2018年1月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―532『木喰上人生誕300年』

  江戸時代後期、各地でさまざまな仏を彫り続けた木喰上人は、1718年に甲斐の山村(現・山梨県身延町丸畑)に生まれ、日本全国を行脚し1808年に亡くなりました。ですから、今年は木喰上人生誕300年の年になります。これを記念して身延町では、工芸館で木喰展を企画しているようですが、山梨に限らず全国で記念イベントが開催されることと思います。

 

 それは、木喰は22歳で出家し、56歳のとき諸国巡礼の旅に出て、60歳を過ぎてから仏像作りを始めと云われていますが、木喰が訪ねて仏像を彫ったのは、北海道から九州、四国、佐渡が島に及び、約30年間で1000体を超える仏像を遺したといわれているからです。

 

 木喰上人が彫った仏像は、それまでの仏像とは違う独創的な作風で、口元に笑みを浮かべたものが多いことから、「微笑仏」と呼ばれていますが、地元庶民の信仰を受けてきたものの仏像として広く知られるようになったのは、柳宗悦が起こした民芸運動の中からでした。

 

 大正12年1月、柳宗悦は、友人の浅川巧の誘いを受けて、甲府市の小宮山清三氏が所有する「朝鮮の陶磁器」を観る為に山梨県に来ました。

柳宗悦は、小宮山家で朝鮮の焼物を鑑賞したのですが、暗い庫の前にあった二体の彫刻に目が留まり、「口許に漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない!」と、即座に心を奪われたといいます。座敷にもう一体「南無(弘法)大師」の像があり、その折はじめて「木喰上人」の名を聞かされたといいます。柳宗悦の思いがけない驚きに対して、小宮山氏は「一体贈りましょう」と申し出たそうです。

 

 小宮山氏が柳宗悦に贈ったのが「地蔵菩薩」像だったことから、この地蔵菩薩像が現在も日本民芸館に展示されています。

この甲府の小宮山家での奇縁により柳宗悦は、木喰上人の研究に入り、木喰上人と微笑仏は、広く知られるところとなりました。結果、微笑仏は貴重な仏像として取引もされ、木喰上人が巡礼の中で世話になった各地に残した微笑仏は、地元から次々と消えていったと云われています。 

木喰仏 魅惑の微笑み-地蔵菩薩(民藝館)
小宮山清三氏が柳宗悦に贈った「地蔵菩薩像」(日本民芸館収蔵)


 

 木喰生誕の地・山梨には微笑仏も数多く残されていて、木喰研究会も組織されていましたが、不幸な経緯をたどり現在は休眠状態です。

柳宗悦を甲府の小宮山邸に案内したのも北杜市出身の浅川巧でしたし、柳宗悦没後、この研究を引き継いできたのは甲府の丸山太一氏ですから、身延町立近代工芸館での生誕300年記念展では、柳宗悦と甲州人あるいは山梨の文化との関わりなども紹介いただけたらと思います。


 丸山太一氏の研究資料、書籍は当館に全てご寄贈いただいておりますから、当館では、柳宗悦没後の木喰上人と微笑仏の研究成果展を生誕300年を記念して開催していきたいと思います。

2018年1月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―531『夏の季語・甘酒』

 本格的な寒さが身に染みる季節になり、杉浦醫院館内は昼を過ぎても2度、陽のさす診察室でも4度しかありません。もちろん、各部屋にはファンヒーターを置いて来館者に合わせてその都度暖房していますが、昭和4年に夏の暑さを旨として建てた建物は、現代建築のように直ぐには温まりませんので、来館者には一層の寒さ対策をお願する次第です。

 

 寒い冬の風物詩として、温かな甘酒が振る舞われ「おいしいね」と初詣の方々が暖をとっている神社の光景がありますが、杉浦家でも正月は玄関先で「お汁粉」を近所の方々に振る舞っていたそうで「お正月の楽しみだったさぁ~」と暮れに落ち葉播きに来てくださった女性が懐かしそうに話してくれました。

 このように「お汁粉」「甘酒」「おでん」は冬の定番のように思いますが、俳句では甘酒は夏の季語になっています。

 

 鰻(ウナギ)は、旬でない夏場にも売れるようにと「土用丑の日には鰻を」と、かの平賀源内が流行らせたという説がありますが、以来「丑の日に鰻を食べて夏負け知らず」が今日まで定着しています。

