀で洋鉄を使って作られたものなどは審査ではねられるそうです。
このように、今回、三郎先生の軍刀は、警察への発見届けを経て県教委の審査にパスして下写真のような「登録証」が発行されました。
これさえ有れば刀掛けにそのまま掛けて展示公開しても良いのですが、不特定多数の方を受け入れる施設では、刀を容易に手に取ることが出来ないようにしなければなりません。なぜなら、その気になればこの刀を凶器として振り回したり、盗すまれ悪用されることが危惧されるからです。
その辺をクリアする最善の方法も井上さんからご教示いただきましたので次話に続きます。
ご覧の通り「登録証」は、この刀についてのみの記載であり、所有者名など入っていません。これは、この刀が登録された証明で、所有者はこの登録証が有れば変更可能であることを物語っています。美術品として売買が想定されることから車の名義変更と同じ扱いになるよう図られているのかもしれませんが、ある意味、自動車一台一台に付いている「リサイクル券」と全く同じシステムのように感じました。 |
2018年11月18日日曜日
杉浦醫院四方山話―560『三郎先生の軍刀ー1 もう一つの刀狩り』
豊臣秀吉が農民や僧侶の武装化を防ぐ為に行った統治政策「刀狩り令」は有名ですが、日本ではもう一回「刀狩り」が行われたことはあまり知られていません。
それは、1945年(昭和20年)9月、当時日本を占領していた連合国軍(実質は米軍)は、日本の武装解除を徹底させる為に「銃砲等所持禁止令」を出して、日本全国の銃器と日本刀を没収しました。
GHQの刀狩りは、日本軍の刀だけではなく、民間の刀も没収しましたから、江戸以降の名刀も 根こそぎ消えたそうです。(写真はネットサイトから拝借しました) |
この時没収した刀剣は300万刀とも云われ、アメリカに流出した名刀も多かったことからイギリスなど連合国の中には、この政策を疑問視した国もあったようです。
GHQは、鉄まで切り落とした日本固有の鍛冶製法で作られた日本刀の威力が脅威で「刀狩り」を行ったようですが、約70年前、300万刀もの日本刀を戦勝国が没収したことが、現在、身近で日本刀を観る機会を失ってしまったことになり、秀吉の「刀狩り」より日本刀にとっては不幸だったように思います。
このGHQによる刀狩りも日本人の要望で伝統的な美術品としての刀は除外していたそうですから、三郎先生の軍刀は美術品の名刀だったから没収を免除されたのか?GHQの要望を受け入れてアメリカ軍の軍医に日本住血吸虫症の治療法を指導したことによる特典だったのか?今となっては分かりませんが、螺鈿(らでん)の刀掛けと一緒に残っていましたから、美術品として扱われた可能性は高いように思います。
今回、刀掛けと軍刀を一体として展示公開出来るよう鑑定も兼ねて県内では唯一の刀剣研磨師・井上弘氏に公開する為の手順と必要な作業を依頼する為、観ていただきました。
井上研磨師は、持ち込んだ軍刀を抜いて刃文を観るなり「これは、江戸前期の加賀国の刀工・加州佳兼若(かしゅうかねわか)の作だから、そん所そこらに有った軍刀とは違う」と即断して、「茎に隠れている中心(なかご)に刀工の名前である銘の彫りがあるはずだ」と、手で握る茎から刃身を抜き出し「うん、間違いない。加州佳兼若の銘もきれいだ」 とその彫りを見せてくれました。
「一時、日本刀がブームになって、名刀には高い値段が付いたから、結構偽物も出回ってね。銘の真似は難しいから、こういう見えない部分の彫りに手を抜いたので、偽物の銘は浅彫りで汚く、字のバランスも悪いからすぐ分かる」と鑑定の極意も教えてくれました。
「まあ、本物をたくさん観ていれば、自然に偽物は分かるようになるから面白いよね」と事もなげに言い「加州佳兼若の刃文比べてごらん」と本棚にある分厚い専門書を取り出して、佳兼若の刃文の写真と三郎先生の軍刀の刃文を並べてくれました。
「この地金板目刃文互の目乱れが志津風であることが佳兼若作品の特徴だから・・・」と井上さんから専門用語で丁寧な説明をいただきました。しかし、なんせ初体験の私は「シズフウは漢字では?」と云った具合にメモを取るのに精一杯で鑑賞する余裕はありませんでしたが、日本刀の奥の深さに対する認識と井上さんの知識、眼力に裏打ちされた技術の確かさは充分学習できました。
