2018年1月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―530『上から目線の感謝状』

 「上から目線」と云う言葉をよく耳にするようになったのは何時頃からでしょうか? 「上から目線」が頻繁に使われるようになった分、影が薄くなったのが「目上の人」と云う言葉でしょうか?

そんな相関関係からすると「目上の人」が発する言葉使いや態度を「上から目線」と云い、一般的には好ましくない注意すべき言動と言ったニュアンスが私にはありますが、正確なところは分かりません。



 「古いものを整理していたらこんなものが出てきたので・・・」と年末に昭和4年の「感謝状」をお寄せいただきました。

杉浦家が「新館」として現在の醫院棟を新築したのが昭和4年ですから、期せずしてこの感謝状と同じであることに不思議な縁も感じますが、地方病終息に向けた山梨県民の貴重な歴史資料でもありますから当館にご寄贈いただきました。

ご覧のように驛治氏の驛の字にはサンズイがありますが、ワープロでは表記できませんでした。

 この感謝状は山梨地方病予防撲滅期成組合が旧中道町(現・甲府市白井)の宮川驛治(えきじ)氏に贈った感謝状です。宮川氏が区長として地域住民の先頭に立って地方病撲滅の為のミヤイリガイ殺貝活動に尽力したことに感謝するものでしょう。

山梨地方病予防撲滅期成組合のトップであった平田紀一氏は「会長」ではなく「総裁」であり、更に「勲四等正五位」の冠も付いています。

文面も「一層奮闘シテ終局ノ目的ヲ達スルニ努メラレンコトヲ望ム」と結んでいますから、感謝状と云うより檄文といった感じで、「上から目線」の本家本元と言っていいでしょう。



 この山梨地方病予防撲滅期成組合は、広島県のミヤイリガイ対策に倣って1925年(大正14年)2月に設立され、「知事を総裁」に「組合長に警察部長」を充てたそうですから、平田紀一氏も当時の知事で、有病地市町村で組織した組合からすると県や国からの補助金を得るうえで欠かせない「総裁」職だったのでしょう。昭和の大恐慌の渦中、当時の山梨県にあっては、小作争議が昭和5年に100件を越え、11年には600件を越えたと云う記録がありますから、有病地市町村の負担金では生石灰などの殺貝剤購入費用も賄えない状況だったようです。


  また、現在のように知事が県民の選挙で選ばれる公選制になったのは戦後の1946年からで、「地方制度改革」の中で身分も地方公務員になりましたが、明治の廃藩置県以来、知事は国が決めて赴任させる官製知事で、身分も天皇の勅命によって任用された勅任官の待遇でしたから、上から目線になるのも必然だったのでしょう。


 日本の社会は、封建社会を脱してからまだ約120年、その内約50年間は官制社会、敗戦に伴う各分野の改革により、民主化されたと云ってもたかだか約70年の歴史なので、基本的には今でも縦社会なのでしょう。目上の人には「了解しました」ではなく「承知しました」だの「お疲れ様」と「ご苦労様」の使い方云々などもその名残ですが、昨今「上から目線」が問題視されるのは、縦社会の規範が弱くなってきている証でもあるように思います。


 年明けのご挨拶で始まるべき今話ですが、国の天然記念物「甲斐犬」が減少の一途をたどる中「改憲」風は熱を帯びて強くなり、呑気に「おめでとう」なんて言ってられない新年でもあるように感じたのは私だけではないでしょう。末筆で恐縮ですが、どうぞ本年もよろしくお願いいたします。