 砂糖の無い時代、甘酒の甘味は貴重でしたから、甘酒も、栄養満点で滋養強壮にうってつけの飲みものとして「夏バテ防止に甘酒を」となり、広く夏の飲み物として定着していったのが夏の季語の由来かも知れません。

 

 最近は、この甘酒が人気で、コンビニでは季節に関係なく売られ愛飲している方も多いようですが、江戸時代には「甘酒うり」が街中を廻っていたそうですから、コンビニに行くよりもっと手軽に飲めた訳で、世の中本当に便利になったのかどうかも分からなくなります。


 同じように、昭和になっても「金魚うり」や「アイスキャンディーうり」は来ましたからコンビニより歴史も伝統もあり、それぞれが鳴り物や独特の売り声を発しながら廻っていたので風情もあったように思いますが、単に団塊ジジイのノスタルジアかも知れません。


2018年1月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―530『上から目線の感謝状』

 「上から目線」と云う言葉をよく耳にするようになったのは何時頃からでしょうか? 「上から目線」が頻繁に使われるようになった分、影が薄くなったのが「目上の人」と云う言葉でしょうか?

そんな相関関係からすると「目上の人」が発する言葉使いや態度を「上から目線」と云い、一般的には好ましくない注意すべき言動と言ったニュアンスが私にはありますが、正確なところは分かりません。



 「古いものを整理していたらこんなものが出てきたので・・・」と年末に昭和4年の「感謝状」をお寄せいただきました。

杉浦家が「新館」として現在の醫院棟を新築したのが昭和4年ですから、期せずしてこの感謝状と同じであることに不思議な縁も感じますが、地方病終息に向けた山梨県民の貴重な歴史資料でもありますから当館にご寄贈いただきました。

ご覧のように驛治氏の驛の字にはサンズイがありますが、ワープロでは表記できませんでした。

 この感謝状は山梨地方病予防撲滅期成組合が旧中道町(現・甲府市白井)の宮川驛治(えきじ)氏に贈った感謝状です。宮川氏が区長として地域住民の先頭に立って地方病撲滅の為のミヤイリガイ殺貝活動に尽力したことに感謝するものでしょう。

山梨地方病予防撲滅期成組合のトップであった平田紀一氏は「会長」ではなく「総裁」であり、更に「勲四等正五位」の冠も付いています。

文面も「一層奮闘シテ終局ノ目的ヲ達スルニ努メラレンコトヲ望ム」と結んでいますから、感謝状と云うより檄文といった感じで、「上から目線」の本家本元と言っていいでしょう。



 この山梨地方病予防撲滅期成組合は、広島県のミヤイリガイ対策に倣って1925年(大正14年)2月に設立され、「知事を総裁」に「組合長に警察部長」を充てたそうですから、平田紀一氏も当時の知事で、有病地市町村で組織した組合からすると県や国からの補助金を得るうえで欠かせない「総裁」職だったのでしょう。昭和の大恐慌の渦中、当時の山梨県にあっては、小作争議が昭和5年に100件を越え、11年には600件を越えたと云う記録がありますから、有病地市町村の負担金では生石灰などの殺貝剤購入費用も賄えない状況だったようです。


  また、現在のように知事が県民の選挙で選ばれる公選制になったのは戦後の1946年からで、「地方制度改革」の中で身分も地方公務員になりましたが、明治の廃藩置県以来、知事は国が決めて赴任させる官製知事で、身分も天皇の勅命によって任用された勅任官の待遇でしたから、上から目線になるのも必然だったのでしょう。


 日本の社会は、封建社会を脱してからまだ約120年、その内約50年間は官制社会、敗戦に伴う各分野の改革により、民主化されたと云ってもたかだか約70年の歴史なので、基本的には今でも縦社会なのでしょう。目上の人には「了解しました」ではなく「承知しました」だの「お疲れ様」と「ご苦労様」の使い方云々などもその名残ですが、昨今「上から目線」が問題視されるのは、縦社会の規範が弱くなってきている証でもあるように思います。


 年明けのご挨拶で始まるべき今話ですが、国の天然記念物「甲斐犬」が減少の一途をたどる中「改憲」風は熱を帯びて強くなり、呑気に「おめでとう」なんて言ってられない新年でもあるように感じたのは私だけではないでしょう。末筆で恐縮ですが、どうぞ本年もよろしくお願いいたします。