井上さんは、なぜ刀剣研磨の道に進まれたのか?尋ねしましたら「物心ついた時に家に刀が有って、お祭りの芝居やなんかで青年団がよく刀を借りに来たんだ。それで子ども心に刀は貴重で珍しいモノだって思ったんだな。錆びていた家の刀を俺が研いでピカピカにしたかったからだね。家にあったと云うことは、親が昭和の刀狩りに出さなかったからだから親のせいだね・・」と笑いながら教えてくれました。
2018年11月11日日曜日
杉浦醫院四方山話―559『三神三朗・三神八四郎・三神吾朗』
山梨県中巨摩郡大鎌田村は、現在甲府市大里町になっていますが、「大鎌田村」で思い浮かぶ人物は人によって様々です。
この仕事に就いている私には、桂田富士郎岡山医専教授と一緒に「日本住血吸虫」を発見した三神三朗氏が欠かせません。この寄生虫病の虫体を発見した三神三朗氏は、本来であればもっともっと顕彰されてしかるべき業績を残しているにもかかわらず、あまり知られていないのが私には不思議でしたが、孫にあたる三神柏先生の案内で旧三神医院を見学して、全てが了解できたことを昨日のように思い出します。
その辺についての詳細は、当ブログの253 『三神三朗氏ー1』から257 『三神三朗氏ー5』をご参照ください。
「野球小僧」の異名を持つ友人のO君には、大鎌田村と云えば「ジャップ・ミカド」説もある三神吾朗氏です。甲府中学、早稲田大学と野球を続け、日本にまだプロ野球が無かった時代に渡米し、日本人で初めての大リーグの選手となった三神吾朗氏は、1889年(明治22年)に大鎌田村で生まれ、 1958年(昭和33年)に69歳で亡くなった日本プロ野球の草分け的存在です。
また、早稲田大学の卒業者やテニス経験者には、大鎌田村と云えば早稲田大学構内に「三神記念コート」を残している三神八四郎氏でしょう。渡米して観た硬式テニスを日本に導入したことでも著名な三神八四郎氏は、1887年(明治20年)に大鎌田村で生まれ、 1919年(大正8年)に32歳の若さで亡くなりました。
先日来館されたM君は、同級生の間では「重箱の隅をつつく医者」と云われ、医学に限らず歴史から文学まで年代や地名の記述間違いをエクセルに打ち込むだけでなく、曖昧なことは徹底してハッキリさせるので大変な博学です。武田信玄研究家でも著名な後輩大学教授の著書に数十箇所もの誤記があることを本人に私信し「こういう凄い先輩がいることに驚き、感謝に堪えません」と礼状が届くなど指摘の正確さは見事です。
そのM君から翌日「三神八四郎と三神吾朗は兄弟であることは知っているけど三神三朗も兄弟か?」と質問が届きました。三神三朗氏について書いた上記ブログの記憶で「三朗先生は石和から三神家に婿に入ったそうだから兄弟ではない」旨を返答すると「同じ大鎌田村で三男・三朗と四男・八四郎は14歳年が違うけど五男・吾朗と続く「ロウ」繋がりがひっかかる」と。
そう云われて正確に「ロウ」を検証すると三朗・八四郎・吾朗とロウの字は兄弟でも違っていました。その辺を吾朗に詳しいO君に聞いてみると「いやぁ、八四郎と吾朗は兄弟であることは間違いないけどその三朗って人は初めて聞きました。吾朗氏は日本に帰って野球をやめてからは全くプロ野球界から離れ、ひっそり六大学野球を観戦していたそうだから、退き際の良さでも有名だったようだよ」と教えてくれました。「何か三朗先生と似てるねー。地方病の第一人者だったけど自分の研究実績や名前を残すことを拒んだように私は感じているから。そうなると重箱突きのM君のコダワリも正確に調べた方がいいね」となりました。
三神八四郎氏について、今年の山日新聞でS記者が一面の署名記事を書いていましたから、S記者にも大鎌田村の三神一族についての掘り下げを依頼しました。
矢張り、明治と云う激動の時代に山梨の大鎌田村から東京に出て学び、更に兄弟とも申し合わせたように渡米して野球とテニスと云う新しいスポーツ文化を日本に普及させた八四郎・吾朗兄弟と野口英世と同じ学舎で同期に学び、故郷にある奇病の原因究明に取り組み治療に専念した三朗氏の人生は進取の気性で重なり、晩年のストイックな生き方も共通しますから兄弟と思われても不思議ではありません。
また、兄弟や親族で無かったにせよ、こういう逸材を生んだ事実は、中巨摩郡大鎌田村の風土だったのか興味は尽きません。
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